April 30, 2004

詩篇 116. 8-11

  あなたはわたしの魂を死から
  わたしの目を涙から
  わたしの足を突き落とそうとする者から
      助け出してくださった。
  命あるものの地にある限り
  わたしは主の御前に歩み続けよう。
  わたしは信じる
  「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
  不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。

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エステル記 7. 1-10 ハマン、失脚する

  王とハマンは、王妃エステルの酒宴にやって来た。この二日目の日も同様に、ぶどう酒を飲みながら王は言った。「王妃エステルよ、何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」「王よ、もしお心に適いますなら」と王妃エステルは答えた。「もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」
  クセルクセス王は王妃エステルに、「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか」と尋ねた。エステルは答えた。「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます。」ハマンは王と王妃の前で恐れおののいた。王は怒って立ち上がり、酒宴をあとにして王宮の庭に出た。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王による不幸が決定的になった、と分かったからである。ハマンがエステルのいる長いすに身を投げかけているところへ、王宮の庭から王が酒宴の間に戻って来た。王は言った。「わたしのいるこの宮殿で、王妃にまで乱暴しようとするのか。」この言葉が王の口から発せられるやいなや、人々はハマンの顔に覆いをかぶせた。宦官の一人、ハルボナは王に言った。「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。五十アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています。」王は、「ハマンをそれにつるせ」と命じた。こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。

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フィリピ信徒への手紙 4. 4-9

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
  終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

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憐れみ

貪欲に忌まわしい者たちは
まるで子どもが貯めた小遣いすら奪い取るように
それが当然の権利のようにやって来る。
もはやそこには憐れみもない。
わずかな憐れみでもあれば
愛に飢えたる者は
地獄の底からやって来る。
地獄からの来客を微笑んで迎えろというのだろうか?
それがみこころだと彼らは言う。
サタンを微笑んで歓迎し
僅かなる憐れみを差し出すことが愛だと言う。
貪欲に愛に飢えたる者は
わたしがそのような申し出を断ると
神を嘲った。
神が見捨てたと言う。
サタン。
貪欲に愛を求める者たちを拒むことが
すでにみこころに適っていないと
サタンは責める。
ならば言おう。
どうして、ジーザスに言わない?
彼ならいくらで愛をくださるだろう。
なぜわたしのようなちっぽけな憐れみを
後生大事にしている者から
愛を求めようと言う?

詩篇 116. 8-11

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ふつうがいいのよ

もはや癒しを求められたくない。
誰かの孤独に汚染されたくない。
頼られたくない。
ノーギャラ。
良い人などと思われたくない。

一番恐いのは、そういう自分にも神さまは愛をくださることです。

ああそうか・・・憐れみをくださいと望んだのはわたしだった。
たくさんを望んだわけではなく、ほんの一粒。
記憶の砂の一粒でもいい。
不幸の海を泳ぐうちに、憐れみがほしくなった。
これでもか、これでもか、と不幸な人ばかり。
愛に飢えたる者。
サタン。

そして、わたしはアングラから逃げ出した。
今なお深海魚が泳いでいる。

狂気だよ?
リスカの話にも飽きる。
隔絶とした闇。
しかも、一人や二人ではない。
来る日も来る日も狂った人たちばかり。
あげくの果てのブードゥー教団。
もう、うんざり・・・

毎日毎日呪いの言葉。
わたしは神でも聖人でもない。
平凡な主婦だ。
あんたたちなど消えてしまえと思った。

そして、彼らは再び深海を泳いでいる。
彼らが望んだからでは?
わたしを追い出したのは彼らだ。
憐れみを求めるなら神さまに言ってくれ。

そして、彼らは毎日呪っている。
神を呪い、世を憎み、人を貶める。
もう、うんざりだ。
それでいて、愛がわからないという。
はあ?

勝手に世直ししてくれよ・・・
猫は知らん。

フィリピ信徒への手紙 4. 4-9

__________________

ルドビーさん・・・・
ほんとのほんとに彼らの沈黙を破りたいのでしょうか?
信じられない。
毎日毎日吐き気の出るような話に我慢して耳を傾けることがみこころに適っているのだろうか?黙っているには黙っているなりの理由がある。できれば一生黙っていてほしい人もいる。
「死んでから気がついては遅いのよ」
普通の人その1「なんであのときに気がつかなかったのだろう」
普通の人その2「死んでもいいんだよ(だって自殺が日課だから)」
模範解答「バンドエイド貼っておきなさい」
さらに解答「死んだらおめでとう」

なんで冷たいって言われるのかわかるわ。

これだけ違う。「聖人のように」などと神父さんが語れば、真っ先にカルト落としを考えてしまう。見事に形だけ真似してくれるから、こころがないって恐ろしい。「思いやりをもって」などと語られれば、語らないには語らないなりの理由があるのだから、と思ってしまう。天国と地獄では言葉が通じないようになっているのかも。

エステル記 7. 1-10 ハマン、失脚する

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ご機嫌な日

コンポが新しくなる。ご機嫌。
いっそのことBOSEの一番良いやつにしてやろうかと思ったけど、オトくんにオシッコをかけられた場合のことを考えて諦める。おちびが小さい頃にはあれにこれにといくつ破壊されただろう。やっと被害が消えたと思ったら、オトくん・・・
今まで、SONYのラジカセタイプを床の上に置いて使っていたので、まったく置き場を考えていなかったという・・・だって、また同じタイプにしようと思って買いに行ったから。テレビ用に接続してあるKENWOODのコンポもあるけど、いつの間にかCDが使えなくなってしまっているためそのままになっている。これはあまり音は良くない。結婚した時に出窓の棚にも置けるようにと買ったもの。小さい。
それとは別に自分専用のCDプレイヤーが生活必需品。今のままでも不自由はないんだけど、床置きにしておくとオトくんが何をするかわからない。困った。今度のONKYOのコンポは、少々スピーカーが大きいことをのぞけば、この音でこの値段。キッチンのカラーと同じコーディネート。前回買ったCDラジカセとほとんど同じ値段という・・・あれにこれにと店員さんに説明を聴きながら、生活スタイルが微妙に変化したんだなという気がした。
わがままなのよね・・・・ラジカセタイプでしかも音をよくしろというのは。どうしても重くなるし、MD付きだともはや外では使わない。おそらくはせっせとコンピューターに接続しながらそれをせいぜいポータブルにする時には本当にポータブル。ウォークマンタイプが主流なんだろう。それかパソコン相手に音でも聴くか。
だから、ラジカセタイプは自然とすたれてしまい、動かさないならコンポが今の主流らしい。それでいて、あまりにもコンパクトでデザインが凝ったものは音が悪い。しかも値段が高い。あまり小さくしないほうがコストが安い。毎日使っているとどうしても消耗品。このところずっと調子の悪いCDプレイヤーに我慢していたのだということに気づく。音が途切れ途切れになったり、音が出なかったり、仕方がないからCDプレイヤーのご機嫌に合わせて選曲していた。はー、それを考えるとこちらの意思どおりに機械が動いてくれるというだけですこぶるご機嫌。よく考えたら当たり前のような気がするんだけど、どうもこのところ無意識のうちに我慢しながら機械とお付き合いしていたらしい。

音もなしに歌を詠んでいると何となく詠んでいるという気がしない。にしても、「歌人」っていったい何なんでしょう。とりあえずは肩書きになるんだということに気がつく。下手な歌でもとりあえず結社誌に掲載されていくとなると、「へえー」くらいにはなるらしい。自分の場合は遊びで詠みはじめただけなので、気楽な世間話のつもりで話していたら、それがしばらくたたないうちにどんどん状況が変わる。
娘の担任の先生と『サラリーマン川柳』の話をしながら、あーこっちのほうがおもしろいなーなどと勝手なことを思いながら、おもしろおかしく悩んでみたりして。あっさり語れば、癒し系。歌人をやっているのがどうして癒し系かといえば、おそらくはこの辺の土地柄とも関係しているのかも。100点が当たり前の土地柄で、逆に農家の子のほうがいやがって越境しているという・・・それでいて、さらにこの辺でも隣の小学校へ越境している子もいるし、年中アメリカとイラクの対立みたいに新住民とか旧住民とかでドンパチやっている土地柄だから、父さんが医者で母さんが研究ガツガツやっているとなると何となくね。父さんが医者で母さんが歌人なら両方にノラクラしていられる。一番楽なのは娘かもしれない。

そういうわが家の事情は別として、本人はすでに歌人をやめて散文詩にしようかとも思っていたりする。それでいて、すでに手は勝手に歌を詠む。その時々の気分というものがあるから、その歌がよいとかわるいとか、はすでにどうでもいい。
「癒しがほしいのはわたしのほうなんです。」
あっさり語れば、古いプレイヤーで好きな曲が出ないで我慢しているというストレスに気がつくのは、新しいコンポを買ったからであり、古いものを使っている分には案外気がつかないものなのかもしれない。というわけで、今日のあたしはすこぶるご機嫌。歌でも駄文でも言いたいことがスキッと言えたらそれだけでご機嫌。自分的には他人がどう言おうともご機嫌。日々日日をどうやって幸せに過ごそうかと思えば、つまらないストレスは貯めないに限る。
それでいて、一番困る質問は昔から、「愛って何?」という質問。精神系のウェブなどを管理していると、どうしても愛に飢えたる者の世界。大真面目に悩んでいたりする。だから、日常を書けと言われてしまう。
聖書のサイトなどを眺めると、こういう時にはどこのページなどと書いてあったりするけど、それよりも短歌に限らず、毎日のうだうだなどを考えながら、何となく気が向いた聖書のページを開く。毎日一分でもいい。おそらくは、そうやって一人になることにより、自分が静かになるのかもしれない。要するに、自分で自分を救えないから誰かにしがみつこうとする。そして、他人のエゴに振り回されたり。そういうおばかな時間を削除し、自分のために使う。
それは何も特別なことではなく、ごく日常の一ページに過ぎない。楽しいよ。

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April 29, 2004

箴言 20. 1-30

  酒は不遜、強い酒は騒ぎ。
  酔う者が知恵を得ることはない。
  王の脅威は若獅子のうなり声
  彼を怒らせる者は自分を危険にさらす。
  争いにかかわらないのは立派なことだ。
  無知な者は皆、争いを引き起こす。
  怠け者は冬になっても耕さず
  刈り入れ時に求めるが何もない。
  思い計らいは人の心の中の深い水。
  英知ある人はそれをくみ出す。
  親友と呼ぶ相手は多いが
  信用できる相手を誰が見いだせよう。
  主に従う人は完全な道を歩む。
  彼を継ぐ子らは幸い。
  裁きの座に就いている王は
  その目でどのような悪をもふるい分ける。
  わたしの心を潔白にした、と誰が言えようか。
  罪から清められた、と誰が言えようか。
  おもり石の使い分け、升の使い分け
  いずれに主の憎まれること。
  子供も、行いが清く正しいかどうか
  行動によって示す。
  聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。
  眠りを愛するな、貧しくならぬために。
  目を見開いていれば、パンに飽き足りる。
  「悪い、悪い」と買い手は言うが
  そこを去ると、自慢する。
  金もあり、珠玉も多い。
  しかし、貴いものは知識ある唇。
  他国の者を保証する人からは着物を預かれ。
  他国の女を保証する人からは抵当を取れ。
  欺き取ったパンはうまいが、
  後になって口は砂利で満たされる。
  計画は助言を得て立てよ
  戦争は指揮力を整えて始めよ。
  秘密をばらす者、中傷をし歩く者
  軽々しく唇を開く者とは、交わるな。
  父母を呪う者
  彼の灯は闇のただ中で消える。
  初めに嗣業をむさぼっても
  後にはそれは祝福されない。
  悪に報いたい、と言ってはならない。
  主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。
  おもり石を使い分けることは主にいとわれる。
  天秤をもって欺くのは正しくない。
  人の一歩一歩を定めるのは主である。
  人は自らの道について何を理解していようか。
  聖別されたものとしよう、と軽々しく言い
  後にその誓いを思い直せば罠となる。
  賢い王は神に逆らう者を選び出し
  彼らの上に車輪を引き回す。
  主の灯は人間の吸い込む息。
  腹の隅々まで探る。
  慈しみとまことは王を守る。
  王座は慈しみによって保たれる。
  力は若者の栄光。
  白髪は老人の尊厳。
  打って傷を与えれば悪をたしなめる。
  腹の隅々にとどくように打て。

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いのちある木々も花も揺らるるもいのちなきもの頑固にぞ立つ

初めから終わりまであるというのなら地球というわれらの星か
裁きの日座したる神は太陽のまばゆき光地球に刺す
神の愛あれにこれにと与われてまばゆき光だれにぞかえさん
地球儀をぼんやりながむ暑き日は終わりて嵐吹きすさぶ春
いのちある木々も花も揺らるるもいのちなきもの頑固にぞ立つ
空気とは幾重にもいる人の息人一人いて空気は変わる
いつくしみて咲く花の息気づかぬも風に揺られていづこへゆかむ
人の子は地球より生まれいづ聖霊のごと木々うるわしめ

教会で賛美歌歌う下の席遠慮がちにも周り気にして
笑い声高らか響く廊下には話し声さえ和音となりし
子ども時代礼拝行ったおじさんは恥ずかしげにも隠し通せり

箴言 20. 1-30

わが力誇示しなければ歌なんてあっけらかんと流れゆくなり
藤の花狂えるように揺れていた大風の中先を急げり
歌だからダメなのかもと思いつつその思いすら高みにありき
タンポポの綿毛に変わる嵐の日わた帽子のままなぜか揺れてる
反戦もイラク派兵も諍いを好まないゆえ行われてる
靄の中真実さえもくもり風黒い雲雲先を急ぐ日
皮肉にも嵐の日には風の中歌は舞い出づ珈琲倶楽部
カタコトとけたたましくも風の音消えてゆくなり人の声して

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April 28, 2004

コヘレトの言葉 9. 13-15

  わたしはまた太陽の下に、知恵について次のような実例を見て、強い印象を受けた。
  ある小さな町に僅かの住人がいた。そこへ強大な王が攻めて来て包囲し、大きな攻城堡塁を築いた。その町に一人の貧しい賢人がいて、知恵によって町を救った。しかし、貧しいこの人のことは、だれの口にものぼらなかった。それで、わたしは言った。
  知恵は力にまさるというが
  この貧しい人の知恵は侮られ
  その言葉は聞かれない。

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聖書

嵐の日。おそろしいほど歌を詠む。が、しかし、サイトに歌を上げない。
さくりふぃす、さくりふぃす、いる、・・・・・・でうす。
人と人との対立は人と人との対立であり、嵐の日には沈黙し、来客を迎える。
マホメッドかジーザスかなどというお話は、歌詠みにはまるで関係のない話である。
誰に信仰心があろうとなかろうと、わたしには何の関係もない話なのである。

あっさり語れば、聖人というのは純水にして神さまが選んだ人たちのことであり、信仰心というのはある日突然降ってくる雨のようなもの。

どんな教会もお寺も、海の十字架ほどの感動を与えてはくれない。
どんな俗物でも、赤道に沈む夕陽を眺めたら、感動を覚えずにはいられない。
信仰も、希望も、愛も、天然のままに横たわる。
ミチュアミおばさんも旅行者もサーファーもおとなも子どもも世界中から来た人も地元も人も人種、国籍、宗教、関係ない。
一瞬にして、そういうサンクチュアリーに出会えた人たちは幸せなのかも。

それでいて、あのレーサーのような道路、喧騒、コレラ、退廃。
それでいて、善良で素朴な人たち。信仰。嫉妬、助け合い、美しい田園。レストラン、暴利。
それでも、太陽は怒らない。壮大。
それでいて、星である以上、いつかは終わりの日はやって来る。
宇宙という真白い靄の世界で、どうやって生きろというのだろう?
意は意のままにある沈黙の意。

浜辺の屋台の前で喧嘩しているというのが人間なんだろう。
同じような屋台で同じような材料、同じ浜。それでいて味も値段も人次第。旅行者は迷う。
落陽を見るだけならタダなんだけど、どうもそういう風にはいかないように建物が並んでいる。
足もなくなる、治安も悪い。地元の人たちはどこからともなく集まって来るけど。
このように海の十字架の話から遠ざかり、バリ島にはすべてがあることがわかる。
それでいて年に数回と言われている本当に落陽の美しい日に出会うために足しげく通う人たちもいる。なのに、めぐりあえず、それでいて偶然により出会う人たちもいる。

無理無理。皆、それぞれに生活があり忙しい。毎日ビーチに座っていられるというのは限られた人たちであり、海の十字架が美しいからといってそればかりは眺めてはいられない。興味のない人たちも多いだろうし、どうしても見なければならないというものでもない。見たほうも見たからといってそれにどんな値打ちがあるのかもわからない。

それでいて、海の十字架は無条件に美しい。あれを見て感動しない人はいないだろう。運命なんだな・・・運命。だから、わかりにくくわかりやすい。
もっとあっさり語れば、海の十字架は宗教とは何の関係もない話である。それでいて感動を教えてくれる。

コヘレトの言葉 9. 13-15

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April 27, 2004

ネヘミヤ記 13. 1-3

  その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。かつて彼らは、パンと水をもってイスラエル人を迎えず、バラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。わたしたちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった。人々はこの教えを聞くと、混血の者を皆、イスラエルから切り離した。

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箴言 16.19-21

  貧しい人と共に心を低くしている方が
  高慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。
  何事にも目覚めている人は恵みを得る。
  主に依り頼むことが彼の幸い。
  心に知恵のある人は聡明な人と呼ばれる。
  優しく語る唇は説得力を増す。

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コリントの信徒への手紙 6. 1-11 信仰のない人々に訴え出てはならない

  あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

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紅の沈む夕陽は輝ける水平線の向こうに昇る

ちっぽけな花を咲かそうわが庭に手入れ悪くも春の花咲く
くもりゆく本音の中でオトくんが正直すぎてどこか悲しい
おとなしい吾子はのほほん微笑んで噛まれた友をなぐさめている
姉弟のように並んでソファには子と子犬が寝転んでいる
親からはもはや見えない子らのこと学校という世界は未熟
憐れみはささやかなるが麗しく野に咲く花は雨を待ちたる
命がけイラク行きたる人々を非難するのは年寄り多く

コリントの信徒への手紙 6. 1-11 信仰のない人々に訴え出てはならない

じわじわと御霊が腐って行きそうな墓場の近い人生を思う
精一杯やっているよななさそうな中間地点通過地点か
諦めよう。若くもないし墓場には時間がありそなヒマな主婦なり
くもりぞら空には青く透きとおる世界もあるがくぐもる窓よ

若き日は若さが疎く儚くて背伸びしたるもまた叩かれて
老いたれば若さが疎く追いもとむ儚くもまた陽は沈みゆく
アフリカの大地のジャケット天空は一面の紅にじませており
紅の沈む夕陽は輝ける水平線の向こうに昇る

箴言 16.19-21

復活は波の向こうに落ち昇る夕陽のようなとまどいのなか
あの人はわたしが消えたと言うけれど吾子を連れたる平凡な日々
突然に籤に負けたる転勤は出産ととも震災ととも
東京は退廃の中しづもれてかつての匂い薄れゆくなり
のんびりと子育てのなか偶然はなつかしき友呼び寄せるなり

ネヘミヤ記 13. 1-3

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April 26, 2004

暗中模索

イラクの人質解放の世論などを眺めていると、まるきり職員室での話題みたいでつまらない。要するに、学校に迷惑をかけて、先生やほかのお友達に迷惑をかけたのだから、それに対して家族が謝り、本人にも反省を促す。学校と違うのは、金で落とし前をつけさせようとしているところだろう。
あーこれが日本社会なんだなーっと思った。当たり前のようでいて当たり前でないのは、国際世論というものがあるからであり、純粋にイラクのことを考えて、復興援助のボランティア活動に行った人たちのことを賞賛する声もある一方で、日本政府の姿勢というのは、「皆さんにご迷惑をかけた」ということを批判するものであり、それに対して金という形での謝罪を要求している。従って、「今後何かがあれば自己責任ですよ」ってことになるのは、学校の責任逃れにもよく似た態度であり、そういう風潮があるからいじめにつながるんだなーなどと思ったりもする。
それでいて、アジア型の紛争解決においては、長老同士が話し合い、紛争を解決する姿勢というのはごくありふれたものであり、日本においても村落共同体の中ではそれが当たり前のことである。
自分の場合は、案外、常識的な人であるために、やはり自己責任だろうと思う一方で、自衛隊の復興支援というのは真っ赤な嘘であることにも気づく。つまりは、アメリカ支援のために付き合いで派兵しているだけであり、多くの日本国民はそういう紛争には巻き込まれたくないというのが本音。だからこその反戦ということになる。
だから、政府に同調しない姿勢で、イラクの復興のために活動する人たちは非難される。しかしながら、心情的には、こういう純粋な人たちがいるから人質解放にもつながり、だからこそ、少しは日本人の活動というものも見直されつつある。にもかかわらず、日本の世論、政府の姿勢。
あまりにもわかりやすいと同時に、米・英が迷惑なのは、そういう長老社会への批判であり、紛争を解決するどころかますますややこしいことになってしまうから。それでいて、民主主義というものをアジアに浸透させるという目的は、案外、これまた純粋にイデオロギー的対立まで生み、それにより安定した長老社会というものが破壊されようとしているのも事実。

こーねー、自分などは過渡期の世代だから、どちらが正しいのかなんてことはもはやわからないです。昨日、塔短歌会の結社誌が届き、やけに分厚い今月号を眺めながら、50年の間にはいろいろなことがあったのだと他人事のように読んだ。結社は長老社会だから、紛争が発生すれば長老同士が話し合うのでしょうし、超結社がどうたらこうたらというのは、要するにそういう風に長老同士の話し合いに頼らず個人間のつながりを持とうという姿勢なのかもしれないし、何となく村落社会における青年部のような・・・

その話は置いておいて、さらに興味深かったのは、消えた歌人の話。当時の塔短歌会としてはめずらしい部類の歌を歌会に持ち込んだのだろう。アララギではめずらしくなかった?その辺の事情は短歌のことにはまるで素人の自分としてはよくわからないけれども、日常的な歌ではなく、もっとアートな部類の歌を詠もうとしていただけなのかもしれないし、それでいてその幻の歌人は、その結社以外の歌人の影響を受けていただけであり、塔短歌会でもてあました歌人は、どこに住んでいるのかもよくわからず、歌会にも来なくなり結社誌にも投稿がなくなり行方不明になったらしい。
行方不明というのは大袈裟じゃないか?

