June 30, 2004

泡のよう生まれはじけるいのちなら虹をとじこめ気ままにながむ

というわけで、また日程を変更します。どうせローマへ行っても、ミケランジェロのあかんべを見て帰ってくるだけだと思うので、それなら素直にフィレンツェで遊んでいるほうがよいと思うのです。それから、リビエラ経由でコートダジュールへ向かい、シャガールやピカソを見てきます。どうしてコートダジュールの明るい太陽なのか、自分にも少しずつわかってきました。気分と気風の問題なんでしょうね。誰でも自分を救わなければならない。あっけらかんとルネッサンスからコートダジュール。そのほうが自分っぽいし、シモーヌ・ヴェイユがどうしてアッシジに行ったのかわからないけれども、あのラインというのは精神の自由を求める人たちには薬なのだと思います。自分が求めているのは、信仰の自由と精神の自由。信仰の自由というよりも、精神の自由。スピリチュアル・フリーダム。魂の解放。

使徒言行録 27. 13-26

とどまればやすき道筋風吹けば嵐の日さえ窓を開けたり
夜が来て風が過ぎると朝が来て昨日は嵐とわれに告げゆく
一度しかない命なら思うまで気のすむまでとひねもすはすぎ
あの世まで合理的にぞめぐらせば対立仮説つねにはだかる
泡のよう生まれはじけるいのちなら虹をとじこめ気ままにながむ

詩編 51. 12-15

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June 29, 2004

わが心の郷愁

この数日ほど、右翼的気分に揺られているのを感じる。ふるき日本に対する郷愁というかノスタルジーというか、夏には蚊取り線香、盆踊り、みたいなレトロな世界に揺られている。それ自体は悪いことではないだろう。少しはゆとりというものが出てきたのかも。それがどうしてゆとりなのかはわからない。もしかすると、それは今でも当たり前なのかもしれないし、バリ島のホテルで蚊取り線香の匂いを嗅いだとき、不意に懐かしい気がしてしまったことを思うと、少なくても自分の生活には蚊取り線香は無くなってしまったことに気づいただけだ。

夏休み、イタリアへ行く。それは以前から決めていたことだ。ところが、それがとても自分を殺伐とした気分にさせている。基本的にペルージャ空港を往復するだけなので、その界隈を周遊するだけで精一杯だ。だって田舎だもの。
単にビーチを徘徊するだけなら、アジアのほうが安くて近くて綺麗だ。まさしくリゾート。わたしがイタリア人ならそちらのほうへ行くだろう。ところが、今年はどういうわけかヨーロッパへ行く。この矛盾に加えて、アッシジはともかくヴァチカン・・・
夏のくそ暑い中、暑っ苦しい話を聴きたいか?
いや、理由はそういうことではないのだろう。今回、レーガン元大統領が亡くなり、まあ、お葬式があった。そこに、法王とブッシュが一緒に並んでいるのを見たら、どことなく不愉快な気分になってしまう。仮に、僅かでもそういうことにより、イラクへの主権委譲が行われたとしても、それがあまりにも身勝手なものであるような気にさえなる。
爆弾落としておいて、勝手に国をめちゃくちゃにして、復興も何もあったもんじゃないぜ!
って言いたい。
それと同時に、民族としての怒りがふつふつと湧き上がる。戦争に負けたのは仕方がない。戦力が違う。そのことは冷静に受け止めてしかるべき。ところが、問題はそんなことではなく、本当に日本に主権が存在しているのか?という極めて基本的な疑惑がふつふつとこみ上げてきてしまった。
はっきり言うと、ヒラリー・クリントン気分。つまりは、共和党が嫌いなのである。民主主義、民主主義と喚きながら爆弾を投下する。元はと言えば、一つの国家だった国が身勝手なイデオロギー的対立により分断される。力がすべてという発想。もーね、憲法9条は素晴らしいし、戦争も自衛隊もうんざりだけど、それ以上に共和党が嫌い。今回、自衛隊が多国籍軍の中で働くことになった。できれば、アメリカをイラクから追い出してほしい。(ほえ?)

こーねー、ノスタルジーなのよ。ふるきよき日本に対するノスタルジー。シンガポールの戦争記念館で、日章旗を振り回している狂った日本兵の姿も見てきたし、おそらくは悪いことをたくさんしてきたのだと思うよ。それはそれで、その被害に遭ったアジアの人たちが本音の部分で日本人を嫌っていても仕方がないだろう。わたしだって、はっきり言えば、嫌いだ。つまりは、日の丸を日章旗に変えたその醜さが嫌いだ。
そして、それを通り過ぎて、今はなおそれ以前の日本に郷愁を感じている。
うちの国って、本当にそういう国なんだろうか?
単に、ちっぽけな島国ではないか。
こんなちっぽけな島国なんだから、そっとしておいてほしい。
どこか、そういうノスタルジックな気持ちがふつふつと湧いてきてしまっている。

もーねー、昔と違って、日本がどこにあるかと訊かれることも、中国人に間違えられることもめっきり無くなったし、日本円は強いので、そのまま通貨として使えたりするし、日本語を話せる人の数も増えた。そんなことを考えると、自分の郷愁がどこからきているのかわからない。
こーさー、アジアの端っこにちょこんとあって、大して資源も国土もない代わりに外敵もいないとかさぁ・・・経済大国と言われて、侵略戦争がどうたらこうたらなどと言われるような国ではなく・・・・なんというか、いたって田舎でローカルでのんびりやまとっぽく。そういう敷島が懐かしい。
神社があって、お寺があって、そういうちゃらんぽらんさも好きだ。そして、祭りとなると山車や御輿が出て・・・みたいなローカルさも好きだ。イタリアにとっては、キリスト教がすでにそういうローカルな祭りの世界だから、それに触発された部分があるのかも、逆に。

どこか遠い国で死ぬより、母国の土の上で死にたい。おそらくは、イタリアの教会を回ってくるのだろうけど、ヴァチカンはボイコット。インターナショナルに生きるより、敷島の人でありたい。かといって、もう自分はふるい村落共同体みたいなところでは生きられないだろう。窒息しそうになる。

郷愁・・・・

投稿者 Blue Wind : 09:44 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネの黙示録 2. 1-7 エフェソにある教会にあてた手紙

  エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。だが、あなたには取り得もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。耳ある者は、”霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』

投稿者 Blue Wind : 08:42 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 18. 19-23

  主よ、わたしに耳を傾け
  わたしと争う者の声を聞いてください。
  悪をもって善に報いてもよいでしょうか。
  彼らはわたしの命を奪おうとして
  落とし穴を掘りました。
  御前にわたしが立ち、彼らをかばい
  あなたの怒りをなだめようとしたことを
  御心に留めてください。
  彼らの子を飢饉に遭わせ
  彼らを剣に渡してください。
  妻は子を失い、やもめとなり
  夫は殺戮され
  若者は戦いで剣に打たれますように。
  突然、彼らに一団の略奪者を
      襲いかからせてください
  彼らの家から叫ぶ声が聞こえるように。
  彼らはわたしを捕らえようと落とし穴を掘り
  足もとに罠を仕掛けました。
  主よ、あなたはご存知です
  わたしを殺そうとする彼らの策略を。
  どうか彼らの悪を赦さず
  罪を御前から消し去らないでください。
  彼らが御前に倒されるよう
  御怒りのときに彼らをあしらってください。

