March 06, 2004

風邪

すっかり風邪を引いてしまった。毎度おなじみ、「風邪という病気はありません」というセリフの中、平穏な生活は続いている。逆に、「世の中は風邪が流行っただけで学級閉鎖になるのが普通なんだから」というセリフを言っても無駄なのもわかっているために、また鬱々しながらサイトを更新している。要するに、ダンナが外来をやり始めたために、風邪が移り、それがまたあたしに移る。だから、外来は嫌いだ。
いずれにせよ、結核に感染していない呼吸器の医者はいないと、呼吸器の先生にも説明受けたし、世の中の当たり前がまるで通用しない世界もあるのだというか。したがって、うちのダンナも39度の熱を出しながら平然とした顔をして働いている。もう、めちゃくちゃ。
ある女医さんは怒った。「あたしは風邪の患者を診るために、ここに来たんではありません」と。たしかに、腕もあるし、キャリアもある。それでいて外来などで風邪の患者を診ていると、それだけで虚しい気持ちになるらしい。逆に語ると、それはあんただけではないと思っている人の多い中、彼女はほかの病院へ移っていったらしい。たしかに最先端の医療現場を見せられたら、開業なんてバカらしくてやっていられないという気持ちもわからなくない。が、しかし・・・・風邪の季節、開業医は儲かる。

可哀想なのは娘だ。風邪を引く。でも、この程度なら大丈夫と思って学校へ行かせる。すると、学校からお迎えに来てくださいという連絡がある。自分としても、とりあえず熱があるわけではないし、逆に、保健の先生にどの程度だったら休ませたらよいのか訊く。担任の先生の判断だと、顔色が悪いとか、元気がないとか、もうその程度だったら休ませてほしいらしい。あまりにも大袈裟なため、なぜか娘のクラスだけはいつも欠席が多い。それがわかっていて、何も言わない保健の先生。まあ、いろいろあらーなということでそのまま連れて戻る。学校というところは、そういう専制君主社会。医者が言っても、親が言っても無駄だということは知っている。田舎ほどそういう傾向が強い。

あっこちゃんくらいタフだと、登校拒否、保健室へ直行、何を言われても担任の先生が気に食わないと知らん顔している。そのくせ、今度は絵が入選、童話が入選、という具合に実績が違う。ああなるとね・・・どうなんだろう。今は、普通に通学しているみたいだけど、家庭の中ではあっこちゃんが正しいということになっているために、何も困らないみたい。
うちの娘はおとなしいので、せいぜい逃げる程度か?あ、来るな、と思ったら逃げるらしい。それが困ると担任の先生に言われてもこちらも困るという・・・専制君主に何か言っても無駄でしょ?そういうことを娘に言ったことは一度もないのだけど、どうもそういう風潮があるらしく、それが担任を鬱地獄へと陥れるような・・・母さん同士が集まれば、学校の先生の話題は共通タームだから、そういう話題も多いかもしれないけど、このところ自分はまったくそういうものには興味がない。
あたしってね、喧嘩しないから。いきなり扉をピシャリと閉めるタイプなんだと思う。たとえば、風邪で子どもが熱を出しておろおろしている母親がいるとするでしょ?もちろん、あたしなどもそうだったし、子どもの飲めないような薬を出すなと医者に文句を言ったこともある。だからといって、ほかの人に言われても迷惑という・・・そうやって思うんだったら、そうやって自分で言えばいい。文句ついでに、単なる風邪ならば近所の医者へ行って、飲みやすい薬を買う。だから、文句は言うけど、単なる風邪の子を大学病院へ連れて行った自分がおバカだったと反省する。でも、その前に気管支炎で入院したことがあるから、風邪でも心配になったというだけのことだ。つまりは、行動にわかりやすい整合性があるために、喧嘩にはならない。

短歌も、競技会が始まったと神父さんのサイトに書いたら、いきなりパリの写真。18年前に一度行ったきりの街だけど、その瞬間にいろいろなことがフラッシュバックされる。そこから派生して、また歌が出る。そうなると、題詠マラソンのことは忘れてしまう。忘れているわけではないんだけど、10月までに詠めばいいわけでしょ?つまりは、何となく今日は歌のネタが見つからないと思ったときにでものんびり詠んでいても充分間に合う。(たぶん)
神父さんに、「題詠マラソンがプレッシャーでリタイアしてしまう人などもいるんですよ」などと書いても無駄だと知っている。つまりは、医者に、風邪で学級閉鎖になるのが普通だと語るようなものだからかも。
パリはおもしろい街だ。それこそあの人もこの人も、という街だ。パリのアーティストは歴史を相手に戦わなければならない。そして、その向こうにラテン。部屋の中は暗い。そして、窓の外を眺めると、あらゆる角度でそこはアートの世界だ。空も建物も、窓は1枚の絵となる。歩いていても、あらゆるものが美しい。そして、美味しい。自分もまたその中の一部であり、空と風と街と歴史に埋もれながら、人がうつろいゆくことを感じたりする。それでも変わらず伝えゆくものかぁ・・・などとうすらぼんやり。
ランボーが生きていればまた違ったかもしれないけど、彼はアデンへ逃げてしまった。そして、37歳で病気になり38歳で亡くなったんだっけ?つまりは、ランボーが元気であれば、それでよかった。でも、その後、彼はいない。いないから、今度は一人で鬱々と歌を詠むようになってしまっただけなのかも。小学生の頃、初めて彼の詩を読んだとき、彼がいるから自分は救われたと思った。彼がいるから自分が救われたということをあえて説明する必要があるのだろうか?誰に?
こうさあ・・・科学者の街がどういうことなのかというと、娘の一番最初の友達がなさとくん。つまりは、NASAに研修に行っていたときに生まれたからなんだそう。それをほかの地域の人に言うと驚くから、結局は研究者は研究者のブロックに住むしかない。

つまり・・・・風邪で学級閉鎖になるとういう事情を理解するのと、風邪という病気はないという事情を理解するのとどちらが説明しやすいだろう?両方の事情を理解した上で、学校へ行かなければならないのはあたしなんですよー、いつも。
めんどーだから、歌を詠んでいるのかも。
誰でも自分を救う権利はあると思う。

投稿者 Blue Wind : March 6, 2004 01:00 PM
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