インターネット歌人をしていると、自分のサイトがあるから特に一生懸命に結社誌へ投稿しようとは思わない。結社に不満があるとかないとかよりも、いまだに歌会にも行ったことがないし、それだってつくばの田舎に住んでいて、どうしても子どものことが中心の生活をしているせいであり、結婚するとどうしても自分の家庭の都合が優先されて友達付き合いをないがしろにしてしまいやすいということにも似ている。それでいて子どもの成長と共に少しは自分のことをやれる時間が持てたのでネットをやり、いつの間にかサイトのネタとして歌を詠むようになっていただけ。

しか〜も、「カルチャーセンターと一緒にするな」と言ったヤツがいる!!
悪いけど、あたしはカルチャーセンターというものには行ったことがない。だから、言われてもピンと来なかった。知り合いにカルチャーセンターの講師をしていたという人がいるけど、あまりピンと来なかった。この前、ネットで検索したら、朝日のカルチャーセンターにもなると講師陣というのもすごい(経歴が)。あーなるほど、そこで教えていたということは自慢になるのだということに気が付く。フランス語の先生らしいけど。

というわけで、こういう場合にはどーするかというとひたすら詠みまくる。あっちからもこっちからも何か言われたときには、そうやって淡々と自分のことに専念する。これは長い間の経験から来ているのかもしれない。なんせ、一つ言うためには十のことをこなさなければならない。
歌壇の事情に詳しくない自分としては、なんで声をかけてくれたのが『彗星集』(未来短歌会)なのかわからなかったのよね。つまりは、ネット短歌というか若い世代の歌を集める。果たして自分が若いかどうかはわからないけど、気ままな歌人であるには違いない。だからといって、それは歌が浅いだけであり、昔ながらの歌を詠んでいるとそれはそれでその中では浮いてしまうのかも。
ということは、両方のことができなければならないということになる。長老社会の中で長老の話にも耳を傾け、なおかつ自分のことは自分で続ける。しかも、素直に結社誌のほうに投稿していれば何の問題もないのでしょうけど、相変わらずネット歌人を続けろという試練は続く。
でも、こうやって苦労をしているから、その苦労を新たなる苦労として理解してくれる友達もいるわけで、かといってそれを発表してどうなるのかもわからないし、そこまでの責任が自分にあるとも思えない。だって、歌、浅いから。

閉鎖的な世界にいる甘美というものもあるし、それでいてそれだけではその世界は死に絶えてしまう。かといって古臭い世界に新しいものを持ち込もうとすればイラクの紛争のようになってしまう。あーなんてややこしいのだろう。
そんなこんなを思いながら、自由だ。
いずれにせよ、サイバー上に自分のサイトがある限り、自分が存在しているということくらいはわかるだろうし、少なくても結社誌のほうに歌を出さなくても消えたと騒がれることもない。まあ、サイトを移転させたり、消してしまえば所在はわからなくなるのかもしれないけど、今のところ無事に結社誌は届いているわけであり、あたくしは幽霊じゃございませぬ。(幽霊会員かもしれないけど)

それよりも、少しビシッとこれが自分の歌であると言えるような歌を詠んでみたいものだけど。まだまだあれにこれにと暗中模索は続く。

投稿者 Blue Wind : 05:29 PM | コメント (0) | トラックバック

オトくん・・・・

娘の躾より犬の躾のほうが遥かに大変。小さくて可愛いけど、オトくんはミニチュア・ピンシャなんだとつくづく思った。性格がドーベルマンだから。家族には従順だし、番犬オトでもあるから、それなりに吠えないのも困る。それでいて、娘の友達が来て、いきなり吠えて噛み付いたのには参ってしまった。以前に来たときにはシッポ振って遊んでいたから、大丈夫だろうと思ったのに、やってくれた。
娘はおとなしくて素直だから、公園で遊ばせていても誰かに危害を加えたことはない。逆に、幼稚園くらいの頃に、男の子のお母さんから、「まほちゃんはすぐ泣く」などとわけのわからんことを言われたことがある。どうやって考えてもうちの娘は悪くない。それよか、あんたの息子をなんとかせよと思う。で、年中、そうやってわが子を叱っているうちに、すぐ泣くほうが悪いと思うようになったらしい。気持ちはわからないでもないけど、あたしは特に文句も言ったこともない。いやだなって思えば一緒に遊ばせないようにすればいいだけのこと。それすら我慢していたというのに・・・
というわけで、自然と?女の子は女の子同士、男の子は男の子同士で遊ぶようになった。ちょうどそれくらいの年齢だったのかも。
それにしても、オトくん。玄関にミニピンステッカーでも貼っておこうかな。物騒な世の中だから、お散歩行くときにもオトくんが一緒のほうが娘も安心は安心なんだけど、友達が遊びに来ていきなり襲いかかるというのも困る。娘が留守番している場合を考えても、オトがいるのといないのとでは気持ちも違う。それでいて明日は家庭訪問。うぅ・・・先生がいる間、吠えまくりだろうな。庭へ出すか、娘とお散歩させるか悩む。オリに入れても吠えまくり。しばらくすると落ち着くんだけど、その頃には先生もお帰りの時間。ヤレヤレ・・・・困った。

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アモス書 5. 4-15 わたしを求めて生きよ

  まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。
  わたしを求めよ、そして生きよ。
  しかし、ベテルに助けを求めるな
  ギルガルに行くな
  ベエル・シェバに赴くな。
  ギルガルは必ず捕らえ移され
  ベテルは無に帰するから。
  
  主を求めよ、そして生きよ。
  さもないと主は火のように
  ヨセフの家に襲いかかり
  火が燃え盛っても
  ベテルのためにその火を消す者はない。

  裁きを苦よもぎに変え
  正しいことを地に投げ捨てる者よ。

  すばるとオリオンを造り
  闇を朝に変え
  昼を暗い夜にし
  海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。
  その御名は主。

  主が突如として砦に破滅をもたらされると
  その堅固な守りは破滅する。

  彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み
  真実を語る者を嫌う。
  お前たちは弱い者を踏みつけ
  彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ
  切り石の家を建てても
  そこに住むことはできない。
  見事なぶどう畑を作っても
  その酒を飲むことはできない。
  お前たちの咎がどれほど多いか
  その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。
  お前たちは正しい者の敵対し、賄賂を取り
  町の門で貧しい者の訴えを退けている。

  それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。
  まことに、これは悪い時代だ。

  善を求めよ、悪を求めるな
  お前たちが生きることができるために。
  そうすれば、お前たちが言うように
  万軍の神なる主は
  お前たちと共にいてくださるだろう。
  悪を憎み、善を愛せよ
  また、町の門で正義を貫け。
  あるいは、万軍の神なる主が
  ヨセフの残りの者を
      憐れんでくださることもあろう。

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マタイによる福音書 16. 21-28 イエス、死と復活を予告する

  このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

投稿者 Blue Wind : 12:44 PM | コメント (0) | トラックバック

老人のあつまりたるや政治かなわかりやすくて敷島の井戸

老人のあつまりたるや政治かなわかりやすくて敷島の井戸
紛争を嫌いながらも紛争の好きな友だちおもしろかりし
まほちゃんはすぐ泣くからと言われては帰ってくれとドアを閉したる
オトくんは噛んで吠えいる吾子の友わるい子オトに悩まされつつ

娘の躾よりも犬の躾のほうが遥かに大変。

マタイによる福音書 16. 21-28 イエス、死と復活を予告する

閉したるもまた簡単に復活すまぼろし歌人引越しただけ
歌会には消えてしまったあの人もアララギの声塔につたえり
歌会にはかったるいけどサイトなら毎日更新生きております
かの昔なにがあったか知らんけど気ままな時代風は吹きたる

アモス書 5. 4-15 わたしを求めて生きよ

ちなみに、まほがすぐ泣くからと言われて、ドアを閉めたのはわたしのほうなんです。娘のほうはすぐに忘れて別の友達と遊んでいました。そういうものなのよね・・・

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April 25, 2004

青とんぼ

この前から神父さんのサイトに、biglobeのホームページが貼ってある。biglobeでなくてもいわゆるコミュニティというか、ガイアックスでひどい目にあってしまったがゆえに、日記だけの交流というのはそれなりに気楽であるということは以前から気が付いていたのだけれど、一人で気ままにサイトをつくっているというのはそれなりに気楽。検索で来訪してくれる人がほとんどだし、それでいてちらほら常連さんやリンク先からの来訪があり、無料サーバと違って好きにしていても文句言われるわけでもないし、容量も大きい。更新すれば、ping先のblogリストから来訪がある。
coolのサイトは、結構、リンクしてくださったところもあるし、ロボット検索にも登録してあったので、それはそれなりに置いておくこともできたけど、自分としては自分が更新していないサイトはすでに死んでいるような気がしてしまう。とりあえず、サーバに置いておけばそれなりに勝手に来訪者があるのがネットであり、そういうことを考えると放置しておいてもそれはそれでかまわない。でも、有料であるがゆえにバカバカしくなってしまう。だったら、最初から無料サーバを使うほうが気楽かもしれない。まったく更新しなくてもトップページがあるとどういうわけかずっと保存されているわけで、自分で閉鎖しないかぎりずっと存在している。

以前、閉鎖された世界の甘美というものを書いたけど、よく考えてみれば、インターネットにもどこかそういう閉鎖された世界の甘美というものが存在しており、おそらくはそれを再び打破しなければならないのかも。メディアとしてどこか未熟なのは、そういう閉鎖された世界の甘美さがあるためであり、ネットだと常連さんとかそういうことになるのかしら・・・それでいて、挨拶カキコに忙殺されるということにもいささか疲れ果てているし、今のようにコミュニケーションの薄いサイトを構築しているほうが管理する側としては気楽。
歌のネタも書きたいんだけどね・・・気が重い。うっかり書いて、誰が見ているかわからないし、あまりにも人間関係が狭いとなると、なかなか本音は書けない。完全に結社などには無関係に自分のことだけやっている分には単なる読者だから気楽だもの。まあ、この話は置いておこう。いずれにせよ、雑誌や歌集となると売ることが目的だから、宣伝になるならいくらでも引用でも転載でもかまわない。それはインターネットにおいても同じ。
にしても、聖書にまで著作権があり、なおかつボランティアとしての活動があり、いささか世の中は複雑だと思いながら、出版業界からすればあたしのささやかなる楽しみも自己表現としての媒体ということなのだろう。短歌とかネットも自己表現のための媒体であり手段。そうやって言われるとそうかもしれないと思いながらも、自己を表現するということも一つのエゴの発露であるからにして、それを考えるとどこか矛盾に満ち溢れ、その延長として考えると、聖書を売るということも献金するということもすべてがエゴの発露であり、子どもを産んで育てるということすらエゴの発露ということであり、どこかでエゴ連鎖を捨てないと永遠にエゴイズムの中に留まることになる。これでは実際のところ何をやっても癒しなど存在しない。ってことは、自分が救えなくなる。

歌の大盤振る舞いをするか、例の如く時事ネタについて屁理屈並べるか、それとも日常ネタをダラダラ書いていくか迷う。いや・・・何か違う。
自分の歌集に何となく『白い花』と付けた。これって偶然。歌人になる前にBBSに付けたタイトルが『新しい風の部屋』。すべてが偶然。ってことは、やっぱ歌人として日記をつくって行かなければならないのかも。反戦運動するよりボサノバ、というノリだから・・・つまりは、No War! と書くより Love & Peace と書くほうがやんわりしているでしょ?あたしの場合は両方書いておきたいほうだから。
はー、でも、せこいね。書かないつもりだったのに、やはり書いてしまう。気持ちはわかるから・・・結社誌などを優先させて、ウェブには既発表の作品を上げる。自分の場合は、結社のほうへ何を送ったのか、その場で書いたりしているからすでに忘れてしまっている。それでも今のところ困らない。だっておっそろしいほど詠んでいるから。
それより、今度はそういう中から自分の気に入った歌をページにまとめていくべきなのかも。ランボーも自分で出版しようとしたのは『地獄の季節』だったかな・・・忘れた。とんでもない詩集。それだけ。単なるやんちゃ坊主だったのかもしれないし、考えようによっては自由人。それでいて今となっては世界中であれにこれにと引っ張り出しては出版されている。
結局、癒しなんだろうな。流行作家の作品より、純文学。延々と読者がいること自体がすごい。つまりは、作家の死後に出版された作品もそういう中には多いし、若くして亡くなった人たちなどはまさしくそういう作品が多い。りんさんは、そこまでの歌人になれるか?
いやはや・・・笑っちゃうけど、そこまでの責任ない。でも、どうせやるならそういうほうがいいな。青とんぼだから。

投稿者 Blue Wind : 02:48 PM | コメント (0) | トラックバック

雅歌 6. 1-12

    おとめたちの歌
  あなたの恋人はどこに行ってしまったの。
      だれにもまして美しいおとめよ
  あなたの恋人はどこへ行ってしまったの。
      一緒に探してあげましょう。

    おとめの歌
  わたしの恋しい人は園に
  香り草の花床に下りて行きました。
  園で群れを飼い、ゆりの花を手折っています。

  恋しいあの人はわたしのもの
  わたしは恋しいあの人のもの
  ゆりの中で群れを飼っているあの人のもの。

    若者の歌
  恋人よ、あなたはティルツァのように美しく
  エルサレムのように麗しく
  旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。
  わたしを混乱させるその目を
      わたしからそらせておくれ。
  あなたの髪はギレアドを駆け下る山羊の群れ。
  歯は雌羊の群れ。毛を刈られ
  洗い場から上って来る雌羊の群れ。
  対になってそろい、連れあいを失ったものはない。
  ベールの陰のこめかみはざくろの花。

  王妃が六十人、側女が八十人
  若い娘の数は知れないが
  わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。
  その母のただひとり娘。
  産みの親のかけがえのない娘。
  彼女を見ておとめたちは祝福し
  王妃も側女も彼女をたたえる。

    合唱
  曙のように姿を現すおとめは誰か。
  満月のように美しく、太陽のように輝き
  旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。

    おとめの歌
  わたしはくるみの園に下りて行きました。
  流れのほとりの緑の茂みに
  ぶどうの花は咲いたか
  ざくろのつぼみは開いたか、見ようとして。
  知らぬ間にわたしは
  アミナディブの車に乗せられていました。

投稿者 Blue Wind : 01:22 AM | コメント (0) | トラックバック

申命記 33. 24-25

  アシェルのため彼は言った。
  アシェルは子らのうちで最も祝福される。
  兄弟に愛され、その足を油に浸す。
  あなたのかんぬきは鉄と青銅。
  あなたの力はとこしえに続く。

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詩篇 71. 4-8

  わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から
  悪事を働く者、不法を働く者の手から
      わたしを逃れさせてください。
  主よ、あなたはわたしの希望。
  主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み
  母の胎にあるときから
      あなたに依りすがって来ました。
  あなたは母の腹から
      わたしを取り上げてくださいました。
  わたしは常にあなたを賛美します。
  多くの人はわたしに驚きます。
  あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。
  わたしの口は賛美に満ち
  絶えることなくあなたの輝きをたたえます。

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みこころの風は吹く吹くあの空は気まぐれなまま夕暮れている

詩篇 71. 4-8

子のために生きろと言われわが道を閉ざされゆくも子も旅立ちぬ
腹立ちも今に思えば腹立たしわかっちゃいるがなお腹立たし
子を持って親のエゴ知るゆくすえの囲まるる人なお母ばかりかな
旅立ちぬわがゆくすえもみこころのなすがゆくえの雲は流るる
ちっぽけに生きればプール溺れたり浜辺の砂はわれをなぐさむ
母親のグチにまみれる公園でのたりのたりと過ごす日むなし
母親は生きるもむなし愛もまた生きるもむなし子は旅立ちぬ
母として生きるもむなし子もむなし生きた証しはなお旅立ちぬ
諦めよう。みこころのまま風は吹く。われもまたすぐ旅立ちぬ、空。

苛立ちぬ若き母らの悲鳴かな陸の孤島とエゴに囲まれ
救いの手あるもむなしき労働の吾子かわいし救いもうざく

申命記 33. 24-25

子のために生きるをエゴと言われてはわがため生きるさらにむなしき
みことばを写すもエゴと言われては献金してもなおくもりゆく
感謝しろ感謝しないと言われては感謝の気持ち儚くも消え
わがために生きるもむなし大地には真水のような純水さがす
スーパーに置かれた純水21機械にたよる今の真水か
ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの飛び出せゆけば政治はやめろ
あっさりと月と夕陽をながめゆく気ままな風に身をゆだねたり

神さまは何もしないと言われてはすっきりとするわがこころかな
みこころの風は吹く吹くあの空は気まぐれなまま夕暮れている

雅歌 6. 1-12

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April 24, 2004

マルコによる福音書 9. 14-29 汚れた霊に取りつかれた子をいやす

  一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群集に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群集は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群集の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群集が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は、死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

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潮風の流れるような部屋のなか子らの予定に振りまわされる

とこしえに海の光りてあるように畏るるように高波のよす
しがみつき手を離しては浮き上がる吾子をひきあげ深きプールよ
ちっぽけな人の見ているプールでもだれもきづかず溺るる親子
意味もなく疲れたような退廃はからまわりして木々揺らしたり
オトくんの公園散歩おとなしく庭にて吠える何に向かいて
踏まないで猫踏んじゃった吾子の弾くピアノのかなし昼下がりかな
風騒ぐ春の庭には陽だまりにオトは静かに横たわりたる
潮風の流れるような部屋のなか子らの予定に振りまわされる

マルコによる福音書 9. 14-29 汚れた霊に取りつかれた子をいやす

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エゼキエル書 28. 11-19

  主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。
  主なる神はこう言われる。
  お前はあるべき姿を印章としたものであり
  知恵に満ち、美しさの極みである。
  お前は神の園であるエデンにいた。
  あらゆる宝石がお前を包んでいた。
  ルビー、黄玉、紫水晶
  かんらん石、縞めのう、碧玉
  サファイア、ざくろ石、エメラルド。
  それらは金で作られた留め金で
  お前に着けられていた。
  それらはお前が創造された日に整えられた。
  わたしはお前を
      翼を広げてケルプとして造った。
  お前は神の聖なる山にいて
  火の石の間を歩いていた。
  お前が創造された日から
  お前の歩みは無垢であったが
  ついに不正がお前の中に
      見いだされるようになった。
  お前の取り引きが盛んになると
  お前の中に不法が満ち
  罪を犯すようになった。
  そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
  翼で覆うケルプであるお前を
  火の石の間から滅ぼした。
  お前の心は美しさのゆえに高慢となり
  栄華のゆえに知恵を堕落させた。
  わたしはお前を地の上に投げ落とし
  王たちの前で見せ物とした。
  お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って
  自分の聖所を汚した。
  それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ
  わたしは見ている者すべての前で
  お前を地上の灰にした。
  諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆
  お前のゆえにぼう然とする。
  お前は人々に恐怖を引き起こし
  とこしえに消え失せる。」

投稿者 Blue Wind : 11:15 AM | コメント (0) | トラックバック

ペトロの手紙 一 3. 9-17

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
  「命を愛し、
  幸せな日々を過ごしたい人は、
  舌を制して、悪を言わず、
  唇を閉じて、偽りを語らず、
  悪から遠ざかり、善を行い、
  平和を願って、これを追い求めよ。
  主の目は正しい者に注がれ、
  主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
  主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
  もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが悪を行って苦しむよりはよい。

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行き止まりバイク乗りたちやって来る祭りのやうな月と夕陽よ

参観日時間まちがえ給食を食べてる子らをのんびりながむ
定期券持たなくなって時間割まちがえすすむ自分の年も
太陽が照りつづく日はぐったりと地球もやすむわたしもやすむ
癒しなき聖書の世界さまよえば乖離する世のうすやみを見る
庭の中種缶蒔いて気が付けばピンクの小花散らし咲く春
青缶も蒔いたと思う春の日は桔梗のような小花も咲けり
”カーペット”という名を持つ種蒔けば気まぐれな花おとづるるまま

ペトロの手紙 一 3. 9-17

風のみちうねうねとして空のみちあの雲さえも静かにすすむ
太陽を遮るような白雲に救われる日も風まかせかな
あの空にぽっかり穴があくことも今ならわかる陽は輝けり
陽がなくば生きるもかたく陽のおわり儚くもまた地球は止まる
島かげはあっという間に黒雲に消えてしまったスコールの海
舟はゆく黒海の中黒雲をかきわけすすむ青空の島
あの空とこの空まではスコールのご機嫌しだい舟は揺らるる
モンスーン荒れ空の西澄み渡る静かな浜辺東の岸よ
ちっぽけな島を旅する浜辺にはいろんな波といろんな空と
気まぐれな雲は流るる空のうえ灼熱の中椰子はたたずみ
太陽のとおりみちには島かげの幾多に浮かぶちっぽけなかげ
行き止まりバイク乗りたちやって来る祭りのやうな月と夕陽よ
岬には白い半月浮かんではのんびり沈む夕陽をながむ
海風にタイの演歌のかきけさる若者たちと旅人たちと

ケープパンワだと月と夕陽が同時。
夕陽が映るほどの月。
自転が止まる地球。
おそろしいほど美しい日かもしれない。
何を考えているんだか・・・
雲さえも風まかせ。スコールを経験すると、あっという間だもの。気まぐれな空。
今まで嵐だと思っていたら、ちょっと海の上を走ると晴れ渡るビーチ。何事もなかったかのようだし、実際に、何もなかったのかも。
アジアは美しい。

エゼキエル書 28. 11-19

プーケットの歌みたい。あの島の歴史そのものだ。なんで、あんなちっぽけな島に世界中から集まるんだろう。かくいうあたしもその一人か。なんか、救われるな。「赤い月」の噂でもたったら、世界中から誰かがやって来るだろう。壮絶な美しさ。癒される。
なんか、そっちのほうがまともな気がしてしまうんだよね。ひねてるのかな、やはり。

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ヨハネによる福音書 20. 24-29 イエスとトマス

  十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

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ガラテヤの信徒への手紙 2. 1-10 使徒たち、パウロを受け入れる

  その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことをしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。----この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことなのです。神は人を分け隔てなさいません。----実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らはペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

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ダニエル書 7. 1-28 四頭の獣の幻

  バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした。
  ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。見ていると、翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、人間の心が与えられた。第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。これに向かって、「立て、多くの肉を食らえ」という声がした。次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。その角を眺めていると、もう一本の小さな角があった。その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。なお見ていると、
  王座が据えられ
  「日の老いたる者」がそこに座した。
  その衣は雪のように白く
  その白髪は清らかな羊の毛のようであった。
  その王座は燃える炎
  その車輪は燃える火
  その前から火の川が流れ出ていた。
  幾千人が御前に仕え
  幾万人が御前に立った。
  裁き主は席に着き
  巻物が繰り広げられた。
  さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておられた。
  夜の幻をなお見ていると、
  見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
  「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
  権威、威光、王権を受けた。
  諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
  彼の支配はとこしえに続き
  その統治は滅びることがない。

  わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。見ていると、この角は聖者らと闘って勝ったが、やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て、王権を受けたのである。
  さて、その人はこう言った。
  「第四の獣は地上に興る第四の国
  これはすべての国に異なり
  全地を食らい尽くし、踏みにじり、打ち砕く。
  十の角はこの国に立つ十人の王
  そのあとにもう一人の王が立つ。
  彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。
  彼はいと高き方に敵対して語り
  いと高き方の聖者らを悩ます。
  彼は時と法を変えようとたくらむ。
  聖者らは彼の手に渡され
  一時期、二時期、半時期がたつ。
  やがて裁きの座が開かれ
  彼はその権威を奪われ
  滅ぼされ、絶やされて終わる。
  天下の全王国の王権、権威、支配の力は
  いと高き方の聖なる民に与えられ
  その国はとこしえに続き
  支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」
  ここでその言葉は終わった。わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった。しかし、わたしはその言葉を心に留めた。

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マタイによる福音書 16. 1-4 人々はしるしを欲しがる

  ファリサイ派のとサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には、『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

投稿者 Blue Wind : 09:24 AM | コメント (0) | トラックバック

April 23, 2004

あくせく遊ぶ

昨日は疲れた。歌をアップする気にもなれない。とりあえず、日本聖書協会と村松恒平さんと友達から朗報が届き、それはそれでどことなく象徴的な気分。つまりは、プロの人たちだから。
聖書を出版するのも仕事だし、編集者も仕事だし、友達のほうはアート系の人たちが集まって、文化芸術振興基本法の制定に伴い、その署名と来月タレント議員がやって来て懇親会があるらしくそれへのお誘い。将来的に歌集を出版して、それを売るとなると、そういうお付き合いが大切になって来る。これではまるで仕事だ。まあ、うちの娘が美術方面に進みたいと言っている以上、彼女がそれで生計を立てていけるように礎を敷いておくのも親の仕事かもしれないと思いながらも、めんどーでめんどーで。そういうややこしいことはほかの誰かにやってほしい。