投稿者 Blue Wind : 08:31 AM | コメント (0) | トラックバック

ダニエル書 9. 25-26

  その六十二週のあと油注がれた者は
  不当に断たれr
  都と聖所は
  次に来る指導者の民によって荒らされる。
  その終わりには洪水があり
  終わりまで戦いが続き
  荒廃は避けられない。

投稿者 Blue Wind : 08:25 AM | コメント (0) | トラックバック

June 28, 2004

正直

ルドビーさん、やはり嘘は書けないと思うのです。正直、わたしは共和党も嫌いだし、教皇という存在に愛を感じることはできない。だからこそ、イタリアでも教皇派と皇帝派がいて争ってきた。実際のところそれがどれほどのことなのかは、敷島生まれのわたしには想像できないけれども。多くのキリスト教国により、いくたの争いが生まれた。実際、そのようにも考えているし、ネイティブをバカにして滅ぼし、そしてまたそれを保護しようとしているオージーみたいなもの。
だから、この点に関しては考えれば常に怒りを伴います。
ならば、どうして自分が信仰に立ち戻れるか?
それは、一切そういうつまらないことを考えない時間があるからだと思うのです。ジョン・レノンではないけれども、国も宗教も関係ない。神と自分との関係が存続している限り、教会やその他諸々の社会制度が消えても信仰は残るからです。
つながっているのなら、ジーザスにつながっているべきです。それは社会や制度、教育により与えられたものではなく、夕立のようなもので、ある日突然神の愛は与えられる。こういう書き方をするとあまりにも書きふるされた内容だから、今さら自分が書く必要性は何もないような気さえします。

いささか残念なのは、自分が与えられた愛をあらわすことができないことかもしれません。すべての思考と感情が停止し、ましろき世界。あまりにも静かな愛なので、わたしのように元来の気性が激しい人間にはあらわすことができません。
一瞬にして、すべてがどうでもよくなってしまう。それがどういうことなのかうまく語ることができないです。いささか宗教系の活動や説教にも政治にもうんざりしているし、世の中すべてイネガリテ。あれにこれにとうんざりすることだらけ。世の中から、こういううざいものが消えたらさっぱりするだろうなーとは常々感じたりします。つまり、要らないストレッサーなら要らないし、あの世の幸福でもこの世の幸福でも、それぞれの人たちがそれぞれに幸せならどうでもいい。世の中がどうなろうと関係ない。
ぽいって捨てたら神さまだけいた。そんなものなのだから、ややこしいことがめんどーならばすべて放り投げてもいいのよ、としか語れないです。お仕着せによる宗教は情けないものがあります。何がお仕着せなのかとまでは語れないけど。

ひとつ言いたいのは、露出の多いこれみよがしに真実はないような気がするということかも。

自分は未だに聖書を通読していないし、教会にもほとんど行ったこともない。信者でもないし、未だに敷島の人間。法王の写真見てはむっかむっかしているし、実に反抗的な羊なんでしょう。それくらい世の中は欺瞞に満ちあふれているし、それでいてそれを否定するつもりもない。
つまりは、どうでもいいことだらけにすぎず、それに過分に執着しているような人たちがいるから戦争にもなるような気もする。だったら、最初から何もないほうがすっきりしている。

何もないから救われている。たまに心の底からそうやって思うことがある。ジーザスとだけつながっているのがわかるからかもしれない。なんかね・・・ほかのものは単なる飾りなんだろう。狭き門。もしかすると、狭き門というのは何もないところなのかも。露出的に神さま神さまと言っている人たちは嫌いだ。すべてが上の空に聞こえる。

すぎゆかば風となりたし消えゆかばみそらだにまつかたき世は鳴る

ヨハネの黙示録 2. 1-7 エフェソにある教会にあてた手紙

投稿者 Blue Wind : 12:07 PM | コメント (0) | トラックバック

やっぱ、やめた

バチカンの政見放送を聞いているくらいなら、シエナで草競馬を見ているほうがいいと思ったけど、なんで貴重な夏休みをそういうことに費やすのかわからない。だったら、日本の夏、盆踊りを昔ながらにやっているところを観光しているほうが夏っぽい。

ダニエル書 9. 25-26

すぎゆかば日本の夏は短くて今は夏かと梅雨を迎えり
あらくさの割れた道路に咲きゆかば野のみち天のめぐみをうくし
敷島は辺鄙な場所にあるけれど水ゆたかなれ花咲きやまぬ
腐りゆく木の家住めば千年の月日は流れ今もかわらぬ
一瞬に破壊されたる街なれど新し家の並びかわれり
深々と山はつづきぬ今もなお人はかわれり街もかわれり
とこしえにうつりかわれる我らなり敷島なればみどりかわらず
塵なればつちにかえりし我らなりいにしえにしてみどりかわらず
とこしえの愛なればこそ静かなれ野に咲く花のめぐみ薫れり
踏みにじりあらたな花をもちゆかばさらに保護するかなしみの野よ
慈しみわれらの島を守りたまえささやかなれば水はさやけき

エレミヤ書 18. 19-23

あたしはいつから右翼になったのだろう・・・などと思いつつもエレミヤ書。みんなおなじなのよね・・・いっしょ。

投稿者 Blue Wind : 04:08 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 56

        指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。
          ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガドでペリシテ人に捕らえられたとき

  神よ、わたしを憐れんでください。
  わたしは人に踏みにじられています。
  戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ
  陥れようとする者が
      絶えることなくわたしを踏みにじります。
  高くいます方よ
  多くの者がわたしに戦いを挑みます。
  恐れをいだくとき
  わたしはあなたに依り頼みます。
      神の御言葉を賛美します。
      神に依り頼めば恐れはありません。
      肉にすぎない者が
          わたしに何をなしえましょう。

  わたしの言葉はいつも苦痛となります。
  人々はわたしに対して災いを謀り
  待ち構えて争いを起こし
  命を奪おうとして後をうかがいます。
  彼らの逃れ場は偶像にすぎません。
  神よ、怒りを発し
      諸国の民を屈服させてください。

  あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。
  あなたの記録に
      それが載っているではありませんか。
  あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。

  神を呼べば、敵は必ず退き
  神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。
      神の御言葉を賛美します。
      主の御言葉を賛美します。
      神に依り頼めば恐れはありません。
      人間がわたしに何をなしえましょう。

  神よ、あなたに誓ったとおり
  感謝の献げ物をささげます。
  あなたは死からわたしの魂を救い
  突き落とされようとしたわたしの足を救い
  命の光の中に
      神の御前を歩かせてくださいます。

投稿者 Blue Wind : 02:24 AM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 8. 32-40

彼が朗読していた聖書の個所はこれである。
  「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。
  毛を刈る者の前で黙している子羊のように、口を開かない。
  卑しめられて、その裁きも行われなかった。
  だれが、その子孫について語れるだろう。
  彼の命は地上から取り去られるからだ。」
  宦官は、フィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何が妨げがあるでしょうか。」そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。

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June 27, 2004

なんでもてきとー

Buon giorno. Io sono Masako, ed allora questo e mia figlia. Non parlo italiano.

