April 05, 2004

混濁しない自分へ

サルがヒトになったのなら、ライオンが猫になり、狼が犬になったとしても不思議はない。恐竜は絶滅したのではなく、今の生物の原型として姿を変えただけなのかもしれない。世の中は、教科書に書かれていることが必ずしも真実ばかりではないということが多々あるわけで、いつなにがあって、常識が覆されるかわからない。単に、今の時代に生きて、今の時代の常識を与えられているにすぎないからだ。今の飛行機の原型が出来たのはヒットラーの時代だというし、戦争中に開発され、平和利用されている科学技術も多い。薬も毒だし、毒をもって毒を制すというか、結核の薬を飲むことにより影は消えるけど、副作用で肝機能障害を起こしたりする。エジプトの建造物も推定されるよりもずっと古いものだという説があるくらいだし、そうなると、記録の残っていない時代に実際にどういうことが行われ、どういう世界だったのかなんてことは単なるミステリーだ。過去が謎なら未来も謎だし、それでいて今の時代は今の時代として記録が残されて行くのだろう。

昨日、英語の俳句のサイトで、短歌と俳句の違いについて読んだ。そういう中学生か高校生の教科書に書いてあるような知識ってすでに大昔に習ったのかもしれないけどとっくの昔に忘れてしまっている。俳句より短歌のほうが季語などを入れなくてもかまわないから気楽といえば気楽くらいの感覚しかない。古今和歌集などを読めば、とりあえず和歌の発祥くらいは書かれているし、その真偽のほどは今となっては確かめようもないけれど、俳句が禅を基本としていることを考えると、短歌よりもずっと新しい。禅というだけで、こころがペパーミントのようになってしまう。そういう世界を求めて、俳句を詠むのかもしれないということを何となく思い出した。
万葉集の英訳といい、英語の俳句のサイトといい、一生懸命に知らない人たちにその良さを伝えようとしている。日本語のサイトだと、すでに大多数の人たちが少なくても何らかの形で学習しているものだという先入観があるし、そういう意味ではすでに終わっている。短歌や俳句というとババアがやるものというイメージすらある。若い俳人が嘆いていた。アートとして本人はがんばっている。だけど、実際にはどこか倦んだ世界というものがあり、そういうイメージを払拭するために協会が力のない芸能人をどうたらこうたらと書いてあったような・・・俳句には興味がないので、出来事自体は理解できなかったけど、何となく気持ちはわかった。
若い歌人たちが一生懸命に若い人たちに何かをアピールしようとする。おそらくは、それもまたそういうことなのだろう。つまりは、ババくさいイメージがあり、いつまで経ってもマイナーイメージが払拭できない。マイナーならマイナーでもかまわないと思うけど、どうなんだろう。善を行うために理由はいらない。だったら、淡々と誰も理解してくれなくても自分のことだけやっていたほうがマシなような気がする。人間は誰でも年を取るものだから、一時的に若い世代に流行ったからといっても、また次に世代には忘れられてしまう。流行というのはそういうものだし、すでに和歌というものが日本の文化の一つなのだとすれば放っておけばよい。そういうふうに他人を気にしないところが和歌のよさだ。

アートって一人の世界だからな・・・
シュルレアルな世界が流行れば、それに影響を受けてということは多々あるだろうけど、基本が一人の世界だ。そうやって一人の世界に埋没している時間がアートの時間でもある。仮に集団の中の一人であったとしても次第に自我が薄れゆくような感覚・・・・
宗教もそうなのかもしれない。集団でいても一人の世界へ埋没してゆく。個が次第に失われつつあるような感覚。一人にならなければ神さまは見えないという・・・それは物理的に一人ということではなく、精神的に一人という意味なのかもしれないし、精神的に一人であっても孤独ではない。物理的に孤独であっても精神的には孤独ではなく、逆に物理的に孤独ではないにもかかわらず、精神的な孤独、つまりは心理的過疎を感じることもあることを考えれば、おそらくは、意識の違いなのかもしれない。
歌を詠み始めて以来、自分はまったく心理的過疎というものを感じることはなくなったと思う。それはネットをしているからとか、歌仲間がいるからとか、そういう物理的なことではなく、おそらくはネットをやめても、今のように淡々と一人で詠んでいてもまったく過疎というものを感じない。つまりは、物理的に孤独な時間であったとしても精神的には孤独ではなく、逆に楽しい。癒しを求められたくないというのは、そういうことなのかも。寂しいと誰かに自分を理解してもらいたいとか、友達がほしいとか、人に頼ろうとするでしょ?そういう人たちにしがみつかれた瞬間、強烈な孤独が走る。つらい。
以前は、そうやって移された鬱を捨てるために詠んでいたこともある。ネットだと特にそういうことが多々ある。このため、電源をオフしたときのホッとする感覚は何とも言えない。
誰かに何かを理解してもらおうともがいている人たちは寂しい。だから、寂しい人たちが集まる。でも、また一人になったら寂しい。そして、この人なら自分を理解してくれると勘違いしたら、しがみついてしまう。そして、しがみつかれたほうは苦しいから逃げる。そして、取り残されたような感覚だけが残る。酷いと裏切られたような気持ちにもなるかもしれない。
あっさり言うけど、あたしは一人でもまったく寂しくない。そうやって考えると、一人というのがどういうことなのかわからなくなるけど。家族のいない時間は一人だし、BBSもなく一方通行的なサイトをつくっていても一人なのかもしれない。でも、ぜんぜん寂しくない。逆に、一人でいる時間が癒しだ。それだけ、生きていくということはしがらみが多い。そういうしがらみから解放された瞬間に歌が出る。自由への讃歌というか、精神の自由を感じた瞬間が至福の時間。日常により忘れてしまった自分を取り戻すこと。混濁しない自分。

投稿者 Blue Wind : April 5, 2004 11:54 AM
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