そんな気持ちのままそれはそれで歌にする。そして、パッと開いたら、ダニエル書。四頭の幻の獣の話。めっちゃくちゃ面白い。たまたま昨日届いた朗報が、聖書、文学、文化芸術振興基本法、だからかもしれない。それと同時にウイルス感染を装った偽装メールが届いており、世の中にはそういうことをわざとするためにサーバごと感染させたり、パソコンを感染させたままにしておいたり、まめな人もいるために、放っておく。つまりは、恐ろしい4番目の獣の正体は自然科学なのかもしれないなどと不意に思いながら、それに生えた新しい角とは人工知能や遺伝子なのかもしれないと思いながら、それら4つの王国---- 宗教、文学、法律、科学 ----が揃ったときに初めて旧約聖書へ立ち戻り、新約聖書へ進むのかもしれないと何となく考えているほうが楽しい。
アダムの罪・・・・つまりは知恵の木の実を食べたこと。それがどうしてこんなに恐ろしいほどの罪なのか、人間のやることを観察しているとわかるでしょ?宗教による迫害の時代、文学・学問、法律や政治、そして遺伝子の組み換えやらクローンやら原爆落としてみたり、サルのやることはすごい。それでいて、結局は聖書に書かれていることをそのまま実証しているような気さえしてしまう。
聖書も翻訳する人や書き手の問題があるのかもしれないと思った。
ダニエルの時代に、今の時代を想像するなんてことは不可能だ。そして、夢の中で幻を見る。そして、それを誰かが解釈しようとする。そして、それを記録に残し、誰かがイメージして翻訳する。情報が正しく伝達するなんてことは、どんなに忠実に誠実に行おうとしても、人間である限り無理だ。しかも、それを読んだ側の問題もある。同じことを読んでも見ても感じ方がまるで違うのだから。
アダムの罪を贖ったのが、イエス。
これってすごく重要なのだと思った。つまりは、復活を信じるか?ということでしょ?
自分に限って言えば、まるきり信じてる。それは、今のサイエンスの状況を観察すると、もしかするとそんなに肉体が復活するということは驚くことではないのかもしれないと思いながらも、まるで似ていないクローン猫の話や、性格も違うというし、要するに何が言いたいかというと、同じ肉体が復活しても、同じ人間にはならないということかもしれない。
一人一人記憶も違えば、お付き合いしている人も違うでしょうし、おそらくは考えていることも違うかもしれないし、まるきり同じ人間ということはありえない。
あっさり語れば、同じ人間であるためには肉体以上の何かが要求されるわけで、そこまでいってしまうと、サイエンスだけではにっちもさっちも。
聖書はやさしい言葉で書かれているけれども、それがいちいち根拠のあることだと思いながら眺めてみると、だったら最初から神さまの言葉だけあったらいいということに帰着してしまう。2000年前に聖書を読んだ人たちと今のあたしとが同じことをイメージしているかどうかは不明。それでいて、結局は、何となく、「お父さんの言うことをきいていたら、こんなに苦労しなくてもよかったのに」みたいな気分に陥ってしまう。あっさり語ると、これは自分の本音だから。親の反対を押し切って研究やって、結局、今は普通の主婦をしている。楽しいよ。プロということで考えると、あたしは働いたことはないけれども、自分のやりたいことをやりながら生きているわけで、慌しくペーパー読んでいるより、今は自由に読める時間もある。あれこれ考えているのは楽しいけれども、いざ仕事や課題となるとそちらを優先しなければならないのが社会であり、プロであり、つまりはプロではないからこその気楽さもある。仕事だとなかなかこういう風にはいかないもの。
誰だってそうかもしれない。特にアートの世界の人たちならなおさらかな。自分のニーズより取引先のニーズのほうが優先される。そういうジレンマを抱えながらやっているのかもしれないし、そこであえて自分を押すと仕事が回って来ないとかね。そりゃ、団体に所属して、チケットの販売から宣伝まで組織がやってくれるのと、個人で活動を続けているのとでは全然違う。昨日たまたまそういう話をしながら、ぼんやり。
一生懸命に売る苦労するより、自由に遊んでいるほうがいいよね。普通はそういう風になりたいから金が欲しいと思ったりするのではないの?遊んでいるわけではないけれども、あくせく売るより遊んでいたい。

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細い月今にも落ちてきそうな夜電柱のかげにあっさり消えた

マタイによる福音書 16. 1-4 人々はしるしを欲しがる

懇親会行って何を話すべく今しばらくはひねてうだりて
われのため動けないよと母親は吾子のためにはなしたるべきか
コツコツと草の根の中しづもれるアザレアのごとのんびり育つ
人の音に疲れてしまう暑き日は喜びとても陽は照らしたる
殻の中うずくまるよな卵にはぬくもりはなく冷やされたまま
喜べよ、ご機嫌だろと思うべき2匹の蝿がブンブンうなる

ダニエル書 7. 1-28 四頭の獣の幻

預言者を迫害したるいにしえの人らをおもう普通の人ら
蜂は巣を蝿は夏にはとびまわる普通の日々をめまいのおそう

ガラテヤ 2. 1-10 使徒たちパウロを認める

武器持って戦うだけが戦いと言えない壁の立ちはだかりし
細い月今にも落ちてきそうな夜電柱のかげにあっさり消えた
調和なき空と街との面ざしは中途半端な夜空にも似て
地上の灯美しければ星消えるまたたく夜の自家撞着か
よきことをしようとすれば神さまは神秘のむこう闇は真っ暗
色相環中央にあるドットには宇宙の靄の色なき色よ
花のいろ桜の花のうつろいは霞む春には山の花咲く
注釈のついた聖書の辞書の棚しづもれるまま飾りとなりき
飾りかも、それでも意味は謎めいて新たな日にはおとづるるまま
意図的に意図的たれば人の手の意図たるままに機能するなり
人の意を介在せねば天からはパンすら降るやあな不思議かな
サイエンスそのまた闇の降る夜はきらめく星はましろき闇に
とこしえに言の葉なきは言の葉の意のままにありましろき闇よ
人工の知能のむこう飽和する世界のむこう愛のしづもる

ダニエル書読んですこしのおかしみはおおげさすぎてあな楽しけれ
知らぬ世を幻にして語らえば夢はひろがるあらたな夢路

ヨハネによる福音書 20. 24-29 イエスとトマス

◇昨日の日記

今日は暑い。
日本聖書協会と村松恒平さんと友達から朗報が届きました。なんて象徴的な取り合わせでしょう。

象徴的だ。

聖書と文学と文化芸術振興基本法の取り合わせですから。しかも、礎の人たち。

マタイによる福音書 16. 1-4 人々はしるしを欲しがる

懇親会行って何を話すべく今しばらくはひねてうだりて
われのため動けないよと母親は吾子のためにはなしたるべきか
コツコツと草の根の中しづもれるアザレアのごとのんびり育つ
人の音に疲れてしまう暑き日は喜びとても陽は照らしたる
殻の中うずくまるよな卵にはぬくもりはなく冷やされたまま
喜べよ、ご機嫌だろと思うべき2匹の蝿がブンブンうなる

自分のメルアドから別の自分のメルアドへ大量のスパムが攻撃したそうで・・・いつになったらそういうことから解放されるのだろう。

ダニエル書 7. 1-28 四頭の獣の幻

蜂の巣・・・蝿・・・・えええ・・・・・・

預言者を迫害したるいにしえの人らをおもう普通の人ら
蜂は巣を蝿は夏にはとびまわる普通の日々をめまいのおそう

写教聖書、やめます。むなしいから。

ガラテヤ 2. 1-10 使徒たちパウロを認める

誰も悪いことをしているとは思えない。そこがつらい。4番目のサルを除いて。でも、ネットはもともとそういうアングラな人たちのつくった世界だそう。よーわからん。

ほんとにどうしたらよいのか・・・
あたしはね、ふつーのしゅふなのよーーーーー!!

歴史か。
最初に宗教、次に文学・アート、後に政治・法律、そして、自然科学。新しい角は人工知能と遺伝子かも。そして、旧約の裁きの上に新約。

____________


常識的な判断として、献金した時点で、AOLやcoolなど使っていないサーバやプロバイダをやめました。だから、お金ではないんですよね、ささやかなるお小遣いの中のやりくりですから。
そういうことではなくて、誰かから褒められるとその時点で、終わるんです。だから、失敗したなーって思ってしまう。褒められて失敗したというのもヘンなんですけど。あーまたうだうだが始まった。
何が気に入らないのかわからないと言われてしまう。ささやかなる献金で後援会に入って、村松さんからもどんどん引用でも転載でもしてくださいとメールをいただいて、しかも、今日友達が暑い中署名集めをかねて、アート系の人たちと国会議員(タレント議員かな)との懇親会に誘いに来てくれたんです。来月つくば市でそういう催しがあるそうなので。
何が気に入らないのか説明できない。ご親切にありがとうございます、としか言えない。青とんぼの代わりにミツバチの巣やハエ。青とんぼがスペシャルなのかもしれない。でも、もしかするとめずらしいけど驚くことでもないのかもしれないし、よくわからないです。いや、青とんぼではなくて、ごくありふれた梨の花にも神秘を感じるという感性の問題なのかも。

武器持って戦うだけが戦いと言えない壁の立ちはだかりし
細い月今にも落ちてきそうな夜電柱のかげにあっさり消えた
調和なき空と街との面ざしは中途半端な夜空にも似て
地上の灯美しければ星消えるまたたく夜の自家撞着か
よきことをしようとすれば神さまは神秘のむこう闇は真っ暗
色相環中央にあるドットには宇宙の靄の色なき色よ
花のいろ桜の花のうつろいは霞む春には山の花咲く
注釈のついた聖書の辞書の棚しづもれるまま飾りとなりき
飾りかも、それでも意味は謎めいて新たな日にはおとづるるまま
意図的に意図的たれば人の手の意図たるままに機能するなり
人の意を介在せねば天からはパンすら降るやあな不思議かな
サイエンスそのまた闇の降る夜はきらめく星はましろき闇に
とこしえに言の葉なきは言の葉の意のままにありましろき闇よ
人工の知能のむこう飽和する世界のむこう愛のしづもる

なんか、下手な歌だな。うまく詠えるわけがない。

ダニエル書読んですこしのおかしみはおおげさすぎてあな楽しけれ
知らぬ世を幻にして語らえば夢はひろがるあらたな夢路

預言書っていつ書かれたんだろう。そんなことも知らない。パッと開くだけ。そこなのよね・・・気持ち悪いってBBSに書かれた。失敬な。ほんと、普通の主婦なのに。常識的でもあるし。そこを怒るのよ、あたくしは。脳を1%でも余分に使うと世界が変わる。それか、子どもの頃の脳を僅かでも保持しているとか。使わないと死に絶えるだけだけど、使っていれば発達する。おさなごのようでないと神の国には入れない?そーかも。使わないと落ちる。聖書ってめちゃくちゃおもしろい。なんでこんなにおもしろいのだろう。すべてがある。

ヨハネによる福音書 20. 24-29 イエスとトマス

クローン猫は姿かたちも似ていないのはどうしてなんだ?性格すら違うらしい。なんでだ?なんでっかなー、うきうきうきうき、なんでこんなに楽しいのだろう。
科学とは聖書を実証するためにある。4つの王国が揃って初めて旧約から新約へたちのぼる。そして、その4つの王国が要らないのが神の国なのかも。
そういうことを想像しているとうきうきしてしまう。

典礼ではなくて、なんでこっちに来てしまうのだろう。
だから、最初からお父さんの言うことをきいていたらよかった、ってなるのかも。

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April 22, 2004

聖書の引用

聖書に著作権があるということが不可思議に思いながらも、日本聖書協会にメールを書く。聖書からの引用についての規定などを読みながら、引用というか、写教聖書というか、あれにこれにと考える。個人サイトでもあるし、あえて著作権料を支払わなければならない状態でもないし、歌を詠んで聖書を開くという習慣も、写教聖書という習慣も特に悪いことをしているという状態でもないでしょうし、一番厄介なケースのような気がする。
というわけで、このような場合、どうするかと言えば、おそらくは良心に基づき行動するしかない。常識的判断として、献金した。後援会にも入る。その上で、ご注意をいただいたらそれに従う。
そんなこんなを考えながら、家にある聖書の数を数えたら4冊あった。子どもの頃に近所の教会の牧師さんにいただいた新約聖書を含めると5冊。でも、それは実家に置いてきたのかもしれないし、見つからない。
2冊は、大学時代に実家を出たとき、勉強のために買ったものかもしれない。新約聖書と旧約聖書つきの聖書の2冊。もう1冊は、卒業したときにいただいたもので、詩篇つきの新約聖書。その3冊は何となく辞書と一緒にあった。
残りの1冊は、この前不意に思い立って、歌のために買ったもの。
ダンナに言わせると、ホテルなどに行けば、大抵は、ご自由にお持ち帰りくださいと書いてあるので、聖書はタダだと思っている。そうやって考えるとそうかもしれないけど、そうやって置いてある聖書をどうしても旅の道連れにしなければならないほどの過酷な旅に遭遇したことはないために、どうしても聖書を必要とする人たちのためにそうやって書かれているに過ぎない気がするんだけどどうなんだろう。あるいは、世界の地域によってはそう簡単に聖書が手に入らないところもあるわけで、そういうところからの旅行者なら聖書を持って帰ることにはそれなりの意義があるような気がするけど、要するに水のようなもので、子どもの頃にタダでもらったら、またほかの誰かがそのように聖書を受けとれるように献金しなければならないものなのかも。決まりではないけれども決まりではないルールもある。簡単に語ると、良心の問題なんだろう。誰も何も言わない。だからこそ何となく気になってしまう。
それと、自分が欲しかったのは、旧約聖書つきの聖書。タダの聖書は大抵は新約聖書だ。
創世記のアダムの罪から始まって、それを贖ったのがイエスだとすると、どうしても旧約から読まないとわからないことのほうが多いから。それでいて、あまりにも分厚いために、パッと開くだけの生活が続いている。顕微鏡を覗くような聖書の読み方かもしれない。
一体、あたしは何をしているのだろう?
自分でもよくわからない。
ダンナにも、聖書を読んでいて楽しいのかと訊かれた。ってことは、おそらくは楽しそうに読んでいるのだろう。そんな話はしたことはないもの。どうして楽しいかと言われても説明できない。面白いし・・・聖書は。

それと同時に、AOLとcoolを解約した。もはや使っていないから。考えてみたら、そちらへ出費するより、聖書教会へ献金するほうがいい。献金すると、いかに無駄の多い生活をしているかよくわかる。基本的に主婦の小遣いの範囲であるからにしてささやかなるものだけど、そうやってコツコツ。
楽しい。

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April 21, 2004

詩篇 119. 169-176

       (タウ)
  主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。
  御言葉をあるがままに理解させてください。
  わたしの嘆願が御前に達しますように。
  仰せのとおりにわたしを助け出してください。
  わたしの唇から賛美が溢れるでしょう
  あなたが掟を教えてくださいますから。
  わたしの舌は仰せを歌うでしょう
  あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
  あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう
  あなたの命令を選び取ったのですから。
  主よ、御救いをわたしは望みます。
  あなたの律法はわたしの楽しみです。
  わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。
  あなたの裁きがわたしを助けますように。
  わたしが子羊のように失われ、迷うとき
  どうかあなたの僕を探してください。
  あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

投稿者 Blue Wind : 09:41 PM | コメント (0) | トラックバック

ヨブ記 16. 6-22

  語っても苦しみはやまず
  黙っていても、それは去りません。
  もう、わたしは疲れ果てました。
  わたしの一族をあなたは圧倒し
  わたしを絞り上げられます。
  このわたしの姿が証人となり
      わたしに代わって抗議するでしょう。

  神がわたしを餌食として、怒りを表されたので
  敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目を向ける。
  彼らは大口を開けて嘲笑い
  頬を打って侮辱し
  一団となってわたしに向かって来る。
  神は悪を行う者にわたしを引き渡し
  神に逆らう者の手に任せられた。
  平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き
  首を押さえて打ち据え
  的として立て
  弓を射る者に包囲させられた。
  彼らは容赦なく、わたしのはらわたを射抜き
  胆汁は地に流れ出た。
  神は戦士のように挑みかかり
  わたしを打ち破り、なお打ち破る。
  わたしは粗布を肌に縫い付け
  わたしの角と共に塵の中に倒れ伏した。
  泣きはらした顔は赤く
  死の闇がまぶたのくまどりになった。
  わたしの手には不法もなく
  わたしの祈りは清かったのに。

  大地よ、わたしの地を覆うな
  わたしの叫びを閉じ込めるな。
  このような時にも、見よ
      天にはわたしのために証人があり
  高い天には
      わたしを弁護してくださる方がある。
  わたしのために執り成す方、わたしの友
  神を仰いでわたしの目は涙を流す。
  人とその友の間を裁くように
  神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。
  僅かな年月がたてば
  わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。

投稿者 Blue Wind : 09:38 PM | コメント (0) | トラックバック

マタイによる福音書 15. 1-20 昔の人の言い伝え

  そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言していたものだ。
  『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  人間の戒めを教えとして教え、
  むなしくわたしをあがめている。』
  それから、イエスは群集を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのはご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

投稿者 Blue Wind : 09:28 PM | コメント (0) | トラックバック

心から出るが悲しき調べかな静かに読めば静かに終わる

巻き舌の練習のため「とろろ芋」重ねて言うが懐かしき日々
「まりぃや」と舌巻き言うもホントかな音のさえずりものがなしくて
著作権心配しては聖書など二冊並べて検索をする
幾重にも書き直された聖書には新たな値段つけられており
引用と写教聖書比べてはメディアのかなし不可思議に思う
勉強に置かれた聖書戸棚には二十年間しづもれたまま
歌詠みに使う聖書の著作権気にして春はメールを書きし

マタイによる福音書 15. 1-20 昔の人の言い伝え

心から出るが悲しき調べかな静かに読めば静かに終わる
現実はこのようにして複雑で靄には遠く犬が吠えたる
神棚に供えるような聖書には人の言葉の添えられている
神の顔声さえ知らぬ名も知らぬ太古の靄はましろき闇よ
何となく人質事件思い出す素朴な人らと聖職者たち
英・米と戦いたいと言い出してあんたたちには出ていっとくれ
テレビ観て映っているよと喜んで民家でゲストもてなしている
憂鬱だ。このようにして現実は理解もむなしのほほんと闇
著作権気にするあたしもヘンだけど戦いたがるあんたもヘンだ

ヨブ記 16. 6-22

鬱々と鬱々としてひねもすはサウンドの中ダイナミクスへ
ディズニーのイラストのごとみことばは書き換えられて著作権あり

雲よ雲わたしのために白き雲風の想いを伝えておくれ

詩篇 119. 169-176

うだうだ言ってないで、献金して来ました。あーあ。

投稿者 Blue Wind : 03:29 PM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネによる福音書 5. 19-30 御子の権威

  そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あならたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へ移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
  わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

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ローマの信徒への手紙 15. 18-21

キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
  「彼のことを告げられていなかった人々が見、
  聞かなかった人々が悟るであろう」
と書いてあるとおりです。

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ルカによる福音書 14. 34-35 塩気のなくなった塩

  「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

投稿者 Blue Wind : 11:07 AM | コメント (0) | トラックバック

April 20, 2004

知恵の木の正体知ればりんごには深きねむりのわが眼を覚ます

桜花いつまで咲くといぶかしく思えば花は八重にも葉にも
永らえば桜の季節初夏までもつづくうららな明き盲目かな
洗濯機まわる音だけくぐもれる春の日差しは透き通るよう
神さまと言えば高まるストレスもあると言わんやテレビのむこう

ルカによる福音書 14. 34-35 塩気のなくなった塩

単調に流れる朝のカーラジオ「主イエス・キリスト」ああジーザスか
微かなる流麗すぎる日本語はいろんな神のあるかとも思う
モザイクをちりばめたれば形なすステンドガラス天空に置く
わさわさとわさわさとして麗らかにいやしをもとむなにをかもとむ
他人など知らん顔してすぎゆかば勝手にわれを友と語りき
神の愛どこか遠くの出来事とゴシップのごと話しかけられ
神さまと話したければ教会へ行ったらどうかとゆきすぎる風
めんどーだ。めんどーすぎて春の風、空っ風にてブランコ飛ばす。

ローマの信徒への手紙 15. 18-21

その昔色彩あれば形など自然に映る陰影の中
手の中でりんごのかたち確かめる色と香りと食みて学びし
知恵の木の正体知ればりんごには深きねむりのわが眼を覚ます

人類の罪の正体確かめる罪な学問吾を魅了す
生きること罪だと言われているような大波のうえ足跡つける
さらわれて儚くもまた砂のうえわれはいたよと波にたわむる

ヨハネによる福音書 5. 19-30 御子の権威

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April 19, 2004

機械人間

言葉ってほんとにめんどくさいと思ってしまう。いつまでも散らないなーって思っていたら、あれは八重桜らしい。普通の桜が散った後に咲くそうなので、それを考えると今年は花が早いのかも。
常磐高速に桜・土浦というインターがあるけど、そこで桜と言えば基本的につくば市のことを指す。いくつかの町や村が合併してつくば市になったので、古い地名がそのまま使われていることもある。桜通りと呼べば、そこの並木の花は桜だと思うでしょ?ところが、実際には八重桜らしい。「らしい」というのは、自分が花の名前に詳しくないからであり、もしかすると、桜村の桜というのも八重桜だったりして。郷土愛が足りないせいか、まるで知らない。
うちのアカシアが実はミモザと知ったのも最近だし、こんなに花の名前を知らないのにあたしは歌人らしい。でも、実際には現代短歌だと花の歌は少ない気がするけど、どうなんだろう。隣のマンションの垣根の名前も知らないし、歌を詠むだけなら花の名前を知らなくても詠める。

今日、不意に思い立って、ほかの歌人のサイトへ来訪した。あらまっ、というか、削除だらけ。あのタイプのBBSは案外使えそうだと違うことを思いながらも、あれはひどい。うちのサイトも困ったものだと思っていたけど、他人のサイトで眺めると、一層不愉快な気分になる。
とにかく、このところメルアドは勝手に使われるし、この前などは同じIPアドレスを使っているパソコンがあるという警告まで出た。ルータを使っているわけではないし、そんなことがあるはずもない。ところが、実際にそういうことが発生してしまうのが、悲しいけれどもネットであり、悪いことをする人はいつでもどこでも存在するし、サルの嫌がらせは続く。いい加減にしてほしい。
この前は、どこのサイトでも使っていない捨てアドにメールが届いた。「HPに来訪しました」とあるけど、どこのHPに来訪したのか不明。だって、使ってないもの、もうそのメルアドは。ということは、そのメルアドを知っているということ自体がヘンだし、それでいて健康優良児になった話とかね・・・一体、いつ、どこでそんな話を書いたのかまるで思い出せない。サトウハチローのプレートを記念品にもらったという話を書いた記憶があるけど、一体どこでだろう?つまりは、本人が書いたということすら忘れていることをいつまでも覚えている来訪者であり、その使い捨てメルアドを知っているということ自体が、おそらくはガイアックス系の来訪者なのかもしれない。それでも、サイトにメルアドは貼っていなかったから、かなり限定された人間が犯人だということになる。しかも、そのメールは初めて見るメルアドで、送信者の名前も記憶にない。それでいて、古くからの来訪者なのだろう。あまりにも気持ち悪い。
もー覚えていないような来訪者のほうが多いと思う。通りすがりに書いていった人も多いし、自分としてはカキコがあれば順番にレスを書いていった時代も長い。こちらが忘れてもあちらが覚えているということもあるだろうし、その逆もあるだろう。
匿名の怖さというか、気楽さというか、まだネットを始めて浅い頃には、チャッ友やメル友が50人以上いた時代があった。そうなると、メールだけでも一日にひどいと10通とかね・・・もう、誰に何を書いたかも覚えていない。どんな人がいたのかも覚えていない。そのうち、鬱の人に、バーチャル妄想でつきまとわれてひどい目に遭う。
BBSなどでやりとりしているうちに、フレンドリーな感覚が発生したとしても、よく考えたら全然知らない人だったり・・・当たり前か。
大抵は、そういう場合は、BBSやサイトを放置したり、メールだったらレスを書かないなど、知らん顔しているうちに消える。ところが、人間関係につながりがあると、なかなか消えない。それでいて、誰が何を言ったとか言わないとか、ますますややこしい。勝手に想像しちゃっている部分も大きいだろうし、誤解だとか、こころが傷ついたとか、よく考えてみたら、そこまで一生懸命になるような関係でもない。
これって、機械的人間関係への依存度の違いで、いかようにでも受け止め方が違うからどうにもならない。どうやっても一方通行なのだもの。