18年前、英語の勉強をしに行ったら、まわりがイタリア人だらけだったために、英語よりイタリア語に囲まれて暮らしていた。よーわからん。毎日、Si, si, si.... Si prego. Grazie tante. とか。先生と話すより、イタリア人と話している時間のほうが多いという・・・そんなものなのかも。

文法、わからん。活用、わからん。でも、活用があることを知っているのはフランス語を勉強したからかも。これもねー、てきとー。なんでもてきとー。てきとーで困らないのが生活というものなのかも。

子連れで旅行しているとしましょう。訊かれること決まってるから。子どもの名前、一人っ子かどうか、年齢、どこから来たのか、パパはどうしたのかとか。話す内容も話す前から決まっている。今の一番の問題は、メニューが読めないということかも。これはね・・・泣く。まさかシンガポールのレストランみたいにスープの中に虫が入っているということはないだろうけど、それが高いやつだから食えと言われた日には・・・

バレーボールの試合の日に断食していたチームの苦労を考えると、まだましかもしれない。食文化はどーにもならん。その次に困るのは、バリ島だったらうっかり子どもの頭をなでたらいけないとかね・・・あれにこれにと神経をつかう。それでも日本に来たらマックでしか食事できないアメリカの高校生よりましだろう。バリ島のすごいところは、空港にだけだけどマックがあり、ホテルのレストランにはオージービーフが入っているということかも。ちなみにイタリア人はピザをフォークとナイフで食べる。うちも。世の中はそういうものなのね。あと言いたくないけど、教会の服装チェックとか。最初からそういうものだと諦めていれば、どこ行ってもかわらん。アジアがいかにパラダイスかわかる。子どもにやさしい。
最初からそういうものだと思って諦めると、どこへ行ってもかわらん。通り過ぎる風みたいなもので、すべてが景色と同化する。単なる風景なのかも・・・
教会での日本人のマナーが悪いというのは、どこのガイドブックにも書いてあるけど、それは海外だけではなく、教会だけではないから・・・国の責任かもね。知らん。それでいて、行儀のよい国民。謎。
政治にも宗教にも興味のないうるわしの国。

使徒言行録 8. 32-40

結局、ハートがないんだよね・・・
みごとに戦争が日本を変えた。よくもわるくも。こんなに否定された国は少ないかもしれない。住みやすいよい国なんだけど。

すべてがどうでもよく、すべてが自分たちには関係ない。親は子どもを甘やかし、子は親を尊敬しない。み親の神すら信心しない。ましてやほかの宗教なんてどうでもいい。日本で言うところの神というのは、ご先祖さん。建国の父。らしい。それまでばらばらに暮らしていた人たちをひとつの国にした。だから、エターナル・ファーザーとは少しも矛盾しない。

そして、仏教が大陸から伝わった。手厚く保護されて国教となる。それでいて、次から次だもの。

謎がひとつ。

死者の中から復活したのはジーザスが最初だという。永遠の命というのは、霊のことなのだろうか?この概念は歴史の浅い日本では、すでにもっと昔からある発想だと思っていた。つまりは、紀元前にはなかった発想なのだろうか?じゃあ、エジプトは?そこがわからない。死んだら誰でも仏さまだから・・・この手の発想はそんなに古いものではないのか?

なんで、人間がこんなにばらばらになってしまったのかは、聖書に書いてあった。あまりにもばらばらすぎて何もかもが混沌としている。わたしには、どこの教義も興味がない。それぞれがすべての一滴にしか思えない。なぜだと問えば、それがあるから、つまりは、律法があるから悪を知り、罪を知る。律法がなければ悪も罪もない。だから、律法はよいものらしい。ならば、すべてが集まったらどういうことになるのだろう。単なる自覚を促すために言の葉が与えられているのだろうか?だとすれば、ひとつでは完璧ではないはず。なのに、それぞれが完璧であり、自分たちが正しいと主張する。でも、誰も神さまに会ったことはない。名前も知らない。

だから、ここまで屈折すると、霊しか信じない。あまり好きな言葉ではないけれど、ほかに言い方を知らない。与えられたものしか信じない。形では惑わされるだけ。何も見えなくなる。実際、見えないから見える。いや、見えない。わからないし、へんな迷信と一緒にされても困る。もしかすると何もわかっていないのかもしれない。それでも何も困らない。いや、もしかすると困るのかもしれない。永遠の命さえ要らないとなったら、何も要らないということになる。何にしがみついているのかわからない。すべてがどうでもいいとなってしまう。

なんかね・・・もしかすると、どうでもいいのかも。あの世で幸せ願うのとこの世で幸せ願うのとどう違うのだろう。なんて不自由な世界なんだろう。どちらも。
形が与えられているから、そうやって思うだけなのかも。何もなければ何もない。何もないほうがさっぱりしている。それでいて、何もないというわけにはいかない。

いずれにせよ、社会だから。制度も文化も人も建物もある。
なかみはほとんどかわらないのに。
神さまに祈ることなんて、大差ない。

賛美している人は救われるのかも。明るいから。

まじめにかんがえると、うんざりすることばっかだもの。なんかもうどうでもいい。あんたなんかきらい。どっちもどっちのマインドコントロール。はやく終末にならないかな。そのほうがさっぱりしてる。お〜い、ってね。

詩編 56

宗教的祝日の日には、一般の人は制限されているでしょ?なんでそんな時にわざわざなのよね。なんでか知らないけど、そういう日程になってしまった。正直、行きたくもない。が、しかし、そういうことになってしまったからには、ねこは行かなければならない。

投稿者 Blue Wind : 03:21 PM | コメント (0) | トラックバック

June 26, 2004

歴代誌下 10. 13-19

王は彼らに厳しい回答を与えた。レハブアム王は長老たちの勧めを捨て、若者たちの勧めに従って言った。「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは神の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。
  イスラエルのすべての人々は、王が耳を貸さないのを見て、王に言葉を返した。「ダビデの家に我々の受け継ぐ分が少しでもあろうか。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰れ。ダビデよ、今後自分の家のことは自分で見るがよい。」こうして、イスラエルのすべての人々は自分の天幕に帰って行った。レハブアムは、ただユダの町々に住むイスラエル人に対してのみ王であり続けた。レハブアム王は労役の監督ハドラムを遣わしたが、イスラエルの人々は彼を石で打ち殺したため、レハブアム王は急いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げ帰った。このようにイスラエルはダビデの家に背き、今日に至っている。

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使徒言行録 15. 34

しかし、シラスはそこにとどまることにした。

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コリントの信徒への手紙 二 1. 23-24 2. 1-4

