久しぶりにレゲエなどを聴きながら、明るいリズム。どちらかと言えば、ぐったりしている。疲れていると言えば疲れているのだろうし、元気だと言えば元気。
母の病室へ行き、肺炎後だし、相当悪い状態を覚悟していたんだけど、どういうわけか予想に反して、母は元気だった。弟のほうが疲れてぐったりしている。こういうのは、精神的な問題なんだろう。
どうして元気かと思ったかと言うと、目が違う。今までも薄目を開けたりして目は開いていたのだけれど、どこか焦点が定まらない混濁した目というか、目が見えず、必死に耳で聞こうとしているというか・・・あくまでも雰囲気なんだけど、そうやって何かを訴えようとすると苦しげに咳をし、「死にたくない」、あーでもないこーでもないと必死に生きようとする者特有の苦しみというか、寝たきり老人の病室へ行くと、必死にぜろぜろ咳をしていたり、苦しそうにしていたり、重苦しい空気が流れていることが普通であり、ひたすらこちらの精神が鬱へと突っ走ってしまいそうな重苦しさが母にもあった。
それが今回、実に静かなの。まずは咳が減ったとか、目が澄んでいるとか、それだけでも違う。加えて、必死になろうとすればなるほど丸まって開くことも困難だった手のひらがす〜っと開き、手を開いたら皮膚がボロボロと剥けて、垢なのかもしれないし、皮膚が弱って落ちてきているのかもしれないし、そこだけは長い間拭くこともできずに放置してあった手のひらが開いた。
最初に、人差し指を立てて微かに動かそうとしているのに気が付いた。そうやって指先が動くことだけでも不思議。わたしが母の手を取り、手のひらをゆっくり開き、少々匂いのする手のひらの皮膚をボロボロとシーツの上にこぼしていると、母がわたしの手を握った。
これね、何と言ったらよいのだろう。手が丸まっていると、自分の手をそこに入れることは可能なんだけど、そうではなくて、握手にも近い感覚というのかしら。つまりは、あちらからも反応がある。
しばらくそうやっているうちに、息が静かになる。そこで、少々無理をして、母の手のひらを開こうとした。すると、とても苦しそうな表情になり、見ていられなくなった。
つまりは、動かないものを動かそうとする痛みなのかもしれないし、リハビリの痛さなのかもしれないし、ほとんど硬直していたのだから、それをほぐすだけでも激痛が走るのだろう。
が、しかし・・・そうやってこちらのリアクションに対する素直な反応というのが、わたしにしてみれば不思議。
元気な人なら当たり前のことでも、今までならいくら触っても伸ばしても痛いという反応すら出ない。出るのだろうけど、鈍い。
つまりは、そうやって何らかの正常なリアクションがあること自体がもはや奇跡。
ソーシャルワーカーの人と面談を予定していたので、そちらへ向かうと、どういうわけかいないはずの主治医がいて、カルテのデータを見せてくれた。数字が2日前から快復している。わたしが見ても詳しいことはわからない。でも、ダンナが一緒だったので、数字を眺めながら、予後がかなりよろしいことが何となくわかった。
胃ろうにしたほうが予後がよいとか、いろいろあるのでしょうけど、わたくし的には、その数値の快復が2日前だったこと、そちらのほうに驚いた。
寝たきりやぼけ老人の場合、家族のケアなどでずいぶん快復が違うというけれども、特別なことは何もしていない。顔も見ていない。にもかかわらず、うちのほうで介護しようと思ったとたんに数値が快復している。
単なる偶然と言われてしまえばそれまでなんだけど、今までの母の状態を考えると、もともとが普通ならオペの適用のある状態でのオペではなかったし、生きていることが奇跡と言われたし、すでに快復することすら諦めている状態で、4年半。ダンナにもこれは植物状態ではないとはっきり言われた。
言われたってことはね、彼は言わないけれども、半ば母のことをそのように考えていたわけで、そのように言われても思われても仕方がない状態が続いていたし、それについては諦めている。
が、しかし・・・・
もしかすると、車椅子に乗れる状態まで快復する可能性はある。今の母の状態では、首が座らないし、上体を起こすことすら不可能だ。痰を誤飲して肺炎を起こす可能性すらある。唾すら飲み込めないのだから、痰を喉から吸引するしかないわけで、それすら放置していたら窒息してしまうではないか。
すでに栄養は直接管で胃へ。点滴ではない。消化器を動かすことが大切らしい。喉は痰を取るために開いている。そういう状態でもほかの肢体が元気な人たちはたくさんいるらしい。
医療のことはわからない。
母をこちらに移したら、少しずつリハビリに病室に通おうと思っていたけど、聖書を開いたらパウロの説教。
母の病室へ行って、説教の意味を知る。
確かに誰が何をしたわけでもないのに、この母の激変を考えると、奇跡が起こったとしか思えない。ダンナも出来るだけ早いうちにこちらへと言っているし、今の病院でも予め受け入れ先があるならそれまでは転院しないで置いてくださることが決定。
まさか、ほかの患者さんをいきなり追い出して母を入れるというわけにはいかないから、数ヶ月は待たなければならない。本当だったら、今日明日にも移動させたいくらい。だってそれくらい状態が安定している。せっかく転院が決まっても、肺炎を起こしたり、ほかの病気が併発したり、容態が変わることも多いし、何があるかわからない。つまりは、運を天に任せるしかないくらい転院というのは実は難しい。
期待してしまうと、後になってそれがダメだったときの反動が大きいからあまり期待したくないけれど、これはひょっとしてひょっとするとかなり快復する、かも。
生きているだけでも奇跡と言われて、3年も経過すると皆諦めているわけなのです。いつ死んでもいいや・・というか。それがそのまま今まで生きていたのだから、それを考えると、それがここまで快復したということ自体がミステリアス。
ぜろぜろ状態で、がむしゃらに生きる、という意気込みも母から消えて、今は不思議と静かに見える。今までは、行くとどつぼの鬱に苦しめられていたのに、今回は癒しをいただいてきました。
詩編 121. 7-8
はあ〜〜、不思議ですね〜〜〜♪
事実は小説よりも奇なり。
母の目が見えてる。
握力が少し快復してる。
2日前のデータから急に白血球も正常値に戻っている。
疲れた。
寝ます。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見て、お宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らされたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
また、こうも言われています。
「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
もろもろの天は、あなたの手の業である。
これらのものは、やがて滅びる。
だが、あなたはいつまでも生きている。
すべてのものは、衣のように古び廃れる。
あなたが外套のように巻くと、
これらのものは、衣のように変わってしまう。
しかし、あなたは変わることなく、
あなたの年は尽きることがない。」
考えてみたら、動作訓練から痴呆、カウンセリング、発話のトレーニングなどなど資格はないけど、知識だけだったら膨大にあるのですね、あたしって。実際にやってみないとわからないことだらけだけど、まずは手続きから。今日は午後ソーシャルワーカーの人と面談する予定です。母を移し、あれこれやっていくうちに何かできることがあるのかもしれません。なんでも自分で苦労してみないことには。
ヘブライ人への手紙 1.10-12
天と地をのんびりながめ考えて周辺視から介護にいたる
錆ついた知識のなかで横道と斜めにながむ知識ぞ生きる
誰がためにやるのか知らぬことなれどわがみとあらばやらねばならぬ
ちっぽけなぼやきの渦は天高くみこころのなかしづしづとして
母となり娘となってやってみて一人になって苦労は生きる
知識など不毛などと思うのはちっぽけなズレ感じるせいかも
言の葉を伝えてみても手続きは書類となって実際となる
ガラテヤの信徒への手紙 1. 6-10 ほかの福音はない
知識と福音は違うからなぁ・・・
暑い。日中は慌しい。
夏風かパタンパタンとリンリンと呼び出されては走りまわれり
ひねもすはぶっきらぼうにひかえめにエアコンの音街中流れ
福音、か。
使徒言行録 7. 54-60 ステファノの殉教
石をぶつけられたほうが、犯罪だからまだマシかもしれん。
精神には急所があって、おそらくはそこを突くから野蛮になるんだろうな。
生か死か生きるか死ぬか寝たきりかご都合主義かマニュアル主義か
絶望にすすみゆくみち今日もまた静かに時は人を見送り
ひっそりとすすみゆくみち明日もまたあきらめたらなら陽はのぼりゆく
わたくしはおばかですからわかりません、のんびり死んで枯れゆく花よ
年寄りに明日こそあらばと励まして鬱々とする悲しき人ら
医者からも家族からも見離されちゃってるからな。大抵は。何のために生きているのかわからん。すごい世界。
オトくんは生きるも死ぬも風まかせ。ただ生きるってすっきりしてる。
マタイによる福音書 25. 31-46 すべての民族を裁く
何のために生きているのかわからないようにならないと、何もわからないのかもしれない。むずかしい。
いったい神は、かつて天使のだれに、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われ、更にまた、
「わたしは彼の父となり、
彼はわたしの子となる」
と言われたでしょうか。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
世の中はしっちゃかめちゃか。というか、あまりにも整然としすぎているのかもしれません。母を移すだけでも手続きが大変だし、福祉は地方ごとに行政が違うし、施設や病院はいつも不足しているために地元が優先だったり、おそらくは母でもこうなのだから、叔母となると扶養義務者のことや住所のことや、あれにこれにと手続きがややこしい。元気なら退院時に清算の費用でも、ずっと寝たきりだと一人では何もできない。子どもが海外で暮らしていたり、離れていたり、その他の理由で親の世話をできない場合も多い。心筋梗塞のオペの承諾書一つにしても家族の到着を待てというのだろうか?