機械を通した関係以外になんらかの接点があると、世界が変わる。特に、リアルとかバーチャルとか深く考えているわけではなかったけれど、全然どこの誰だかわからない関係というのは、実に気持ち悪い。どこの誰だかわかっていてもお付き合いしたくない人だっているわけでしょ?それを考えると、そういう区分はあって然りだとは思うのだけど、機械の世界はしょせん機械だからね。それすらてきとーなのかもしれない。だから、個人情報がどうたらこうたらってなるんでしょうけど、単に名簿や顔を見たからといって知り合いになるわけでもないし、あれこれ考えると、メディアはメディアと割り切ってサイトを活用しているほうがまともなような気がしてしまう。
フレンドリーでありながらも慎重な姿勢というのは、ネットでは両立しないのかもしれない。こういうオン・オフ反応みたいな単調な世界のどこにこころなどあるのだろう。というわけで、一緒にされたら迷惑だなと思う人にはなるべく近寄らないほうが身のためだということをしみじみ悟る。

実のところ、こういう話ももう書きたくないのである。ジャンキーが喜ぶだけだから。嫌がらせをして喜んでいる類のサルはどこにでもいる。もうそういう「文学以前」の人たちとは関わり合いになりたくない。うざいだけ。とにかく、ネットはどーにもならん、そーいう意味では。失望中。

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コリントの信徒への手紙 14. 20-25

  兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。律法にこう書いてあります。
  「『異国の言葉を語る人々によって、
  異国の人々の唇で
  わたしはこの民を語るが、
  それでも彼らはわたしに耳を傾けないだろう』
と主は言われる。」このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人が信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人が、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことを明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

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哀歌 2. 17-22

  主は計画したことを実現し
  約束したことを果たされる方。
  昔、命じておかれたところのゆえに
      あなたを破壊し、容赦されなかった。
  敵はそのあなたを見て喜び
  あなたを苦しめる者らは角を上げる。

  おとめシオンの城壁よ
      主に向かって心から叫べ。
  昼も夜も、川のように涙を流せ。
  休むことなくその瞳から涙を流せ。

  立て、宵の初めに。
      夜を徹して嘆きの声をあげるために。
  主の御前に出て
      水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
  両手を上げて命乞いをせよ
      あなたの幼子らのために。
  彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。

  主よ、目を留めてよく見てください。
  これほど懲らしめられた者がありましょうか。
  女がその胎の実を
  育てた子を食い物にしているのです。
  祭司や預言者が
      主の聖所で殺されているのです。

  街では老人も子供も地に倒れ伏し
  おとめも若者も剣にかかって死にました。
  あなたは、ついに怒り
      殺し、屠って容赦されませんでした。

  祭りの日のように声をあげて脅かす者らを呼び
      わたしを包囲させられました。
  主が怒りを発したこの日に
      逃げのびた者も生き残った者もなく
  わたしが養い育てた子らは
      ことごとく敵に滅ぼされてしまいました。 

投稿者 Blue Wind : 10:23 PM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 7. 1-53 ステファノの説教

  大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産は何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。神はこう言われました。『神の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて、それぞれ割礼をほどこしたのです。
  この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしの先祖は食料を手に入れることができなくなりました。ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。
  神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。
  四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。
  四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、芝の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』人々が、『だれが、お前の指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は芝の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖の間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。
  『イスラエルの家よ、
  お前たちは荒れ野にいた四十年の間、
  わたしにいけにえと供え物を
      献げたことがあったか。
  お前たちは拝むために造った偶像、
  モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を
  担ぎ回ったのだ。
  だから、わたしはお前たちを
  バビロンのかなたへ移住させる。』
  わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
  『主は言われる。
  「天はわたしの王座、
  地はわたしの足台。
  お前たちは、わたしに
      どんな家を建ててくれると言うのか。
  わたしの憩う場所はどこにあるのか。
  これらはすべて、
      わたしの手が造ったものではないか。」』
  かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

投稿者 Blue Wind : 10:14 PM | コメント (0) | トラックバック

人生をほんのすこしとあきらめて砂踏みゆかば波はさらえり

初夏想う暑き春日にサフィニアの苗を植えたりツツジ咲く庭
長靴の厚き底さえ貫通す棘のある木の草にしづもる
こじんまりお行儀よくも咲いている蒲公英の花つつましやかに
アザレアの八分咲きなる春の日に木蔭に埋もる白き躑躅よ
父さんに苗を頼めば花の名を忘れて2回電話が響く
世の中は上には上がいるものといつも思えり平和な春日

くもりぞら雨の降らない暗い空風も吹かずに草横たわる
熱帯のうだる空気に似たる日は雨も降らない風のない朝
太陽の虚ろな日には白き空黒黒として灰色の町

さらさらと鳩の絵えがく吾子の手は鉛筆だけが握られている
やさしさに溢るる鳩のおかおにははらりはらりと桜の花降る
精密に幹を描いて春鳩はおさなき顔でたたずんでいる

使徒言行録 7. 1-53 ステファノの説教

床の上落書きされて泣いていた日々のなつかし吾子は育ちぬ
絵のことはもうわからぬと父母はまぶしげに吾子ながめ想いぬ
この母にどうして吾子の生まれたる筆折る母は色彩のみち
朴訥に折られた筆のつづくみちよもやまさかと不可思議に思う
親は親子は子にてすすむみち螺旋のようにうねる風みち
風のみちくねくねとするみちのない天翔ける虹おとづるように

蚊帳の外のんびりながむくまのむれ蜂蜜なめて日々をすごせり

哀歌 2. 17-22

哀しみに打ち暮れたとてひねもすはのたりのたりと過去に沈めり
絶望は哀しみとなりせつなさは憐れみとなるみこころのうち
うち沈み輝ける波荘厳にくりかえさるるわがこころかな
人生をほんのすこしとあきらめて砂踏みゆかば波はさらえり
絶望と希望にじめり黄金の夕陽のゆるる虚空の波よ

コリントの信徒への手紙 14. 20-25

ぼんやりとすぎゆく日々は軽やかにオトは吠えたりランチタイムと

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April 18, 2004

先々

暑い。なんでこんなに暑いのかと思うくらい暑い。まだ4月だというのに。
プランターにサフィニアの苗を植えた。むすめの自転車がパンクしたために、修理へ行ったダンナに苗を頼む。花の名前を忘れて2回も電話が掛かってきた。苗で見てもわからないと言われればそれまでかと思いながらも、植え終わる。
今年はタンポポが小さい。こじんまりと群れて咲いている。咲く時期も遅いような気がするんだけど、気のせいだろうか。アザレアがやけに大きくなり、ツツジと一緒に咲いている。去年は桜と水仙が一緒に咲き、今年は桜とアザレアとツツジが一緒に咲いていることになる。アザレアは花の時期が長いのでそんなには不思議でもないかもしれないけど、ツツジまで咲いているとは。
今年の夏は暑いかもしれない。
ヨーロッパは寒いので、今年の夏はどうなるんだろう。
単に、自分の都合を考えているんだったりして。

週末、むすめの友達は電車で塾へ通っている。月謝がタダだかららしい。さすが。うちのむすめの成績では推薦はもらえないなーなどと思いながら、かといって、今から勉強するだろうか?悩む。久しぶりにその手の会話をしながら、あっこちゃんくらい出来るとどこでも受かるだろう。それでいて、本人は親に反抗してうちのおちびにひっついてアートの世界へ行きたいらしい。もったいない。
うちのむすめの場合は、100点が当たり前の学校で、一度入院を含めて1ヶ月くらいお休みしたことがあり、まだ九九をやっている程度だからと甘くみていたら、その後、いきなり九九が出来ないということでまるで計算についていけないという恐ろしい世界を体験しているから、すでに諦めている。本当に出来ないのかと思ったらそんなことはなく、単に自信がないだけ。怖い。答えに自信がなくなってしまい、失敗を恐れるあまり計算自体が出来なくなってしまっている。算数の成績が1がついたことより、そういう追い込まれたむすめのほうがきつかった。なんせ、先生が電話で謝っている。最初その理由がよくのみこめなかった。学校自体は楽しいらしいけど、算数の計算となると急にまるきり空っぽになってしまったらしい。その後、3になり、喜んだのは束の間、また2に落ちた。今は、3段階評定なので、なんか、そのアップダウンがどの程度のものなのかよくわからないし、それでいて、100点が当たり前ということは当たり前ではないらしいことをあっこちゃんのお母さんから聞いた。あちらの小学校では学校のレベルが低いからそれはそれで心配だから、あれこれ考えているらしい。こちらはこちらで、学校のレベルが高いから、そういう恐ろしいことになるわけで、それでいて公立だからにっちもさっちもぼーっとしているだけ。
なんかね・・・ついでに言われたことには、そういう小学校だからアートに目覚めるらしい。100点が当たり前のところで躓くと、ほかの何かで自分を救わないとダメでしょ?そういうときにも絵や工作などに関してはどういうわけか絶対的な自信を持っているために、逆にそういう過酷な目に遭遇したがゆえに、本人にとってはすでに美術方面へ進むという強い意志につながったようで、こうなると親が悩む余地はない。
というわけで、親にとっても子どもにとっても、今年のヨーロッパは記念の年になるかもしれない。こちらももう少しマシな歌を詠えるように何かを拾って来たいと思っているし、むすめにとっても塾やら受験勉強よりものんびり美術館を回ったりショッピングしたり、そちらのほうがいいかも。単なる図工の時間もアートにもなれば単なる色塗りにもなるわけで、旅へ行けばよい歌が詠めるというわけではないけれども、学校なんか吹っ飛ばしてのらくら遊んで来たい。とはいうものの、それが素晴らしいことだとも思えないけど、長い人生、そういうことが大切なような気がする。なにも皆と同じことをやらなければならないということはないわけで、それでいて、美術方面に進学させるためにはどうしたらよいかなどと実際的なことも考えていたりする。ちなみに美術科の募集要項を眺めているだけで、親のほうは憂鬱になる。だって、絵が苦手だから。本当にこんなところにわが子が進学するのかまるで懐疑的だ。でも、美術のことならむすめが専門だから、というのでいいのよね。親は親だし、子は子。すでに、それぞれに専門が違うために口出しは出来ない。
それにしても、あっこちゃん。あの塾の学費がタダになるんだから、普通に進学しろよ、って言いたくなる。まあ、まだ小学生だし、先は長い。大抵はどこかでドロップアウト?して、普通の生活をするようになる。自分の場合は、親にやりたいことをさせてもらったから、今、こうやって好き勝手でありながら、実に平凡で常識的?な生活を送っていられるような気がすることもある。それを考えたら、むすめにも自由にさせてやりたい。
あれこれ考えたら、やることが多くてかなわん。聖書の勉強?も始めたばかりだし、歌も詠み始めたばかりだし、夏の計画、子どもの進学、まるで外は夏のような陽気だし、若い頃から続けていることではないだけに、これからまだ学ばなければならないことは山のよう。小学生かー。いいな、まだ先は長い。
ちなみに、母の今の課題は、翻訳しても美しい詩であるような歌を詠むこと。やだなー、まだ先は長い。

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April 17, 2004

コリントの信徒への手紙 2. 6-16 神の霊による啓示

  しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
  「目が見もせず、耳が聞きもせず、
  人の心に思い浮かびもしなかったことを、
  神は御自分を愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、”霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
  「だれが主の思いを知り、
  主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

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使徒言行録 19. 21-40 エフェソでの騒動

  このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
  そこころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなど神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
  これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。そして、街中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群集の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群集はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群集の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群集に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群集は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群集をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解をする理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。

投稿者 Blue Wind : 05:24 PM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネによる福音書 6. 1-15 五千人に食べ物を与える

  その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群集が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群集が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られた預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

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ヨハネによる福音書 6. 60-71 永遠の命の言葉

  ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
  このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペテロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのことろへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

投稿者 Blue Wind : 04:52 PM | コメント (0) | トラックバック

退廃に明け暮れたれば夕闇の青き窓辺の美しきかな

退廃に明け暮れたれば夕闇の青き窓辺の美しきかな
点滅のくりかえされし森のむこうランプは飾る針葉樹かな
ひといきをふたいきにもして夕暮れは青青として光だにゆれ
夕闇の静かなときはいろどりを青く深めり木の葉ふるふる

ヨハネによる福音書 6. 60-71 永遠の命の言葉

みことばをこゆびいっぽんひっかけてかみくだいてはしんしんとよむ

権威とはゆるがぬ松の梢にも似たりゆるがせと言葉すくなに
みことばは海の滴の一滴あらば海さえ涙の味する
深遠にとこしえに海輝けば天上のごと深々とする
顕微鏡のぞくがごとくみことばをのぞいてみれば深遠の淵
深遠の頂の上崖からは永遠という命・命に

ヨハネの福音書 6. 1-15 五千人に食べ物を与える

神の愛オンパレードに取り出せばななしの花にとんぼに虹よ
自己中と言われてむなし幸福はぶどうの季節一粒の実に
巨視的になにもしないと言われても顕微鏡にてながむる聖書

使徒言行録 19. 21-40 エフェソでの騒動

あれも美談これも美談とかつぎあげありがたがって利益をまもる
美談なる偶像はまた偶像のともしびの中毒を浴びゆく
医者責めて骨髄バンク否定する憐れなるかな憐れみもうせ
拉致事件解決すれば家族には嫌がらせする世論なるかな
美しき夕暮れはまた青闇に暮るるもライト道路を走る
青闇のまぶしきライト対向車走るに邪魔と互いをおもう
青闇は立ち止まりては美しき窓辺に光る森はたたずみ
ひねもすを歌でも詠んで吾子は絵を公園さんぽに飛び跳ねる犬

コリントの信徒への手紙 2. 6-16 神の霊による啓示

投稿者 Blue Wind : 12:29 PM | コメント (0) | トラックバック

おかしみ

かなしみをふっと読んだらおかしみがふっと浮かんだ春うららな日

トラックバックできるかな・・・
枡野さんのところのイラストを眺めていたら浮かんだうたです。

あれ?
もしかすると、送信先を間違えた?
すみません。

投稿者 Blue Wind : 09:18 AM | コメント (0) | トラックバック

April 16, 2004

サムエル記上 21. 11-16

  ダビデは立ってその日のうちにサウルから逃れ、ガトの王アキシュのもとに来た。アキシュの家臣は言った。「この男はほかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」
  ダビデはこの言葉が心にかかり、ガトの王アキシュを大変恐れた。そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。アキシュは家臣に言った。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ。わたしのもとに気の狂った者が不足しているとでもいうのか。わたしの前で狂態を見せようとして連れて来たのか。この男をわたしの家に入れようというのか。」

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列王記上 16. 23-28 イスラエルの王オムリ

  ユダの王アサの治世第三十一年に、オムリがイスラエルの王となり、十二年間王位にあった。彼は六年間ティルツァで国を治めた後、シェメルからサマリアの山を銀二キカルで買い取り、その山に町を築いた。彼はその築いた町の名を、山の所有者であったシェメルの名にちなんでサマリアと名付けた。
  オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前のだれよりも悪い事を行った。彼は、ネバトの子ヤロブアムのすべての道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返して、空しい偶像によってイスラエルの神、主の怒りを招いた。
  オムリの行った他の事績、彼のあげた功績は、『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。オムリは先祖と共に眠りにつき、サマリアに葬られた。その子アハブがオムリに代わって王となった。

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ヨブ記 5. 1-7

  呼んでみよ
      あなたに答える者がいるかおうか。
  聖なるものをおいて、誰に頼ろうというのか。

  愚かな者は怒って自ら滅び
  無知な者はねたんで死に至る。
  愚かな者が根を張るのを見て
      わたしは直ちにその家を呪った。
  「その子らは安全な境遇から遠ざけられ
  助ける者もなく町の門で打ち砕かれるがよい。
  彼らの収穫は、飢えた人が食い尽くし
  その富は、渇いた人が飲み尽くし
  その財産は、やせ衰えた人が奪うがよい。」

  塵からは、災いは出てこない。
  土からは、苦しみは生じない。
  それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。
  火花が必ず上に向かって飛ぶように。

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マタイによる福音書 13. 1-8 「種を蒔く人」のたとえ

  その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群集がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群集は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

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退廃につつまれた朝菜の花は畑のように群れて咲きたる

欲望の渦巻く世には限りなく平和に近い暴力のある
美談など捨ててしまえと限りなく厭世的にマッドを眺む
春風はねぎぼうずの並んだる小さな畑農家の庭よ
うららかに農家の庭に並んだる菜の花の色畑にも似て

マタイによる福音書 13. 1-8 「種を蒔く人」のたとえ

宗教にやーめたやめたとなる日には厭世的な退廃のあり
鬱々と美談の後は美酒のごと酔いに目覚めるここちするかな
鬱々とつぶされゆくもひねもすはまたひねもすとなり春は来ぬ
太陽は虚ろにもなる輝きはまばゆき海を沈めるがごとく
ひんやりと熱帯の砂よこたわるまばゆき海は波高き湾

退廃だ。なお連れ去られ拉致されて迷惑だよとあっさりと言う。
おおげさに騒ぎ立てれば世の中はすぐに捨て去り風は消え去る
カラス鳴く春の庭にはあたたかき陽はさすもがな陽はうつりゆく
美談ならほかの誰かとやってくれわれは歌詠む歌人なるかな
こうやってねこ歌人からトラ歌人朴訥としてどくをまきたる

ヨブ記 5. 1-7

退廃よ、静かな空も儚くば真実もまた雲に隠れし

いのちじゃなくて、魂を救ってくれよ・・・

退廃のめくるめくよな世の中はいのちいのちと騒ぎ立てれば
美談にはいのちの重みうるわしく失われたる魂かえして
鬱々と何を怒っているのかと語るもどかし魂かえして
父さんは今日も今日とて働きぬ金に困らぬわが暮らしかな
魂よ、いずこへつづく癒しなき世にて暮らすはふかなさけなり
美談には飽き飽きなのよ退廃はぽんと放って人のない世に

列王記上 16. 23-28 イスラエルの王オムリ

この退廃的な気分・・・

幾世にも繰り返されし瞬間を描きてやまぬへぼ歌人なり
こうやって幾世にわたるあやまちは真実をまた闇に隠しぬ
美酒に酔い酔いから醒めて退廃はしづかに町をこわしてゆけり
退廃につつまれた朝菜の花は畑のように群れて咲きたる

サムエル記上 21. 11-16

癒し求められたくないから。

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April 15, 2004

アモス書 5. 1-3 悲しみの歌

  イスラエルの家よ、この言葉を聞け。
  わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を。
  「おとめイスラエルは倒れて
  再び起き上がらず
  地に捨てられて
  助け起こす者はいない。」
  まことに、主なる神はこう言われる。
  「イスラエルの家では
  千人の兵を出した町に、生き残るのは百人
  百人の兵を出した町に、生き残るのは十人。」

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コヘレトの言葉 8. 14-17, 9. 1-3

  この地上には空しいことが起こる。
  善人でありながら
      悪人の業の報いを受ける者があり
  悪人でありながら
      善人の業の報いを受ける者がある。
  これまた空しいと、わたしは言う。

  それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
  太陽の下、人間にとって
      飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
  それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
  日々の労苦に添えられたものなのだ。
  わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを言おうとも、彼も悟ってはいない。


  わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち
  善人、賢人、そして彼らの働きは
      神の手の中にある。
  愛も、憎しみも、人間は知らない。
  人間の前にあるすべてのことは何事も同じで
  同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも
  清い人にも不浄な人にも
  いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。
  良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり
  誓いを立てる人に起こることが
  誓いを恐れる人にも起こる。
  太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。

投稿者 Blue Wind : 03:45 PM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 8. 26-40 フィリポとエチオピアの高官

  さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐに出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、”霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者のイザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。
  「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。
  毛を刈る者の前で黙している子羊のように、口を開かない。
  卑しめられて、その裁きも行われなかった。
  だれが、その子孫について語れるだろう。
  彼の命は地上から取り去られるからだ。」
  宦官は、フィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何が妨げがあるでしょうか。」そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。

投稿者 Blue Wind : 03:34 PM | コメント (0) | トラックバック

議論などつくしてむなし言の葉は別れゆく人のためにぞ置かれ

民間人ちからなければ釈放にすすめる春は戦国時代
国会のくさい芝居をながめつつ立場かわればあんたもおなじ
首の下鎖骨にのこる圧迫はダンという音夢から覚める
さあ詠え軽やかにまた寿ぎをゆく夢の音軽やかにまた
断頭台悲しき夢はダンという音鳴るだけの自由よ、空へ
野蛮さは文学以前の状態と村松恒平中国を見る
うきうきと拷問ながむわらうひと何をか語らん外側にいる
うちごころ語りて読むを文学とつたうる人の憐れみ一つ
かのひとも今生きるひと人間は儚くも爪伸びて切るらむ

あのやうにおもえますとかみえるとか、やめてほしいとひとりごちても
目覚めればわれはかよわく自由人みずからの手でわが意をつたう
ともしびは掻き消されても火種にはこまらぬ大地炎わきたつ
理由なき桜ブルーの正体は新学期でも春でもなくて
太古へとつづきぬ意識うつ空は謎めいている世界の果ては
混沌とすすめる道は儚くもあの人もまたこの人もゆく

使徒言行録 8. 26-40 フィリポとエチオピアの高官

桜には何の罪さえなかりせば美しくも咲き儚くも散る
復活祭異国の民の出来事と意味さえなくも桜は散りぬ
桜見し鬱々と思う春の日は太古の空の復活を思う
散る花のいさぎよさなど憐れめばあはれあはれと泣きて祝えり
ひつじではなぜにわからぬ牧場は異国の民の緑地あわれみ
オージーのひつじの群れのひつじショー刈られたひつじ並んでうれし

コヘレトの言葉 8. 14-17

かたくなに仏蘭西人になってみてすくなすくなとおののこまちへ
「みちみち」といえば散歩のバリニーズすくないことば意をつたえあう
ことばなどなくてつたうることのはをむなしきもまたさがしたるわれ