  神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

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箴言 17. 12

  子を奪われた熊に遭う方が
  愚か者の無知に会うよりましだ。

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ゼカリヤ書 10. 1-3

  春の雨の季節には、主に雨を求めよ。
  主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ
  すべての人に野の草を与えられる。
  テラフィムは空虚なことを語り
  占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。
  その慰めは空しい。
  それゆえ、人々は羊のようにさまよい
  羊飼いがいないので苦しむ。
  羊飼いたちに対して、わたしの怒りは燃える。
  わたしは雄山羊を罰する。
  万軍の主は御自分の羊の群れ、ユダの家を顧み
  彼らを輝かしい軍馬のようにされる。

投稿者 Blue Wind : 12:49 PM | コメント (0) | トラックバック

ねえ、あのね、空の高嶺に咲く花のとんぼは部屋にとまっておりし。

うんざりと祈りよすみちかたければ逃げよすみちはさざなみの音
夜もすがらこごえで話す人よりもからすの声はたからかわらう
ぴーちかと小鳥となけばからすさえたからか飛ぶか都会の空よ

ゼカリヤ書 10. 1-3

つあらつあらうつらうつらかくありき。めんどうになる日もたかければ。
神聖に神聖にして神聖をもとめて暗き明るき死とす
うつうつと壁にしたるか草原は隔てる雲は流るるばかり
人という形を知るか葬式はうつうつとして値段がありき
めんどーだ。めんどーにしてネアンデルタールになって花をたむけり。
ねえ、あのね、空の高嶺に咲く花のとんぼは部屋にとまっておりし。

箴言 17. 12

なんで、家の中にとんぼがいるのさ。

てんぴおと調べてみれば神殿は寺のことかと囲われている
時刻表しらべてみれば路線バスおらりと書かるる言の葉をみゆ
概念はたからかにしてからす鳴く夜明けの声にまぎれこみたる
十字架が羽をひろげてとまってるキッチンの棚うごかぬとんぼ

寝ているのかな・・・もう何時間あのままとまっているんだろう。
朝になったら飛ぶかな・・・・

明日朝に飛び出したれば軽やかに肩の荷おろすきっちんとんぼ

いてもいいんだけどね、こころがおもいの。

コリントの信徒への手紙 二 1. 23-24 2. 1-4

話すのもいやになる話ってあるから。
あーやだやだ。
いてもいいんだけどね・・・
家の中のとんぼ。
何をするわけでもなく、静かにとまっているのです。羽をひろげて寝ている。こまった。
だからね・・・・みんな、しゅうきょうがきらいなのーーー!!!
ほんとやなんだ。やなものはやだ。それがふつうじゃないか?

群集よ、飛び出す空は茜雲、さえぎる雲は月さえ隠す。

使徒言行録 15. 34

なんか、めんどーなんだけど、このくりかえし。かわらん。
しゅうきょうとはこころのせんそうなのかもしれん。ほおっておく。かんけいないから。へいわ。
ぱらっつぉ。
ちじょうにぱらっつぉをつくろうとするからけんかになる。
てんぴおよりぱらっつぉのほうがひびきがいいな。ましだ。

あたしにはかんけいのないはなしなのである。なんにもかんけいないほうがさっぱりとしている。うるわし。

いふうどうどうさっぱりとかんけいないといえるほうがましなきがする。

歴代誌下 10. 13-19

ほんで、ぶんれつしていった、と。
てんぴお。

投稿者 Blue Wind : 10:47 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 4. 1-31

  「立ち帰れ、イスラエルよ」と
  主は言われる。
  「わたしのもとに立ち帰れ。
  呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。
  そうすれば、再び迷い出ることはない。」
  もし、あなたが真実と公平と正義をもって
  「主は生きておられる」と誓うなら
  諸国の民は、あなたを通して祝福を受け
  あなたを誇りとする。

  まことに、主はユダの人、エルサレムの人に
  向かって、こう言われる。
  「あなたたちの耕作地を開拓せよ。
  茨の中に種を蒔くな。
  ユダの人、エルサレムに住む人々よ
  割礼を受けて主のものとなり
  あなたたちの心の包皮を取り去れ。
  さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに
  わたしの怒りは火のように発して燃え広がり
  消す者はないであろう。」

    北からの敵
  ユダに知らせよ、エルサレムに告げて言え。
  国中に角笛を吹き鳴らし、大声で叫べ
  そして言え。「集まって、城塞に逃れよう。
  シオンに向かって旗を揚げよ。
  避難せよ、足を止めるな」と。
  わたしは北から災いを
  大いなる破壊をもたらす。
  獅子はその茂みを後にして上り
  諸国の民を滅ぼす者は出陣した。
  あなたの国を荒廃させるため
  彼は自分の国を出た。
  あなたの町々は滅ぼされ、住む者はいなくなる。
  それゆえに、粗布をまとい
  嘆き、泣き叫べ。
  主の激しい怒りは我々を去らない。

  その日が来れば、と主は言われる。
  王も高官も勇気を失い
  祭司は心挫け、預言者はひるみ
  言うであろう。
  「ああ、主なる神よ。
  まことに、あなたはこの民とエルサレムを
      欺かれました。
  『あなたたちに平和が訪れる』と約束されたのに
  剣が喉もとに突きつけられています。」
  そのときには、この民とエルサレムに告げられる。
  「荒れ野から裸の山々の熱風が
  わが民の娘に向かって吹きつける。
  ふるい分ける風でも、清める風でもない。
  それにまさる激しい風が
      わたしのもとから吹きつける。
  今やわたしは彼らに裁きを下す。」

  見よ、それは雲のように攻め上る。
  その戦車はつむじ風のよう
      その馬は鷲よりも速い。
  ああ、災いだ。我々は荒らし尽くされる。
  エルサレムよ
  あなたの心の悪を洗い去って救われよ。
  いつまで、あなたはその胸に
  よこしまな思いを宿しているのか。
  聞け、災いをダンから告げ
  エフライムの山から知らせる声を。
  諸国の民にこれを告げ
  エルサレムに知らせよ。
  「包囲する者が遠い国から押し寄せ
  ユダの町に向かって戦いの喚声をあげ
  畑の見張りのように彼らを包囲する。
  ユダがわたしに背いたからだ」と主は言われる。
  あなたの道、あなたの仕業が
  これらのことをもたらす。
  これはあなたの犯した悪であり
  まことに苦く、そして心臓にまで達する。
  わたしのはらわたよ、はらわたよ。
  わたしはもだえる。
  心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
  わたしは黙していられない。
  わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。
  「破壊に次ぐ破壊」と人々は叫ぶ。
  大地はすべて荒らし尽くされる。
  瞬く間にわたしの天幕が
  一瞬のうちに、その幕が荒らし尽くされる。
  いつまで、わたしは旗を見
  角笛の響きを聞かねばならないのか。
  まことに、わたしの民は無知だ。
  わたしを知ろうとせず
  愚かな子らで、分別がない。
  悪を行うことにさとく
  善を行うことを知らない。