ルカによる福音書 17. 20-21
「捨て親」のはこびる時代到来す捨てられるのは稚児にはあらず
寝たきりの稚児は保護され生きていく寝たきりの親死ねずに生きる
ささやかな手続きでさえおおごとに大騒ぎする書類の山よ
聖書にも著作権があるのならコンセの時代誰がみつもり
ほいほいとやってあげるとひきうけて行政の壁みちをふさげり
道端に転がっている親ならば転がりついで谷まで急ぐ
寝たきりを登山のようにのぼりゆく杖さえあれば十分なのに
しがらみをひとつひとつと消しゆかば天へのみちはかろがろしかろ
ヘブライ人への手紙 1. 5
神さまがジーザスを産んだのか。よーわからん。
神さまが御子を産んで主と崇むくるくるとする思考回路か
聖霊は生まれたままに生み出され万物は土、屍となる。
寝たきりにさまようままにたどりつく意思があるならこたえてほしい
世の中は雁字搦めに縛られて手も足も出ぬ肉屋のハムか
燻製になっても生きろと行政はせっせとわたし料理している
箴言 3. 5-6
だんだん分かってきた。なんでこんなに世の中が年金だの介護だのと大騒ぎになるのか。今は、死ぬことよりも長生きすることを心配しているのよね。まだそういう実感がなかったけれども、母をこちらに引き取ろうと思ったら、とにかく手続きがややこしい。
まずは、地元民が優先になるために、住所をこちらに移さなければならない。あるいは扶養家族の手続きとか、健康保険を移すとか、普通の引越しであれば本人が転出届を出して、それをまた引越し先の役所に提出するだけの書類でも、本人は何もできないのだから誰かが代わりにやらなければならない。
クレジットカードの支払いというわけではないのだから、入院していればそれをまたさらに清算しなければならないし、そういう細かい手続きなどを含めて考えると、とにかく家族のいない人は大変だろう。家族がいたとしても、離れて住んでいたり、それこそ心筋梗塞のオペみたいに時間を争う場合でも家族の同意書がなければ何もできない。ましてや、誰かの命にかかわることだから、勝手に他人がどうこうなどとはできないわけで、誰が責任を持つかということすらわからなくなる。
それにしても介護保険は値打ちがある。10分の1だもんね。30万円かかっていた人でも全国一律3万になる。今までだったら、そこの行政によって福祉の格差が大きいのは当たり前で、どの程度差があるのかまではわからないけれども、親が暈けてそれが原因で引越しした人もいる。
が、しかし・・・・世の中、年寄りばかりになったとして、誰がこの予算を支払っていくのだろう。よーわからん。
だから、保険なのかもしれないし、これは年金どころの騒ぎじゃないだろう。数十年後は。
寝たきり老人が減ると、医療費が削減できるという話は本当なのだろうか。病気が治っても入院したら寝たきりになったり、暈けたり、そういう副作用のほうが大きかったり。母みたいに寝たきりだと逆に見張っている必要性はないけど、これが元気で暈けていると何をするかわからないから、介護の人が必要になる。年齢には関係ない。
どうも自分が長生きしない家系のせいか、そうやって誰かの世話になるという発想が欠如していたけれども、こればかりはわからないもんね。
手続きの代行業者と、入所料金などをカード払いにでもしないかぎり、安心して寝たきりになれない。が、しかし・・・高齢者で寝たきりの場合ってどうなっているんだろう。死んだ場合にはチャラになるんじゃなかったっけ?カードって。忘れた。そういう場合の保険料込みの会員カードでもあったら入っておこうかしら。ないだろうけど。
福祉が行政単位になっているからややこしい。母を移すだけでも大変。叔母をこちらで、といっても障害者手帳とか扶養義務者の住所とか、なまじか家族がいるだけややこしい。老人ホームへ入るわけじゃないんだからって思ってもややこしい。
これを何とかしてほしい。
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところへ来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛れることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。
母をわたくしの家の近所の病院に移そうと思っています。長距離の移動の体力があるかどうか、状態を見て、秋頃までに。すでに、意識のないまま5年目になりますし、ついでにお葬式のことも話して、母の愛する人たちが集まってくだされば。みんなで相談して、こころよく喜んでくださいました。もう5年。こちらは突然の転勤でやって来た土地だし、いささか遠いし、姑さんもいざとなったら諦めてこちらへやって来るというし、母親が一人になったら、そういうものなんでしょう、今の時代は。親が子どものそばに行かないとならない。肝にめいじておこう。
使徒言行録 21. 9-14
やっぱ、危険だよなぁ・・・肺炎起こしたばかりだし・・・かといって、5年にもなると、病院をたらいまわしだもの。へんなとこで死ぬより、こちらのほうがいいのだろう。悩む。
意識なくただよいながらたましいは風に吹かれて山に運ばれ
葬式も要らないからと風は言う土より生まれ土に帰りぬ
のんびりとうたたねするよな生活は永久の眠りにつつまれやすく
生きるとか死ぬとか言って大騒ぎおおげさすぎる世の中を捨て
筑波山青々として麗しく姿変わらぬ時は止まる
ヨハネによる福音書 3. 27
みなさん、さようならー。お別れの挨拶とお礼をして、引越しだ。叔母ちゃまも一人になったらこっちへ来ると言っているし、わたしはわがままだから、わたしの愛する人たちだけこっち。そういうほうがいいな。介護は義務ではございませんのよ、ほほほ。あーわがまま。
がむしゃらに生きてきたって墓場には知らぬ名前の並んでおりし
死後の名を呼ばれてむなし仏かな覚えられないながき名前よ
たましいはたましいのままああこれは誰だったかと気配を覚ゆ
意識なくうすらぼんやり生きるなら平安のうちみこころのうち
番号で呼ばるる人の憐れさか打ち捨てられて保護されている
生き地獄見てしまうよな病院をありがたがっている人もいる
現状は知っているけどわたしにはどうにもならぬわがみちをゆく
ささやかに愛する人にプレゼントわきみちのなかしあわせの風
使徒言行録 18. 1-4
家族のために生きて来た人たちが報われなかったら、家族なんて要らんのよ。粗大ゴミコースか、介護コースか分かれるな・・・わかりやすい。老後の心配ないだけ、幸せに思おう。なんとかなるだろ・・・
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群集を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都で彼と一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群集は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群集はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群集の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。
ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
人生はわずらわしさとの闘いである。
ルカによる福音書 13. 31-35 エルサレムのために嘆く
ユダヤ人と日本人。ゆううつなとりあわせ。
敷島はのんびりしてて平和だがチャイム鳴らすはエホバの証人
のんびりと筑波の山はたたずんで万葉の頃しのばせている
ロケットは明日へと向かいランダムに入り混じりてはカルトも浮かれ
世の中がからまわりして大学は学問の場か遊びの舟か
聖書なら本屋で買えばよいだろう書物の棚に並べられてる
この街は宗教なんて関係ない勉強のため書籍は並ぶ
知識とは不毛なままで夕焼けは美しき街沈みゆく森
庭の花咲き乱れてはうつろはば街を彩る季節は巡る
ひねもすはのんびり流れ学生は静かな森に埋もれている
理性派のとどまる街は喧騒も通り吹く風理は麗しく
街並みを造り出しては発表す人工都市と言われて哀し
フィレモンへの手紙 21-22
あーあ、本当に牢獄から手紙書いてる・・・
やっとこさ獅子の洞窟から逃げ出したと思ったら牢獄。こんなんでいいのか?気楽だけど。少なくても獅子がいないだけ牢獄はマシだ。
ひっそりとわがみちをゆく青蜻蛉科学のまちの空に飛びをり
こんなにも美しい空燃ゆる街しらじらとして並木は聳え
冷淡にたたずむ街はのんびりと美しきさま浮かべてをりし
この街に住んでいるよと言いたしもゆきすぎる人人をゆきすぎ
ルカによる福音書 18. 9-14 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ
「文教地区」にふさわしくないとなったら、パチンコ屋だろうとカラオケ屋だろうとそそくさと追い出してくれるありがたいところなんだけどね。一般論として、「教育に悪い」ものはすべて排除されるような気がする。これほどはっきりしているところも少ないかも。人間臭さがない。従って、憐れみもない。わかりやすい。
アミハイ読んでがんばるか。
シモーヌ・ヴェイユ。
お友だちかもしれない。あーあ。
ちっぽけな嘆きの渦をかかえては平凡な日々ぼやきはつのる
なんとなく、なんとなくしか語れない。なにが不満か言うも虚しき。
傲慢さ。どうせあたしは傲慢だ。わずらわしいと思ってしまう。
獅子の洞獅子は群れたり悠然と。牢獄入れば盗人おらぬ。
使徒言行録 21. 27-36 パウロ、神殿の境内で逮捕される
なんで宗教のこととなると、ぎゃーすかぎゃーすかうるさいのだろう。よーわからん。
観念よ、ぐるぐるまわって敷島は妥協をもとめ接点さがす。
わかった。ひらめいた。
コリントの信徒への手紙 3. 21-23
この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。
では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
「神は、彼らに鈍い心、見えない目、
聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」
と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。
「彼らの食卓は、
自分たちの罠となり、網となるように。
つまずきとなり、罰となるように。
彼らの目はくらんで見えなくなるように。
彼らの背をいつも曲げておいてください。」
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
国境は安全のためあるのかと”同盟国”の意味知る家族
お気楽にパスポート持ち国境を越えるバカンス夏のひとこま
残骸は遺跡となつて立ち尽くすイデオロギーの壁のある国
目に見えぬ世界の壁は立ち尽くすシュールな文字を描いてやまぬ
使徒言行録 8. 14-17
シモーヌ・ヴェイユ。
ポルチウンクラ。
ポルチウンクラ。
壮絶。壮大。宇宙。光。
飛行機に乗るまでが大変。
まじめなんだろうな。おおまじめでくそまじめ。ユダヤ人。
今年の夏はシモーヌ・ヴェイユ。わかりやすい。
軽やかにほっぷすてっぷじゃんぷして南仏まわりポルチウンクラ
旅人は情報交換あたりまえ見知らぬ人よありがとう、です。
あれもダメこれもダメだとささやかれわたしは正気ああせつないな
シモーヌのおすすめだけをまわれよと言われた気がするおばかなあたし
教会にオタクがいると知りてやも純粋な人われに語れり
アッシジの写真のサイト検索し文字に変われりシモーヌ・ヴェイユ
何となくすっきりしないと思っても悩んで春は風の吹く町
ローマの信徒への手紙 11. 1-10 イスラエルの残りの者
いったいわたしはなにをしているのだろう?
悩んでも迷ってみても牢獄は思索の庭をわれに与えり
牢獄はみえない壁でつくられた堅固な石に護られている
とても自由。とても不自由。脳内は。造られたまま与えられてる。
壁の中自由に飛ぶは不自由な圏固な壁は角砂糖かな
想念は粉々になる角砂糖拡散しては固体になりぬ
自由とは広がりゆけばアフリカよ安全地帯・危険地帯か
ローマの信徒への手紙 1. 2-6
のんびりと夏休みのバカンスの計画を考えていると、画面では北朝鮮の拉致被害者等の家族が日本に帰国するという報道。帰国するという言い方は適切ではないかもしれない。子どもたちは北朝鮮で生まれ、あちらの教育を受けている。日本語を話せるのだろうか。
それでも日本人の感覚からすると、親が日本人なんだから、子どもはどこで生まれても日本人という気がする。この感覚は国際社会においては当たり前ではないらしく、国籍マジック。アメリカ人や台湾人だと、どこで生まれたのかが重要らしい。つまりは、”民族”という意識が日本ではまだ生きているけれども、多民族国家、あるいは民族意識の欠如した社会では、民族や人種にかかわらず、その土地で生まれたかどうかで国籍が決まるらしい。
というわけで、二重国籍の取得者は多いし、永住権とか、夫婦でも国籍が違うとか。こんな狭い日本でもまだヨソモノがどうたらこうたらとか。何をもって自由な気風と語るかと言えば、ヨソモノの受け入れるキャパを指している気がするくらいだ。
イラクの人質事件といい、北朝鮮の拉致問題といい、結局、戦争をやっているんだから仕方がないという諦めもある。つまりは、普通の誘拐ではなく、いわゆる捕虜として連行されているわけで、日本からみれば、北朝鮮に残された家族というのは、いわば捕虜であり人質だから無事に救出しなければならない。
ところが、運命は皮肉で、曽我ひとみさんのご主人は元アメリカ兵。おそらくは朝鮮戦争の時に兵士としてやって来て、そのまま北朝鮮に亡命してしまったのだろうか。
これは、脱走兵というか、国に対する裏切りというか、グアムですら戦争が終わった後でもつかまらないようにジャングルで生きていた日本兵のことを考えると、それくらい恐ろしい出来事。だから、ジェンキンスさんが、アメリカが怖い、同盟国の日本が怖いのは当たり前の話であり、それこそ軍事裁判クラスの不祥事かもしれないし、今さらという気がしなくもないけど、現にアメリカはずっと戦争を続けている国だし信用できない。
本当に平和な世の中なら、どうして拉致被害者の人たちが自由に二つの国を行き来できないのか。
詳しいことは知らないけれども、一度、軍隊で”不適格者”のレッテルを貼られてしまうと大変らしい。戦時下になればどこでもそうなのかもしれない。非国民とかさ。愛国心とか、国への忠誠とか、移民の多い国だからこそアメリカのほうが厳しいのかも。
毎日、朝礼の時間に「君が代」を歌わされたらたまらんぜよ。かといって、今さら徹底的に「君が代」を排除する姿勢というのも大袈裟すぎ。
オリンピックで「君が代」が流れるとうれしい。昔の選手たちみたいに何が何でも国の名誉をかけて、というのも大袈裟すぎるような気がするけど、それでも日本の選手が勝てばうれしい。
もう、なんか、戦争後遺症というか、民族主義的な発想にもうんざりだけど、いざこのように日本人が拉致されたりすると、政府は働く。首相が行って直接話をしないと何も解決しない。かといって、今の状態では、北朝鮮から”将軍さま”がやって来たとしてもうれしくない。石をぶつけようとまでは思わないけど、どうせ国内でですら暗殺を恐れて生きているのかもしれないし、それでいて、北朝鮮の人たちのプライドを傷つけないためには、ってことなんだろうな。
なんかね・・・いい加減にしてほしい。
あたくしはバカンスの仕度に忙しいのである。
