April 06, 2004

そのうちなんとかなるだろう・・・たぶん

喜びも悲しみも、うれしいという気持ちも誰かを好きになったりする気持ちも、実は純粋に精神と呼んでよいものか迷う。つまりは、情動反応なども含めて、思考や感情は脳に制御されている。そうやって考えると、実は精神などというものは存在しないのではないかとすら思ってしまう。暑さも寒さも、痛みも傷も肉体を通して知覚する。この知覚というものも実は脳に制御されており、外界というものはこのように肉体を通して存在しているらしい。
宗教を通して人を考えると、人は死んでも魂は永遠らしい。知性や人格は残る。高次精神機能というか、品性や知性といった意味での人格は前頭葉の働きとも言われている。それが実証されたのかどうかは知らない。それでいて、魂というものを否定する気にはなれない。それは、自分が一瞬だけ思考と感情が停止したという経験を持つからであり、その瞬間というのは、あまりにも静かな愛に包まれていた。思考と感情が停止したとは言ったけれども、その静かな愛がどこから来たものか、どのように自分がそれを感知し、感じていたのかは覚えていない。それでいて、再び元の自分に戻った瞬間というものは存在し、思考と感情の中に情報として何かがインプットされていたからだろう。少なくても、記憶の中には残っているわけで、それが自分の生涯において生まれて初めてでもあり、かつ今日までも経験することのない感覚だからなおさらなのかもしれない。
脳の働きから人間の精神を眺めることは面白い。その瞬間、こころって一体何なのかと思ってしまう。詩を詠んでいる人たちは、魂の深いところからの言葉。少なくても魂の存在は感じているわけだ。必ずしも魂とは精神ではなく、それでいてどこか肉体ではないという意味で精神と混濁して考える人たちが多い気がする。でも、魂は魂だ。肉の塊としての生命もあるだろう。それでいて、肉の塊ではない生命もある。つまりは、それが魂であり、それがどうして言の葉の世界に浮かぶのか不思議だ。つまりは、一つのスキルなのかもしれないし、目で見ながら書く、つまりは脳に制御されているだけなのかもしれない。
そんなこんなを考えながら、自分はすっかり歌人である。
歌人の世界は元々は世俗的な世界を嫌う。つまりは、生業とは切り離された世界。どうしてそのような伝統があり、どうしてそういう世界なのかは、おそらくは仏教の影響なのかもしれないし、雅な遊びだったからかもしれないし、俳句となるとまるきり禅の世界だから、そういう影響もあるのだろう。俳句と比較するとまだ短歌は情動的な世界であり、俗っぽさもあるだろう。それでいて、芸術ということにこだわりたい人たちがたくさんいる。それでいて、短歌や俳句の静寂さを好まない風潮もある。
ネットから歌を始めたと語ると、軽いという印象があるのだろう。たしかに、軽い。そういう静かな精神世界を求めて歌を詠み始めたわけではない。文学として歌を詠んでいるわけでもない。それでいて、自分は歌人だという自覚がある。そして、何度も繰り返してきた、歌人は一人の世界であると。
ほんの少しだけ日常から切り離されたところに歌がある。それは日常の中で詠われ、そして、日常からは離れている。つまりは、視点だ。物理的には日常の中に歌はあり、それでいて、精神的にはどこか日常から隔絶している。つまりは、日常を少し離れた精神で見つめなおす。
毎日、歌を詠む。そして、聖書を開く。それもまた日課だ。
家族が寝て、一人になった静かな時間に歌を詠む。あるいは、今のように静かに好きなサウンドを聴きながら駄文を書く。これは、日課である。そして、こういう静かな時間が自分には必要であり、このように静かな時間を過ごすことにより、人生が豊かになる。わさわさと人付き合いに翻弄されて虚無な時間を過ごすことも減り、その代わりのんびりとした時間が過ぎる。どんなにたくさんの友達に囲まれていても、そこに神さまがいなければ虚無だけが残る。そして孤独だ。それでいて、神さまと過ごす時間は物理的には一人であっても孤独ではない。こういう満ち足りた気分というものは、うまく伝えることができない。
貪欲でこころの満たされない人たちといると疲れる。そういう人たちとお付き合いしていると、不毛な気分に陥ってしまう。物質に恵まれていようといまいと満たされることがない。常に、渇望しているからだ。
それでもまだ裕福な人たちはマシだ。自分のこころが満たされないのは生活に追われているからではないことくらいは知っているから。そして、一生懸命に何かを探そうとしているだけ。趣味を見つけたり、勉強したり、ペットを飼ったり忙しい。お金に困っていてなおかつこころも満たされてなかったら、他人を妬む。貧乏でもこころが満たされている人たちはそういうことはしない。逆に、癒しを与えてくれる。そして、何よりの癒しは、そういうつまらないことを考えたりしなくなるということだろう。家にいて、安らぎのある家族と過ごす。そして、一人で歌を詠む。
考えてみてくれ・・・・歌を詠むだけなら金は要らない。一人で家にいるだけなら毎日ジーンズで充分だ。余暇にネットをしたり、パズルをしたり。習い事をしても退屈しのぎに買い物してもつい無駄な出費が出る。それに比較すると、自分は何もしていない。
一番つまらないのは、もったいないと言われることだ。こうやってヒマな時間を賃金に変えろと言われても困る。稼いでも税金。外出すれば金がかかる。付き合いが増えれば再び出費。あまりにも悪循環だ。付き合いたくない人とも付き合わなければならないかもしれない。そのようにつまらない時間を費やすために仕事をするのはまさしくつまらない。どうしても生活に困るというのであれば別だけど。慌しく人生を過ごすのも人生なら、ぼーっとしたまま過ごすのも人生だ。カシューナッツをおつまみにして、アイスコーヒーを飲んでいるほうがマシ。
特に何を望んでいるわけではないけれど、子どもの頃から何となくぼーっとしたまま過ごしてきたのだから、出来ればこのままぼーっとしたまま死んでいきたい。とりあえず、与謝野晶子の2万首が目標だから、それを達成するまではなんとかがんばりたいけど。それと、3度くらい読むと意味のわかるような歌を詠みたい。小説でも映画でも、子どもの頃に読むのと大人になってから読むのとでは感じ方が違う。歌が文学というのであれば、そういう歌を詠みたい。詠い捨てのような歌が多い。自分にもその意味が何となくわかってきた。どうして、未発表とか既発表などにこだわるのか。つまりは、2度目には最初の感動が消えてしまうから。それではあまりにも文学と語るにはお粗末だ。同じマンガや小説を2回読んでもつまらないことにも似ている。でも、名作がどうして名作なのかといえば、何度見ても感動があるからなのかも。
悩む。

投稿者 Blue Wind : April 6, 2004 10:49 AM
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