やるやる詐欺には負ける。
復讐法か、むりやりの人間の盾か、よーわからん。わかりたくもなし。

わるいことしないようにと言の葉のわかれゆきたる理解もむなし

コヘレトの言葉 9. 1-3

きらきらと水滴光る針葉樹吾子と眺める新芽のびゆく
議論などつくしてむなし言の葉は別れゆく人のためにぞ置かれ
愛あれば指さすむこう輝ける葉をみて気づくうららな光

アモス書 5. 1-3 悲しみの歌

投稿者 Blue Wind : 09:24 AM | コメント (0) | トラックバック

自由圏

創世記、アダムの犯した罪を贖ったのがイエス・キリストだとすると、あたまがクラクラしてきてしまう。なんせ、人の寿命が900年くらいあったんだから、それを考えるとわが国の有史時代というものがなんと浅いのかとクラクラしてきてしまう。和歌の歴史が万葉の時代からだとして、それを考えるだけでもどこか古臭い世界だと思っていたのに、それすらも舞い散る言の葉の世界に過ぎないようなこの重々しくも軽やかな気分。
ジーザスから2000年、まだ新しい千年紀は始まったばかりであり、旧約聖書は、世界の7割の人たちの聖典。イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒。つまりは、同じ神さまを信仰しているわけであり、新約聖書の福音。イスラム社会を観察していると、逆にどうしてジーザスなのかがわかってくる。ブッシュを含めて、イラクの戦火のニュースなどをアラビア語のCNNの写真で眺めると、単なる野蛮な世界であることがわかる。
あっさり語るけど、単に、野蛮なのである。
人間同士が殺し合い、憎しみに血を持って贖いを求めてやまない。血には血を。そこに見え隠れするのは単なる権力構造化された社会であり、同じ神さまを信仰する者同士が戦っている。それぞれの派閥があり、指導者の下に暴力が繰り返される。政教分離が確立されているだけ、日本のほうが遥かにマシなような気がする。
アングラ。
そういう世界を聖書を読みながら学ぶ。そのほうがニュースの解説を眺めるよりもわかりやすい。
イラク戦争のときのアメリカ軍の映像。牧師さんが従軍しており、祈りの時間。はあ?
十字軍じゃないんだから、やめてほしい。
歴史的に、そういうことはとっくの昔に卒業しているはずだと思っていたけど、あれではまるで十字軍の遠征だ。たしかに旧約聖書は癒しのない世界だと思う。そして伝えられた福音の書かれた聖書。新しい部分を無視して旧約の世界へ。テキサスで馬の乗り方や銃の撃ち方を習うより、世界平和を考えて神学でも学んでほしいとすら思う。
印刷技術が進み、聖書が出版される。そして、誰でも読むことができる。一部の人たちだけが読む時代とは違い、自分で読み、自分で考えることができる。それはそれで素晴らしいことだと思っていたんだけど、結局は、活字というものは書き手の意図を離れて一人歩きしてしまうものであり、読み手次第でどうにでも解釈されてしまう。
あたしなどはもう戦争を知らない世代だもの。そうやって平和ボケしているうちに、世の中は再びきな臭くなっていく。やっと築いた平和な世の中が再び戦争の惨禍に巻き込まれようとしている。
戦争などどこか遠い世界の出来事だと思っていた。ところが世界の暴君により、それが身近にやってきてしまう。石油が供給されなければ、今の生活はたちまち消えてしまうだろう。インターネットもできない。風力発電、原子力発電、太陽光発電、あれにこれに。おそらくは、新しいエネルギー源の確保に向けて技術が進む。それでも紛争は続く。
そんなものをいくらつくろうとも、戦争が発生すれば破壊のためのターゲットとなる。
アメリカではすでに都合の悪いニュースは流れていないという報道があった。かく言う日本でも、イラクの人質事件のニュースを見ようとテレビをつけたら、代わりに大リーグの映像が映っていた。大リーグで活躍する日本人選手の華々しい姿。日米友好の架け橋。
戦争が終わり、日本を破壊したのはアメリカであり、再建したのもアメリカなのかもしれない。だから日本がイラクを復興しろと言われても、それはどこか何かが狂っているとしか思えない。あまりにも身勝手ではないだろうか?アメリカ軍が撤退してからなら話はわかるけど、アメリカ軍のイラク占領を助けるために自衛隊に働けというのだろうか?
日本政府は明確にするべきである。
自衛隊の派遣は、アメリカの意図によるものではなく、日本人の意志によるものであると。
戦後の混乱の中で、民族主義により、イラクが統合に向けて動き出している。そして、その中から新しい政府がつくられるべきであり、アメリカ指導の下に占領が遂行されるのを助けるために派兵したのではないことを。
これって、すごく重要なことなのだと思う。
とりあえず、ブッシュ政権は間もなく崩壊するだろうし、結局はそこなんだろうな。新しいアメリカ政府に同調する形で穏便に行動できればそれにこしたことはない。あー政治だ。

そんなことより、あたしのような普通の主婦がこうやって自分の意見を簡単に茶の間?から発信できることがもっと値打ちがあるような気がする。長い道のりでしょ?婦人参政権やら女子教育やら騒いでいたのはついこの前であり、自分の意見を言うために親父といちいち喧嘩する必要もなく一人でパチパチ打てる。快感。
ネット歌人やっていても、紙に発表しろと言われる。なんでなんでなんでだ?
つまりは、ネットだと匿名で好き勝手なことを言えるし、それを削除することも簡単だ。そんな無責任なことではいかんというのが根底なのだろう。
が、しかし・・・・
あっさり言うけど、なんであたしがそこまで何かに対して責任を持たないといかんのだろう?
考えてみてくれ、あたしなんて大した歌人ではないのである。単なるにわか歌人であり、そもそもが短歌など嫌いだ。たまたまサイトのネタの一つとして気楽に詠んでいただけであり、来月からようやく結社誌のほうにも歌が載るらしい。
世の中があまりにも大袈裟すぎる。ちっぽけにやっていれば、自分のサイトにアップした歌など発表扱いにはならない。ところが、誰かがネットはメディアであると騒ぎ出す。そうすると一斉にサイトの歌は既発表だと攻撃されてしまう。あほらしくてやってらんない。
だったら、結社などやめる?
今のところ、やめてくれとは言われない。
それよりも、もっと若い世代の人たちが歌壇に集まってくれないとどうにもならないだろう。なんせ年寄り社会だから、後継者がいなくなる。それでも困らないような気がするんだけど、そこのところがよく見えない。
イスラム型の長老社会だからな・・・結社は。
それよりも、インターネットを通して、自由圏のあたしは自由に歌を詠む。自分でサイトをつくれて、文字の読み書きができる程度の教育は受けている。自分にとってはすでに当たり前のことなんだけど、もしかすると当たり前のことではないのかもしれないし、そこのところは千年紀が始まったばかりなのでよくわからない。

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April 14, 2004

アモス書 3. 3-8 神が語られる

  打ち合わせもしないのに
  二人の者が共に行くだろうか。
  獲物もないのに
  獅子が森の中でほえるだろうか。
  獲物を捕らえもせずに
  若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。
  餌が仕掛けられてもいないのに
  鳥が地上に降りて来るだろうか。
  獲物もかからないのに
  罠が地面から跳ね上がるだろうか。
  町で角笛が吹き鳴らされたなら
  人々はおののかないだろうか。
  町に災いが起こったなら
  それは主がなされたことではないか。
  まことに、主なる神はその定められたことを
  僕なる預言者に示さずには
  何事もなされない。
  獅子がほえる。
  誰が恐れずにいられよう。
  主なる神が語られる
  誰が預言せずにいられようか。

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ローマの信徒への手紙 5. 12-21 アダムとキリスト

  このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪とは認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前にもって表す者だったのです。
  しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人の人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

投稿者 Blue Wind : 11:07 AM | コメント (0) | トラックバック

創世記太古の夢につつまれし真白き靄のかすみたる中

Joy to the world キャロルスがクルクル響くご機嫌な朝
うきうきと聖夜のようなイースター桜ブルーは真っ白な梨
世界とはレセプターにて在るものと幻の吾なき世を思う
ジーザスは死者の中からよみがえり死というものを幻にする
天空をおもいえがけば地に這いてオゾンのつつむ地球に住めり
大地には大きな虹がたちゆかむ庭には梨の白い花咲く

ローマの信徒への手紙 5. 12-21 アダムとキリスト

創世記太古の夢につつまれし真白き靄のかすみたる中
混沌と宇宙の色はベージュだと闇より白き色相環上
闇さえも幻なのかわれらとは原初の中の靄は広がる
手をのばしすすめる夢の彼方にはカオスの靄のましろき闇よ
混沌と混沌とした原初には靄だに広き世界のありし
うたとめる真白き靄のベクトルはいずこへとあを誘うものぞ

アモス書 3. 3-8 神が語られる

明日考えよう。明日があるなら。

ジーザスよ、闇からわれをすくいだし、ついでに靄も共に歩まん

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April 13, 2004

ルカによる福音書 3. 21-22 イエス、洗礼を受ける

  民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

投稿者 Blue Wind : 12:48 PM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信者への手紙 3. 1-23 神のために力を合わせて働く

  兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が、「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
  わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にはそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
  だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵ある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
  「神は、知恵のある者たちを
      その悪賢さによって捕らえられる」
と書いてあり、また、
  「主は知っておられる、
  知恵のある者たちの論議がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

投稿者 Blue Wind : 12:40 PM | コメント (0) | トラックバック

今まさにうつむく花の日を浴びて静かに春をすぎゆかば、道

くもり空花でも愛でるそよ風は平和へむけて木の葉揺らせり
なにゆえに幸せなのかと問われれば虹と花とのあたうる愛よ
いにしえに語るることの難ければ千年紀への儚くも愛
悲しみはとこしえなるか吹く風に希望の光まばゆくもあり

コリントの信者への手紙 3. 1-23 神のために力を合わせて働く

鬱々と夕暮るるまま風は吹く春には甘い香りを乗せて
ぼんやりと暮れゆく日々は無為に泣く日々にもなりや吾は生きゆく
人生を遠まわりして与わるる愛に気づくも麗しの日々
今まさにうつむく花の日を浴びて静かに春をすぎゆかば、道
なにをかとするもわからぬ過ぎゆかばひとひらのうた彼方へつづく
人波のとおりすぎるも画面には平和をもとむ人等の映る
願わくばみこころの風イラクにも吹きてやまぬは光の舞よ

ルカによる福音書 3. 21-22 イエス、洗礼を受ける

投稿者 Blue Wind : 12:03 PM | コメント (0) | トラックバック

コロサイの信徒への手紙 1. 1-8

  挨拶
  神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

  神への感謝
  わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、”霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。

投稿者 Blue Wind : 12:49 AM | コメント (0) | トラックバック

時なるや無知なる者を未知とする知りてや愛をつたうるがごとく

梨の木の輝ける夜無知という幸せを知るジーザスの愛

コロサイの信徒への手紙 1. 1-2 挨拶

時なるや無知なる者を未知とする知りてや愛をつたうるがごとく

ちっぽけな楽園ひとつくださいと神に祈りし初めて咲く梨

コロサイの信徒への手紙 1. 3-8 神への感謝

投稿者 Blue Wind : 12:33 AM | コメント (0) | トラックバック

April 12, 2004

白い梨の木

7日のお昼に娘が学校から戻ってきて、つけたテレビに「笑っていいとも」が映っていて、何となくまだやっているのかと思って以来、気が付けばまるきりテレビもニュースも見ていなかったという・・・
サイトにこひつじさんの足跡を見つけて、来訪したら、「あららら」という・・・
世の中がそんなに大変なことになっていることをまる3日間くらい知らなかったことになる。

その間、何をしていたかというと、ごく普通の生活をしていた。スーパーの買い物帰りに隣のマンションのライトを浴びて、真っ白い梨の木を眺めた。あまりにも美しくて、まだ若い木で、数年前に苗木を植えたばかり。今年初めて花をつけた。
神父さんのサイトへ行ったら、ちょうどイースターだということを思い出す。そして、梨の歌を詠んでいた。
このところそういうささやかなるあたくしの楽しみにも嫌がらせが発生したりして、サイトのネタにも困らない代わりに、これでもかこれでもかと歌を詠む。あれにこれにとうんざりしつつも歌を詠む。ぱわーあっぷ。
とてもじゃないけど、テレビなど見ている余裕はない。
というわけで、ネットでもこのところニュースサイトを見るわけでもないし、自分のサイトを更新するだけでも精一杯だし、そこに加藤先生から歌稿の催促をいただき、そうなると、サイトとは違って、手書きの歌をさらに清書して、封筒に入れなければならないという作業をしていた。オトくんはオトくんで手間がかかるし、食事の間でもせっせとボーロやパンをねだる。先に餌を出しておいても、みんなが食べていると自分もとなるらしい。太るからあげないほうがいいと思うのだけど、朝食の量が減ってもそうやって夕飯時にかまってほしいらしい。
普通は、そういう生活の背景にテレビが映っていたりするのだろうけど、わが家の場合、テレビもあちら側で映っていたとしても、BGMが常に流れている。誰もテレビをまじめに観る人がいないために、それでクレームが発生することもめったになく、ここのところエヴァネッセンスやDIDIを聴きながら、ぼーっとしていた気がする。
食事が終われば、オトくんをかまっているうちに一日が終わる。故意にそういう生活をしようとしていたわけではない。たまたまなんだろうな・・・ちょうど桜ブルーの季節でもあり、この季節あたしは毎年鬱々する。桜が散るとあっという間に快復。そこが不思議なんだけど、一種の条件反射のようなもので、桜の季節になると鬱々してしまう。
鬱解消のために、今年はぱわーあっぷ。
聖書を読んで昼寝する。
それがどうしてぱわーあっぷなのかわからないけれども、旧約聖書の癒しのない世界を浮遊しているうちに、どこか戦争すら神の世界の出来事のような気がしてきてしまうし、鬱に対抗するにはなかなか効果的かもしれないと思いながらも、そうやって桜の季節を過ごす。

そしてまた、この不幸な出来事を知らずに過ごす。

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サムエル記上 16. 14-23 ダビデ、サウルに仕える

  主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分をよくするでしょう。」サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって、気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

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コロサイの信徒への手紙 1. 9-23 御子キリストによる創造と和解

  こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました。
  あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

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ルカによる福音書 17. 1-10 赦し、信仰、奉仕

  イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
  使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
  あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐに来て食事の席に着きなさい』という者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕をしてくれ。お前はその後で食事をしないさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

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ニュースなど見ないで過ごす週末は梨の花だにうるわしく咲く

しかつめに歌など詠んでひねもすはしかつめらしくイラクの捕虜か
最初から身代金がほしいのと言ってしまえよ誘拐ならば
紛争で失われゆく生命はひねもすという彼らは何を
政権を睨んで時の過ぎゆけば親米政府倒さんとして
つまらないニュース見るより梨の花白く輝くイースター寿ぐ

ルカによる福音書 17. 1-10 赦し、信仰、奉仕

ニュース見て雑誌立ち読み写真などながめて送る写真のメール
毒あらばあらゆるメディアおくりだす大衆という鼓舞隊の中
幻想のひとりあるきは巨大にもつつましやかにもなりてやまぬは
さらさらとお絵かきペンで描くうたやさしき調べ醸し出すかな
栄光を描き出してもひねもすはどくどくしくものみこまれゆく

コロサイの信徒への手紙 1. 9-23 御子キリストによる創造と和解

つまずきをつまずきと知るうたごころやわらかきにもいばらにもなる

ソロモンの栄光の中やすらぎはダビデの大地神はゆるさぬ
パラダイス一緒にいると言ったのにどうして大地血を流したる
やすらぎにあふるる梨の若き葉よ陽を浴び新芽やみに輝き
ニュースなど見ないで過ごす週末は梨の花だにうるわしく咲く
ワイドショーあふるる日々は家族ネタ家族家族と家族は泣きぬ
悲しみは大地にありき神殿はやすらぎの中しづもれている
千年紀永久の時には時間などこの世にあるか時は流るる
母はまだ戦っている病室でお誕生日おめでとうです。
あの親に振り回されてわたくしはおろかなみちを栄光とよぶ
生まれつき戦う母とひねもすをぼーっとすごす娘のあたし
ひねもすを優雅に詠うネットかなレトロな歌を宇宙に上げる

サムエル記上 16. 14-23 ダビデ、サウルに仕える

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April 11, 2004

ルカによる福音書 19. 11-27 「ムナ」のたとえ

  人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『ご主人様、あなたがの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『ご主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものまで取り立て、撒かなかったものを刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付でそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『ご主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

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ルカによる福音書 18. 15-17 子供を祝福する

  イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

投稿者 Blue Wind : 08:09 AM | コメント (0) | トラックバック

細枝のまぼろしのごと花の咲く真白き梨よ闇を照らせり

梨の木よ白き花咲く闇の中浮かび照らさる葉さえ白きに
若枝の小さな花につつまれし優雅な舞を春風のなか
照らされる白きライトに白き花今年は梨に花の咲きたる
愛よ今若き枝には白白と舞い立つ花よ梨の生きたる
細枝のまぼろしのごと花の咲く真白き梨よ闇を照らせり

若い梨でほとんどが幹なんですけど、白い葉と白い花に包まれています。美しい。今年初めて花が咲きました。

ルカによる福音書 18. 15-17 子供を祝福する

神戸より届きぬ夏のワンピース夏まで待てず吾子は夏色
和紙の箱飴をつつんで並びたる小箱の夢をふうわりとして
オトくんはソファの上で横になる並んで眠る夫がおかし
若木には初花の咲くイースター闇にも白く輝きを増す
ささやかなよろこびのなか真実は愛のメッセを優雅につたふ

ルカによる福音書 19. 11-27 「ムナ」のたとえ

希望へとあゆむ息吹のとうとけれ赤土もまた葉にしずみたる

投稿者 Blue Wind : 08:02 AM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 8. 9-25

  ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
  エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、”霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前で正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
  このようにペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。

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ジャンキーの壮絶なさまいのちさえかろき囀りふたたび鳴かめ

ジャンキーの壮絶なさまいのちさえかろき囀りふたたび鳴かめ
いくつもの人格のなか家族さえおきざりにするバーチャルのゆめ
追わるるを逃げてかなしき残骸に蓋を閉めたり旅立つ風よ
ジーザスよ愛は永久だと今もなおわれらはもとむ天空の地へ
惨禍へとつづきたる道今もなお荒れたる野には亡霊の住む

使徒言行録 8. 9-25

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April 10, 2004

ヨハネによる福音書 15. 1-17 イエスはまことのぶどうの木

  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいるもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
  これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

投稿者 Blue Wind : 04:19 PM | コメント (0) | トラックバック

夜明け前

おそらくは結社などへ行けば、自分はまだ若い方の部類に分類され、作歌歴も浅いことからして、ボロカスに言われる可能性が高い。つまりは、軽いノリで詠った歌を結社などに持っていけば、そこの趣旨から離れれば離れるほどに叩かれる。それをあえて実行するほどに自分は歌に対してのこだわりはない。

村松恒平さんのメルマガ、「村松恒平が語る文章の書き方 プロ編集者による 文章上達<秘伝>スクール」を読む。 第135号「直感的思考法」、第134号「語彙を豊富にしたい」には、若い歌人の投稿がある。作歌歴4年、歌会でボロカスに言われ、1年くらい作歌を離れていたらしい。先生の気に入る歌を詠めば評価が上がるし、それでいて自分の詠みたい歌を詠いたい。それでいて閉鎖された社会における甘美と苦しさ。
あーこれが結社なんだなーって思った。好きな歌人を挙げろと村松さんに言われて挙げている。あーきつい。プロの編集者でも知らんなら、あたしが知らなくても当たり前だろう。自分の入会している結社の主宰の名前くらいは知っているけど。
以下、秘伝135号より若い歌人の質問に対する村松恒平さんのコメントをそのまま引用。

____________________

コメント◇村松

せっかく歌人の名前を挙げてもらったけれども、不勉強にして知りません。
ごめんなさい。機会があれば、チェックしてみましょう。

しかし。
んー、なんか不完全燃焼な感じだなあ。
ここからは、ひょっとしたら、あなたにとっては、いらぬお節介かもしれません
が、もう少し書きたくなりました。

この件に関して、何か伏せられたままのカードが1,2枚あると思うのですよ。

「歌人は、歌と歌に対する姿勢は違うのです」

この言葉、意味がわからない。あるいは脱字とかではないのとか思うけれども、
なんかエネルギーが淀んでいる。
つまり、短歌の結社の特殊性とか、狭い人間関係や、閉鎖的な美意識を言いたい
(あるいは言いたくない)のだと思うのね。

「そして、主宰者の思惑に沿った歌を詠えば、ランクはあがりますが、私の
こころは満たされません。私の感性で詠った歌であれば、ランクは下がります」

これは、ありがち、というか、あって当たり前のことだけれども、こちらのほう
がよほどまずい、というか、考えなければいけないことのように思えるのですね。
こういう二重基準を容認してしまうことに比べたら、語彙力がどうの、という
ことはあまり問題にならないことのように思えます。

つまり、狭い人間関係や、閉鎖的な美意識によって、自分の感性が評価されない
としたら、普通、そこからは逃げだすよね。
「短歌に自分の表現意思を賭けてい」るのだったら、なおさらそうしないと。

ところが辞められない。辞めると、たぶん、歌の読者も歌の評価をできる人間も
周囲にいなくなってしまう。
その途端にあなたが作り上げた歌の世界が崩壊してしまう。
しかし、そういうことであるなら、結社を変わるなんてことも許されないんで
しょうね。

僕は、結社とは距離をおいて、少数でもいいから自分の読者を持ったほうがいい、
と思いますね。メルマガやサイトをやってもいいし、葉書で個人誌を作ってとき
どき知人に送ってもいい。あるいは、気の合う同好の士と、気楽なグループを
作ってもいい。
自分で自分の作品を評価できるようになれば、先生はいらない。
仲間や読者がいればいいのです。
極端にいえば、自分の手帳に書き留めるだけだって、歌はできます。

ひょっとしたら、そういう自由な空気よりも、閉鎖的で濃密な空気のほうが
もはやあなたには甘美なのなもしれません。そういうことであれば、もはや、
僕の口を出す領域ではありません。

___________________(以上)


結社ナルシズムというのはある気がする。狭い世界で、共通の美意識に向かって酔いしれる。で、その狭い中で、あれこれこういう歌がよいとか、師匠を乗り越えろとか、あれこれ。一歩外へ出てしまうとどうでもよいことのような気がするし、もしかすると結社に帰属せず自由にネットをメディアとして活動している歌人たちと結社型の歌人たちとの違いをあえて挙げろと言われれば、そこだけのような。つまり、好みの問題なような気がするけど、どうなんだろう。
自分のようにもともと短歌が嫌いで歌を詠み始めると、どうして短歌が嫌いかというと狭い美意識が苦手なだけなような気がする。誰だって他人の感性を押し付けられれば窒息してしまう。自己表現の一つの手段として歌を詠んでいる人たちなら尚更だろう。それでいて閉鎖された世界は甘美だ。何故かというと、苦しみが見えやすいから。つまりは、背景が固定されているために、そこから発生する苦悩はその中にいる人たちなら共通の悩みであり、苦労や悩みを共有することにより、こころのつながりが保てる。だから、そういう意味で、苦悩の中へ飛び込んでしまえば仲間であり、そういう苦悩を共有しないで自由に活動する人たちが異物に感じられたとしても仕方がないのである。

が、しかし、結社に入っても一生懸命に徒弟制の中でがんばる人たちもいれば、気が向いたときに歌を送るだけの人たちもいるし、つまりは一生懸命であればあるほど苦悩は大きいわけで、ふわふわとのらくらと当たり障りなく存在することも可能だ。
悩む。
何を悩んでいるかというと、たとえば1つの結社に送る歌はせいぜい10首までなわけ。だから、半分はボツ歌だとしても15くらいの結社に入っても大丈夫なくらいな程度には毎日詠んでいる。雑誌投稿などを考慮しても、10くらいは大丈夫かも。この歌はこっちにはダメだけど、あっちなら大丈夫だろうと思いながらてきとーに詠んでいる。なんせ気分屋だから、その日の気分で詠む。写実だったら塔へ送ろうとか、概念歌やニューウェーブだったら未来とかね・・・特に何を喧嘩する必要性もないのであります。
どこにも送れないような歌は自分のサイトに置いておくとか?サイトなら短歌でも詩でも駄文でもなんでもありいだし、誰にも何も言われない。
それでいて、一番の問題は、上述の若い歌人のように、そういう苦悩の中へどうして飛び込まないとダメなのかわからないということなのかも。つまりは、自らの意志で戦地へ行くようなものであり、どうもその辺が自分の美意識からは外れてしまう。
ネットだけでも大変。ちょっと結社へ行くと言っただけで大騒ぎするような輩もいる。そこまでの帰属意識や忠誠心はあいにく持ち合わせていない。それよりも精神系の来訪者をどうしようかと思ってしまう。

つまりは、どうせなら自分を救いたい。短歌が苦しいなら詩を詠む、組織が苦しいなら神さまとだけお話する、仲間がうざいならパッと飛び出す。つまりは言いたいことが言えないなら何のために生きているのかわからないし、詠いたい歌を詠えないのなら何のために詠うのかわからない。つまりは、精神の自由というのはそれくらいきつい代物であり、どちらが一層の苦悩があるだろう?他人の顔色を見ながら他人を気にする苦悩と、自分に忠実であろうとすることの苦悩とどちらがきついか?