自由にあっちゃこっちゃと飛び回る。
ローマのスリ、怖い。
どこの国にも悪い人はいるし、素晴らしい人もいる。
アミハイだって詠っている。
戦争していることが恥なんだよ。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
ハギトの子アドニヤはソロモンの母バト・シェバのもとに行った。彼女が、「穏やかな事のために来たのですか」と尋ねると、彼は、「穏やかな事のためです」と答えた。彼が、「実はお話ししたい事があります」と言葉を続けると、彼女は、「話してごらんなさい」と答えたので、彼は言った。「ご存知のとおり、王位はわたしのものであり、すべてのイスラエル人はわたしが王となるように期待していました。しかし、王位は移って弟のものとなりました。主のお計らいによってそうなったのです。今、お願いを一つ申し上げます。断らないでください。」彼女が、「話してごらんなさい」と言うので、彼は言った。「あのシュネムの女アビシャグをわたしの妻にしていただけるように、ソロモン王に頼んでください。あなたの願いなら王もお断りにならないでしょう。」バト・シェバは、「いいでしょう。あなたのために王に話します」と答えた。彼女はアドニヤのために取り次ごうとして、ソロモン王のもとに行った。王は立ち上がって母を迎え、その前にひれ伏し、王座に着き、母のためにも席を設けさせた。彼女は王の右に座った。「小さなお願いが一つあります。断らないでください」と彼女が言った。王が、「母上、願いを言ってください。あなたの願いなら、わたしは断りません」と答えたので、彼女は言った。「あのシュネムの女アビシャグをあなたの兄アドニヤの妻にしてください。」ソロモンは母に答えた。「どうしてアドニヤのためにシュネムの女アビシャグを願うのですか。彼はわたしの兄なのですから、彼のために王位も願ってはいかがですか。祭司アビアタルのためにも、ツェルヤの子ヨアブのためにもそうなさってはいかがですか。」ソロモン王は主にかけてこう誓った。「アドニヤがこのような要求をしてもなお生きているなら、神が幾重にもわたしを罰してくださるように。わたしを揺るぎないものとして、父ダビデの王座につかせ、お約束どおりわたしのために家を興された主は生きておられる。アドニヤは今日死なねばならない。」ソロモン王はヨアダの子ベナヤを送ってアドニヤを討たせたので、アドニヤは死んだ。
「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
ゆりかごで寝てるがごとくゆりの花晴れ間の中で目を覚ましたり
台風の画面を見てもわが空は快晴なると不可思議に思う
ひんやりと春の空気に戻りたる風の吹くみち人のゆきかう
雨に濡れ露光たるあらくさは梅雨を待ちたる人をかいぬけ
ヴァカンスをコートダジュール、メリディアン。アジアのほうが素晴らしいよ、と。
そうなのよ、ヴァカンスならばアジアには素敵な海に椰子の風吹く。
えんえんと飛行機に乗る長旅にヴァカンスもとむ愚かなあたし。
モロッコはエルサレムはと考えててろてろマーク危険な地域
地球上あらゆるとこに人がいる。海の底さえ軍事演習。
めんどーだ、うっとおしいと思っても、人はいるいる、歩いています。
ルカによる福音書 14. 34-35 塩気のなくなった塩
娘はフランスに行きたいという。一体どこへ行きたいと思っているんだろう。だれか知っていたらおしえてほしい。
癒しを求めるなら田舎。素朴なところ。”本物”がいる。本物のテロリストだったりして・・・あーやだやだ。じいさんが本物のテロリストでフランコ将軍の時代には活躍したとかさ・・・ゆううつになるな。バリ島のサルのほうがマシかも。
列王記上 2. 13-25
ソロモンのぷっつん。吐き気がするほどいやなやつ。
諦めよう。狡猾な猿どこにでも追い払われて山に群れたる。
大西洋田舎の列車に揺られればピレネー越えてバスクへ至る
こっちのほうがリゾート風。悩む。
ルカによる福音書 12. 22-34 思い悩むな
じゃ、ローマ行ってアシジ行って、ついでに地中海バカンス。(パリは?ま、いっか。)
わたしが再び目を留めて見ると、一つの巻物が飛んでいた。御使いがわたしに、「何を見ているのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「巻物が飛んでいるのが見えます。その長さは二十アンマ、幅は十アンマです。」彼はわたしに言った。「これは全地に向かって出て行く呪いである。すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。また偽って誓う者も、他の面の呪いに従って一掃される。」
わたしがこれを送り出す、と万軍の主は言われる。
わが名によって偽りの誓いをする者の家に入り
その家の中に宿り
梁も石ももろともに滅ぼしつくす。
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
そうそう・・・カフェやパブの常連というのは、そういうものなのかも。最初はよそよそしげに輪の中に入れないけど、何となく毎日顔をあわせているうちに親しくなる。何も考えてないと、どこへ行ってもつおい。断崖絶壁、壮絶な落差のある人もいるし、フラットな人もいるし、いろいろ。が、しかし・・・
お休みをたった一日伸ばしたいそれだけのため一生懸命
ニースからパリまでの距離考えて東京−札幌飛行機に乗る
日帰りのモン・サン・ミシェル飛騨までの往復を思う高速の道
砂漠には砂漠に暮らす人がいる広い海には潜水艦か
海の底潜って生きる人らには疑心暗鬼と孤独な自殺
死んだとて誰も気づかぬ海の底孤独の悲鳴不適格者と
狭き箱閉じ込められた人たちは光とどかぬ深海の底
潜水艦乗ってみたいと思ってもホッチキス手首恐ろしくなり
人殺したくさん乗せて深海をふねはゆくゆく息を潜ませ
フィリピの信徒への手紙 2. 1-11 キリストを模範とせよ
そういえば、モン・サン・ミシェルもまた海の孤島に修復するそうですね。いつのまにか砂が集まりすぎたから、また昔のように巡礼者たちが命を落としたような姿にするらしい。観光スポットだから仕方がないのかも。
海のみち歩けるように橋つくる橋のうえからモン・サン・ミシェル
ロボットが町の中でも手荷物をチェックしているイスラエルかな
ハイテクは人のこころを写し絵にみちをつくれりまちをつくれり
ヴァチカンとアッシジよりもマティスからパリを回ってモン・サン・ミシェル
凱旋門新しくなるパリのみち時の流れを感ずるもよし
ひねもすをガイドブックを眺めてはみじかき休み距離をつかめず
巡礼者が命がけで歩いた海の道と観光者が気ままに来訪するマティスの礼拝堂と・・・
ゼカリヤ書 5. 1-4 第六の幻
どちらにも神さまはいらっしゃるにはいらっしゃる・・・あーあ。そういう意味としか思えないではないですか・・・むずかしい。
ヴァカンスは太陽の下おきらくにミュゼをまわってバタイユを読む
遺跡とミュゼ。
わかりやすい。
ジーザスが大工の息子で、ペトロが漁師。象徴。
先祖が神殿つくり、ペトロはよい漁師。
エルサレムはイール・シャローム。
ジャズさんは花屋。
このシュールな感覚。
天の国ジェイルハウスにつどえれば世界にとどくみこころもある。
罪人よわれらはみんなジェイラーで大きく罪な人にもなれぬ
ちっぽけな罪の意識で酒を飲む懺悔も雨も夜明けのカラス
おおまじめくそまじめにも世の中は二階の窓から眺める風景
罪人は階段上りコソコソと狭き格子のはまった部屋へ
あのシュールな感覚。
今はもう消えた。
終わったんだな。
コリントの信徒への手紙 4. 10-13
わたしたちはジーザスのせいでおバカになった。
ひっそりと退廃のなかわがみちをさがす人らのぎんいろのへや
明るいよ。わがみち行くぞといさましく弱弱しくもぎんいろのへや
イール・シャローム神の愛する御園ではペトロがいまも漁師をしてる
イール・シャローム神の愛する御園ではマリアがママでヨハネがパパで
イール・シャローム神の愛する御園ではジェイルハウスによわき罪人
イール・シャローム神の愛する御園ではダビデの詩のハープとともに
使徒言行録 28. 29
いつの時代も変わらない。
言っても無駄。信じていないんだから。「かしこみてまおす」じゃないとあかんねん。
ジーザスはいまごろなにをしていると砂漠の写真ながめてすごす
大陸の三分の一砂漠かな砂の嵐は大地走れり
風吹けば埋もれてしまう砂漠にも町はつくられ砂に埋もれる
わたくしは砂漠の孤独耐えられぬ深海のなか生きられもせず
湖もうごかす砂の大地にはあるがままにぞ生きるにかたく
ラビはすごい。聖書丸暗記してるんだから。歩く聖書。
広辞苑暗記しても詩人にはなれん。歩く広辞苑。名編集者。よーわからん。
ヨハネによる福音書 19. 31-37 イエスのわき腹を槍で突く
「その証しは真実」。やっぱ、歩く聖書、生きる聖書なのかも。
サウルは言った。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した。」ダビデは答えた。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが兄弟たちに対して、罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て、「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンのという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。
パレスチナ『イール・シャローム』エルサレム。平和の町か。ヘンな気分ね。
エルサレム観光写真眺めても聖書の世界マイケル・ジャクソン。
青い服雁字搦めのエルサレム着て歩いたら撃たれてしまう?
日本人何しに来たかと不可思議にガイドブックは巡礼の旅
床の上魚2匹を眺めればイメージ崩れジーザス探す
金色の阿修羅のような青い塔千夜一夜のイメージ崩れ
ミコノスへ行こうと思いアテネ五輪思い出してはさわさわとする
アミハイが”観光客”と呼ぶ人ら聖書の中も紀元で分かつ
さわさわと巡礼者らの行き交えば地元の人ら嘆きの壁か
しらけどり飛んで行くよなエルサレム戦火の旅はしらじらとする
使徒言行録 10. 1-8 コルネリウス、カイサリアで幻を見る
カイサリア海はつづくよどこまでも風に吹かれてみことばは行く
飛び立とうジーザスと共に風のなか海風のなか未来へ過去へ
イール・シャローム平和の町はおとづるる遥かな風にあなたにも吹く
コリントの信徒への手紙 8. 1-13 偶像に供えられた肉
それっぽくなるなといつもジーザスはわけのわからぬ愛をさとせり
カトリック、巡礼の旅、エルサレム。庭の梨の木、枯れ木の十字架。
イール・シャローム神の愛する御園かな平和な風の吹きそそぐ町
イール・シャローム神の愛するやすらぎの眠りを誘う春風の町
イール・シャローム神の愛するパラダイスいづこにあると風に尋ねる
イール・シャローム神の愛する永遠の砂のお城の夕暮るる海
エルサレム失望の町絶望の中人は暮らせり
サムエル記上 26. 21-25
エルサレムでなくイール・シャロームへ行きたい。
その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのものちに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
ヤコブの家よ、これを聞け。
ユダの水に源を発し
イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。
まこともなく、恵みの業をすることもないのに
主の名をもって誓い
イスラエルの神の名を唱える者よ。
聖なる都に属する者と称され
その御名を万軍の主と呼ぶイスラエルの神に
依りすがる者よ。
初めからのことをわたしは既に告げてきた。
わたしの口から出た事をわたしは知らせた。
突如、わたしは事を起こし、それは実現した。
お前が頑固で、鉄の首筋をもち
青銅の額をもつことを知っているから
わたしはお前に昔から知らせ
事が起こる前に告げておいた。
これらのことを起こしたのは、わたしの偶像だ
これを命じたのは、わたしの木像と鋳像だと
お前に言わせないためだ。
お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。
自分でもそれを告げうるではないか。
これから起こる新しいことを知らせよう。
隠されていたこと、お前の知らぬことを。
それは今、創造された。
昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。
それをお前に聞かせたことはない。
見よ、わたしは知っていたと
お前に言わせないためだ。
お前は聞いたこともなく、知ってもおらず
耳も開かれたことはなかった。
お前は裏切りを重ねる者
生まれたときから背く者と呼ばれていることを
わたしは知っていたから。
わたしは、わたしの名のために怒りを抑え
わたしの栄誉のために耐えて
お前を滅ぼさないようにした。
見よ、わたしは火をもってお前を練るが
銀としてではない。
わたしは苦しみの炉でお前を試みる。
わたし自身のために、わたし自身のために
わたしは事を起こす。
わたしの栄光が汚されてよいであろうか。
わたしはそれをほかの者には与えない。
ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。
わたしが呼び出したイスラエル。
わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。
わたしの手は地の基を据え
わたしの右手は天を延べた。
わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。
皆、集まって聞くがよい。
彼らのうちに、これを告げた者があろうか。
主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い
主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。
わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。
彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる。
わたしのもとに近づいて、聞くがよい。
わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。
事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。
今、主である神はわたしを遣わし
その霊を与えてくださった。
イスラエルの聖なる神
あなたを贖う主はこう言われる。
わたしは主、あなたの神
わたしはあなたを教えて力をもたせ
あなたを導いて道を行かせる。
わたしの戒めに耳を傾けるなら
あなたの平和は大河のように
恵みは海の波のようになる。
あなたの子孫は砂のように
あなたから出る子らは砂の粒のように増え
その名はわたしの前から
断たれることも、滅ぼされることもない。
バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。
喜びの声をもって告げ知らせ
地の果てまで響かせ、届かせよ。
主は僕ヤコブを贖われた、と言え。
主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも
彼らは渇くことがない。
主は彼らのために岩から水を流れ出させる。
岩は裂け、水がほとばしる。