  わたしは見た。
  見よ、大地は混沌とし
  空には光がなかった。
  わたしは見た。
  見よ、山は揺れ動き
  すべての丘は震えていた。
  わたしは見た。
  見よ、人はうせ
  空の鳥はことごとく逃げ去っていた。
  わたしは見た。
  見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり
  町々はことごとく、主の御前に
  主の激しい怒りによって打ち倒されていた。

  まことに、主はこう言われる。
  「大地はすべて荒れ果てる。
  しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。
  それゆえ、地は喪に服し
  上なる天は嘆く。
  わたしは定めたことを告げ
  決して後悔せず、決してこれを変えない。」

  騎兵や射手の叫びに、都を挙げて逃げ去り
  茂みに隠れ、岩に登る。
  都は全く見捨てられ
  だれひとりとどまる者はない。
  辱められた女よ、何をしているのか。
  緋の衣をまとい、金の飾りを着け
  目の縁を黒く塗り、美しく装ってもむなしい。
  愛人らはお前を退け、お前の命を奪おうとする。
  まことに、産みの苦しみのような声が聞こえる。
  初めて子供を産む女のような苦しみの声が
  あえぎながら手を伸べる娘のシオンの声が。
  「ああ、殺そうとする者の前に
  わたしは気を失う。」

投稿者 Blue Wind : 12:42 AM | コメント (0) | トラックバック

アモス書 9. 14

  わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。
  彼らは荒された町を建て直して住み
  ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み
  園を造って、実りを食べる。

投稿者 Blue Wind : 12:12 AM | コメント (0) | トラックバック

June 25, 2004

オラリ

キーワード「パラッツォ」から始まる。理由は不明。アッシジのど真ん中からスタート。というわけで、13日の金曜日にはアッシジ。15日の昇天祭にはヴァチカン。ショートカットでフィレンツェを中継し、大衆海岸。ビーチはタダではないことを知る。もうどしゃぶりかもしれない。気にしない。チンクエテッレを通りセストリ・レヴァンテ。海岸線を放浪した後、ガリレオに挨拶して、アッシジへ戻る。ただし、外。

アモス書 9. 14

荒れ野にはぶどうの畑つづきゆき壊さるる野のひろがりゆかめ
平和への祭典なのかオリンピア予約ひとつもとれぬ隣国
つかのまの休息もとむオリンピア戦乱の世に生まれたるかな
遠のけばメダルの数もものがなしいつ世いつ国わこうどの旅
うきうきと旅する吾子の予定には海岸・プール並んでおりし
しまいにはどうでもいいと美術館かっとばしたる夏休みかな
パーチェとは平和のことかと語感みゆそぞろあるきに台風よぎる
うらがえす真実もまた水面にはうつるまもなき光は踊る

何なんだろう・・・・脳の中がぐにゃっとなるような感覚。

エレミヤ書 4. 1-31

ガリレオ・・・だ。
ガリレオが産みの苦しみ・・・・なのかも。天幕。壮大。ガリレオから昇るとね・・・・スケールが違う。カテゴライズされた宗教意識から昇るより、大きさが違う。しかもほんの一滴。その一滴が、脳を変える。

投稿者 Blue Wind : 05:33 AM | コメント (0) | トラックバック

列王記下 8. 7-15 ダマスコでのエリシャの預言

  エリシャがダマスコに来たとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。「神の人がここに来た」と知らせる者があって、王はハザエルに言った。「贈り物を持って神の人を迎えに行き、わたしのこの病気が治せるかどうか、彼を通して主の御旨を尋ねよ。」ハザエルは贈り物としてダマスコのすべての価値あるものをらくだ四十頭に載せて携え、エリシャを迎えに行った。彼はエリシャの前に立って言った。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダドがわたしをあなたに遣わしました。この病気が治るかどうかと言っています。」エリシャは言った。「行って王に言うがいい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことをわたしに示された。」神の人は、ハザエルが恥じ入るほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、ハザエルは、「どうしてあなたは泣かれるのですか」と尋ねた。エリシャは答えた。「わたしはあなたがイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからです。あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂きます。」ハザエルは、「この僕、この犬にどうしてそんな大それた事ができましょうか」と言ったが、エリシャは、「主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された」と答えた。彼はエリシャのもとを離れ、自分の主君のところに帰ると、王は、「エリシャはお前に何と言ったか」と尋ねたので、「必ず治ると彼は言いました」と答えた。しかし翌日、彼は布を取って水に浸し、王の顔を覆ったので、王は死んだ。ハザエルが彼に代わって王となった。

投稿者 Blue Wind : 03:01 AM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 15. 6-15 死刑の判決を受ける

  ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群集が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群集はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群集を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

投稿者 Blue Wind : 02:50 AM | コメント (0) | トラックバック

June 20, 2004

パラッツォをおいかけゆけとドゥオーモは目立ちた街のチェントロにあり。

バジリカ、チェントロ、ドゥオーモ、だけ覚えておけば迷子にならないことに気が付く。教会の場所だけ覚えておけば、地図が読める。なんてわかりやすいのだろう。ペルージャ空港を降りたら、そこからフィレンツェ、チンクエテッレ方面。そしてまたペルージャへ。ローマの遺跡ツアー。
それにしても、古代、霊性、ルネッサンス。ルネッサンスの先には軍港があるのです。やれやれ・・・
今話題のチンクエテッレ。何にもない。宿を検索しても山の上や周辺の軍港からのほうが入りやすいし、土地が狭いからプールもない。第一、無いのよ、そういう受け皿が。これだけ話題になっているのに。ひなびた漁村から軍艦や豪華客船を眺めるのが癒しなのかも・・・
普通だったらこの辺からならミラノから帰ったらよいのに、ペルージャに迎えに戻らなければならない。そこからまたローマへ行ってペルージャへ戻る。ペルージャ往復というのは、すんごくややこしい。
キーワード、パラッツォ。ドゥオーモのあるところにはパラッツォがある。でも何もないところもある。どーしよ・・・

マルコによる福音書 15. 6-15 死刑の判決を受ける

ああ、これ、昔からすごく不思議だった話だ。わたしはね、ピラトが悪人だと思っていた。が、しかし・・・考えてみたら、ピラトにとってはジーザスが何者であっても値打ちないから・・・
ユダヤ人にとっては大問題。彼がメシアかどうかは彼らにとっては大問題。怒り・・か。

十字架の栄光をみて悲しみは桜ちりゆくイースター思う
はらはらと桜前線のぼりゆく北の季節はすぎゆくばかり
パラッツォをおいかけゆけとドゥオーモは目立ちた街のチェントロにあり。

ユダヤ人の王が誰になろうとピラトに何の関係があるというのだろう。いくら説明してもわかるわけないだろうに。そこなんだな・・・決まりどうりにやっただけ。

たしかに軍港とチンクエテッレみたいなものかも。村長が誰になろうと関係ないよなぁ・・・土地がないから開発もできない世界文化遺産。しかも夏場だけ。ちょっと行けばポルトフィーノ、モンテカルロ、ニース。