村松氏に言わせると、星を目指せという・・・つまりは、ああ詠め、こう詠めと言ってくれる存在はすでに星ではないらしい。何故ならいつも近くにいてアドバイスしてくれるから。小学生が松井秀喜に憧れる。彼は星だ。バッティング・コーチなどしてくれないだろう。あれこれ身近にいてアドバイスしてくれるコーチは星ではない。
つまりは、目指すなら小野小町でなければならない。星は手が届かないから存在価値があるらしい。師匠は星ではない。先生だ。弟子は師匠に勝るものではないと聖書にも書いてある。だから、師匠を星と思って崇めてはいけないのである。
例外は、ジーザスの弟子になることだろう。どうやっても乗り越えることはできない。でも、みことばを行う者は友であり、愛を行う者は友なのだそう。などと書いても、自分はジーザスの弟子ではない。聖人になろうと思って生きているわけではない。
ただ、ハートというのかな・・・「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの」という表現が気に入っている。それくらいやんわりした雰囲気のほうが好きだ。あっけらかんとそういうやんわりした雰囲気で気楽に詠っていたはずが、このところやけに暗い。わかっているけど暗い。苦悩は嫌いだ。自分を救いたい。

ヨハネの福音書 15. 1-17 イエスはまことのぶどうの木

投稿者 Blue Wind : 03:15 PM | コメント (0) | トラックバック

なんだこれ?

わたくしの契約プロバイダはso-netでもないし、cesia3@aol.comなどというメルアドに心当たりはない。当然、わたしが出したメールではないメールがわたしのメルアドから出されている? そして、戻って来たらしい。

どーなってるの?

嫌がらせならやめてね。


★犯人の情報
04/10 12:28
13,680

198.81.26.15
cache-ntc-aa10.proxy.aol.com
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; AOL 7.0; Windows NT 5.0
Windows 2000
Internet Explorer 5.x
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=Tanka
800 x 600
32 ビットカラー

so-net経由でaolにサインオンし、yahooでTANKAを検索、そしてうちのサイトへ来訪しメールをいたずら。それにしても手の込んだことしてるでしょ?狂ってるんだろう。春だし・・・


____________________

The original message was received at Fri 9 Apr 2004 23:35:48 -0400 (EDT)
from p29a062.tkyoac00.ap.so-net.ne.jp [218.41.160.98]


*** ATTENTION ***

Your e-mail is being returned to you because there was a problem with its
delivery. The address which was undeliverable is listed in the section
labeled: ----- The following addresses had permanent fatal errors -----.

The reason your mail is being returned to you is listed in the section
labeled: ----- Transcript of Session Follows -----.

The line beginning with <<< describes the specific reason your e-mail could
not be delivered. The next line contains a second error message which is a
general translation for other e-mail servers.

Please direct further questions regarding this message to your e-mail
administrator.

--AOL Postmaster

----- The following addresses had permanent fatal errors -----


----- Transcript of session follows -----
... while talking to air-yi01.mail.aol.com.:
>>> RCPT To:
<<< 550 MAILBOX NOT FOUND
550 ... User unknown

--------------------------------------------------------------------------------


Received: from aol.com (p29a062.tkyoac00.ap.so-net.ne.jp [218.41.160.98]) by rly-yi05.mx.aol.com (v98.5) with ESMTP id MAILRELAYINYI51-7cd40776b8f1c0; Fri 09 Apr 2004 23:35:45 -0500
From: bluewind@zh.oops.jp
To: cesia3@aol.com
Subject: Re: Here
Date: Sat 10 Apr 2004 12:35:34 +0900
MIME-Version: 1.0
Content-Type: multipart/mixed;
boundary=----=_NextPart_000_0005_00001EA5.00002935
X-Priority: 3
X-MSMail-Priority: Normal
X-AOL-IP: 218.41.160.98
X-AOL-SCOLL-SCORE: 0:XXX:XX
X-AOL-SCOLL-URL_COUNT: 0
Message-ID: <200404092335.7cd40776b8f1c0@rly-yi05.mx.aol.com>

投稿者 Blue Wind : 01:24 PM | コメント (2) | トラックバック

マタイによる福音書 10. 16-25 迫害を予告する

  「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに人の子は来る。
  弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

投稿者 Blue Wind : 03:03 AM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 27. 13-38 暴風に襲われる

  ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。
  人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
  十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろそうとしたので、パウロは百人隊長と兵士に、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。そこで、兵士たちは綱を切って、小舟を流れるにまかせた。
  夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。

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連絡帳ラメ入りペンでサインする青は青とて光りもせぬ字

誕生日の珈琲カップのプレゼント使わぬままに吾子に叱られ
春の日もアイス珈琲へやのなか乾いた空気くるくるまわる
人の渦一人の部屋で感じてはあな不思議なり活字の世界
片道を2.5キロの道のりを吾子と二人で歩いた夏よ
通学路えんえんつづく子ら歩く蟻の並んで学校へゆく
えんえんと蟻の季節にまだ早い桜は咲きぬ風のある朝
ひねもすをうんざりしつつ歌を詠む歌詠むことに疲れた日にも
世の中はおおげさすぎて空回り一人で歌を詠ませてくれよ
この歌があの歌がなどわたしなど歌のことなど愚挙の空風
連絡帳ラメ入りペンでサインする青は青とて光りもせぬ字

使徒言行録 27. 13-38 暴風に襲われる

現代詩黒田三郎遠慮がち万葉人にしづしづ語る
大正は過ぎてゆかむも差し出せり佐藤春夫の現代詩釈
憂鬱だ。だから短歌は嫌いだと言っても虚し歌人のあたし。
枯れ枝を麻で括ったタペストリー図工の時間アートに変わる
木版画うつむく花を彫り上げる吾子の絵みてなぐさめられし

マタイによる福音書 10. 16-25 迫害を予告する

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April 09, 2004

ヨブ記 36. 22-33

  まことに神は力に秀でている。
  神のような教師があるだろうか。
  誰が神の道を見張り
  「あなたのすることは悪い」と言えようか。
  世の人は神の御業に賛美の歌をうたう。
  あなたも心して、ほめたたえよ。
  人は皆、御業を仰ぎ
  はるかかなたから望み見ている。
  まことに神は偉大、神を知ることはできず
  その齢を数えることもできない。
  神は水滴を御もとに集め
  霧のような雨を降らす。
  雲は雨となって滴り
  多くの人の上に降り注ぐ。
  どのように雨雲が広がり
  神の仮庵が雷鳴をとどろかせるかを
    悟りうる者があろうか。
  神はその上に光を放ち
  海の根を覆われる。
  それによって諸国の民を治め
  豊かに食べ物を与えられる。
  神は御手に稲妻の光をまとい
  的を定め、それに指令し
  御自分の思いを表される。
  悪に対する激しい怒りを。

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時空戦争

世論とは勝手である。あたしは、テロリズムに対してはスペイン人的発想なのかもしれない。テロを撲滅するために戦争をするアメリカの姿勢には反対である。かといって、テロを肯定しているわけではない。

こーね、おそらくはなりすましの犯人は時空の人なわけ。しかも、敵方のハンドル名を使って、結社を攻撃している。よーわからん。いや、結社の人ぶっているのかもしれないし、それこそ自分のサイトには神父さんのカキコを貼りつけながら聖書や神を冒涜している。こうなるとまったく理解できない。でも、あっさり語れば、もともとが理解不可能な人なのである。だから、理解しようなどとつまらないことを考えない限り平和。たぶん、自分でもよくわかっていないんじゃないかな・・・だから、あえて深く追求しようとしても無駄。あくまでも自分は悪いとは思えない類の人たちの一人なのだから、そういう意味では知らん顔していたほうがよろしいのである。逆に、「あなたは素晴らしい人ですねー」と言えばそういう人にもなるし、「おまえは悪魔だ」と突き放せば悪魔にもなる。わかりやすい。

テロリズムの言い分は、どうなんだろう。たくさんあるんだろうけど、一番悔しいのは、”仲間”が解散してしまったことではないだろうか。そこでボイコットの主導者があたしと思われても甚だ迷惑なのである。もともとほとんどの人たちとはお付き合いはないわけだし、そこが消えても何も困らない。逆に、時空が解散したおかげでフットワークが軽くなった。ありがたい。かといって、目の敵にしているわけでもない。つまりは、どーでもいいことにすぎないんだけど、そこがうまく見えないのだろう。
あらし騒動が発生して、うちのサイトはとにかく酷い目にあった。毎日のテロみたいなものだから、カキコがあるだけで大騒ぎになる。それこそサーバやプロバイダ、警察や弁護士にまで証拠を提出してくれと言われる。一応は、心理学の人なので、「そんなことをするより逃げたほうが早いですよ」と語る。「それより、時空で引き受けてくれるって言っているんだから放っておきましょう」というスタンス。で、自分はBBSを閉鎖し、うちのサイトにはカキコしないように、あらしが来たらサイトを放置する等メールで友達に知らせる。だって関わり合いになったら大変だから。実際、自分でもどうにもならないから、次回来たら友達が引き受けてくれることになっていた。プロだからね、そりゃ何とかしてくれるだろう。まあ、そのおかげで、うちのサイトは静かになり、その代わり時空のほうが大変なことになっていた。
で、時空短歌ボイコット運動?の遠因が、いや、言い分が、あたしを追い出したからということらしい。じいさんあらしを庇ってりんさんを追い出すのは虐めだというのがその言い分らしい。たしかに傍から見ればそうやって見られても立場的に仕方がないだろう。ほかにもそういう被害者の人たちはたくさんいたし、じいさんあらしを追い出さないかぎり、時空はどうにもならないところにまで追い込まれた?でも、保護しているために攻撃。それをかわすために、別人格とか?大袈裟で大袈裟でどうにもならん。
大多数の人たちの本音は、そういう紛争に巻き込まれたくないだけなのである。だから、ボイコットというより関わり合いになりたくないというだけのことなのだろう。逆に、時空を擁護したら、アメリカ軍から?攻撃されてしまった。それがあったから、今回のなりすましにつながったのかも。でも、実際には一部の過激な人たちが今でもいるというだけのことで、対立しているわけでもないらしい。そこがまた理解不可能なところなんだけど、感情の問題なんだろうな。第一、あたしが時空を目の敵にしているなど思われてしまったし、かなり迷惑なのである。

つまりは、じいさんあらしがうっかりうちのサイトなどを荒らすから、イラクのクウェート侵攻みたいなもので、国際世論を敵に回す。が、しかし、湾岸戦争はともかくイラク戦争はやりすぎだ。結局、イラクは崩壊してしまった。フセインが消えても少しも平和になったという気がしない。もはや、アメリカ主導型の政府はつくれないだろう。たぶん。あらし活動そのものは沈静化しているし、表層的には平和。でも、アメリカに対するテロは以前として続いているらしい。だから、アメリカが怒る。つまりはわかりやすく語れば、局所的に今でもあらしは続いているらしいし、紛争自体は解決していないらしい。
つまりは、うちのサイトへのなりすましはスペインに対するテロみたいなもので、イラク戦争に対する抗議らしい。イラク戦争には反対なんだけど、テロを放置しておいてもよいのか?ということになるでしょ??かといって、いちいちテロリストを相手に戦争していても始まらない。
いずれにせよ、イラクが崩壊したように時空短歌も崩壊し、短歌部門は解散。もしかすると、時空そのものも解散するかもしれない。着々とがん細胞が暴れているようなものだ。ああなると、本当に誰かが死ぬまで終わらないのかも。年寄りの世界というのは壮絶だ。

このように考察してみると、とてもじゃないけど短歌とは何の関係もない話なのである。どちらかといえば、精神系のウェブのほうの出来事。メールは実名でお願いします。

ヨブ記 36. 22-33

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歴代誌上 5. 1-41

  ルベン族の子孫
  イスラエルの長男ルベンの子孫について。ルベンは長男であったが、父の寝床を汚したので、長子の権利を同じイスラエルの子ヨセフの子孫に譲らねばならなかった。そのため彼は長男として登録されてはいない。彼の兄弟の中で最も勢力があったのはユダで、指導者もその子孫から出たが、長子の権利を得たのはヨセフである。
  イスラエルの長男ルベンの子は、ハノク、パル、ヘツロン、カルミ。
  ヨエルの子孫は、息子がシェマヤ、孫がゴグ、更にシムイ、ミカ、レアヤ、バアル、ベエラと続く。このベエラはアッシリアの王ティグラト・ピレセルによって捕囚として連れ去られた。彼はルベン族の首長であった。彼の兄弟は、その氏族の系図の登録によると、頭のエイエル、それにゼカルヤ、ベラである。ベラは、父がアザズ、祖父がシェマ、更にヨエルとさかのぼる。ベラはアロエルに住んだが、ネボとバアル・メオンにまで、また東はユーフラテス川から荒れ野の入り口に及ぶ地にも住んだ。彼らの家畜がギレアドの地で増えたからである。また彼らはサウルの時代にハガル人と戦い、その手で彼らを倒し、ギレアドの東の全域に天幕を張って住んだ。

  ガドの子孫
  ガドの子孫は、ルベンの子孫に向かい合ってバシャンの地に住んで、サルカにまで及んだ。その頭ヨエル、次のシャファム、更にヤナイとシャファトがバシャンにいた。その家系に属する兄弟はミカエル、メシュラム、シェバ、ヨライ、ヤカン、ジア、エベルの七人である。これらはアビハイルの子孫である。このアビハイルの父はフリ、祖父はヤロア、更にギレアド、ミカエル、エシシャイ、ヤフド、ブズとさかのぼる。グニの孫でアブディエルの子であるアヒ、彼がその家系の長であった。彼らはギレアド、バシャン、その周辺の村落、更にシャロンの牧草地全域の隅々にまで住んでいた。彼らは皆、ユダの王ヨタムとイスラエルの王ヤロブアムの時代に登録された。

  ルベンとガドの子孫およびマナセの半部族は、盾と剣を取る者、弓を引く者、戦いに熟練した兵士から成る四万四千七百六十人の戦闘員を持っていた。彼らはハガル人、エトル、ナフィシュ、ノダブの諸族と戦った。彼らは戦いに際して神に助けを求め、その信頼のゆえに祈りは聞き入れられて敵に打ち勝つ助けを得、ハガル人とそのすべての援軍が彼らの手に渡された。奪った家畜は、らくだ五万頭、羊二十五万匹、ろば二千頭、人は十万人に及び、多くの敵に傷を負わせ、倒した。彼らが神によって戦ったからである。彼らは捕囚として連れ去られるまで、ハガル人に代わってその地に住んだ。

  ヨルダン川東のマナセの子孫
  マナセの半部族に属する者は、バシャンからバアル・ヘルモン、セニル、ヘルモン山に至る地に住んだ。その数は多かった。その家系の長は次のとおりである。エフェル、イシュイ、エリエル、アズリエル、イルメヤ、ホダウヤ、ヤフディエル。彼らは名高い勇士で、その家系の長であった。しかし、彼らは先祖の神に背き、神が昔滅ぼされたその地の民の神々を慕って姦淫した。イスラエルの神は、アッシリアの王プル、すなわちティグラト・ピレセルの心を動かされたので、彼はルベンの部族、ガドの部族、マナセの半部族を捕囚として連れ去り、ヘラ、ハボル、ハラ、ゴザン川に彼らを引いて行った。彼らは今日もなおそこにいる。

  レビの子孫----大祭司の系譜
  レビの子はゲルション、ケハト、メラリ。ケハトの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジェル。アムラムの子はアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子は、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。
  エルアザルにはピネハスが生まれ、ピネハスにはアビシュアが生まれ、アビシュアにはブキが生まれ、ブキにはウジが生まれ、ウジにはゼラフヤが生まれ、ゼラフヤにはメラヨトが生まれ、メラヨトにはアマルヤが生まれ、アマルヤにはアヒトブが生まれ、アヒトブにはツァドクが生まれ、ツァドクにはアヒマアツが生まれ、アヒマアツにはアザルヤが生まれ、アザルヤにはヨハナンが生まれ、ヨハナンにはアザルヤが生まれた。ソロモンがエルサレムに建てた神殿で祭司として仕えたのは、このアザルヤである。アザルヤにはアマルヤが生まれ、アマルヤにはアヒトブが生まれ、アヒトブにはツァドクが生まれ、ツァドクにはシャルムが生まれ、シャルムにはヒルキヤが生まれ、ヒルキヤにはアザルヤが生まれ、アザルヤにはセラヤが生まれ、セラヤにはヨツァダクが生まれた。主がネブカドネツァルの手によってユダとエルサレムの人々を捕囚として連れ去らせたとき、このヨツァダクも引いて行かれた。

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イザヤ書 30. 15-17

  まことに、イスラエルの聖なる方
  わが主なる神は、こう言われた。
  「お前たちは、立ち帰って
  静かにしているならば救われる。
  安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
  しかし、お前たちはそれを望まなかった。
  お前たちは言った。
  「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。
  それゆえ、お前たちは逃げなければならない。
  また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに
  あなたたちを追う者は速いであろう。
  一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ、
  五人の威嚇によって、お前たちは逃れる。
  残る者があっても、山頂の旗竿のように
  丘の上の旗のようになる。

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エゼキエル書 44. 10-12

  レビ人は、イスラエルが迷ったとき、わたしから離れて偶像に従い迷ったので、その罪を負わなければならない。彼らはわたしの聖所で奉仕するが、神殿のそれぞれの門に詰めて神殿の雑務を行う。彼らは、民のために焼き尽くす献げ物の動物を屠り、民の前で神に仕える。彼らは民の偶像礼拝を助け、イスラエルの家のつまずきとし、罪を犯せたからである。

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ローマの信徒への手紙 1. 16-17 福音の力

  わたしは福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

投稿者 Blue Wind : 12:59 AM | コメント (0) | トラックバック

とことことてんとう虫の歩みだすあまりに小さなおさなきいのち

とことことてんとう虫の歩みだすあまりに小さなおさなきいのち
もう初夏の準備をしてる春の陽はちいさないのち大きな葉陰

ローマの信徒への手紙 1. 16-17 福音の力

復興の支援のつづくイラクには闇にまつわる炎舞い立つ
すっきりとしない気持ちの落とし穴埋めても寄するシャベルの音よ
飛び立てば新天地などひらけゆく残され人の叫びはつづく
ボイコットしてもされても苛立ちは対立しせし人を残せり
故郷など持たない吾は旅人よ風は遥かに希望へ向かう

エゼキエル書 44. 10-12

ネオ・アジア輝く大地空のあお地に百合の咲く四季麗しく
モロゾフの箱の裏にも隠れたるてんとう虫も育ち急ぎぬ
ちっぽけな庭には庭の生態系季節はめぐり今はまだ春
アメリカの忘れた頃にはアフガンに人は戻りぬ彼らの国よ
文明に慣れてしまったわがみには生きることさえ難きに思う
万葉の時代はかすれ紅葉葉は山間の里息づくままに
時計など眺めてみてもおとづれる月日は過ぎゆ地球は回る
諦めよう。ロケットながむ暮らしにはいやなら空が吾を待ちたる
行く空か祈る空かと幻は夢見る人を超現実へ

イザヤ書 30. 15-17

安らかに信頼してる人々の超現実は太古を超える
浮遊へと起き上がりたる魂は御園の楽の永久につづきぬ
今が夢仮の身たれば神の国鏡の中で何を見つめぬ
砕け散る星のさだめを流星にたとえてみても家には落ちぬ
いずこから来たかも知らぬ旅人はいずこへ帰る右手・左手
シンメトリー調和の園とみつめればわれらは二重鏡は映る

歴代誌上 5. 1-41

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April 08, 2004

ダニエル書 5. 13-16

  そこで、ダニエルが王の前に召し出された。王は彼に言った。「父王がユダから捕らえ帰ったユダヤ人の捕囚の一人、ダニエルというのはお前か。聞くところによると、お前は神々の霊を宿していて、すばらしい才能と特別な知恵を持っているそうだ。賢者や祈祷師を連れて来させてこの文字を読ませ、解釈させようとしたのだが、彼らにはそれができなかった。お前はいろいろと解釈をしたり難問を解いたりする力を持つと聞いた。もしこの文字を読み、その意味を説明してくれたなら、お前に紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうち第三の位を与えよう。」

投稿者 Blue Wind : 12:59 AM | コメント (0)

詩篇 33. 12-15

  いかに幸いなことか
  主を神とする国
  主が嗣業として選ばれた民は。
  主は天から見渡し
  人の子らをひとりひとり御覧になり
  御座を置かれたところから
    地に住むすべての人に目を留められる。
  人の心をすべて造られた主は
  彼らの業をことごとく見分けられる。

投稿者 Blue Wind : 12:54 AM | コメント (0)

マルコによる福音書 9. 38-41 逆らわない者は味方

  ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

投稿者 Blue Wind : 12:51 AM | コメント (0)

淡々と電子文字などながめては響ける声を事例とながむ

怨念のからみつきたる枯れ尾花春の楽にはまだ遠かりき
こころには剣の刺さるマリア像わが痛みとて憐れとぞ思う
真実を鏡のようにうつしだす陽炎のごと剣は舞へり

マルコによる福音書 9. 38-41 逆らわない者は味方

この春もまた嫌がらせ明日もまたつづきぬ春は不気味な尾花
あなたには感謝の気持ちはありません。表裏の中の多重人格
悪霊とあっさり語る聖書かな今は病と呼ぶがせつなき
知識などなくば腹立ち消えるやも病の人らつどえるむなし
リハビリにネットをつかう人たちの希望もむなし鏡は映す
囲いして一人でうたを詠むことぞ救われるかな見もしなければ

斉藤茂吉も変わり者だったし・・・諦めるか。

詩篇 33. 12-15

詠みうたをわけるがごとく人心淡々としてうたに詠みわけ
数値などながむるように歌の中響ける声を歌論にしたる
淡々と電子文字などながめては響ける声を事例とながむ

ダニエル書 5. 13-16

身延山から山梨へ
うら富士の浮かび上がるぞ湖水には紫色の闇のおとづる

投稿者 Blue Wind : 12:38 AM | コメント (0)

April 07, 2004

ペトロの手紙 4. 1-11 神の恵みの善い管理者

  キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶ったものなのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人の好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
  万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力が、世々限りなく神にありますように、アーメン。

投稿者 Blue Wind : 01:20 AM | コメント (0)

April 06, 2004

オトくんの連続くしゃみ春の風邪フロントガラス凍った朝は

寸胴なえんぴつ置いてセクシーなボールペンなど取り出してみる
カップめん誰が食べてもつくっても同じ値段で平等な味
オトくんの連続くしゃみ春の風邪フロントガラス凍った朝は
オトくんのランチタイムはまるボーロおすわりして待つ毛布のうえに
新学期はじまる日にはおひるどき笑っていいともまだやっている
ありふれたテレビをながむめずらしき日課もあると不意に思えり

ほどこしも権力ならば香油などハラハラ撒こう水道の水
パラノイア相手に金をばらまかばパチンコの音鳴り響かせて
憐れみもむなしかなしや貧困は名誉と欲とマルクスの墓
せんせいと言われるほどのバカでなしおどけてみればカラス鳴きたる
小ベンツとマーチの違いとメルマガは貧富の差など笑ってみても
さむい春陽はうららかで風もなく凍えるようなまぼろしの温
比較級ならべてうれし偽りはまだましなのか無知もうるわし
深々と言の葉もなくうるわしくただ美しくむらやまのみち

ペトロの手紙 4. 1-11 神の恵みの善い管理者

投稿者 Blue Wind : 12:27 PM | コメント (0)