神に逆らう者に平和はない、と主は言われる。
賛歌。アサフの詩。
神々の神、主は、御言葉を発し
日の出るところから日の入るところまで
地を呼び集められる。
麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
わたしたちの神は来られる
黙してはおられない。
御前を火が焼き尽くして行き
御もとには嵐が吹き荒れている。
神は御自分の民を裁くために
上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。
「わたしの前に集めよ
わたしの慈しみに生きる者を
いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
天は神の正しいことを告げ知らせる。
神は御自ら裁きを行われる。
「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。
イスラエルよ、わたしはお前を告発する。
わたしは神、わたしはお前の神。
献げ物についてお前を責めはしない。
お前の焼き尽くす献げ物は
常にわたしの前に置かれている。
わたしはお前の家から雄牛を取らず
囲いの中から雄山羊を取ることもしない。
森の生き物は、すべてわたしのもの
山々に群がる獣も、わたしのもの。
山々の鳥をわたしはすべて知っている。
獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。
たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。
わたしが雄牛の肉を食べ
雄山羊の血を飲むとでも言うのか。
告白を神へのいけにえとしてささげ
いと高き神に満願の献げ物をせよ。
それから、わたしを呼ぶがよい。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
そのことによって
お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
神は背く者に言われる。
「お前はわたしの掟を片端から唱え
わたしの契約を口にする。
どういうつもりか。
お前はわたしの諭しを憎み
わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。
盗人と見ればこれにくみし
姦淫を行う者の仲間になる。
悪事は口に親しみ
欺きが舌を制御している。
座しては兄弟をそしり
同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。
わたしが黙しているとでも思うのか。
わたしをお前に似たものと見なすのか。
罪状をお前の目の前に並べて
わたしはお前を責める。
神を忘れる者よ、わきまえよ。
さもなくば、わたしはお前を裂く。
お前を救える者はいない。
告白をいけにえとしてささげる人は
わたしを栄光に輝かすであろう。
道を正す人に
わたしは神の救いを示そう。」
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
アミハイの詩集を読んだ日曜日エルサレムとはドームのことか
たちこめる祈りの世界窒息で無神論者のレッテル貼られ
救世主待ち望んでる街の中祈りの匂いたちこめている
もう来たよ、メシアは来たと言ったとて、いぶかしげにも祈りたちこめ
悲しみよ、哀歌の中の悲しみよ、悲しみの意味、少しだけ知る。
マルコによる福音書 9. 2-13 イエスの姿が変わる
エルサレム生きた化石を見るように観光客の眺める人ら
エルサレム過去の化石を見るようにローマの頃の遺跡をながむ
いにしえに今の時さえエルサレム神を愛して愛を知らずに
悲しみはすれちがう人悲しみの別れのような永遠の日々
弾丸の流れのような神の愛救いを求む悲しき人よ
アミハイは言の葉残しわれはなお未知なる世界しずくのように
詩編 50. 1-23
マザーとアミハイ。天国と地獄。死にそうだ。
神さまは二冊の本を与われた。思索に耽る日曜日かな。
「おじいさん、メシアは来たよ」孫が言う暈け老人の介護のようだ。
はろばろと生きた月日の苦しけれ平和な時代孫と歩みぬ
本当に彼がメシアと気づかない憐れなるかな偉大な人ら
2000年天の周期の何週と数えてむなし地球人かな
風吹けば虹の意味さえ知らなくもはろばろとした悲しみ思う
神さまはみんなを愛すと言うけれど風は吹く吹く開拓の地に
あの苦労この苦労など言われても苦労知らずは泣き言ばかり
イザヤ書 48. 1-22 預言の成就
一粒の砂・・・おおお・・・・・・・
憐れみを一つください一粒の砂握りしめ落ちゆく日々よ
神の愛落ち日のような輝きはくりかえす波一粒の砂
永遠の命の燃える砂浜の一粒の砂小さかったよ
小さくてぱらぱら落つる砂の粒数えてむなし太陽の下
幼子の無邪気に遊ぶ砂浜はシャベルで掬いバケツを返す
淡々と夕暮るるまで幼子は波に戯れ砂に戯れ
ヨハネによる福音書 3. 22-30 イエスと洗礼者ヨハネ
リフレインだ。
みこころの風は吹く吹く青い空白い雲だに時を告げゆく
太陽の下、再びわたしは見た。
足の速い者が競争に、強い者が戦いに
必ずしも勝つとは言えない。
知恵があるといってパンにありつくのでも
聡明だからといって富を得るのでも
知識があるといって好意をもたれるのでもない。
時と機会はだれにでも臨むが
人間がその時を知らないだけだ。
魚が運悪く網にかかったり
鳥が罠にかかったりするように
人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。
華やかな孤独の匂いひしひしと生活臭と華美の転寝
懐かしい青山の頃振り返るふたり合わせてひとりの人生
われ知らぬいち先生の若き日をわれ知る頃と重ね合わせて
青山ですれちがいたる人生をつくばねの下十年の月日
偶然は粉々にした消失をみもふたもなく光にさらす
使徒言行録 7. 50
あの人もこの人もまたわたくしも造られた美の幻影のなか
女性とは鏡のような人間で女性になれぬ女性を描く
幽玄の幻の中ひねもすは透きとおる壁そっと突きぬけ
若き日か退廃なのかすでに過去ゆきてとおるは冥福のなか
幻影も造りた日々も遠のけばなつかしき友話つくせぬ
歴代誌下 32. 31
自殺かと思ってみても違っても何も変わらぬ孤独というもの
驚かぬわれらの不思議都会にはシュールな影の出会いもありき
われらには田舎暮らしと子育てが。彼は眠れり故郷の土か。
頑なにシュガーポットのスプーンには粒が固まる憤りあり
繊細は頑ななまで神経を頑なにして繊細に死す
繊細は夕暮るる波浸す足落として残る砂の粒かな
落としても洗ってみても白砂は無限の粒に愛を伝えり
ちっぽけな余分な砂の落ちぬよう一粒の愛握りしめても
公約数黙って逸らす視線でもシュガースプーンをゆるせない人
わかるよなわからないよな苦しみはつたえてむなしスプーンの孤独
琴の音をグランドピアノで支えればハープの音の流れゆく日は
ひとりにはひとりの音の流れゆく風かさなればピアノは狭し
コヘレトの言葉 9. 11-12
頑なにクチュールの中生き抜けば翻弄さるる怒涛の時代
若者の流行のなか千葉一雄見つけ喜ぶ憂いの楽し
広大な宇宙に浮かぶ青き星白雲かかる美しきテラ
わが星の青き光の浮かびては幼子のごと愛らしきさま
とこしえに楽園のごと住まえれば花は微笑み海はかがやく
パラダイス不毛な園に変わりては破壊のゆくてとどまることなく
さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群集は、呪われている。」彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
ささやかな警鐘の音鳴り響く炎症かかえ病となりぬ
機械なら取替えもきくわたくしは痛みともない苦しみ走る
マック死す片足となり弱まりぬ犬も癌かと骨壷の中
「犬死」と考えてみて200万広辞苑すら改まるかな
うしなって悲しきいのちいくつある愛に飢えたり愛はあまりぬ
生類憐れみ時代到来す隣の子よりわが犬愛し
ヨハネによる福音書 7. 45-52 ユダヤ人指導者たちの不信仰
歴史には悪法なりと書かれしも時の流れは辞書をも変える
今と過去近くて遠い風の音母の代わりに呼ばるるマック
うしなって悲しきいのちいくつあるオトの保険を勧められた日
愛されることを忘れた人々は愛することさえ労を惜しみぬ
人間の尊厳ですらめくるめく日々は悲しきオトと昼寝す
殺伐と人の根埋もる世の中は素直な犬にこころ癒され
オトですらこんなに愛をくれるのに愛に飢えたる人は絶えない
ヨハネによる福音書 8. 40
うたことば雅と俗を区別せし時代もむなしうつろわもがな
マスコミを疎むが本音空港の映像を思うフィルムは残る
おとこ歌詠むがごとくとわたくしは気楽な笑みであかんべをする
つくられし時代の鐘は千年紀始まりの中しづかに聴こえ
あれもダメこれもダメだと言われては複雑な文字聖書をながむ
見たとおり聞いたとおりを伝えてもあれこれむなしいつの時代も
ジーザスといると孤独に思われる?恋人いるかと訊いてやるかな
みこころを人形のごと描いては地面に文字を書く神を思いぬ
ややこしい質問の中おなじこと書いては消してくりかえしたる
もうすでに決まっているとみことばはダニエル書みてエルサレム思う
裁きの日地球は満ちて立ち止まるただそれだけとあっさり書かれ
語感とはむなしき日々の砂文字は書かれた文字を素直に読めり
宇宙色計算しては研究す色相環のどまんなかとは
どまんなか白きやみ路のゆくすえは靄かすみたる道すじとなる
あっさりと書かれてむなしわたくしは地球に生まれ土に戻れり
うしなって悲しきいのちいくつある愛するがゆえ悲しくもあり
愛のない人らの死すを遠ければわが犬さえも近くにおもう
愛という方程式は簡単で死は正直でこころを描き
神さまはみんなを愛すというけれどマザーはやさし”神”は厳しき
ローマの信徒への手紙 1. 7
鬱々と遠くの日々を思うよりわが犬愛し気楽に生きる
ゆびさきの動かぬ母のゆびさきはゆっくりとして爪がのびゆく
「母さんは元気になった」弟は無邪気に笑い喜んでいる
白髪がゆっくりまじる散髪は短き髪をさらに切りおり
ゆびさきのいつも冷たい母の手が動かないのにぬくるんでいる
くちびるは息だけのためひらかれてなにか言いそでなにも語らぬ
うつろげになにを見つめる片目あけ閉じることなく宙をさまよう
感情は涙浮かべて咳をして苦しげな息聞こえるばかり
今生の別れとばかり咳の音がしづかにねむる母の言の葉
わが母を寝たきりなんて言わないで、動けないだけ、話せないだけ
声の出ぬ苦しみはまた空の息こだまする部屋ことのはむなし
リューマチの叔母の明るい話し声歩けることは苦しみを超す
苦しみに生きることさえかなしいとおもえる吾は死の鐘遠く
ジーザスは6時間だに死のためにあな不思議なり人は死なずや
磔刑は事実でしょうけど、磔刑で亡くなったわけではない。人間はそんなに簡単には死ねない。もっとひどい状態でも生き続けなければならない。
使徒言行録 10. 1-2
天使は体弱いのかも・・・
元気にぞ生まれいでては病弱な家族をあたう苦しみもある
次から次次から次次から次次から次・・・・次から次、だ。
コリントの信徒への手紙 二 11. 30
まあ、いいや。なんでもいい。なにもないほうがどうかしてる。
娘は遠足から戻って寝ているし、ダンナは友だちの快気祝いがあるためにお出かけしたので、サイトを更新。更新したら娘を起こし、今日は面倒だからファミレスにでも行こう。なんせこのところ非常に鬱々しており、ステファン・ミクスが悪いのかもしれないし、すっかり自分の世界に入ってしまっている。
例の如く、母は肺炎から立ち直り、またあの状態のまま生きていくのだろう。「寝たきりの老人」と定義するにはあれ以上の重度の状態はないらしいし、食事も喉に孔を空けてそこから栄養食。何かあれば酸素マスク、点滴、かろうじて自発呼吸があるのと、脳が一部生きているために脳死でもない。感染症があるために、個室か二人部屋、それでも緊急性がないために、状況によってはたまに大部屋という具合に病院で生きている。起きているのか寝ているのかもわからない。寒いのか暑いのかもわからない。耳が聞こえるのか、目が見えるのかもわからない。それでも母は生きている。一人では、指の先さえ動かせない。頭の向きさえ変えられない。つまりは動けない。自発呼吸があったとしても、すでにあの状態では家で介護することは不可能。それでも老人病院にいるわけではないので、清潔にしている。家族がするのは、せいぜい替えのタオルの洗濯と爪を切ることくらいで、それ以外は看護婦さん。
一番悲しいのは、そういう状態でも、「母は元気です」と言うことかもしれない。元気は元気なのだろう。ほとんど意識のない状態でも元気だし、体力があるからあのように肺炎を起こしても快復する。
祖母は、脳出血で3日で眠るように亡くなった。それから20年以上経過し、母は脳出血とくも膜下出血の同時併発で脳のオペ。命を取り留めたとしても、「寝たきり」を宣告されていた。なんて便利な言葉だろう。「寝たきり」。同じ寝たきりでも話せる人もいれば、食事のできる人もいる。それくらい個人差が激しい便利な言葉。
弟などはシンプルだから、「近頃、母さん、元気になってね」と言う。逆に、状態を話すと、世間の人たちは一生懸命に励ましてくれるそう。私などはすでにそういう話はあまりしないようにしている。説明するのも疲れるからかも。義姉などは姑さんが寝たきりになったらどうしようかと真面目に心配しているけれども、母のことを考えると、世の中はどうとでもなるとしか言えない。よく考えてみれば、そのおかげでその手のグチをあまり相手にしなくても済むようになったのだから、喜ぶべきかもしれない。母の状態を考えれば、まだ自分で歩けるとか、話せるとか、それだけでも幸せな気分になるからかも。自分的には鬱の種であり、なんであんなに苦しい思いをしてまで生きていかなければならないのかわからなくなるし、自分の時にはさらに医療が進歩して、母よりも意識がはっきりしていれば、もっとつらい思いをしなければならないかもしれない。
人それぞれだ。「なんであんなに苦しい思いをしてまで」と思うのはまだ自分が若いからかもしれないし、叔母たちにしてみれば、明日のわが身だから、「動けるうちは」と思ってがんばっている。
そうやっているうちに結社誌が届いた。なんか、こう、うまく説明できないけれども、自分の歌が載っていてもどこか遠くの世界の出来事のようであり、遠い。他人の歌を眺めるように、羅列された歌を眺める。切り揃えられたばかりの木のようであり、「かたいな」と思っただけ。常識的な概念歌が多いせいかもしれない。「ああ、こうやって自分というものが切られて存在していくのか」と思った。それでいて、痛みもない。「母よりマシだ」とわけのわからんことを考えながら、ステファンの鬱に浸る。『孤高の歌人』。いつから孤高の歌人になったんだろうと思いながら、聖書を開くようになって以来、そういえば、かつての軽いノリも嫌うようになってしまったし、それでいて自分の毒はおさまる所を知らないらしい。
かつて、岡井さんが近藤さん宛てに歌を送りつけていたという記述をどこかで読んだ記憶があるけれど、そういう結社のライバル意識とか徒弟制を、自分の場合、テンションとして維持できない。歌会に行ったことがないせいかも、とか、歌を読んで入会したのではないから、とか、そういうことかもしれないと思っていたけれど、どうもそれとも違うらしい。ほかの結社誌でも、まずは気になる歌人を見つけて、とか、そういう風に書いてあった気がするけど、どうもそういう気分にはなれない。いたとしても、そこに何をぶつけろというのだろう?私のグチグチ、うだうだ、か?
