久しぶりにシャーデーなどを聴きながら、のんびりした午後。おちびが春休みに入ってしまったために、パタパタしている。そのくせ、朝早く起きなくてもよくなったせいか、どうしても生活のリズムが狂ってしまう。もともとヘンと言われるとそれまでなんだけど。
夜、家族が寝てから歌を詠む。このところ皆まとめて夜更かしなものだから、だんだん時間が遅くなる。どうも午後を過ぎないと起きているという気がしないくらいぼーっとしているかもしれない。それでもぼーっとしているくらいのほうが歌を詠もうという気にもなれるために、そちらのほうがよいかもしれないし、それでいて、案外詠んでいるときにはぼーっとしていないのかもしれないし、歌を詠んだ後に聖書を開き、それをアップする頃には半分寝ている。半分寝ていながらも、パチパチ打てるというのも慣れなのかもしれない。もう4年もキーボードに向かっているわけだから、それもまた一つの生活なのかも。
たしかに、キーボードに慣れていなかったら、キーボードで歌を詠むのは難しいかもしれない。これって習慣なんだろうな。手書きに慣れていたら、それこそ手に馴染んだペンではないと何となく書く気になれないとか、その手の習慣に近いかもしれない。学生時代にもそういうことってあったし・・・どうしても手に馴染んだペンでないと書けないというか・・・こういう感覚は誰にでもあるような気がするんだけど、どうなんだろう。手書き用に、それを持てば歌を詠みたくなるというようなペンや紙など、あれこれ工夫すれば手書きでも大丈夫になるかもしれない。気分屋って、どこかそういう気分に左右されてしまう。
どんなことでも自然体のほうがいい。
ある日突然、インスパイアされて気がつけば歌人になってしまったということを誰かに理解してもらおうとしても無理だ。無理は無理なりにそういう誰かに理解してもらおうというのを諦めている部分というものをためしにサイトに書いておくと、世の中には自分と同じような人がいるらしい。忘れた頃に、記事にコメントが入っている。Blue Windさんと呼ばれて、そういえば、投稿者の欄がめんどーだからそのままサイト名になっていることを思い出す。投稿者を設定することにより解決するはずなんだけど、一人でサイトを管理しているわけだから、あえてそういうのもめんどーなような・・・というわけで、いきなり検索で記事に飛んで、という来訪者の人にとっては、あたしはBlue Windさんなんだろう。CGIとはいえ、記事ごとに検索に引っかかることもあるために、Blogは便利なのかも。たしかにネットはトップページから来訪してくれる人なんて稀だし、とりあえずHOMEというものをつくってはいるのに、実際にはTanka Blogがメイン。検索ロボットくんにどうしてなのか教えてほしいけど。
今、かなり自由だ。毎日、歌を詠んで、聖書をひらく。それだけ。そうすると、聖書のひらいたページがまるで神さまからのお手紙のような気がしてしまう。ああ、これが神さまとだけお話せよという感覚なのだということを知る。おそらくは、自分のようにウダウダをキーボードに乗せるわけでもなかったら、神父さまなどは一人でそういうことをお続けになっていらっしゃるのだろう。何気なくひらいたページに、メッセを感じるという感覚。おそらくは、こういうのは本当に一人でやることなのでしょうし、あたしのように正々堂々とサイトのコンテンツにしているというのはどうかと思うんだけど、それはそれで今の生活になってしまっているし、あっさり語れば、自分が単なる歌詠みだからそれでもかまわないような気がする。
何かのレスがほしいだけなら、考えてみたら聖書とお話しているほうが気楽なのかも。一生懸命に理解を求めて何かを書く必要もない。訴える必要性もない。議論すらない。淡々と一人のペースで続く。特に、人生や宗教や世界のことなどは、そういうものなのかもしれない。一人で考えても行動しても無駄なことならなおさら。淡々と聖書とお話しているほうがいい。