そのうちなんとかなるだろう・・・たぶん

喜びも悲しみも、うれしいという気持ちも誰かを好きになったりする気持ちも、実は純粋に精神と呼んでよいものか迷う。つまりは、情動反応なども含めて、思考や感情は脳に制御されている。そうやって考えると、実は精神などというものは存在しないのではないかとすら思ってしまう。暑さも寒さも、痛みも傷も肉体を通して知覚する。この知覚というものも実は脳に制御されており、外界というものはこのように肉体を通して存在しているらしい。
宗教を通して人を考えると、人は死んでも魂は永遠らしい。知性や人格は残る。高次精神機能というか、品性や知性といった意味での人格は前頭葉の働きとも言われている。それが実証されたのかどうかは知らない。それでいて、魂というものを否定する気にはなれない。それは、自分が一瞬だけ思考と感情が停止したという経験を持つからであり、その瞬間というのは、あまりにも静かな愛に包まれていた。思考と感情が停止したとは言ったけれども、その静かな愛がどこから来たものか、どのように自分がそれを感知し、感じていたのかは覚えていない。それでいて、再び元の自分に戻った瞬間というものは存在し、思考と感情の中に情報として何かがインプットされていたからだろう。少なくても、記憶の中には残っているわけで、それが自分の生涯において生まれて初めてでもあり、かつ今日までも経験することのない感覚だからなおさらなのかもしれない。
脳の働きから人間の精神を眺めることは面白い。その瞬間、こころって一体何なのかと思ってしまう。詩を詠んでいる人たちは、魂の深いところからの言葉。少なくても魂の存在は感じているわけだ。必ずしも魂とは精神ではなく、それでいてどこか肉体ではないという意味で精神と混濁して考える人たちが多い気がする。でも、魂は魂だ。肉の塊としての生命もあるだろう。それでいて、肉の塊ではない生命もある。つまりは、それが魂であり、それがどうして言の葉の世界に浮かぶのか不思議だ。つまりは、一つのスキルなのかもしれないし、目で見ながら書く、つまりは脳に制御されているだけなのかもしれない。
そんなこんなを考えながら、自分はすっかり歌人である。
歌人の世界は元々は世俗的な世界を嫌う。つまりは、生業とは切り離された世界。どうしてそのような伝統があり、どうしてそういう世界なのかは、おそらくは仏教の影響なのかもしれないし、雅な遊びだったからかもしれないし、俳句となるとまるきり禅の世界だから、そういう影響もあるのだろう。俳句と比較するとまだ短歌は情動的な世界であり、俗っぽさもあるだろう。それでいて、芸術ということにこだわりたい人たちがたくさんいる。それでいて、短歌や俳句の静寂さを好まない風潮もある。
ネットから歌を始めたと語ると、軽いという印象があるのだろう。たしかに、軽い。そういう静かな精神世界を求めて歌を詠み始めたわけではない。文学として歌を詠んでいるわけでもない。それでいて、自分は歌人だという自覚がある。そして、何度も繰り返してきた、歌人は一人の世界であると。
ほんの少しだけ日常から切り離されたところに歌がある。それは日常の中で詠われ、そして、日常からは離れている。つまりは、視点だ。物理的には日常の中に歌はあり、それでいて、精神的にはどこか日常から隔絶している。つまりは、日常を少し離れた精神で見つめなおす。
毎日、歌を詠む。そして、聖書を開く。それもまた日課だ。
家族が寝て、一人になった静かな時間に歌を詠む。あるいは、今のように静かに好きなサウンドを聴きながら駄文を書く。これは、日課である。そして、こういう静かな時間が自分には必要であり、このように静かな時間を過ごすことにより、人生が豊かになる。わさわさと人付き合いに翻弄されて虚無な時間を過ごすことも減り、その代わりのんびりとした時間が過ぎる。どんなにたくさんの友達に囲まれていても、そこに神さまがいなければ虚無だけが残る。そして孤独だ。それでいて、神さまと過ごす時間は物理的には一人であっても孤独ではない。こういう満ち足りた気分というものは、うまく伝えることができない。
貪欲でこころの満たされない人たちといると疲れる。そういう人たちとお付き合いしていると、不毛な気分に陥ってしまう。物質に恵まれていようといまいと満たされることがない。常に、渇望しているからだ。
それでもまだ裕福な人たちはマシだ。自分のこころが満たされないのは生活に追われているからではないことくらいは知っているから。そして、一生懸命に何かを探そうとしているだけ。趣味を見つけたり、勉強したり、ペットを飼ったり忙しい。お金に困っていてなおかつこころも満たされてなかったら、他人を妬む。貧乏でもこころが満たされている人たちはそういうことはしない。逆に、癒しを与えてくれる。そして、何よりの癒しは、そういうつまらないことを考えたりしなくなるということだろう。家にいて、安らぎのある家族と過ごす。そして、一人で歌を詠む。
考えてみてくれ・・・・歌を詠むだけなら金は要らない。一人で家にいるだけなら毎日ジーンズで充分だ。余暇にネットをしたり、パズルをしたり。習い事をしても退屈しのぎに買い物してもつい無駄な出費が出る。それに比較すると、自分は何もしていない。
一番つまらないのは、もったいないと言われることだ。こうやってヒマな時間を賃金に変えろと言われても困る。稼いでも税金。外出すれば金がかかる。付き合いが増えれば再び出費。あまりにも悪循環だ。付き合いたくない人とも付き合わなければならないかもしれない。そのようにつまらない時間を費やすために仕事をするのはまさしくつまらない。どうしても生活に困るというのであれば別だけど。慌しく人生を過ごすのも人生なら、ぼーっとしたまま過ごすのも人生だ。カシューナッツをおつまみにして、アイスコーヒーを飲んでいるほうがマシ。
特に何を望んでいるわけではないけれど、子どもの頃から何となくぼーっとしたまま過ごしてきたのだから、出来ればこのままぼーっとしたまま死んでいきたい。とりあえず、与謝野晶子の2万首が目標だから、それを達成するまではなんとかがんばりたいけど。それと、3度くらい読むと意味のわかるような歌を詠みたい。小説でも映画でも、子どもの頃に読むのと大人になってから読むのとでは感じ方が違う。歌が文学というのであれば、そういう歌を詠みたい。詠い捨てのような歌が多い。自分にもその意味が何となくわかってきた。どうして、未発表とか既発表などにこだわるのか。つまりは、2度目には最初の感動が消えてしまうから。それではあまりにも文学と語るにはお粗末だ。同じマンガや小説を2回読んでもつまらないことにも似ている。でも、名作がどうして名作なのかといえば、何度見ても感動があるからなのかも。
悩む。

投稿者 Blue Wind : 10:49 AM | コメント (0)

ルカによる福音書 17. 20-37 神の国が来る

  ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるものだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。一人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

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ヨハネによる福音書 7. 10-24 仮庵祭でのイエス

  しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるように上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群集の間では、イエスのことがいろいろささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
  祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群集が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。----もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが---- だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

投稿者 Blue Wind : 01:12 AM | コメント (0)

たましいにかえりてゆかば天の星かえりてゆかば天の輝き

肉という塊のなか感情も発露となりし脳の働き
情動も視覚とやらも外界もすべては肉の発露と変わる
みこころの天にもあるや魂は精神という塊のなか
精神の定義が違う塊を魂という世界の果ては
思考すら感情とても止まりてはすでにこころは魂のなか
制御する脳のしくみを調べても天の制御はいづこにあるか
脳の中捜してみても見つからぬあな魂という精神は
メカニズム携え生きる肉体は滅んでもまた地球にのこる

ヨハネによる福音書 7. 10-24 仮庵祭でのイエス

”こころ”とは傷つくものじゃないんです。肉体だから傷つきもする。
傷ついたこころを捨てて天地に打ちたててみる新たなこころ
静けさは傷つくものじゃないんです。静寂ゆえにみこころのある。
たましいにかえりてゆかば天の星かえりてゆかば天の輝き

ルカによる福音書 17. 20-37 神の国が来る

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April 05, 2004

混濁しない自分へ

サルがヒトになったのなら、ライオンが猫になり、狼が犬になったとしても不思議はない。恐竜は絶滅したのではなく、今の生物の原型として姿を変えただけなのかもしれない。世の中は、教科書に書かれていることが必ずしも真実ばかりではないということが多々あるわけで、いつなにがあって、常識が覆されるかわからない。単に、今の時代に生きて、今の時代の常識を与えられているにすぎないからだ。今の飛行機の原型が出来たのはヒットラーの時代だというし、戦争中に開発され、平和利用されている科学技術も多い。薬も毒だし、毒をもって毒を制すというか、結核の薬を飲むことにより影は消えるけど、副作用で肝機能障害を起こしたりする。エジプトの建造物も推定されるよりもずっと古いものだという説があるくらいだし、そうなると、記録の残っていない時代に実際にどういうことが行われ、どういう世界だったのかなんてことは単なるミステリーだ。過去が謎なら未来も謎だし、それでいて今の時代は今の時代として記録が残されて行くのだろう。

昨日、英語の俳句のサイトで、短歌と俳句の違いについて読んだ。そういう中学生か高校生の教科書に書いてあるような知識ってすでに大昔に習ったのかもしれないけどとっくの昔に忘れてしまっている。俳句より短歌のほうが季語などを入れなくてもかまわないから気楽といえば気楽くらいの感覚しかない。古今和歌集などを読めば、とりあえず和歌の発祥くらいは書かれているし、その真偽のほどは今となっては確かめようもないけれど、俳句が禅を基本としていることを考えると、短歌よりもずっと新しい。禅というだけで、こころがペパーミントのようになってしまう。そういう世界を求めて、俳句を詠むのかもしれないということを何となく思い出した。
万葉集の英訳といい、英語の俳句のサイトといい、一生懸命に知らない人たちにその良さを伝えようとしている。日本語のサイトだと、すでに大多数の人たちが少なくても何らかの形で学習しているものだという先入観があるし、そういう意味ではすでに終わっている。短歌や俳句というとババアがやるものというイメージすらある。若い俳人が嘆いていた。アートとして本人はがんばっている。だけど、実際にはどこか倦んだ世界というものがあり、そういうイメージを払拭するために協会が力のない芸能人をどうたらこうたらと書いてあったような・・・俳句には興味がないので、出来事自体は理解できなかったけど、何となく気持ちはわかった。
若い歌人たちが一生懸命に若い人たちに何かをアピールしようとする。おそらくは、それもまたそういうことなのだろう。つまりは、ババくさいイメージがあり、いつまで経ってもマイナーイメージが払拭できない。マイナーならマイナーでもかまわないと思うけど、どうなんだろう。善を行うために理由はいらない。だったら、淡々と誰も理解してくれなくても自分のことだけやっていたほうがマシなような気がする。人間は誰でも年を取るものだから、一時的に若い世代に流行ったからといっても、また次に世代には忘れられてしまう。流行というのはそういうものだし、すでに和歌というものが日本の文化の一つなのだとすれば放っておけばよい。そういうふうに他人を気にしないところが和歌のよさだ。

アートって一人の世界だからな・・・
シュルレアルな世界が流行れば、それに影響を受けてということは多々あるだろうけど、基本が一人の世界だ。そうやって一人の世界に埋没している時間がアートの時間でもある。仮に集団の中の一人であったとしても次第に自我が薄れゆくような感覚・・・・
宗教もそうなのかもしれない。集団でいても一人の世界へ埋没してゆく。個が次第に失われつつあるような感覚。一人にならなければ神さまは見えないという・・・それは物理的に一人ということではなく、精神的に一人という意味なのかもしれないし、精神的に一人であっても孤独ではない。物理的に孤独であっても精神的には孤独ではなく、逆に物理的に孤独ではないにもかかわらず、精神的な孤独、つまりは心理的過疎を感じることもあることを考えれば、おそらくは、意識の違いなのかもしれない。
歌を詠み始めて以来、自分はまったく心理的過疎というものを感じることはなくなったと思う。それはネットをしているからとか、歌仲間がいるからとか、そういう物理的なことではなく、おそらくはネットをやめても、今のように淡々と一人で詠んでいてもまったく過疎というものを感じない。つまりは、物理的に孤独な時間であったとしても精神的には孤独ではなく、逆に楽しい。癒しを求められたくないというのは、そういうことなのかも。寂しいと誰かに自分を理解してもらいたいとか、友達がほしいとか、人に頼ろうとするでしょ?そういう人たちにしがみつかれた瞬間、強烈な孤独が走る。つらい。
以前は、そうやって移された鬱を捨てるために詠んでいたこともある。ネットだと特にそういうことが多々ある。このため、電源をオフしたときのホッとする感覚は何とも言えない。
誰かに何かを理解してもらおうともがいている人たちは寂しい。だから、寂しい人たちが集まる。でも、また一人になったら寂しい。そして、この人なら自分を理解してくれると勘違いしたら、しがみついてしまう。そして、しがみつかれたほうは苦しいから逃げる。そして、取り残されたような感覚だけが残る。酷いと裏切られたような気持ちにもなるかもしれない。
あっさり言うけど、あたしは一人でもまったく寂しくない。そうやって考えると、一人というのがどういうことなのかわからなくなるけど。家族のいない時間は一人だし、BBSもなく一方通行的なサイトをつくっていても一人なのかもしれない。でも、ぜんぜん寂しくない。逆に、一人でいる時間が癒しだ。それだけ、生きていくということはしがらみが多い。そういうしがらみから解放された瞬間に歌が出る。自由への讃歌というか、精神の自由を感じた瞬間が至福の時間。日常により忘れてしまった自分を取り戻すこと。混濁しない自分。

投稿者 Blue Wind : 11:54 AM | コメント (0)

ネヘミヤ記 5. 1-19 民の不正の解消

  民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあがった。ある者は言った。「わたしたちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい。」またある者は言った。「この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない。」またある者は言った。「王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。同胞もわたしたちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、わたしたちにも子供がある。だが、わたしたちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。ある娘はもう奴隷になっている。どうすることもできない。畑もぶどう園はすでにもう他人のものだ。」
  この嘆きと訴えを聞いて、わたしは大いに憤りを覚え、居たたまれなくなって貴族と役人をこう非難した。「あなたたちは同胞に重荷を負わせているではないか。」わたしはまた大きな集会を召集して、行った。「わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できるかぎり買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。」彼らは黙りこみ、何も言えなかった。わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。わたしも、わたしの兄弟も部下も金や穀物を貸している。わたしたちはその負債を帳消しにする。あなたたちも今日あなたたちに負債のある者に返しなさい。畑も、ぶどう園も、オリーブ園も、家も、利子も、穀物も、ぶどう酒も、油も。」彼らはそれに答えた。「返します。何も要求しません。お言葉どおりにします。」わたしはこの言葉どおりに行うよう誓わせるために祭司たちを呼んだ。わたしはまた衣の折り重ねたところを振るいながら言った。「この約束を守らない者はだれでも、このように神によってその家と財産から離され、振るい落とされるように。このように振るい落とされて無一物となるように。」会衆は皆で、「アーメン」と答え、神を賛美した。民はその言葉どおりに行った。

  アルタクセルクセス王の第二十年に、わたしはユダの地の長官に任命されたが、その日から第三十二年までの十二年間、わたしも兄弟たちも長官の給与を一度も受け取らなかった。わたしの前任者は民に重荷を負わせ、パンとぶどう酒に加えて、銀四十シュケルを徴収した。彼らの配下の者も民を圧迫した。しかし、わたしは神を畏れ、そのようなことを決して行わなかった。わたしはこの城壁の工事にも力を注ぎ、土地を買収したりはしなかった。配下の者も皆、工事のためにここに集まっていた。ユダの人々と役人合わせて百五十人、それに周りの国々から来た人々も、わたしの食卓に着いた。毎日用意されたものは、牛一頭、特選の羊六匹、鳥で、わたしのために用意され、十日ごとにはあらゆる種類のぶどう酒が十分用意された。だが、このためにも長官の手当てを要求しなかった。再建作業がこの民にとって重荷となっていたからである。
  神よ、わたしがこの民に尽くしたすべてのことを快く留めてください。

投稿者 Blue Wind : 01:54 AM | コメント (0)

箴言 26. 1-28

  夏の雪、刈り入れ時の雨のように
  愚か者に名誉はふさわしくない。
  鳥は渡って行くもの、つばめは飛び去る者。
  理由のない呪いが襲うことはない。
  馬に鞭、ろばにくつわ
  愚か者の背には杖。
  愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな
  あなたが彼に似た者とならぬために。
  愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。
  彼が自分を賢者だと思い込まぬために。
  愚か者に物事を託して送る者は
  足を切られ、不法を呑み込まされる。
  愚か者の口にすることわざは
  歩けない人の弱い足。
  愚か者に名誉を与えるのは
  石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなものだ。
  愚か者の口にすることわざは
  酔っ払いの手に刺さるとげ。
  愚か者を雇い、通りすがりの人を雇うのは
  射手が何でもかまわず射抜くようなものだ。
  犬が自分の吐いたものに戻るように
  愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
  自分を賢者だと思い込んでいる者を見たか。
  彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。

  怠け者は言う
  「道に獅子が、広場に雄獅子が」と。
  扉はちょうつがいに乗って回転する。
  怠け者は寝床の上で寝返りを打つ。
  怠け者は鉢に手を突っ込むが
  口にその手を返すことをおっくうがる。
  怠け者は自分を賢者だと思い込む
  聡明な答えのできる七人にもまさって。

  通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは
  犬の耳をつかむようなものだ。
  分別を失った者が、火矢を、死の矢を射る。
  友人を欺く者はそれに等しい。
  しかも、「ふざけただけではないか」と言う。

  木がなければ火は消える。
  陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる。
  炎には炭、火には木
  争いを燃え上がらせるのはいさかい好きな者。
  陰口は食べ物のように呑み込まれ
  腹の隅々に下って行く。
  唇は燃えていても心に悪意を抱いている者は
  混じりもののある銀で覆った土器のよう。
  唇をよそおっていても憎悪を抱いている者は
  腹に欺きを蔵している。
  上品な声を出すからといって信用するな
  心には七つの忌むべきことを持っている。
  憎しみはごまかし隠しても
  その悪は会衆の中で露見する。
  穴を掘る者は自分がそこに落ち
  石を転がせばその石に返ってくる。
  うそをつく舌は憎んで人を砕き
  滑らかな舌はつまずきを作る。

投稿者 Blue Wind : 01:33 AM | コメント (0)

April 04, 2004

うすぐらいギターの音が流れゆくジョアンの声は雨から聞こえ

貪欲に狩りして生きる社会では獲物はわかつ仲間の中で
貪欲に狩りをしないと問われては天の恵みで与えられしと
語りても話はまわる獅子の群れ近寄る者も今はなき園
わが園を貪欲にまで荒らしたる獅子の群れまで何を語らん
りん猫は修道院で寝ていると仲間の猫はバカにもしたる
サバンナへ飛びたちゆかば空はまたいくつ飛行機乗り継ぎゆかむ
しょぼくれた現実の中夢を見てサイバー上をゲームと語る
いやこれはバーチャルなどではないのです、語るもむなしゲームの中よ
夢さえも尽きてむなしや歳月のなんのためにぞ生きてきたのか
憐れみも感ずる気持ち羽の音遠き世界へわれは飛び立つ

箴言 26. 1-28

退廃のつたわりゆくもバーチャルに希望をもとむひきこもりかな
世の中を敵にまわして生きる人味方もとめてネットをおよぐ
うんざりだ。心の底からうんざり。うんざりしてる現実はある。
一つだけ知りたいことは主婦などはひきこもりなの?今の時代は
平穏に過ごす世界のまどろみはパソコンという道具をつかう
おきらくにおばかをやって雨の日を過ごしてみれば桜は咲けり
無垢という言葉の意味を白百合に尋ねてみたい雨の降る春
雨の日は外に出るのもめんどうでうつらうつらと時はすぎゆく
うすぐらいギターの音が流れゆくジョアンの声は雨から聞こえ
ジーンズをわたしのように穿いているむすめが少しおとなびた春
今度こそおたふく風邪になったのか耳下腺炎はわからなすぎる
こんなにもブルーな春はやってくる桜とともにやってきている

ネヘミヤ記 5. 1-19 民の不正の解消

投稿者 Blue Wind : 11:40 AM | コメント (0)

癒しのある歌なかま

今日は、駄文を書くのも精神的に疲れているのだけれど、気の重い仕事を一つ片付けた後くらいの気分ではいる。
数ヶ月前から荒らしがあり、連続して発生するものではないので放置していたら、ガイアックス系のサイトのほうにカキコがある。あまりにも幼稚な内容だったし、今回はさすがに理解不可能だったために、例のごとく荒らし対策を始める。自分でアップしているBBSならば自己管理ができるけど、ガイアックス系のサイトの場合、サーバに依頼しないとIPアドレスも調べられないし、調べるのに弁護士に頼まないといけないらしい。(通常は考えられません・・自分で調べられますから)
というわけで、さらしものにする。すると、今回は反応がない。
つまりは、さらしものにすると、何度か反応があるのが普通なんだけど、今回は、ハンドル名を勝手に使われた方から直接メールをいただき、これにより「なりすまし」だと判明する。つまり、ほかの誰かが勝手に他人のハンドル名を使い投稿する。つまりは、荒らしの真犯人はネットでは犯人が特定できないとたかをくくっているわけで、この季節はますますそういうことが発生しやすくなる。精神系のウェブを管理しているといろいろな来訪者がいらっしゃるわけです。
Tさんからのメールを読んだ瞬間、IPアドレスを調べるまでもなく、荒らしが「なりすまし」の仕業だとすぐにわかりました。だって、カキコの雰囲気とメールの雰囲気がまるで違うし、明らかに別人。当惑していらっしゃるのがありありわかるし、自分でもその立場ならそうするであろうという内容だからだ。それに、こちらとしても直接的なやりとりというものがなかったし、どうしてそういうカキコをするのか、今回に限っては内容もヘンだし、皆目理由が思い浮かばない。
そこで、ははん、と思うわけです。また、例のごとくなりすましかーと。濡れ衣を着せてしまったTさんには申し訳なく思っています。荒らしの内容が時空短歌の騒動に詳しい人でないと書けないものであったために、いろいろ誤解してしまいました。
今回のなりすましの前にも、2,3回短歌のサイトのBBSに同じハンドル名の荒らしがあり、そうすると、こちらの犯人もなりすましの可能性が高い。おそらくはそうなのでしょう。どうしてそういうことをするのか? 本人に言い訳してほしいのですが、うるさいだけなので今後一切この手の話題は無視することにしました。

もう、この手の出来事が3年以上ですからね・・・4年くらいかな。ネット妄想、被害妄想、疑心暗鬼、その他諸々パラノイアの逆恨みなどなど、とにかくネタには困らないくらいいろいろあったから、慣れてしまっています。短歌より、インターネット・ジャンキーのネタのほうがアクセス数が遥かに多い。悲しい。
でもね・・・・ジャンキーたちにとっては、短歌よりもネットの仲間とか友達などのほうが遥かに気になるんだろうな。リアルとバーチャルを分けて、友達をつくる。対面形式だと言えないことでも、機械形式だと言えるとか、こころのつながりを感じるとか、本音で話せるとか、ネットにはネットのよさもわるさもある。一方通行社会だからなんだろう。あたしは、もうすでにそういうのは終わっている。実名で活動していると、自然とそういう関係ばかりになるし、匿名でのやりとりというものがいかに気持ち悪いかわかる。

でも、互いの世界に揺られているという意味での一方通行には一方通行なりのよさもあって、例えば、ずっと返歌のラリーが続けられるというのもネットだからかもしれないと思う。つまりは、勝手に自分の世界に揺られているだけなので、勝手に返歌する。相手の歌からイメージして、詠んでいる。

__________

■繰り返し熱い言葉を耳元で
    ささやかれても心は寒い

ぬくもりも愛の言葉も響かない
    それでも別れることさえできず

■そばにいるよ 何度も耳元でささやかれ
    嘘と知りつつ眠りに落ちる

陽だまりの子猫のようにおひさまにまもられ眠る涼やかな風

■言葉の波に飲み込まれていく遠い朝
   ほしいのはそんな言葉じゃないのに

言葉とは何のためにあるのかと傷つけあうならおひさまでいて

■誰にもないパーソナリティ 映し出す
   鏡を割って歩き出す明日

鏡なら割れてしまえば消える夢 幻の中冷たい笑みよ

■透き通るエンヤの声に目を閉じて
   心の翼を広げて飛ぼう

ボサノバのささやく声の調べかな甘いラッパとお話しながら

■I have a dream 
Someday I will be with you
Why don't you wait for me?