無理だ。そもそもが答えのない世界のうだうだであり、グチグチであり、それを誰かにどうやって言っても無意味。だから、神さまとだけお話せよ、ということなのかも。今頃気づく。
こう、うまく説明できないけど、結社に送って急にうたを詠む気がしなくなってしまった時期がある。結社が悪いのではなく、なんて言ったらいいのだろう。気力が消えてしまったというか・・・退屈で退屈で、精神が死にそうになった。
全然、孤高の人ではないにもかかわらず、歌に関しては、孤高の歌人なのかもしれない。なんか大袈裟すぎて好きな表現ではないけど。まあ、いいか。ステファン・ミクスは重すぎ。でも、一度、この味を知ってしまったらうまく復帰できそうにない。あるいは復帰する必要もないのかもしれない。まあ、いいや。アートってそれくらい厳しい。孤高の極み。セカンド・アートか。言っても通じなかった。アートは厳しい。他人の介在をゆるさないくらい厳しい。深く考えたくない。
彼は、わたしに理解させようとしてこう言った。「ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。
お前の民と聖なる都に対して
七十週が定められている。
それが過ぎると逆らいは終わり
罪は封じられ、不義は償われる。
とこしえの正義が到来し
幻と預言は封じられ
最も聖なる者に油が注がれる。
これを知り、目覚めよ。
エルサレム復興と再建についての
御言葉が出されてから
油注がれた君の到来まで
七週あり、また、六十二週あって
危機のうちに広場と堀は再建される。
その六十二週のあと油注がれた者は
不当に断たれ
都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。
その終わりには洪水があり
終わりまで戦いが続き
荒廃は避けられない。
彼は一週の間、多くの者と同盟を固め
半週でいけにえと献げ物を廃止する。
憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして。
貧しい人を城門で踏みにじってはならない。
主は彼らに代わって争い
彼らの命を奪う者の命を、奪われるであろう。
怒りやすい者の友になるな。
激しやすい者と交わるな。
彼らの道に親しんで
あなたの魂を罠に落としてはならない。
犬の死を悲しむ人は獣医師を訴えているパニック障害
テレビでは年金問題一色で寝たきり支援長き老後か
就職難組織人間つくりてはコンセの中で埋もれて生きる
公約数数えてむなし人の数何分の一?わたしのことば
やさしいよ、あらゆる人はやさしいよ、あらゆる人が沈黙してる。
こころさえ死に絶えたまま灰色の後姿は茶髪に変わる
使徒言行録 26. 13
イタリアのガイドブックを開いてはブランドショップ見飽きて並ぶ
結社誌を開いてみてはわが歌が他人のごとく並んでおりし
つくりうた見飽きた文字の広がるを誰が眺めて喜んでおり
ちっぽけな活字のごとく並びおる女性フォーラム友に誘われ
ってことなんだろう。
箴言 22. 22-25
皇太子ことばすくなにえらびては2チャンネルはまむしのごとく
検索を眺めてみてもまむしの字見えてくるだけ沈黙の美よ
淡々と世にことばの消えゆけば憤りすらテロップとなる
遠足の準備に追われ街なみは祭りのように人を動かし
パズル表いくえにも消し難問は無意味なような時を見送る
砂時計流れるようにくりかえす小さな時間今日も過ぎゆく
ダニエル書 9. 22-27
たしかに聖書以上の難問はありませぬ・・・
一生懸命に子どもを産んで、言葉が遅いだの、女の子だの、キャリアまであれこれ言われて、鬱にならないほうがどうかしているかも。あたしだったら子どもと昼寝してる。世の中がどーなろーが知ったこっちゃねー。平和。
また、天使たちに関しては、
「神は、その天使たちを風とし、
御自分に仕える者たちを燃える炎とする」
と言われ、一方、御子に向かっては、こう言われました。
「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、
また、公正の笏が御国の笏である。」
イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」
鬱走るゆるびゆく日は母の死に苛立ちおぼゆ雨は降る降る
落ちゆかば幽玄の園幻のかさなりゆかば紅き楓よ
人の死の陰気臭さをおもわなば暗がりの人しのびてゆかめ
紫陽花は形の葉だけのばしてはてんとう虫をしのばせている
喉の孔白ガーゼのせ隠したるチューブの色は液体の色
ヨハネによる福音書 8. 14-15
やさしさが鬱々とする憂鬱は雨の降る日がちょうどいいかな
くりかえし覚悟してはとおおげさに細波のごと遠くに浮かぶ
沈みゆく海の底では生きられぬ波打ち際で砂文字をかく
うつろわば日は流れゆく苦しみは同情されて深海の砂
弟に鬱うつしてはメール読むやけにやさしい世間がかなし
退廃よ、いつかはみんな死ぬものと笑い飛ばして遊んでおくれ。
手品など急にやりだす夫がおかしヒステリーにもなれないわたし
明日来れば陽は昇りゆき日が変わるもの悲しくも遠足はある
ひねもすは鬱々として明るくて日は変わりゆきひねもすとなる
沈みゆけ。わが精神よ沈みゆけ。憐れみもない太陽の下。
ヨハネによる福音書 19. 28
姑の「足うらたたき」宅配便ツボでも叩き鬱をつぶさん
鬱々と鬱を回してひねもすは地球のようにつながりゆかめ
苛立ちは空回りしてひねもすは地球のようにとどまり回る
愛という白き世界のまばゆかばうめぼしを食み大和路歩く
ゆっくりと沈める夕陽眺むよう朝陽ののぼる太平洋か
十字架は大きくもなり小さくもなり枯れ枝もフェンスにありき
朴訥に風の吹きたる丘の上風のゆくえを風と眺めし
ヘブライ人への手紙 1. 7-8
風のうたささやく声を聴きながら透かし日の色青くひろがる
闇から光。もう慣れた。慣れすぎかもしれない。
これで足りないとラテンのノリ。とことん落ちれば憐れみのなか。
落ちるまでが大変。
ステファン・ミクスはきつい。
イエスはまた群集にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
現実は寝たきりの母言葉すら空しきものとただ生きるだけ
寝たきりの母が元気な夢の中われは若くて反抗がちで
そばにいて幸せだったことはない癒しなき母遠い昔か
母となり素直に吾子を愛するを喜んでいる他愛なき吾
母の日は素直な吾子に癒されしカーネーションは夫が買い求む
母はまた世を去りてゆきわれもまた吾子もまたゆくかえすがえすも
ヨブ記 14. 13
死ぬこともゆるされぬ母ひとりきりチューブの食で細々生きる
死ぬこともゆるさなかったわたくしはしがみついてはにげだしている
死ぬことも生きることさえできぬまま日はうつろえば吾子はそだちぬ
手厚くもあらゆる危篤のりきらば母は苦しみわれは礼言う
みなさんは本当によくしてくれる。それが悲しき絶望の部屋。
運命は複雑な糸からませて母は苦しみ子らを待ちたる
痛みすら覚えぬことを母のため喜んだとて苦しみの息
心臓の何度止まったことだろう。それでも母は生きて苦しむ。
生きていることさえ忘れ去られしも必死に生きる母は呼吸す
肺炎で酸素マスクに変えますと業務連絡鳴りゆくばかり
マニュアルは正しくもまた人の死を機械にゆだね最善の手技
ルカによる福音書 12. 54-56 時を見分ける
死ぬこともゆるされない時代。
わがいのち誰に預けて生きるかと問うも虚しき吾死ねるのか
永遠のいのちむなしきいちじくは造花のごとくたたずんでいる
枯れもせず生きるもむなしいのちかな淡々として足跡かろく
鮮やかなカーネーションは白百合を華やかにして母の日飾る
ヤコブの手紙 1. 18
霧の中ゆっくりとした退廃は言の葉のない人をつくりき
偽善者よいのちいのちとわめきたて言の葉奪い偽りの愛
死の予算のんびりたてるヒマな主婦死ぬまでの日を案じてやまぬ
雨の日は何もせぬとてサフィニアは天のめぐみをプランターに受く
飢餓の子は飢えに苦しみ老人は薬に苦しみ生死の過多よ
箴言 13. 23
母の日。娘に癒される。
もう私の年になると、母の日というと自分の母のことも思い出すし、自分が娘の母でもあるし、ややこしい。
それでもカサブランカを気まぐれで活けてあった花瓶にピンクや赤のカーネーションやカスミソウを一緒に活けるとグッと華やかになる。隣の駐車場に伸びてしまっている薔薇を切ろうと思ったけれど、今日はあいにくの雨でもあるし、庭の花はどうしても虫がついていたりするので悩む。
人間が成長しないと、わたくしみたいにいくつになっても母親のことを考えると、むかむかしてしまうというのも困る。考えてみれば、現実の母は4年半前から寝たきりであり意識もほとんどない。いわゆる植物状態のまま生きているわけだから、今さらむかつく理由もないのだけれど、どうしても元気なうちに倒れているせいか、こちらも娘気分になると未だにむかむかしてしまう。
「母」という抽象的存在に対して、遥かに私より娘のほうがやさしいし、愛情がある。簡単に語ると、私と母はいわゆる仲の悪い親子であり、私と娘はいわゆる仲の良い親子であり、私にしてみれば、仲の悪い親子から来る憤りを仲の良い親子で癒している。つまりは、自分が子どもの頃に憧れていた母というイメージを自分に重ねているわけで、自分の母を思い返せば、「ああいう母親にはなりたくない」という気持ちしかない。だから、娘にはそういう思いをさせたくない。なんてわかりやすいのだろう。そうやって自分で自分を癒している。
結局、親は選べない。でも、自分が親にはなれる。自分が完璧な親ではないことは自分が一番よく知っているけれども、それでいて仲良しだったらそれでいいかなーという。ふつうのお母さんに憧れる気持ちというのは他人に説明できるはずもなく、かりに理解してくれそうな人がいても、親子関係というのは他人が理解できるほどには簡単ではないために、結局は娘に癒されるしかないのかもしれないと、何となく思ったりもする。
もっと言ってしまえば、娘が癒しというよりも、娘に愛される自分が癒しなんだろう。だからねー、これに対してああでもない、こうでもない、と言いたがる人間は敵なのである。
いや・・・素直に娘を愛している自分が癒しなのかも。世の中には、自分の親のようになりたくないという理由で子どもを持ちたがらない人もいるくらいだから、それを考えたら、自分などは幸せだ。素直に娘を愛せる。それだけで幸せ。そうやって考えると、自分が思っているほどには自分は屈折していないのかもしれないし、それでいて未だにむかむかするということは自分が未熟なのかもしれないし、いずれにせよ、それが自分であり、そういう自分を素直に認める。だってなおらんから。
あの親がいたから自分がいるのだろうし、それでいて感謝するほどには自分は幸せではない。それでいて、不幸かと尋ねれば幸せであり、この辺の矛盾が何とも言えない。誰が私を幸せにしてくれているのか、という問題なのかもしれないし、母親のそばにいて、幸せを感じたことがないような気がするせいか、それとも当たり前だと思っているからそれに自分が気が付かないだけなのかわからない。子どもを持てば自分の苦労や気持ちがわかるだろうと母は高を括っていたけれども、ますますわからなくなった。あの人が言いたいこと、言いたかったことがますますわからなくなる。結論としては、それは誰にも理解できないことであり、おそらくはそこが違っていたのだろう。
今となってはすでに話し合うこともできないけれども、母を理解したいという気持ちもない。だから、素直に感謝できないのかも。それは互いに不幸であると知りながらも、寝たきりの母との確執は続く。確執というよりも人生闘争なのかも。あのように寝たきりになり、なおかつその姿を見て、素直に死なせてあげなかったのは私なのだろう。それでいて、あのようになりたくない、なったとしても娘には迷惑をかけたくない。あーなんとわがままなのだろう。その自分のわがままのせいで一番苦しんでいるのは誰なんだろう。
こうやって寝たきりの母にしがみついている。だから彼女はなかなか死ねないのかも。
一つわかったのは、生きているということに明確な意義のある人間などめったにいないということかも。だって、いつかは誰でも死ぬ。何のために生きているのかわからないけれども、彼女は生きている。それだけ。
イザヤ書 26. 18
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心を施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
主にわたしは申します
「あなたはわたしの神」と。
主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、わたしの神よ、救いの力よ