歌もね、ようやく結社アレルギーというものが薄くなってきたかも。どうしても徒弟社会というのは疲れる。どっぷりと浸かってしまうか、逆にほどほどに距離を置くかのどちらかしかない。歌を送るのは強制ではないし、基本的に無償の世界だから、それこそ個人契約の社会なのかもしれない。特に何かの見返りを期待しないかぎり、誰も何も言わないだろう。まあ、力社会だから、上の先生の引きがあって初めて何かができるということもあるのかもしれないし、歌人として有名になりたいとか、上のほうに上りたいなどを期待すればそういう関係性も当たり前なのかもしれない。賞を取るときにも、それなりにあるんだなーなどと眺めてみたりもする。自分のやりたいことと完璧なる方向性の一致があればそれはとても有効な関係性のような気もするし、それでいてあくまでも自分のペースを守りたいと思えばストレスとなる。
どちらかというと、隅っこのほうにちょこんといるほうがショウにあっている。こう、がんがんに行きそうでしょ?ぜんぜん。マイペース。何となくノラクラノラクラしながら、ちょこんといるほうが気楽で気楽で。そういう自分のペースをいかにして守ろうかということの戦いな気がする。一度、どっぷり浸かってしまったら、なかなかそこから外へ出るのは気を使いそうだし、かといって今さら無責任に選者欄を浮遊することは可能なのだろうか?悩む。人間関係が想像以上にややこしそうで、それでいてちんぷんかんぷんだし、『未来』の場合、会則としては会員が自由に選者欄を選べることにはなっている。自由に選べと言われても、知らんのよ。もともと歌の世界の人ではないというか、あまり興味もなかったのに、いきなり歌人になってしまったがゆえに何も知らない。困った。
考えるのやめよう。そのうちまた気まぐれに何かを思いつくかもしれないし・・・何もなかったら、ミーハー的に岡井先生のところに歌を送っていただけなんだろうな。そういうスタンスに戻しますと言われても、本当にそれでかまわないのだろうか?
思いつく理由としては、「すみませ〜ん、やっぱり手書きでは歌が浮かばないんです。だから、サイトにアップしてあるとかしてないとかまるで関係のない選者さんのところのほうが気楽なんです」とかね・・・(本音) でも、加藤先生自身はあまり言わないんだけど、どうしても兼ね合いというものがあるから難しい。だって、自分で歌集出したり、賞を取ったり、あれこれ活動している人たちからすれば、どうでもいいような話なんだと思うよ。実際、自分がほかの人たちに対してどう思うかに対しては、単に、個人の勝手だろうとしか思えない。だったら、何か言われても無視したらいいでしょ?あっさり無視するのは簡単なんだけど、あまりにも簡単に無視するほどの確執もないわけで、自分という人はあっさり怒るとまさにそれを実行する。が、しかし・・・そこまで強硬な姿勢を貫くほどの理由が浮かばない。明々白々に、あんたなんか嫌いよ、ということになれば話は早い。でもさ・・・実際には、ほとんど知らない人なわけで、だからこそ余計に悩む。もっとズバズバやって、ライバル意識むきだしにがんばるとか?ハア・・・・無意味。そういう余裕があるなら、もっと違うことにそのエネルギーを費やしたほうが生産的かもしれない。
それでもアレルギーは緩和しつつある。そういう世界を横目でちらりと眺めながら、淡々とマイペース。あーなんかあたしっぽい。
まあ、まだ作歌も浅いし、勉強しようと思ったら山のようだし、いまだに聖書を読破していない。もう少し、今の生活に慣れて、自分の歌が詠えるようになったら次には歌評とか?歌評を書くのは、ある程度慣れてからかな。今はまだ距離感がつかめない。ほかの誰が何を言っても、「これ!」というか、そういうワガママさも必要なのかもしれないけど、あっさり語れば、あたしがいいなーって思う歌は誰が読んでもいい歌らしい。ということは、あえて一生懸命にはなれない。酷評というものがあり、それに対していちゃもんをつけるというのは得意な気がするけど、今のところ酷評というものには出会えない。言われることはあっても言うものではないせいからかもしれないけど。そうなんだよね・・・いや、もしかするとあるのかもしれないけど、それに対してはいささか無責任でもあり、他人に何か言われても淡々と一人のことをしている分には何も困らないし・・・今はまだ、個人のことで精一杯なんだろう。歌、浅いから。歌壇のこともよく知らない。単なるミーハーですな。最初の1年は、そんなものなんじゃないの?知らん。