なんてローカルな話なんだろう。毎日決まりどうりに犯罪者が連れて来られて話を聞く。いわば日課のうちの一つ。しかも、ローカルな話。

ローマがあったから世界宗教なのかも。よーわからんわ。やること派手だから・・・いや、あれもギリシャの影響。これみよがしに聖人の彫刻が並んでいる。あれではまるで軍人ではないだろうか。発想が軍人なんだな。ジーザスが隊長で、使徒は武勲をたてた勇者。なんか素直というか、わかりやすいというか・・・遺跡とバチカン。見たまんま。あるものしかない。ないものはない。なんてわかりやすいのだろう。もともとは地味な国だったのかも。アートなんて興味ないだろう、世界戦略に忙しいし、軍人は壊すのが仕事だからね。つくっても壊れると思ったら質素なものさ。表現力。形のないものを形にしないと気がすまない。そこまでの執着心が自分にあるとは思えない。まったく逆。中から外ではなく、外から中。

列王記下 8. 7-15 ダマスコでのエリシャの預言

パラッツォとドゥオーモのペアでババ抜きしたら、軍港とチンクエテッレがのこる。

投稿者 Blue Wind : 01:46 AM | コメント (0) | トラックバック

June 19, 2004

ルカによる福音書 17. 1-10 赦し、信仰、奉仕

  イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
  使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
  あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐに来て食事の席に着きなさい』という者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕をしてくれ。お前はその後で食事をしないさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

投稿者 Blue Wind : 09:57 PM | コメント (0) | トラックバック

June 17, 2004

人生のつけたしとなるわたくしは旅行業者の真似しておわる

中途半端にアパートを借りて、出る時に掃除の心配しなければならないというのも気が重いし、それを考えるとホテルのほうが気楽だけど、ホテル的に借りられるアパートもある、でも、高い。航空会社と提携しているようなホテルはもともとが高い。割引してくれても高い。それでいて、物騒なホテルは困る。車がないと生活できないようなところは安いけど、レンタカーは高い。都会は移動が簡単だけど、美術館に入るのに2時間待ちではあまりにも疲れる。しかも、夏。暑い。一体何しに行くのだろう。ペルージャ往復だからね・・・下手に移動すると戻るのが大変。語学学校を申し込めば、学校が勝手に手配してくれるから楽は楽なんだけど、基本的に高校生以上だもの。困った。行ってから考えていたら考えているうちに帰国になってしまいそうだ。一人ならあちこちとなるけど、子連れ。う〜ん・・・

こういうのを忘れるためにヴァカンスがあるのではないだろうか?

なんかね・・・

一日中何かするよなしないよな今の暮らしのヴァカンスのよう
ヴァカンスを求めるつもりの仮住まいわさわさとした旅行者となる

車飛ばしてカフェへ行ったり、ラーメン食べに行っているほうがヴァカンスっぽい。バックパッカー用のケースを買ってこようかな。学生、ビジネス、家族連れ、シニア。大抵はこのカテゴリーしかないからね。車がないというのがつらい。子連れ留学というのがなんで流行るのかわかるな・・・英語圏なら結構あるんだけどね。イタリア・・・美術・建築・語学・料理。

娘はスケッチブック。親は情けない。本でも読んでようかな。

人生のつけたしとなるわたくしは旅行業者の真似しておわる

ルカによる福音書 17. 1-10 赦し、信仰、奉仕

子どもへのサービスが一番大変かも・・・

投稿者 Blue Wind : 06:35 PM | コメント (0) | トラックバック

June 16, 2004

エレミヤ書 22. 10-11

  死んだ王のために泣くな。
  彼のために嘆くな。
  引いて行かれる王のために泣き叫べ。
  彼が再び帰って
  生まれ故郷を見ることはない。
  父ヨシヤに代わって王となったが、このところから引いて行かれたユダの王、ヨシヤの子シャルムについて主はこう言われる。「彼は再びここに帰ることはない。彼は捕囚となっているそのところで死に、この国を再び見ることはない。」

投稿者 Blue Wind : 04:53 PM | コメント (0) | トラックバック

列王記下 25. 1-6

  ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンへ連れて行った。

投稿者 Blue Wind : 04:48 PM | コメント (0) | トラックバック

詩編 41

             指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
  いかに幸いなことでしょう
      弱いものに思いやりのある人は。
  災いのふりかかるとき
      主はその人を逃れさせてくださいます。
  主よ、その人を守って命を得させ
  この地で幸せにしてください。
  貪欲な敵に引き渡さないでください。
  主よ、その人が病の床にあるとき、支え
  力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

  わたしは申します。
  「主よ、憐れんでください。
  あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
  敵はわたしを苦しめようとして言います。
  「早く死んでその名も消えうせるがよい。」
  見舞いに来れば、むなしいことを言いますが
  心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。
  わたしを憎む者は皆、集まってささやき
  わたしに災いを謀っています。
  「呪いに取り付かれて床に就いた。
  二度と起き上がれまい。」
  わたしの信頼していた仲間
  わたしのパンを食べる者が
      威張ってわたしを足げにします。

  主よ、どうかわたしを憐れみ
  再びわたしを起き上がらせてください。
  そうしてくだされば
      彼らを見返すことができます。
  そしてわたしは知るでしょう
  わたしはあなたの御旨にかなうのだと
  敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。
  どうか、無垢なわたしを支え
  とこしえに、御前に立たせてください。

  主をたたえよ、イスラエルの神を
  世々とこしえに。
  アーメン、アーメン。

投稿者 Blue Wind : 04:38 PM | コメント (0) | トラックバック

June 15, 2004

過去はまだ終わっていないと遺跡にはギリシャ・ローマとバチカンありき

3週間の予定なので、せっかくだからイタリア語のレッスンを受けて、宿泊費を節約しようかと思ったのですけど、娘が一緒だとセミ・プライベート・レッスンになってしまい、学費が高い。というわけで、”もっともらしい言い訳”をつくって旅行をするのをやめました。素直にヴァカンスを楽しむ。でも、その代わりにイタリア語のテキストと携帯用の辞書を買ってきました。

それは、さておき・・・
詩編 41

朝から、詩編 41。

過ぎ去りし未来のことは世紀末、レーガン、中曽根、どちらも忘れ
わたしには新たな風が吹いている。希望の風は光の中へ。
過去はまだ終わっていないと遺跡にはギリシャ・ローマとバチカンありき

ローマの観光マップを眺めているうちに、どうして独立国なのかだんだんわかってきました。もういいだろう・・・アッシジでさえずっとだもの。ええかげんにせーよ、というか。それが歴史なんでしょうね。われらの遺伝子。

一つわかったのは、ジーザスは神の子。これなんだろうな・・・つまりは、これ。聖書に書いてあるのはこれだけ。(抜けているところから引用したのかもしれないけど、わたしの責任ではない。)

間違えて二者択一を迫られた時には、どちらも選んではいけない。別の道を行く。

一度も戦争を知らない街、ルッカ。
聖フランチェスコ。
中世の知恵がある。
アメリカにくっついているから、平和なのかも。

(ちなみに、茨城県民は長生きですよ〜、90歳以上のおばあさんがカート押しながらしゃかしゃか歩いている街。ただし、言葉が・・・もう100年くらい昔の言葉なのでよくわからないです。)