わたしが武器を執る日
先頭に立ってわたしを守ってください。
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
まぼろしのひろがりゆくかステファンのゆうゆうとした音に陽はしのびおる
庭しごと明け暮れた日は夕暮るる椅子に腰掛け朽ちたブランコ
枯れ枝の棒を拾いて十字架を不意につくりし吾子に驚く
あらくさを積み重ねては踏みゆかば夕暮るる薔薇色濃くなりゆ
芍薬の蕾立ちたる木陰には深き緑の静寂ありき
あらくさの匂いの中にしづみゆくかいよす熊手吾子のてのひら
ルカによる福音書 19. 41-44
少しずつ御子のてのひら借りるようブルーベリーの木の育ちゆく
ささやかな実をつけるかなブルーベリー忘れてしまった名を呼んでみる
植えたこと忘れた頃に育ちゆくマロニエの木の涼しげな葉よ
育ちゆく木々の速さに驚かば朽ちるブランコゆっくり外す
わたしにはわたしのためのアンブレラ吾子のためなるブランコありき
わが庭は朽ちたるものの多けれど育ちゆく木が日よけとなりき
突風であなたは傘を破壊した。なんどもなんども破壊した骨。
突風であなたはブランコ転がした。春一番と皆はいうけど。
台風に驚きもせぬブランコは気まぐれな風に転がり沈む
芝のみちあなたは消した。ヘデラみち大きな葉らの木陰を埋めゆ。
ミモザ葉よかろき枝など気まぐれに植えた日々さえ木陰に沈む
ささやかに水やる日には枯れ草のつもれる庭は雨だに生きる
サフィニアのゆっくりと咲くプランターわが手を離れ庭にしづもる
詩編 140. 7-8
幼き日記憶の砂の落つる音いつもあなたはそこにいたのか
蒲公英のくびかざりさえあの空へさしだすならばあたわれた春
クローバー花咲く日にはうららかにレンゲの蜜の味する春よ
夕暮るる空が茜に染まるまでわたしの時間しづかに過ぎる
氷柱さえ陽を浴び光るきらきらときらきらとしてどさりと落つる
ゆっくりとうつろう日々はゆくすえのわからぬ日々を悲しくかたる
華やかな街の光は美しくオリンピックは街を変え去る
幼き日母がまもった東京も見知らぬ人の過ぎゆくばかり
幼き日夫が育った神戸すら見知らぬ景色過ぎゆくばかり
夢にみる鳩のいる寺いづこかと母に尋ねてもはやわからぬ
幼き日記憶の砂に埋もれては落つる音さえもはや聴こえぬ
ふるさとを尋ねられてもわれらには迷子のみちのさししめす園
ノマドとはわれらのことかと遊牧はうつろう日々をなつかしく思う
ローマの信徒への手紙 2. 28-29
エルサレムをみて、彼は泣いた。悲しみの歌。
詩編 38. 22-23
聖霊の白き光のまばゆくば白い花々ひねもす咲かす
明日のこと今日のことさえ過ぎゆかば白き花さえいづこにか咲く
コロサイの信徒への手紙 1. 14
まことに、主であるわたしは変わることがない。
あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。
あなたたちは先祖の時代から
わたしの掟を離れ、それを守らなかった。
立ち帰れ、わたしに。
そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると
万軍の主は言われる。
しかし、あなたたちは言う
どのように立ち帰ればよいのか、と。
あなたの口を開いて弁護せよ
ものを言えない人を
犠牲になっている人の訴えを。
あなたの口を開いて正しく裁け
貧しく乏しい人の訴えを。
あでやかさは欺き、美しさは空しい。
主を畏れる女こそ、たたえられる。
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペテロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのことろへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
永遠と無限の意味を知っている花のいのちをつむぐゆびさき
美の世界永遠つむぐのこることおそろしき意味おちいる空よ
地に立ちぬ空はまわれり無限大無限につづく永遠のあり
たかが花されど花さえつむぎいぬ永遠という異空間かな
少しずつ切り裂くような言葉には無限の花のたちゆくがごと
言のはにひきこまれては逃げ出しぬ波打ち際の歌人なるかな
接触は火花となりき言の葉を無限に飛ばす核融合かな
いくつもの偶然の風吹きぬかばひねりくねりた白百合の葉たち
百合の葉のうねうねとした新緑は花びらの先うつし流れる
言葉とは見つめるものだと白百合は根のない茎で花を咲かせる
華道家の死に絶える花永遠と言い切るがごと厳しくもあり
美のために永遠のため無限さえ咲かせるために切られてしまった
躊躇いは明日の切り口増やすため可憐な花は咲いてくれるが
たかが花されど花さえあっさりとためらいもなく美をつむぎゆく
永遠は残酷なのだという花は美しきさま剣に載せて
假屋崎省吾作品への感想。
ヨハネによる福音書 6. 60-71 永遠の命の言葉
残酷で壮大な美というのもある。
生きた意味必死に証す花もあるもの悲しくも美しくもあり
花は咲くくれどもくれども花は咲くいのち燃やせと華道家は言う
幽玄はもの悲しくてはろばろと咲かせる花は首ばかりかな
明日のこと刹那的にも美しく咲けばいのちは幽玄の庭
幽玄の美。
箴言 31. 8-9,30
幽玄の美との闘い。
孤高にも音悲しくてステファンの民族の音ノマドの音よ
遊牧をすぎゆく日々のものがなし静かな調べノマドの涙
そよそよと笛の音する大地にはしみわたるほど澄んだ空かな
静けさにものおもいする木陰には夕暮るる空雲は流るる
マラキ書 3. 6-7
ねむりゆく木々さえ耳を澄ませたるしみいる音はいづくに消えゆ
わたしが奴隷たちの言い分を聞かず
はしための権利を拒んだことは、決してない。
もしあるというのなら
神が裁きに立たれるとき
わたしが何をしえよう。
神が調べられるとき何と答えられよう。
わたしを胎内に造ってくださった方が
彼らをもお造りになり
我々は同じ方によって
母の胎に置かれたのだから。
わたしが貧しい人々を失望させ
やもめが目を泣きつぶしても顧みず
食べ物を独り占めにし
みなしごを飢えさせたことは、決してない。
いや、わたしは若いころから
父となって彼らを育て
母の胎を出たときから
やもめたちを導く者であった。
着る物もなく弱り果てている人や
からだを覆う物もない貧しい人を
わたしが見過ごしにしたことは、決してない。
彼らは常にわたしの羊の毛でからだを暖めて
感謝したのだ。
わたしが裁きの座で見方の多いのをいいことにして
みなしごに手を振り上げたことは、決してない。
もしあるというなら
わたしの腕は肩から抜け落ちてもよい。
肘が砕けてもよい。
神の下される災いをわたしは恐れる。
その怒りには堪えられない。
開け放つテラスドアから射すひかり微笑みながらオトは寝ており
サフィニアの花が咲きたるプランター月日の中に埋もれている
都市の中のみこまれゆく年寄りは大真面目なり年金のこと
明日のこと気にせず生きる若者は失業保険を休暇に充てる
平和すら空気のように透明に無傷の体ピアスだらけに
くるくると小さな渦が離反する変わる社会と変わらぬ人ら
軽やかにすぎゆく日々の裏腹に深々とした泥水のあり
流れゆく川の旅路は濁らずにとどまりゆくは広き溜まりよ
小鳥すらいづこから来て去りゆくか巣をはる家は遠くの里か
「クリストファー」呼んでも答えぬオトくんは昔の名前とおに忘れり
血統書書かれた名前眺めてはいづこの国の出来事と思う
スーパーでドッグフードの試供品過保護なほどに健康を食む
野良犬の減った世の中うれしくも似たような犬街に溢れり
ヨブ記 31. 13-23
このところネタが欠如しているのと、ゴールデンウィーク中だったために、日記の更新をさぼっている。短歌というのはいわば言葉の反射神経のようなものなので、ちまちま詠んでは付け足す。そして、毎日のうだうだと共に聖書を開く。何が面白いかと言われれば、パッと開いたページから、その日の出来事やうだうだ、人生などを振りかえる。どうやって考えても、すべてが聖書にある。
というわけで、歌の時間は癒しの時間。聖書を写しているために重いかもしれないと思いながらも、密かなる楽しみのためにお休み中も続ける。主婦にとっては家族のいるお休みの日のほうが遥かに一人でいる時間が少ないためにどうしても後回しになるものは後回しにする。
それで思ったわけですよー、久しぶりにキリ番サイトのコラムなどを読みながら、どうして政治が面白くないのかわかってしまった。だって、しょせんは組織なんだよね・・・組織だから、自分の意見よりも組織の都合が優先される。政治というのは利権であり、「自分的にはAさんが好きだし、Bさんの言うことのほうが正しい気がする。しかし、会社や協会でこちらを支持するという以上そちらの政党や政治家に投票する。」
あっさり語るけど、個人の自由意志よりも組織の都合が優先されている。だから、つまらないから選挙にも行かない。選挙に行かないという良心的な行動もあるのかもしれないとすら思ってしまう。それくらい社会というのはややこしい。
そういう鬱憤を晴らすためにワイドショーがあるのかもしれないし、政治家の汚職ネタがあるのかもしれないし、社会ニュースが存在するのかもしれないと思うほどだ。ブログが流行ったというのもわかるよね。だって、個人の意見を個人として自由に発信できるわけだから。しかもネットだと匿名でもかまわない、というより、匿名が普通だから好き勝手に書ける。つまらん投票へ行くより面白い。戦争が始まって、報道規制。そういう中でも、現地からビシバシ情報を飛ばす人たちがいる。ニュースの原稿を読んでいる人たちが直接現地へ行ったわけでもないし、国会で答弁している人たちが直接現地へ行ったわけでもないケースも多いだろう。それを考えると生情報というのは信憑性はともかく面白い。
官邸(メルマガ)にメールする人が多いらしい。わたしも一度イラク戦争の時に送信した。掲載されても無記名。要するに意見は意見なのだから、誰でも気軽に書ける。組織で動くのとは違い、そちらのほうが世論に近い気がするけどどうなんだろう。こちらはこちらで、つまらんサイトのネタにする。そうやって情報や意見は循環し、いずれはどこかで統計的な数値として処理されることになるのだろう。
あれにこれにだからなぁ・・・それこそ社会はあれにこれに。あれにこれにとややこしく、トピックごとに投票制度を設けてほしいくらい。政党とか議員ではなく。そのほうがわかりやすい。すぐに、「今回の選挙の焦点は」などとくだらないことを解説する人間がいるために、そこに国民の意思があるかのような錯覚に陥ってしまう。結局、無党派層が重要となるのは番狂わせがあるからであり、大きく番狂わせがあるのはそうやって無党派の人たちが動いたときだから。でも、無党派と言われても・・・かく言う自分も基本的にノンポリティーク。夫婦といえども投票は別々。互いに興味なし。
あちらさんにはあちらさんの都合や意見があるのだろうし、こちらにもこちらの気分や都合がある。こうなると、まさしく投票も気分次第。だって、投票するより、サイトのネタにしているほうが面白いから。
大掛かりなトピック。例えば、消費税とか?
これもね・・・値上げの時には気分が悪かったけど、結局、これだけ物価が下がると消費税を取られているという意識が欠如してしまう。それと慣れなのかもしれない。スーパーの値段の表示も今月から税込み価格になり、どうしてそうなのか知らないけれど、もしかすると損かもしれないなどと思いながらも、そちらへの切り替えが始まっている。内税感覚なのかな。たばこやお酒みたいな感覚になり、麻痺してしまう。でも、税込み価格のほうがさっぱりしている。だって、支払う額は同じなのだから。中には消費税を支払う必要のないような店まで消費税を取っているのではないかというような気がすることもあるし、なんかね・・・
そういうつまらないことをいちいち気にするより、物価が下がったことを喜ぶ。なんせ、基本が学生、公務員、農家、の世界だから、世の中の経済状況があまり社会に反映されているという感じがしない。それよりもドラッグストアやコンビニすら過密でつぶれ、跡地に100円ショップや携帯屋。たしかに学生街では、うどんに1000円は支払わないだろうと思いながら、くるくる入れ替わる。ラーメン屋も多すぎてつぶれた。代わりに焼肉屋。ラーメンに1000円払うのなら、焼肉一皿400円、マックに行くよりサイゼリア。なんてわかりやすい土地柄なんだろう。
その代わりカフェ・テラスや女性向けの店も多い。花屋はつぶれた。そりゃそうよね、庭で育てればタダだもの。ドラッグストアやスーパーのほうが生産地が近いために良質の花が仕入れられる。種類は少ないけど、都会とはそこが違う。
それにしても、理想の社会?