死を見つめ生きて生かされ愛されて永久に刻みし記憶の砂よ

■ぬくもりも愛もすべては幻想で
    それでも求めずにいられない私

恋人よ欲しかったのは君じゃなく愛だと気づき流離うままに

■優しく響く君が話したLanguage
   辞書の中を 漂い日暮れ

伝えたい愛の言葉をさがす日々分厚い辞書も役には立たず

■宇宙(そら)星に人は夢を紡ぎつづけ
   神話をなぞり今日もながめる

宇宙(そら)の星届かないから描きたる壮大なるさま未知なる夢路

■暑い夏 人は原因を知っている
   二酸化炭素を減らさなくちゃね

原因を知りて知らぬや経済の都合で減りし森の数さえ

■海の水は神様が流した悲しみの涙
   イオンバランス 同じでしょ?

岩塩の溶け出す量の違いかな 塩の濃度のある不思議さよ

■バカンスは海ならどこでもいいじゃない
   死海じゃなくても浮き輪でぽっかり〜

生き物のいない海など意味はない?
   泳ぐ魚を眺める人ぞ

(■Angelique)
_____________

Angeliqueさんというのは、ハワイのお友達です。お名前も住所もわかっているし、物品のやりとりなどはしたことはあってもまだお会いしたことはありません。でも、彼女がご主人を亡くされたばかりの頃に、鬱々と何となくこういう歌をやりとりしていました。■がAngeliqueさんで、無印があたくしの歌です。
でも、実際に互いに顔を見合わせながらこういう歌のやりとりはできないかも。
年が近いし、現実は過酷で、いろいろ実際的な手続きもあるでしょうし、なんとなくそういう日々の中で、歌をやりとり。あれこれ話しても疲れるだけだし、なんとなくネットは一人の世界だから。それに、歌には癒しがある。なんだか強烈に鬱を移されて鬱々していたことを思い出す。でも、そういう鬱々した時間というのもそれなりに癒しなのかもしれないと思った。(癒しを求めると怒るけど)

ネット短歌というのを定義しろと言われたら、こういう感じだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 01:40 AM | コメント (0)

ペトロの手紙 一 3. 8-17

  終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
  「命を愛し、
  幸せな日々を過ごしたい人は、
  舌を制して、悪を言わず、
  唇を閉じて、偽りを語らず、
  悪から遠ざかり、善を行い、
  平和を願って、これを追い求めよ。
  主の目は正しい者に注がれ、
  主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
  主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
  もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが悪を行って苦しむよりはよい。

投稿者 Blue Wind : 12:07 AM | コメント (0)

April 03, 2004

ヘブライ人への手紙 13. 22-25

  兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。
  あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みがあなたがた一同と共にあるように。

投稿者 Blue Wind : 11:58 PM | コメント (0)

真実の鳩が青空飛ぶようにメディアの中を静かに泳ぐ

こんばんは。
娘もおたふく風邪のようで、安心しました。(?)
流行性かどうかは実際のところわからないんですけど、自然と腫れも引いてきました。
あらしが発生して騒いでいたらメールをいただきまして、どうやらなりすまし(他人のハンドル名を語る)だと判明し、誤解がとけてよかったです。なかなか直接お話する機会がなかったので、よかったと思っています。今後は、一切そういうトラブルは無視することにします。時空短歌の騒動の流れなので、なおさらです。間にたくさんの人たちが入っていたために複雑になりすぎていた気がします。というわけで、結社とはまったく無関係。
入会している結社以外からも結社誌を送ってきてくださいました。結社には所属せずインターネットだけで活動している歌人は多種多様であり、すでにインターネット短歌というものは存在しないという内容の記事を拝読し、うれしく思いました。
時空短歌も、以前のようにナーバスな雰囲気も消えつつあり、快方に向かっている気がします。
先日、ユダヤ人問題のページを見つけ、ハム系ユダヤ人とアラブ人はもともとが仲がよかったこと、どうして今のような状況になってしまったのかが歴史的に考察してあり、とても参考になりました。

ヘブライ人への手紙 13. 22-25

戦争のいつに始まりいつ終わる繰り返さるる確執の闇
真実はくもりガラスのむこう側正面玄関まわりてむかう
ささやかに福音伝うことの意味静かに学ぶ平和へむかう
肩こりの激しくなるよな勉強は記憶の彼方飛ばしさりたし
おおげさに遮蔽されたる暗闇は鳩にたよるぞ真実へ飛べ
真実の鳩が青空飛ぶようにメディアの中を静かに泳ぐ

ペトロの手紙 3. 8-17

* この投稿は、神父さまのサイトのBBSからそのまま転載しています。

投稿者 Blue Wind : 11:43 PM | コメント (0)

世の中いろいろ、ネットもいろいろ

『短歌人』の皆さま、結社誌の寄贈、ありがとうございました。斉藤斎藤氏の『短歌もサブカルである』という記事を読んで、すごく励みになったような気がします。自分は複数の結社に所属しているネット歌人でありまして、結社では幽霊に近い存在かもしれません。どうして自分がネット歌人と称しているかについては、何度も繰り返してきたのでここでは省略しますが、一部記事を紹介させていただきたいと思います。(ちなみにわたくしはまだ『短歌人』には入会していませぬ。)

「まずはっきりさせておくが、「インターネット短歌」なるものは存在しない。結社等に所属せずインターネットを主な発表媒体とする歌人の作品は実際には多種多様であり、結社誌に掲載されている短歌との区別などつけようがないのが実情である。また、彼らの間で枡野浩一の短歌や歌論の支持者は多数派ではなく、インターネット短歌=枡野浩一という橘の批判はとってもお門違いだ。」(『短歌人』2004/4号 斉藤斉藤より引用)

インターネット歌人という存在は多いと思う。つまり、ネットに歌をあげている人は基本的にはネット歌人でもある。結社に所属していようがいまいが、サイバー上の歌人である。ただ、自分の知る範囲、結社などに帰属するのがめんどーだという人たちもネットには多い。それよりも、気楽に短歌を楽しみたいというか。堅苦しさが苦手なのかもしれないし、一人でやっていくほうが気楽なのかもしれない。中には、お祖父さんが北原白秋のお弟子さんだったという人もいた。でも、いささかそういうことがめんどーでもあるので、ネットで匿名で詠っているほうが気楽なのかも。たしかに、比較されたらいやだよね・・・なんとなく。それと、あっさり短歌は儲からないからと言われた。まあ、そのように考えると、そうなのかもしれない。基本が無償提供の世界だからかな。
が、しかし、インターネット短歌というのが実際にどういうイメージなのか、実はあたしにはよくわかっていないのかもしれない。枡野さんのファンは多いような気がするけど、枡野さんの名前を知ったのは、『短歌ヴァーサス』の創刊号を書店で買ったのがきっかけであり、それ以前はまったく知らなかった。というか、かなり有名な歌人でも名前を知らないくらいだから、今でもせいぜいたまに買う『NHK歌壇』にある名前くらいしか知らないような気がする。それか、大昔、学校の教科書に出て来た名前とか?
ネットだと圧倒的に恋の歌が多いし、あっさり語れば、そういうのも飽きる。でも、実際にはそういう歌は少ないような気もするし、そういうのをバーチャルで相聞している人たちもいるけど、そういうのも抵抗あるよね。でも、世の中は寂しい人たちが多いから、それはそれでかまわないという人たちも存在するし、それでいて、そういう人たちと一緒にされても困るなーとは以前から思っていた。
『時空短歌』というと、恋の短歌というイメージがあるのかもしれない。だから、そこを突くと怒る人がいるのかもしれないとふと思う。「りんちゃんもそういう低俗なことをいちいち相手にしていないで・・・云々」というメールをもらったことがある。つまりは、低俗だと知っているんだな。まあ、こちらとしては他人さまがどのような活動をなさっていようが勝手だけど、その手のノリの人たちがいつまでもやってくることが我慢ができない。そういうことを考えると、結社のほうがマシかもしれないよ。
それでも、逆に結社の人たちがネットで歌を発表するようになり、かなり変わってきた。歌の質がよくなったもの。それを考えると、どんどん歌をウェブにあげてほしい。これは大真面目に思うのです。「ネット短歌」とか、そういう狭い区分はもう通用しなくなる。インターネットを活用して歌人としての活動を続けることは意義がある。それを、電子書籍で無償配布したり、それを印刷して紙で出版することも簡単。オンデマンド出版だと、5万円くらいで本が作れる。それを自分のサイトで宣伝し、出版社から発送してもらう。そうすると、高い費用をかけて出版するのと違い、以前の予算で10冊くらい出版できるようになる。ただし、自分で編集しないとダメみたいだけど・・・単なるコピーをまとめて製本してくれるところもあるし、それを考えると、書籍の原点というのはそういうことなのだと知る。
でも、考えたんだけどね・・・何もわざわざ紙に印刷しなくても、サイトにアップしてあれば特に一生懸命に売る必要性はないわけで、プロの歌人になるとか、何がなんでも短歌で儲けようと思うのでないかぎり、自分のサイトに自分の歌をアップしておけば充分のような。最初に、こう、結社の人たちが言うみたいな”発表”という意識がなかったものだから、あまり深く考えたことはなかったけど、そういう意味では、結社誌へ投稿して一覧表の中に歌を放り込むよりも、自分のサイトで気楽にアップしているほうが気楽かもしれない。もともとが歌の世界なんて狭いから、歌に興味がある人しか読まないよね。それを考えると、ネットのほうがランダムな来訪者が多いし、波及効果は高いかもしれない。つまりは、勝手にアップしておくと、勝手に知らない人がやってきて、勝手に読む。「読み手が書き、書き手が読む」、これがネットの特徴。だから、出版というのがもはや一部の人たちの仕事ではなく、誰でも簡単に自分の本を作れるし、売れる。単に、サイトのコンテンツにしておいてもかまわないし・・・自分のサイトでやりとりされた歌をアップしておくとか、その程度の代物なのかも。
昔読んだ記事に、インターネットは匿名だからというのがあった。基本が匿名だから、自分の場合、発表という意識が欠如していたのかも。BBSでやりとりしていた歌を『NHK歌壇』に送っても文句言われたことないし、逆にその歌から自分が白石であるということがネット関係者やサイトの来訪者にばれる。あたしの場合はばれて困るようなことはなかったから気にしたことはなかったけど、ジャンキーの世界は完璧に匿名に徹してコミュニケートしている人も多いから、それを考えるとどうなんだろう。こーね、親しい人にだけ個人情報を提供するという風潮があるから、個人情報がばれるのがいやな人たちも多いし、それこそストーカーとか?だったら、そういう人たちとはコミュニケートしなかったいいのに、ついBBSだとカキコがあればレスを書くし、BBSでやりとりしているうちに、親しいという錯覚が生じたり、困った世界なのよね。レスを書かないと怒る人もいるし・・・というわけで、BBSがないということは気楽だ。
やっぱ、発表という感覚のほうがまともなのかもしれない。それでいて、某教会のサイトでは、「個人名や個人情報を書かないでください」ということわり書きまである。個人情報がばれるからである。ちなみに、サイバー上で他人の個人情報を書くと警察沙汰になります。サイトはまったく知らない人の来訪があるから、教会の関係者だけが来訪するわけではない。だから、投稿するときにもハンドル名を使うというのが一応のルールなんだけど、それもなんか知り合いしか来ないようなサイトで、「えっとぉ、このハンドル名は誰だっけ?」などと悩むのも情けない。つまりは、身内だけの会話ならBBSなど使うなということなんだろう。学校のBBSだと先生の悪口を書く人がいるから、BBSを置かないとかね。書きたい気持ちもわかるけど、知らない人たちからすれば単なる誹謗・中傷だから、関係性が見えない世界においては、常に第三者のことを考え、知り合いに対しても第三者として書くつもりじゃないと、知らない人が読んだら誤解が発生する。そもそもがそれが電子文字の弱点でもあり、長所でもあり、それでいて発展性がある。
いずれにせよ、歌を発表するだけなら何も問題ないけど、歌人同士のコミュニケーションとなるといささかネットはややこしいかもしれない。それと、サイバー上の問題点を理解していないととんでもない落とし穴がある可能性も高い。まあ、クルマを運転すれば事故が増え、テレビや本は目を悪くするし、ネットも便利なツールだけど危険性も高い、というのが常識なのかもしれない。
ネットがメディアとして注目されるというのは、それだけ質の高いサイトが増えたからでもあるし、ネット短歌=低俗?というイメージを払拭するためには、質の高い歌を詠んでいくしかない。カラオケ歌壇とか、大衆化とか、サブカルとか、たしかにお手頃なイメージはあるだろうけど、要するに出版物にもいろいろあるようにサイトにもいろいろあるということであり、世の中にはいろいろな人がいるようにネットにもいろいろな人がいる。パソコンは単なる道具である。道具を使うのは人間。

投稿者 Blue Wind : 02:12 AM | コメント (0)

April 02, 2004

ルカによる福音書 7. 23-35

「わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの使いが去ってから、イエスは群集に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。
  『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
  あなたの前に道を準備させよう』 
と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。
  「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。
  『笛を吹いたのに、
  踊ってくれなかった。
  葬式の歌をうたったのに、
  泣いてくれなかった。』 
洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

投稿者 Blue Wind : 05:30 PM | コメント (0)

ローマの信徒への手紙 1. 1-15

  挨拶
  キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、---- この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫に生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。---- 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

  ローマ訪問の願い
  まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を述べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何かの実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。 

投稿者 Blue Wind : 05:15 PM | コメント (0)

ルカによる福音書 2. 39-52

  ナザレに帰る
  親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

  神殿での少年イエス
  さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

投稿者 Blue Wind : 05:00 PM | コメント (0)

エゼキエル書 27. 27-36 28. 1-10

27. 27-36
「お前の富、商品、物品、船乗り、水夫、水漏れを繕う者、物品を交換する者、船上のすべての戦士、すべての乗組員たちは、お前が滅びる日に海の真ん中に沈む。
  水夫たちの叫び声で、町を取りまく地は震える。
  櫂を漕ぐ者は皆、その船から降り
  船乗りと水夫たちは皆、陸に立ち
  お前のために声をあげて、いたく泣き叫ぶ。
  彼らは頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る。
  彼らはお前のために頭をそり
  粗布を身にまとい
  お前のために心を痛めて泣き
  痛ましい悲しみの声をあげる。
  また嘆きの声をあげて、哀歌をうたい
  お前のために挽歌をうたう。
  誰が海の真ん中で
  ティルスと同じようになっただろうか。
  お前は海を越えて商品を輸出し
  多くの国々の民を飽き足らせ
  豊かな国と産物で、地上の王たちを富ませた。
  今、お前は海で難破し、水中深く沈んだ。
  お前の積荷とすべての乗組員は沈んだ。
  海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き
  王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。
  諸国の民の商人は
  口笛を吹いて、お前を嘲る。
  お前は人々に恐怖を引き起こし
  とこしえに消えうせる。」  

28. 1-10
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神のようだ、と思い込んでいるだけだ。お前はダニエルより賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。
  それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。

投稿者 Blue Wind : 04:47 PM | コメント (0)

みこころの風は吹く吹く空のうえほら見てごらん風は吹く吹く

ゆくみちにためらいあるもはるかぜはふゆのきびしさわすれてすさぶ

エゼキエル書 27. 27-36 28. 1-10

すさびゆくなげきのなみだ儚くも真実だけがよみがえりたる
水面に浮かびゆくつきゆらゆらとかくも儚く朝をむかへる
海のなか沈んだ富をなげいても船乗りはまた乗る船をかえ
水夫らの亡霊の海船底にからみつきたる嵐のゆくえ

ルカによる福音書 2. 39-52

壮絶な怒り悲しみ憎しみの大地の果ては砂漠広がる
愛のない世界のむなし春はまた輝きのなか初夏へ向かへり
百合の花今年ははやく咲くこともあるかとおもううすぐもりの日
やすらぎはただよう舟にのるように眺むるようにロング・ボートへ
熱帯の海に静かに浮いている島から島へ渡りゆく舟
バンブー島白き砂浜どこまでも熱く焼けたる人のない島
海のいろエメラルドにも藍や青透明な水ゆらるる光
亡霊も熱き砂地のつづきゆく熱帯の島かげ椰子の葉陰よ
けだるさは空の彼方の白い雲流れゆくままジーザスは言う
あの雲はぽっかり浮かんで天使にも象にもなりぬ気ままな風よ
みこころの風は吹く吹く空のうえほら見てごらん風は吹く吹く
けだるさに時の止まった波と砂白雲だけが時を告げゆく

ローマの信徒への手紙 1. 1-15

諦めよう。時間の無駄だ。ひねもすはのんびり流れ、子が病気です。
憐れみがほしいほうならわたしです。あなたのことなどどうでもいいさ。
祈り人邪魔をさせまじ父親は吾子を連れゆく病院までと

いくつもの悲しみみつめすぎゆけば明日はどうなる今日は今日とて
人生の絶望のとき告げゆかばそれが日課とわがこととなる

ルカによる福音書 7. 23-35

白百合の季節に早い今の日をおとづる春は夏をおもわせ

投稿者 Blue Wind : 02:50 PM | コメント (0)

April 01, 2004

ヨハネによる福音書 19. 28-30 イエスの死

  この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

投稿者 Blue Wind : 03:57 AM | コメント (0)

民数記 32. 1-42 ルベン族とガド族の土地

  ルベンとガドの人々はおびただしい数の家畜を持っていた。彼らがヤゼルとギレアドの地方を見渡すと、そこは家畜を飼うのに適した所であったので、モーセと祭司のエルアザルおよび共同体の指導者のもとに来て、言った。
  「アタロト、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、ゼバム、ネボ、ベオンなど、主がイスラエルの共同体の前で滅ぼしてくださった土地は、家畜に適した土地であり、僕どもは家畜を持っております。もし、わたしたちがあなたの恵みを得ますなら、この土地を所有地として、僕どもにお与えください。わたしたちにヨルダン川を渡らせないでください。」
  モーセはガドとルベンの人々に言った。
  「同胞が戦いに出ようとするのに、あなたたちは、ここにとどまるつもりなのか。なぜ、主が与えてくださる土地に渡って行こうとするイスラエルの人々の心を挫くのか。あなたたちの先祖も、わたしがカデシュ・バルネアから土地を見に遣わしたとき、同じことをした。彼らはエシュコルの谷まで上って行って、土地を見たが、イスラエルの人々の心を挫いて、主が与えてくださる土地に行かせまいとした。その日、主は激しく憤り、誓って言われた。『エジプトから出て来た者のうち二十歳以上の者は、一人として、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地に入らせない。わたしに従いとおさなかったからである。ただし、ケナズ人エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別だ。彼らは主に従いとおしたからである。』主はイスラエルに対して激しく怒り、四十年にわたり彼らを荒れ野にさまよわせられ、主が悪と見なされることを行った世代の者はことごとく死に絶えた。それなのに、罪人であるあなたたちが父に代わって立ち上がり、またもや主の激しい怒りをイスラエルの上に招こうとする。もし、あなたたちが主に背くならば、主はまたもや、この民を荒れ野に置き去りになさり、あなたたちがこの民全体を滅ぼすことになるであろう。」
  彼らはモーセのもとに進み出て言った。
  「わたしたちはまずここに、群れのために羊の石囲いを作り、子供たちのために町を作ります。しかしわたしたちは、武装してイスラエルの人々の先頭に立って進み、彼らをその所に導いて行きます。土地の住民がいますので、子供たちには城壁のある町に住まわせねばなりません。わたしたちは、イスラエルの人々がそれぞれの嗣業の土地を受け継ぐまで、家に決して戻りませんが、ヨルダン川の向こうで、彼らと共に土地を受け継ぐつもりはありません。わたしたちの嗣業の土地はヨルダン川からこちら側、東側にあるからです。」
  モーセは彼らに言った。
  「もし、あなたたちがこのことを行い、主の御前に戦いのために武装し、武装をした者が皆、主の御前にヨルダン川を渡って行き、主が敵を追い払ってくださり、その土地が主の御前に征服された後、あなたたちが戻るのならば、あなたたちは主とイスラエルに対する責任を解かれ、この土地は主の御前にあなたたちの所有地となる。しかし、そのとおりにしないなら、あなたたちは主に対して罪を犯すのであり、その罪は身に及ぶことを知るがよい。子供たちのために町を建て、羊のために石囲いを作りなさい。しかし、あなたたちが口に出したことは実行しなさい。」
  ガドとルベンの人々はモーセに言った。
  「僕どもはわが主の命じられたとおりにします。子供たち、妻、羊、家畜はすべて、ギレアドの町々にとどまりますが、戦いのために武装した僕どもは皆、わが主の命令に従い、主の御前に渡って行きます。」
  モーセは、彼らのことについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエルの人々の諸部族の家長たちに命じた。モーセは彼らに言った。
  「もし、ガドとルベンの人々が、あなたたちと共に、皆主の御前に戦いのために武装してヨルダン川を渡って行き、その土地があなたたちの前に征服されるなら、あなたたちはギレアドの土地を彼らの所有地として与えなさい。しかし、彼らが武装してあなたたちと共に渡って行かないならば、彼らはカナンの土地であなたたちの土地を持たねばならない。」
  ガドとルベンの人々は答えて言った。
  「主が僕どもに語られたとおりにします。わたしたちは主の御前に武装して、カナンの土地に渡って行きますから、わたしたちの嗣業の所有地は、ヨルダン川のこちら側になりましょう。」
  モーセは、ガドとルベンの人々、ヨセフの子であるマナセの半部族に、アモリ人の王シホンの王国、バシャンの王オグの王国、すなわちその領内にある土地と町々、およびその周辺の町々を与えた。ガドの人々はこうして、ディボン、アタロト、アロエル、アトロト・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、ベト・ニムラ、ベト・ハランなどの城壁のある町々を建て、羊のために石囲いを作った。ルベンの人々は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、ネボ、および後に地名を改めたバアル・メオン、シブマを建てた。彼らは、建てた町々に新しい名を付けた。
  マナセの子マキルの子らはギレアドに行き、そこにいたアモリ人を攻め、これを追い出した。モーセはギレアドをマナセの子マキルに与え、マキルはそこに住んだ。マナセの子ヤイルも行って、アモリ人の村々を占領し、それをハボト・ヤイルと名付けた。ノバも行って、ケナトおよびその周辺の村落を占領し、自分の名にちなんでノバと名付けた。

投稿者 Blue Wind : 03:48 AM | コメント (0)

ささやかなあそびごころではじまったしずかな革命おとづれるひに

太陽は春の顔して昇り行くもう花見とは!虚ろにもなり
少しずつ何かが変わっていくような千年紀は始まりぬ今
平和こそおもう夢にぞ輝けるモーセはなぜに戦いを説く

民数記 32. 1-42 ルベン族とガド族の土地

うた詠みは春のゆうべにうららかに神代の楽をうたうるものぞ
CDも壊れ果てたかとぎれゆく音の聴こえるプレイヤーかな
電子文字無償配布の世界からどうして紙が必要なのか
ささやかな出来事のなか文明は文化を変える人をぞ変える
革命だ。気づかぬうちに電子文字ひしひしとして社会を変える
われはなお下手なうたなど詠みつづく電子の文字はメディアと呼ばるる
出版は誰のものにもなりませぬ誰でも文字が書けるのだから
誰にでもできることだと伝えるも不可思議なこと文字は躍れり
学び人いつでもどこでも学べれば読む人は書き書く人は読む
ささやかなあそびごころではじまったしずかな革命おとづれるひに
うつろえば時代は流れ千年は百年よりもあまりにながい

ヨハネによる福音書 19. 28-30 イエスの死

福音はこのようにして千年紀つたわりゆくぞひとからひとへ

投稿者 Blue Wind : 02:51 AM | コメント (0)