列王記下 25. 1-6

戦争、知らんのよ・・・あたし。あー、うざい。
これか・・・・・・ほんとにどーするんでしょうね。20世紀の遺物。

なんで、軽やかにほっぷすてっぷじゃんぷして、旧約から新約へ入れないのだろう。過去が好きなのかも。

ジーザスが罪を贖ってくれたって言っているんだから、「ありがと〜」ってなって終わる。なんでいつまでもうだうだごちゃごちゃうるさいのか理解できない。

アッシジも上だの下だの街の地図を見ているだけではわからなかったけど、アッシジというのが城壁の中だけではないことを知る。それにしても、どこにいても迷子になることはなさそうな町かも・・外からなら。中に入ると迷路と書いてある。謎。侵略を阻止するための街だから仕方がないのかも。

エレミヤ書 22. 10-11

エルサレムと一緒か・・・
ヴァカンス。
死海も制覇していないし・・・
なんでもいいや。

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June 14, 2004

子連れ旅行

暑い。すっかり日記をさぼっている。
ネタはたくさんあるのだけれど、案外、忙しいために更新しているヒマがない。夏休みの旅行は競争だからね・・・いつも間際になって申し込むから希望通りに行かなかったりする。オフ・シーズンとはそこが違う。
世の中すべてが個人旅行者の味方ではない。以前、格安航空券を申し込もうとしたら、まだ早すぎて値段が決まっていないと言われ、翌月申し込んだらすでに席がないと言われた。そのくせ、ツアーだったら間際になってもチケットが取れたりする。
というわけで、直接、航空会社に申し込む方が早い。今は、インターネットでも予約ができるし、会社によっては自分で座席を指定できる。
ところが、値段によって取れる席が決まっているために、同じエコノミーでも後ろの方だったり前の方だったり、微妙に何かが違う。しかも、今回はダンナと我らの旅程が違うために同じ手間が2倍かかる上に、行ってからの移動を考えると、電車を使うとか飛行機だけにするとか、とにかくあれにこれにとややこしい。つまりは、それだけで旅程がコントロールできなくなる。
一人だったら気楽。
ところが、おちびと一緒。
あまりにも小さければそれはそれで大変だし、今回のようにそれなりに大きくなったから自分の荷物くらいは自分で持てるし、それなりの知恵もあるだろうと高をくくっていたら、それがもっと困るということに気が付いた。

いきなりおちびから電話が掛かってきて、一人下校になってしまったから迎えに来てほしいという。塾や習い事の都合などで、そういうことはたまにあるから、そういう時には事前に子ども同士で調整するのが普通。ところが事情を訊いてみたら、トイレ、だって。つまりは、おちびがトイレへ行っている間に、友だちが勘違いして出発してしまったらしい。一言伝言しろ、と思ったけれども、急いでいたんだろう。何年も学校へ通っていればそういうこともある。
ところが、おちびを迎えに行ったついでに、帰りにスーパーに寄る。買い物をしているうちに、娘が一緒だということを忘れてしまい、さっさとレジを済ませて車に戻る。
うっ、ランドセルが・・・
慌てて、おちびを探す。
そうなるとスーパーって案外広いのね。なかなか見つからない。仕方がないから大声で呼んだら、彼女はのんびりゲータレードを手に持ちながらこちらへ歩いて来た。
こちらはさっさとレジを済ませてしまっている。手ぶら。娘を呼びに来ただけ。
あちらはゲータレードも一緒に買ってもらおうとこちらを探している。遅い・・・

この瞬間、思ったわけですよ・・・
外はどしゃぶり。
近所のスーパーだから、普通の日だったら勝手に歩いて帰ってくる。
ところが、どしゃぶり。傘も荷物も車の中。彼女は手ぶら。財布もない。
見知らぬ土地なら大変なことになる。
これを鉄道の旅などでやられたらどうにもならない。
次の電車が来るまで数時間後とか・・・
しかも、ほとんどがノンストップの国際列車だったらどうしようかと。
田舎のローカル電車は電車で、事情を駅員さんに説明して、そそくさと行動してくれるか疑問。第一、イタリア語、話せない。
パスポートもチケットも財布もわたしが持っていて、おちび一人を取り残したらもっと悲惨。

それで、すこぶる反省して、自分が相変わらず子連れで旅行している、しなければならない、という自覚がよみがえった。それに、日本にいてもほとんど生まれてから電車というものに乗ったことがないのですよ・・・うちの娘は。いつも移動は車か飛行機で、電車へ乗るということがめったにない。
つくばに住んでいるとそれが普通。帰省する人たちもほとんど車か飛行機を使う。その方が交通の便がよいから。いちいち鉄道を使うより、そのほうが簡単。成田へのアクセスもよく、バスも多い。
ローカルな交通事情は悪いのに、東京駅や羽田や成田への交通の便はよい。一体どうなっているんだか・・・それでも、日中は道路が混みあうから、都会へは行かない。それでも、来年の秋にはとうとう鉄道が開通するために事情が違ってくるかもしれない。

でも、今回、一つ謎が解けた。
海外へ行くと、どこへ行っても日本人ばかりと言う人たちがいる。その理由が何となくわかった。おそらくは、そういう人たちは律儀に年末年始とか、夏休みに旅行しているのだと思う。だから、仮に夏休みに都会へ旅行しようとすれば、ヨーロッパの人たちはバカンスで田舎へ行ってしまって、都会には観光客しかいなくなる。しかも、日本人の観光ルートはほとんど決まっているために、どこへ行っても日本人ばかりとなる。
でもねー、限られた休みにあちこちを回りたくなるのは人情かもしれん。そこの島にしか滞在しない、できない、というのなら別かもしれないけど、今回、自分のことだけではなく休みの短い人の予定まで合わせて考えているうちに自然と慌しい気持ちになってしまった。

パリ往復がこんなに大変で、いや、大変ではないのだけれど、それなりに大変になってしまい、ローカル空港にしてもオープンジョーにできたりできなかったり、飛んでいたりいなかったり、夏休みだから予約が一杯な路線もあるし、とにかくうまく行かない。
8月はセリエAもお休みだし、ローカル空港の往復なんていうのはめずらしいのかも。フィレンツェはどうやら人気らしく、うまく取れない。なんでペルージャ往復になってしまったんだろう・・・とは言うもの、これも経由地を指定しようとすると難しいのかもしれないし、日本の航空会社を使うと接続がうまく行かなかったり、料金が余分に掛かってしまったりややこしい。
フィレンツェがダメなら、ピサとかね・・・
リビエラを回るならかまわないのかもしれないけど、旅程が短かったらいやだよね。

いずれにせよ、子連れということを考えなければならない。子連れならローカル。どこの国も都会は子どもには不親切だし、厳しい。リゾートとか、子連れで旅行している人たちが多いところへ行かなければ・・・

