March 18, 2004

あまのじゃく

オトがまた本を襲撃している。カバーが剥がされ、床の上。一体、なんの本かと思ったら、黒田三郎さんの『詩の作り方』。いつの間にこんな本を買ったのだろうと思うのだけれど、おそらくは詩関係の本を買ったときになんとなく選んでいたのだろう。すでにあることも忘れていた。
ネットを始めて以来、あまり本屋にも行かなくなっていたのだけれど、今年に入ってから行く回数が増えている。このため、未読本の上にさらに未読本が積まれるためにはやくこれをなんとかせねばとは思うのだけれど、毎日違った本を選んでいる。だって、パラパラとめくるだけでも一冊のページ数が多い。
それにしてもよい本だなーと感心してしまった。あたしは実は入門書が好きだ。心理学関係の入門書ならそれこそあらゆる種類の入門書を買ったような記憶がある。どうして好きかというと、実に個性的だからだ。大体が、入門書を書くのはその道の御大と言われるような人たちであり、かつその人たちがビギナーに対して書いているわけで、そのセンスの違いによって同じ内容でもこれだけインパクトが違うのだと比較するのが好きだったりする。しかも、長い間、閉じられた世界にいると、すでにビギがどういうものかを忘れてしまうのが世の常であり、ま〜ったくちんぷんかんぷんな人たちに何かを説明することほど、根気とセンスの要ることはないと思えるほどだ。中途半端だと、逆にツウぶってわざとビギが知らないであろうことを語りたがる。そういったものをすべて排除して自分の言葉で書かれていると、センスがいいなーって感心してしまう。
黒田氏のご本の中で、いささか戸惑ったのはまえがきだ。なるほどなーって感じた。日本だと詩の歴史が浅いから、それこそ金子光晴さんではないけれど、日本語で詩が書けるのかどうか悩んでいた時代というのがさほど昔の話ではないことを思い出した。そういう中で、昭和40年頃から詩がブームになっていったとある。つまりはそれ以前は短歌や俳句、漢詩などが当たり前で、現代詩というものにまるで興味のない人たちにどうやってそれを語ったらよいのか、極めて慎重で謙虚な姿勢で書き始められている。自分などは逆に詩が当たり前で、どこで最初にそういう詩心を学んだのかといえば、少女マンガではないかと思ってしまう。小学生のときに、初めて週刊マーガレットを見たときに、西谷祥子の美しいイラストとすでにテキストの内容は覚えていないけれども、詩や散文詩を思わせるような世界。ニンフやオリンポスの神々の話、どこか空想的で幻想的な世界があったような記憶がある。今は、娘が毎月買っている『ちゃお』を眺めてもどこが面白いのかわからないけど、すでに・・・
おそらくは、『スヌーピー』の訳者が谷川俊太郎さんだったり、少女マンガのほんわかした世界の中に、実は自分のイメージする詩の世界があったりして、そういう世界はどこか教科書などで習うような詩や短歌の世界とは隔絶して存在を認識していたのだろう。ほんわかした詩の世界は、そういう隔絶した子どもの世界に存在し、詩的感性やイマジネーションはそちらの世界に属していたような気さえする。そういう世界から札幌のポプラ並木や巨大蒲公英畑を眺めていたわけで、それはとても幻想的で、今ではすっかりそういう世界も消失してしまったけれども、自分の記憶の中では懐かしい思い出としていつまでも残っている。

何気ない日常を眺める目。新鮮な驚き。それが詩となる・・・
???

ヘンだ。何かヘン。もしかするとヘンではないのかもしれない。黒田さんのご本を読んでいると、これはもしかすると短歌の入門書ではないかという気がしてくるから不思議だ。つまりは、写実とはどういうことか、短歌とはどういうものか、という説明を読んでいるような気がしてくるから不思議。そして、詩の作法のあるまじきとして、まさしく彼が語っているのは短歌や俳句の弱点ではないかと思ってしまう。そうなんだよね・・・つまりは、すぐに習い事というとお手本どおりとかね・・・すぐに手本を求める傾向がある。そうやって形式を真似したり定番の美辞麗句を並べても詩にはならない。どうして詩にならないのかということを読んでいくうちに、まさにこれこそが短歌をつまらなくしている弱点を暗に示唆しているような気がしてきてしまう。つまりは、すでにまえがきの段階から万葉からの伝統を否定するものではないと書きながら、それでいて暗黙のうちにそれらと対比させることにより、現代詩のよさを説明しているのではないかとすら疑ってしまう。
逆に語れば、もっともなことしか書かれていないために、そういう弱点があるにもかかわらず、どうして自分が短歌という定型詩を詠んでいるのかといえば、単に自分のあまのじゃく的性質から来ているのかもしれないと思っていたら、実は自由詩が難しいから定型詩を書いているだけなのかもしれないとすら思ってしまう。それでいて、戦後の現代詩より実は戦前の詩人のほうがいまだに人気がある詩人が多いという・・・だったら素直に明治の頃のように七五調でも日本語の詩はかまわないのではないかとすら、あまのじゃく的に斜めに考えてみる。
つまりは、形を破壊しても根底の姿勢が変わらなければ意味がないし、形を踏襲しても詩の本質を見失えば短歌も俳句も本来の旨味を失ってしまうのではないかと、ぼっけーっと思ったりして。
あっさり語ると、日本の現代詩は、文語定型詩が嫌いな人が、口語自由詩を求めているだけなのかもしれないし、定型詩が主流の中で、コソコソと自由詩を書いていた人たち・・・それでいてヨーロッパの詩人などは定型詩から書く人が多いということと日本の詩事情というものを対比させているのかもしれないし、自分などは詩はあまりにも自由すぎるような気がして、かえって難しく感じる。だから、短歌と比較するとあまりにも遅筆。つまりは、自由詩が主流の中で、コソコソと定型詩を書いている・・・

投稿者 Blue Wind : March 18, 2004 11:37 AM
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