そりゃ楽園でしょう。パラダイス。癒しのある社会。一生懸命にバリアフリーが叫ばれれば、そういう住宅が販売されるだけの話であり、どこに癒しがあるのだろう。あっさり語れば、輸入住宅なら敷居がないから、バリアフリー。風呂場に手すりはないけれども階段にはある。もともと。
家族の形態が変わってきたために、社会が変化する。生活が変わる。そして次には法律?年金がややこしく言われるようになったのは、皆が老後に一人暮らしをするのが当たり前になったからだろう。家族と同居している人たちは、小遣いと呼ぶらしい。
まあ、家で歌を詠んで、聖書を開いているだけなら金はかからない。
考えてみたら、うちって子どもの学費も大してかかっているわけでもないし、物価も安いし、エコノミカルな生活。このところアジアへ行くことが多かったから、買い物もそちらでする。そうすると着るものすらそれでまかなえてしまう。学生街はつおい。
一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
さて、王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった。彼は既に六十二歳であった。ダレイオスは、王国に百二十人の総督を置いて全国を治めさせることにし、また、王に損失がないようにするため、これらの総督から報告を受ける大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはそのひとりであった。ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。それで彼らは、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関してなんらかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話し合い、王のもとに集まってこう言った。「ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえますように。王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。王様、どうぞこの禁令を出し、その書面にご署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。」ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。役人たちはやって来て、ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け、王の前に進み出、禁令を引き合いに出してこう言った。「王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。」王は答えた。「そのとおりだ。メディアとペルシアの法律は廃棄されることはない。」彼らは王に言った。「王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して、日に三度祈りをささげています。」王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した。役人たちは王のもとに来て言った。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。
王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。王は命令を下して、ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた。穴の底にも達しないうちに、獅子は彼らに飛びかかり、骨までもかみ砕いた。
ダレイオス王は、全地に住む諸国、諸族、諸言語の人々に、次のように書き送った。「いっそうの繁栄を願って挨拶を送る。わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。
この神は生ける神、世々にいまし
その主権は滅びることなく、その支配は永遠。
この神は救い主、助け主。
天にも地にも、不思議な御業を行い
ダニエルを獅子の力から救われた。」
こうしてダニエルは、ダレイオスとペルシアのキュロスの治世を通して活躍した。
山々にどよめく音がする
多くの民の集う物音が。
もろもろの国が騒ぎ立ち
諸国の民の集められる音がする。
万軍の主が、軍勢を召集される。
彼らは遠くの地から来る
地平線のかなたから。
主とその怒りの道具として
この国を滅ぼし尽くすために。
神よ、あなたは我らを突き放し
怒って我らを散らされた。
どうか我らを立ち帰らせてください。
あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。
どうか砕かれたところを癒してください
大地は動揺しています。
あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ
よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。
あなたを畏れる人に対してさえそれを警告とし
真理を前にして
その警告を受け入れるようにされた。
あなたの愛する人々が助け出されるように
右の御手でお救いください。
それを我らへの答えとしてください。
われは今なにをしせるとおもわなば日課となりし聖書をひらく
南仏の写真をながめ旅行には海をもとめるクセののこりし
教会の写真をながめ不意に思うわれはいづこのマドレーヌに遭い
若い日は連れ立つ友と気まぐれに歩いた街は言の葉もなく
海見つめ時をすごせる夏の日はガイドブックが一番重く
アジアにはのんびり青い海の待つコートダジュールは何のためにか
気まぐれに旅立つ街の遠のけばスケジュールなど立ててもむなし
マザー・テレサの来日、法王さまの来日、なんかわさわさしていた頃、わたしはいったい何をしていたのだろう?おそらくはわさわさしながら鬱々と明るく生活していたような気が・・・
まさかね。長崎の爆心地でのマザー・テレサの祈り。虹。極楽とんぼはテロがあっても平気でパリへ。機関銃もった兵隊さんに平気で道順訊いてしまうのだから、今にしておもうとなんにも考えてないってつおい。ぼっけーっとしたせいかつ。まあ、いいや。ねこ。そうかも。ちかくてとおいできごと。
よのなかが気づかぬうちに吹き抜けるまわる地球はわれをまわせり
うごかないわれをまわして今日もまた日はうつりゆく朝な夕なと
気がつけば粗大ゴミだけたまりゆく月日の速さ地球のごとく
みこころのつながりゆけば無邪気にも被爆地あるく修学旅行
人類は人類としてわれはわれ一人一人の子を憐れみぬ
詩編 60. 3-7
ダビデよりつづきぬ嘆きわれもまたおなじこと思う二十歳の頃よ
百合の花気まぐれに買う春の日は暑さもすぎゆあともどりする
結局は人間なんて変わらない古今東西おなじこと思う
はろばろと怒りの渦の激しくば誰に怒れと空は笑いし
むなしけれあなむなしけれわざわいはわれらのうえにかなしみもまた
諦めよう。ねこにはわからんみことばはこむずかしくてねむりをさそう
静けさはジーザスのもの靄のなか情念ゆくはパリのこみちよ
バタイユがおしえてくれた。あの人は聖マドレーヌ。そんな気がした。
理屈では説明できぬ言の葉は言の葉のまま意のなかにある。
うらうらと明けゆく空はあおあおとしずけさのなか今日をあたわる
長崎の青いマリアはいづこにかねむりて春はかげろうのごと
イザヤ書 13. 4-5
何なんだろう。まだねむっている、記憶の砂。出来の悪い娘。怒りの渦。「エターナル・ファーザー」・・・エターナル・ファーザー。エターナル・ファーザー。怒りの渦。世の中すべてがゆるせない。出来の悪い娘。父にも怒りの炎の頃だから、天の父となるともう思い出せない。強烈に怒っていたから何を言ったのだろう?言ったというより、考えていただけだ。覚えているはずがない。一つわかったのは、出来の悪い娘ということかも。獅子の洞窟の中に投げ込まれたダニエル。わからない。
わかった・・・獅子の洞窟の中。利権渦巻く世界。地獄。拉致未遂。誘拐を恐れて実家を出て、1年くらい転々としていたような記憶が。家族と友人以外には居所を知らせないという・・・あーむかしばなしだ。母がそれが一番安全だと信じてたからな。たしかに・・・あたしはカンがいい。「神さまがまもってくださるから」、「はあ?」 たしかに、「こちらの信号を渡って走り出せ」と教えてくれた気がしてそのとおりにしたら、危機一髪、目だし帽から逃げおおせた。証人、うちのダンナ。ほんと卑怯だよね。「はんこ押さないなら娘を誘拐するぞ」って言ってほんとにするか?狂ってる。バブルの狂気。おそろしい。脅迫には屈せず。そう・・・だからある日突然、母がマンションを衝動買い。父は反対。何もかもがめちゃくちゃ。それでいて、ルン♪ よーわからん。
ダニエル書 6. 1-29 獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル
淡々と数字に変える精神は無機質な文字ならんでうれし
不景気がなぜかうれしい天邪鬼あれもこれもと買い換えている
フライパン500円なら買い換えて気分転換ささやかな日々
公務員・学生つどう金のない街はうるわしみどりの季節
今月はマツモトキヨシ潰れては100円ショップ一つ増えたる
消費税アップしたなら物価安国の借金空の星かな
マタイによる福音書 17. 24-27 神殿税を納める
獅子の洞窟的人生。やれやれ・・・
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにことのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国に鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上もつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉により生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷になっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。
「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
喜びの声をあげて叫べ、
産みの苦しみを知らない女よ。
一人取り残された女が夫のある女よりも、
多くの子を産むから。」
ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。
パソコンに名前をつけて呼んでいるそんな人らの愛はいづこに
お蔵入り旧き機械に愛着を持てる人マニアのことはマニアに訊けと
パソコンの葬式のため慰安する集える人ら今は消え去り
新しいパソコン買ってサーバかなルータをつなぎむすめとなりき
ガラテヤの信徒への手紙 4. 21-31 二人の女のたとえ
わた帽子タンポポ飛んで行くけれど今が夏かと陽はさすばかり
新緑の甘きかおりのただよえば木蔭の窓は風を待ちおり
新緑のシャワーを浴びる休みの日いつしか庭に木蔭のいやし
日当たりがよいかわるいか気にしては悩んだ日々も暑さに消えゆ
やさしいしおんさんに感謝。
マタイによる福音書 16. 16-19
霊はまた、わたしを引き上げ、主の神殿の東に面する東の門へ運んで行った。門の入り口に二十五人の男がおり、その中に民の指導者であるアズルの子ヤアザンヤとベナヤの子ペトラヤがいるのをわたしは見た。主はわたしに言われた。「人の子よ、この人々はこの都の中で悪をたくらみ、悪い計画を立てている。彼らは、『家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ』と言っている。それゆえ、彼らに向かって預言せよ。人の子よ、預言せよ。また、主の霊がわたしに降り、主は言われた。あなたは言わねばならない。主はこう言われる。イスラエルの家よ、お前たちはそのように言い張っている。わたしはお前たちが心に抱いていることを知っている。しかし、お前たちはこの都の中で殺される者を数多く出し、路上は殺された者で満たされる。それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちがこの都の中に積み上げる殺された者こそ、その肉にほかならず、都は鍋である。しかしわたしは、お前たちをそこから引き出す。お前たちは剣を恐れているが、わたしはお前たちの上に剣を臨ませる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちをそこから引き出して、異国人の手に渡し、お前たちに対する裁きを行う。お前たちは剣に撃たれて倒れる。わたしはイスラエルの国境でお前たちを裁く。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。この都が、お前たちにとって鍋となることはない。お前たちがその中で肉となることもない。わたしは、イスラエルの国境でお前たちを裁く。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。お前たちはわたしの掟に従って歩まず、わたしの法を行わず、かえって周囲の国々のならわしに従ってきた。」わたしが預言していると、ベナヤの子ペトラヤは死んだ。わたしは倒れ伏し、大声で叫んで言った。「ああ、主なる神よ。イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」と。
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたたちの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』それゆえ、あなたは言わなければならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。
わたしたちの子よ、
とても小さく、か弱い子、
まだ、巣のなかに隠れていて、
その家は母の胎内。
早く、あなたの顔を見たい、
あなたの声を聞きたい、
あなたをこの腕に抱きたい。
あなたの父、あなたの母は、あなたを精いっぱい愛するから。
あなたの人生が始まる日は
わたしたちには正確にはわからない。
父と母は愛のうちに一つになった、
天の扉が開き、
神が下ってこられたときに。
神はあなたの名を呼ばれた、
永遠の昔からあなたの名を知っておられ、
栄光の輝きのうちにあなたは在った。
すばらしいこと、
まだ生まれぬ子が母の胎内で、
キリストの来臨をはじめて知ったとき、
マリアがエリザベトを訪ねたとき、
その子は母の胎内で喜び躍った。
神はあなたの手を、脚を創られている、
精神と心をあなたに与えられる。
ご自分の写し、生き写し、
あなたの唯一無二、限りなく美しい魂とからだに。
あなたが幸せな人生を送れますように、
わたしたちを愛しながら、出会う人々にも
喜びと平和をもたらしますように。
御父に祈ります、
天と地を創りだし、
あなたのような幼子たちを助け、
親が子どもをもつことを望むようにし、
すべての幼子をこの世に生まれさせ、
ともに愛し合えるように育ててくださるように、
イエスが”傷つくまでも”わたしたちを愛されたように。
御父がわたしたちを呼ばれるまで、アーメン。
全能の神に感謝します、
わたしたちのこの子とほかのすべてのたまもの、
神のやさしい御手から、
主なるイエス・キリストをとおして受けたたまものに。
アーメン。
* 『愛----マザー・テレサ 日本人へのメッセージ』
三保 元・訳 女子パウロ会編 より
わたしは愚か者になってしまいました。あなたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大天使たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。
あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらへ行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐに来て食事の席に着きなさい』という者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕をしてくれ。お前はその後で食事をしないさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
なっちゃんのお父さんは偉かった。お母さんがなっちゃんが赤ちゃんの頃から入退院を繰り返し、とうとうずっと寝たきりになり、それ以来去年亡くなるまで謝りとおした。お祖母ちゃんが世話をしていてもすぐ下に妹がいるし、なっちゃんは悪い子なのでいつも叱られっぱなし。
というわけで、なっちゃんの話となると、母さん同士は目配せして苦笑いして通り過ぎるしかない。ノンバーバルコミュニケーション。おちびですら、自転車盗まれても水をかけられても何も言わない。ただし、目を鉛筆で刺されたときだけ。これはさすがに騒動になった。本人は、まぶたの上からだったから、家に帰って来たときには例の如く忘れてしまっていて、わたしがその話を知ったのは担任の先生から謝りの電話がかかってきたからだった。
先生も親も謝り通し。そういう学年だった。むすめに言わせると、「男の子はわるいんだからー」ということになるらしい。よくわからないけど、最初からそうだとそういうものだと思っているのだろう。さすが。慣れってすごい。それと学校の対応がよかったんでしょうね。親も静かだし、子どもも静か。だてに100点が当たり前の学校というわけではないらしい。お母さんたち、冷静。つおいけど。地域に支えられています、わたくしは。
ルカによる福音書 17. 1-10 赦し、信仰、奉仕
先生の開口一番「すみません」あちらこちらへ電話する日々
「またあの子」内心思って逃げ出して知らん顔して陽はうるわしく
ひつじの子数えてうれし保健室はなしそらしてそそくさ逃げる
吾子のため謝ることのないことをしあわせに思う職員室かな
かわるがわるなっちゃんの世話をして親の苦労はともしびとなる
高らかに「行って来ます」と元気よく飛び出してゆく吾子を見送る
引っ越したくないのよ。
コリントの信徒への手紙 12. 11-21 コリントの教会に対するパウロの心遣い
バーチャルに失望しては不信感つのりてやまぬネットの闇よ
これでまたふりだしかなとかんがえておとなの世界子らに劣りし
ご奉仕をせっせとやみでつづけては非難轟々ひかりうるわし
マザー・テレサの言葉 『わたしどもの修道会の修道女や修道士は飢えという貧しさ、孤独で、愛されず、世話をしてもらえないという貧しさに苦しむ人々にとって、神の愛の日ざしとなりたいと願っています。今日では、望まれないことや愛されないことのほうが、ハンセン病や結核、癌など、治療する薬がある病気よりも、ずっと重い病気なのです。孤独で望まれない人々には、あなた方やわたしなどの愛、つまり、そういう人たちに対しての神の愛の表現しか、苦しみを取り除く方法はありません。』
「パッション」を100回観るより、マザーの一言らしい。
映画館立ち止まりては本屋かな静かに過ごす黄金休み
ジーザスに呼ばれたような気がしてはマザーの愛の積まれる聖書
聖書よりずっしり重いラブレター鬱々として陽は輝けり
マザーから愛のメッセのつもりゆく聖書のうえにかさなりゆくも
さんさんと降りそそぐ陽は新芽幾千松のろうそく
生まれてくる子どものための両親の祈り(マザー・テレサ)
エゼキエル書 11. 1-21
そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがたのすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、
キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、
キリストもわたしたちを否まれる。
わたしたちは誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を
否むことができないからである。」
すると父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』
インドとか貧しい国だったら、お砂糖を3日間我慢してマザーのところへ持っていったらすごい愛情なんだけど、うちのむすめがおやつを隣の子に持って行っても値打ちないもんね。それよりも自転車を盗まれて父さんに叱られるのいやだからキックボードで平然と遊びに行ってしまう。(盗んだほうを叱れよ。)こうやって男の子に意地悪されているうちに、女の子たちは強くなり、5年生くらいになると女の子のほうが大きいから、喧嘩でも何でも負けていないらしい。おそらくはこれが大学生くらいになると、もっとはっきりするんだろうな。何となくわかってきた。なんで、今の女の子たちやけに強いのか。女の子たちに無視されてバカにされて、男の子はガキのまま成長してしまうのだろう。
先生に言っても無駄だから。「加害者のお子さんの親御さんの気持ちがどうたらこうたら」ってなる時代。無駄無駄。言っても無駄。だから、無視するか、自分で言い返すとか、皆で対抗手段を考えるとか、きっちりしてる。世相なんだな。相手の気持ちとか立場を考える風潮は間違ってはいないんだろうけど、結局、わかればわかるほど無視するしかない。だって、どうにもならないから。
憤り激しくもまたすべなくば無視して遊ぶあっけらかんと
口喧嘩負けていないと集団で徒党を組んで歩く廊下か
暴力を怒ってみてもきりなくば気持ち悪いと逃げ出すが勝ち
一線を画して班を変えてみてあれにこれにと防衛戦か
先生が謝る時代説教もむなしとわかる地獄耳かな
加害者の親の気持ちを考えて心の蓋を閉し目を塞ぐ
見ないふりするのが一番そのうちに何とかなるさと諦めモード
ルカによる福音書 15. 31-32
生き返るのを待てってか?あーあ。確かにそのほうがやさしい子になるよね。
子育ては我慢比べのひねもすはわがこころだに癒して過ぎゆ
苛立ちを子に救われて母親はのんきに歌を詠んで過ごせり
子の世界すでに近眼遠のけば忘れた頃に子は育ちゆく
この街に子らのいる日の過ぎゆかば旅立ちてゆくわた帽子かな
テモテへの手紙 2. 1-13 キリスト・イエスの兵士として
『キリストは御自身を
否むことができないからである』
たしかに・・・
1年から6年まで1クラスしかないまま、ずっと持ち上がり。逃げ場ないもんね。諦めるしかない。のんき、のんき。しかも、家も近所、職住接近。どーにもならん。加害者の親のほうが苦しい。子ども叱って謝って、不幸に泣いて、か。
子のために頭さげゆく父親のうしろすがたに子は連れられて
母の死をのりこえゆかめ旅立ちは小鳥のようにさえずる空へ
オトくんがなっちゃんには吠えないとおちびが吠えた春うららな日
くるくると時間はまわる公園は花の季節が変わりゆくだけ
聖霊の立ち昇る日はみこころの風は吹く吹く子らのまわりに
マルコによる福音書 9. 8
なるほど。自転車3回盗まれて、お砂糖3日分かも。自転車3台寄付ということではなく、盗まれても忘れること3回。鬱々するな。使わない自転車ならごろごろあるし、盗難自転車なんてごろごろ捨ててあるから。物騒な時代。父さんが謝り続けて5年。みんなが我慢して8年。壮絶。なっちゃんがいい子になったら、癒される。期待しよう。子どもは大きくなってみないとわからん。どーやって考えても癒しがほしいのはわたしだ。
世の中うるさい人たちがいるから、少し補足しておこう。なっちゃんが家の前から盗んだという証拠はないけど、「なっちゃんが勝手にまほちゃんの自転者乗ってたよ」という報告は多い。事情を知らない父さんは、「まほの自転車盗まれた」と言って怒っている。そこに、捨ててあるのを発見してくれた善意の人から報せが入る。
子どもの世界とおとなの世界では解釈が違う。おとなの世界だったら犯罪だということをなっちゃんは日課にしていたために、怒っても無駄なのはみんな知っている。ややこしい。
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にはならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、
むなしくわたしをあがめている。』」
さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教を初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしには何の益もない。
コリントの信徒への手紙 13. 1-3
物騒な世の中です。何をクソマジメに考えていたかというと、「何が愛よ、何がチャリティよ、何がボランティアよ」と、人々の反感と憎悪が一斉に吹き出す瞬間というのに出くわしたのが初めてだったからかもしれません。言えば言うほど、行いが正しければ正しいほど、反感と憎悪まみれになる。あっさり語ると、愛がなかったからなんでしょうね。広義に語れば、イラクでも似たような状況や立場にいる人たちがいる。命がけでボランティアに行って、反感と憎悪ですからね。どちらがどうというより、今こそ真面目に考えるときなのかも。疲れる世の中かも。
テロリズム警戒しては靴までも脱いで調べる搭乗検査
子らの乗る飛行機までも爆弾を仕掛けるのかなテロリズム思う
憎しみの発露となりし素朴さは悲しき春を初夏にも変える
苦労して築いた城は一時の気まぐれにより無残に砕け
都庁にはのぼったことはないけれど新宿の庭東と西へ
路上にはダンボールにて眠る人華々しくも都会の夜よ
象徴の見え隠れする異空間儚くもまた人を語りき
8キロをもったいぶって走る道田舎の道はすぐそこと言う
フィリピの信徒への手紙 4. 10-20 贈り物への感謝
100億円の支援より、リュックの中の鉛筆セットだよなぁ・・・
愛がほしい。パタッ。
愛という命の水は懇々と湧き出るように静かに溢る
静かなる命の水は懇々と絶えることなく絶える間もなく
懇々と溢れる水を思うとき喉の渇きをかすかにおぼえ
懇々と溢れる水の満つるとき水の姿を黙ってながむ
沈黙は光の中にしづもれる命の水の溢れる音に
今はただ鬱蒼としたジャングルも明るい小道太陽の陰
魂の死に絶える音しづしづと昏々として日々はすぎゆく
言の葉の途切れるようなささやきはとめどめもなく無為に流れる
善良によろこびだけに溢れてるそんな気分は退廃に消ゆ
空白に流れる時間今日もまた長くもなりし短くもなり
ゆっくりと欺瞞に満ちた退廃は気づかぬ刃物踏みゆく道か
黙契がゆっくりとして微笑みを黒黒とする都会の空よ
ささやかな微笑みにさえつながりを鏡のように悲しくさぐる
よろこびの大盤振る舞い子らの声雲雀のように飛び交う町よ
輝ける五月の風は吹きぬける開けっぴろげの緑の車窓
欺瞞には欺瞞を重ね欺瞞など飛ばしてくれる欺瞞の人ら
マタイによる福音書 15. 3-9
保険料払っているから親の世話はしなくてもよい、ってなるのよね。これって、社会のコンセだから。介護保険も年金も悪いことではないとは思うんだけど。
棘棘と欺瞞の先は老後かなちくちくとして怒れもせずに
口先で子どものためにと言うけれどわが人生の街路樹並ぶ
盲目に都会の道はすれ違い危険の中で人は交差す
新宿をうすらぼんやり歩くなら子らに迷惑かけずに鬱へ
毒の道歩いてゆかば猛毒に襲われたるも誰も気づかず
美しい陽射しの中で風の吹くささやかな日々、よろこべあたし
鬱々とこれでよいかと迷いつつ勝手に風は吹き込んでくる
マタイによる福音書 12. 1-8 安息日に麦の穂を摘む
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
寝たきりになったら、ベッドに貼っておこう。
歌詠みは空しき日々を歌に変えつまらないなど言われたりする
オトくんは空しき歌を知らん顔ジャーキーねだる夕飯時か
そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
わたしは聖なる高台で献げ物をささげ、神々に香をたく者をモアブの国から一掃する、と主は言われる。それゆえ、わたしの心はモアブのために笛のように嘆く。わたしの心はキル・ヘレスの人々のために笛のように嘆く。モアブが築いた富は消えうせたからだ。みな髪をそり、ひげを落とし、手に傷をつけ、身に粗布をまとう。モアブの人々は皆、どの屋上でも広場でも泣き悲しんでいる。だれも好まない器を砕くように、わたしがモアブを砕いたからだ、と主は言われる。なんという破滅か。嘆くがよい。ああ、モアブは恥じて背を向ける。モアブは周囲の国々の笑いの種となり、驚きとなる。
「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、
「高いところへ昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」
と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群集を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
あなたが、地の果てにまでも
救いをもたらすために。』」
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は神をあがめる貴婦人たちや町の主だった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
現実はいつもシビアで、「気の合う人とだけ付き合いたい」と言うだけで、差別だの偏見だのいじめだの仲間はずれだの騒ぐ人がいる。
使徒言行録 13. 44-52
相当、根深い問題なのかもしれない。
イスラエル迫害・差別騒いでも白人ユダヤセムを差別し
シオニズムクールにながむユダヤ人無神論者のイスラエルかな
ハザール人いつの間にやらユダヤ人ややこしくてはわれにはわからぬ
友情も社会問題抱えては逃げるが勝ちとその他大勢
社会的友情よりも本当の友だちとだけ気ままに過ごす
何のため仲間仲間と騒ぐのか虚無の浮かべるネットの罠か
誰がために生きると言わん空の星いつかは砕け碧にも燃え
マタイによる福音書 28. 16-20 弟子たちを派遣する
あ、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」って書いてある。聖書は最初から最後まで読んでも、理解できない代物なのかも。
吐き気を我慢してまで付き合わないとダメなんだろうか?それが愛と言われてもねぇ・・・・おそらくは、みんなが怒ったのもここだろう。
エフェソの信徒への手紙 4. 7-16
微笑んで階段上って口閉ざし鬱にまどろむ憐れみのなか
まどろみに悪態ついて儚くも浮遊のなかへ落ち込んでゆく
愛はなぜ憎まれつつも聳え立つ威厳の燃ゆる彼方へゆかむ
激しくも燃えるほむらは音もなくたなびく風も激しさを増す
ルカによる福音書 11. 8-13
要するに、差し迫った要求があるかどうかということのほうが重要なんだろう。そりゃそうだ。が、しかし、地球はあなたのためにだけ回っているのではないのです。わたしのためにだけでもない。
それにしても、社会的友情。これなんだな、問題は。チャリティ、ボランティア、社会的友情となると、まったくスタンス違うもの。あっさり語れば、きっちり区分したい。必要性だけで友達やってるから。なんで吐き気我慢してまで付き合わないとダメなのかというと、「社会的友情」だからなのよね。そんなんでいいのか?だから、どこが愛なんだと言われてしまう。ほんとほんと。政治家や外交官のほうが遥かに愛に溢れているということになるわ。この理屈だと。そこにジーザスを引き合いにするから怒るのよ。間違ってはいないんだろうけど、何かどこかが違う。
死に絶える時間の中で朝までも友情支援考えてみる
敵国に塩を送ると言いながら毒入りの塩なぜに返しぬ
チャリティの何が愛だと言われては憐れみのない塩をまかれる
エレミヤ書 48. 35-39
愛のない責任をまたジーザスに押し付けたるを教えと語る
哀れみと書いた足跡責められし汚いからと言われて悩む
哀れみをかけられること恥と思う旧い世代に何をか語らむ
憐れみを愛を知らない「チャリティ」は一人歩きし言の葉だけが
社会とはチャリティという制度生む憐れみなくも募金はできる
行いを素晴らしいなどことほぎも反感だけが一人歩きす
殿様がふんぞり返って憐れみを民にかけるをチャリティと呼ぶ
使徒言行録 12. 1-5 ヤコブの殺害とペトロの投獄