April 15, 2004

自由圏

創世記、アダムの犯した罪を贖ったのがイエス・キリストだとすると、あたまがクラクラしてきてしまう。なんせ、人の寿命が900年くらいあったんだから、それを考えるとわが国の有史時代というものがなんと浅いのかとクラクラしてきてしまう。和歌の歴史が万葉の時代からだとして、それを考えるだけでもどこか古臭い世界だと思っていたのに、それすらも舞い散る言の葉の世界に過ぎないようなこの重々しくも軽やかな気分。
ジーザスから2000年、まだ新しい千年紀は始まったばかりであり、旧約聖書は、世界の7割の人たちの聖典。イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒。つまりは、同じ神さまを信仰しているわけであり、新約聖書の福音。イスラム社会を観察していると、逆にどうしてジーザスなのかがわかってくる。ブッシュを含めて、イラクの戦火のニュースなどをアラビア語のCNNの写真で眺めると、単なる野蛮な世界であることがわかる。
あっさり語るけど、単に、野蛮なのである。
人間同士が殺し合い、憎しみに血を持って贖いを求めてやまない。血には血を。そこに見え隠れするのは単なる権力構造化された社会であり、同じ神さまを信仰する者同士が戦っている。それぞれの派閥があり、指導者の下に暴力が繰り返される。政教分離が確立されているだけ、日本のほうが遥かにマシなような気がする。
アングラ。
そういう世界を聖書を読みながら学ぶ。そのほうがニュースの解説を眺めるよりもわかりやすい。
イラク戦争のときのアメリカ軍の映像。牧師さんが従軍しており、祈りの時間。はあ?
十字軍じゃないんだから、やめてほしい。
歴史的に、そういうことはとっくの昔に卒業しているはずだと思っていたけど、あれではまるで十字軍の遠征だ。たしかに旧約聖書は癒しのない世界だと思う。そして伝えられた福音の書かれた聖書。新しい部分を無視して旧約の世界へ。テキサスで馬の乗り方や銃の撃ち方を習うより、世界平和を考えて神学でも学んでほしいとすら思う。
印刷技術が進み、聖書が出版される。そして、誰でも読むことができる。一部の人たちだけが読む時代とは違い、自分で読み、自分で考えることができる。それはそれで素晴らしいことだと思っていたんだけど、結局は、活字というものは書き手の意図を離れて一人歩きしてしまうものであり、読み手次第でどうにでも解釈されてしまう。
あたしなどはもう戦争を知らない世代だもの。そうやって平和ボケしているうちに、世の中は再びきな臭くなっていく。やっと築いた平和な世の中が再び戦争の惨禍に巻き込まれようとしている。
戦争などどこか遠い世界の出来事だと思っていた。ところが世界の暴君により、それが身近にやってきてしまう。石油が供給されなければ、今の生活はたちまち消えてしまうだろう。インターネットもできない。風力発電、原子力発電、太陽光発電、あれにこれに。おそらくは、新しいエネルギー源の確保に向けて技術が進む。それでも紛争は続く。
そんなものをいくらつくろうとも、戦争が発生すれば破壊のためのターゲットとなる。
アメリカではすでに都合の悪いニュースは流れていないという報道があった。かく言う日本でも、イラクの人質事件のニュースを見ようとテレビをつけたら、代わりに大リーグの映像が映っていた。大リーグで活躍する日本人選手の華々しい姿。日米友好の架け橋。
戦争が終わり、日本を破壊したのはアメリカであり、再建したのもアメリカなのかもしれない。だから日本がイラクを復興しろと言われても、それはどこか何かが狂っているとしか思えない。あまりにも身勝手ではないだろうか?アメリカ軍が撤退してからなら話はわかるけど、アメリカ軍のイラク占領を助けるために自衛隊に働けというのだろうか?
日本政府は明確にするべきである。
自衛隊の派遣は、アメリカの意図によるものではなく、日本人の意志によるものであると。
戦後の混乱の中で、民族主義により、イラクが統合に向けて動き出している。そして、その中から新しい政府がつくられるべきであり、アメリカ指導の下に占領が遂行されるのを助けるために派兵したのではないことを。
これって、すごく重要なことなのだと思う。
とりあえず、ブッシュ政権は間もなく崩壊するだろうし、結局はそこなんだろうな。新しいアメリカ政府に同調する形で穏便に行動できればそれにこしたことはない。あー政治だ。

そんなことより、あたしのような普通の主婦がこうやって自分の意見を簡単に茶の間?から発信できることがもっと値打ちがあるような気がする。長い道のりでしょ?婦人参政権やら女子教育やら騒いでいたのはついこの前であり、自分の意見を言うために親父といちいち喧嘩する必要もなく一人でパチパチ打てる。快感。
ネット歌人やっていても、紙に発表しろと言われる。なんでなんでなんでだ?
つまりは、ネットだと匿名で好き勝手なことを言えるし、それを削除することも簡単だ。そんな無責任なことではいかんというのが根底なのだろう。
が、しかし・・・・
あっさり言うけど、なんであたしがそこまで何かに対して責任を持たないといかんのだろう?
考えてみてくれ、あたしなんて大した歌人ではないのである。単なるにわか歌人であり、そもそもが短歌など嫌いだ。たまたまサイトのネタの一つとして気楽に詠んでいただけであり、来月からようやく結社誌のほうにも歌が載るらしい。
世の中があまりにも大袈裟すぎる。ちっぽけにやっていれば、自分のサイトにアップした歌など発表扱いにはならない。ところが、誰かがネットはメディアであると騒ぎ出す。そうすると一斉にサイトの歌は既発表だと攻撃されてしまう。あほらしくてやってらんない。
だったら、結社などやめる?
今のところ、やめてくれとは言われない。
それよりも、もっと若い世代の人たちが歌壇に集まってくれないとどうにもならないだろう。なんせ年寄り社会だから、後継者がいなくなる。それでも困らないような気がするんだけど、そこのところがよく見えない。
イスラム型の長老社会だからな・・・結社は。
それよりも、インターネットを通して、自由圏のあたしは自由に歌を詠む。自分でサイトをつくれて、文字の読み書きができる程度の教育は受けている。自分にとってはすでに当たり前のことなんだけど、もしかすると当たり前のことではないのかもしれないし、そこのところは千年紀が始まったばかりなのでよくわからない。

投稿者 Blue Wind : April 15, 2004 01:53 AM | トラックバック
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