投稿者 Blue Wind : 04:24 PM | コメント (0) | トラックバック

詩編 34. 12-15

  子らよ、わたしに聞き従え。
  主を畏れることを教えよう。
  喜びをもって生き
  長生きして幸いを見ようと望む者は
  舌を悪から
  唇を偽りの言葉から遠ざけ
  悪を避け、善を行い
  平和を尋ね求め、追い求めよ。

投稿者 Blue Wind : 02:30 PM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 8. 37

フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。

投稿者 Blue Wind : 02:20 PM | コメント (0) | トラックバック

June 13, 2004

陽はのぼる闇路の中へ消えゆかむ消えゆく光陽はのぼり出づ

どうしてもパリ行きの飛行機がうまく取れなくて、つまり、インターネット予約に使うマイレージのアクセス番号を忘れてしまったとか、座席が並ばないとか、クレジットカードが本人名義でないと予約できないとか、どうしてもうまく行かない。
仕方なく休みをずらし、父さんを迎えに行くとなると大空港は危険だから、ローカル空港を選ぶ。するとなぜかフィレンツェがその日うまく飛ぶ便がない。すったもんだしているうちに、試しにやってみたペルージャ往復があっさり取れてしまいました。
もう運命なんだな・・・あれだけ飛んでいるパリ行きがうまく取れないで、ペルージャがあっさり取れるというのはヘンだ。なんかそういうものなのかもしれない。
アクセス番号を待っているだけでも1週間以上がぼーっと過ぎ、あちこちの航空会社を検索し、料金を調べ、あげくやっとアクセスしたら、今回は別々の旅程になるからあたしのカードだけでは予約できないとか、ローカルなエリアだと自社便の乗り継ぎでないと旅程や予算がうまくパネルに現れないとか。こんなにややこしいのは初めて。迷路を回っているうちに、あっさり最初の予定に戻ってしまう。

くるくると空回りして過ぎゆかば突然の雨降り出しやまぬ
夏までの当番の水今やりぬ梅雨の日なれば意味なく忘れ
雨の日に吾子を迎えに忘れたりスーパーの中置いてきぼりに
のんびりとゲータレードを手に持ちぬ吾子を眺めるスーパーの中
レジ袋車の中に置きたれば代わりにながむランドセルかな
小学生ローカルな店歩きたるゲータレードを憂鬱にながむ
都会では万引き犯だと教えては幼稚園から変わらない吾子
鉄道を使った旅の難ければホームに吾子を残す恐怖よ
迷子クセ遺伝なるかと悩みつつがんじがらめのルールを恐れ
オトくんの迷子の札を眺めては吾子にも要ると憂鬱に思う
放課後にひとりのこされ迎えゆく理由はトイレ訊くもむなしき
トロピカル南の島はローカルで舟さえ人をのんびり待ちぬ
エンジンをかける前にはベルトなど締めてすすめる駐車場かな
ひとりよりふたりが不安ふたり旅吾子とならんでぼおっと不安

使徒言行録 8. 37

歌壇はもっとローカル・・・いやになってしまう。
アッシジの名物、フランシスカン人形の一番人気はパソコン人形らしい。
世の中どーなっているんだろう。
ミケランジェロ風あかんべの精神も捨てがたい。
気風なんだろうな・・・
ルネッサンス。おもしろー。
ルネッサンスは古典か?
う〜ん・・・・なやむ。

学内の放送みたいNHK。歌稿さぼりにせんせいふたり。
レトロ風がんじがらめに吹き抜けてモーセの角をながめてうれし
暗殺者考えてみてくそまじめ息吹の抜ける道なき風よ
律法が悪の種蒔き罪の花枯れる頃には小鳥の餌か
やまみちをみちなりに飛ぶ小鳥にはアップダウンの低空飛行
落とせない角ならモーセ彫りこめば選歌のやうに落とされもせず
その一首詠みこむための添え歌の難く並んで一首を落とす
ルネサンス、ミケランジェロのわざぬすむ。くわえてへらす知恵比べかな。
あまのじゃく、どこまでいってもあまのじゃく。ながめて知るはいにしえのちえ。

ジーザスが罪を贖ったと言っているのに、しつこい。

安息日神の来る日が来る前に彼を降ろして十字架の下
水さえもぶどう酒さえも口にせず運命の日をしづかに過ごす
十字架の下で過ごせりカードなど自由にやれる人らのむなし

不思議だよね・・・

世の光期待してはと裏切られ裏切られては裏切りを思う
退廃の静かな闇に消えゆかば陽はのぼりゆく地球の裏へ
陽はのぼる闇路の中へ消えゆかむ消えゆく光陽はのぼり出づ
くらやみに出づる光の姿絵はむこうの島の影絵となりぬ
風立ちぬ光の舞は出づる陽を闇へと閉ざす静止する時

パッと沈んだからよいのかも。

陽はあると思えば闇へ沈みゆく彼方の空は下にのびゆく
空間は果てしなき空広がりし見あげて空は闇へつづきぬ
沈むから光果つなくおとづるる季節もかわる気候もかわる

パッと沈んだんだな・・・
みんなが一斉にパッと沈んだ。
一斉に闇に沈んだ。

詩編 34. 12-15

何が偽りではないのか、わからないから平和がわからないのかも。まるでわからない。

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June 10, 2004

コリントの信徒への手紙 二 2. 5-11 違反者を赦す

  悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。

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使徒言行録 7. 1

大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。

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結局

先入観がないというのは、おそろしいことなのかも。
ヘンな男の人が、ジーザスを棒にして振り回している!
と思った。
だれであっても関係ない。
こういうのは、単なる感受性の問題なんだろう。

使徒言行録 7. 1

法王ならゆるされるのだろうか?
それがわたしの躓きの原因となるならば、理解できない。
何もないほうがマシだ。

だれでも怒ると思うよ、家族なら。
悲しいというか、ショックというか。

もはや何も感じないの?
あまりにも長いから何も感じないのかも。
どんなことにも慣れがある。

もうそれだけで嫌いになる。
それが、人だ。

何の権利があって、彼を棒にして振り回すのだろう。
それが愛なんだろうか。

先入観もしがらみもないというのはありのままにしか見えない。
あれがありのままだ。

いや、自分が屈折しているのだろうか?
そうかもしれない。
両方をあわせて計算しても、プラマイ0。

目が違う。

コリントの信徒への手紙 二 2. 5-11 違反者を赦す

サタンのやりくち。
そうかもしれない。
忘れよう。

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ローマの信徒への手紙 7. 1-25

    結婚の比喩
  それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中に律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

    内在する罪の問題
  では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
  それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

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エレミヤ書 48. 11-12

  モアブは幼いときから平穏に過ごして
  捕囚となったことはない。
  古い酒のように静かに寝かされ
  器から器へ注ぎかえられることなく
  その風味は失われず
  香りも変わることがなかった。

  それゆえ、見よ、と主は言われる。
  傾ける者をモアブに遣わす日が来る。
  彼らはモアブを傾け
  器から注ぎ出し、壷を砕く。

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マタイによる福音書 17. 24-27 神殿税を納める

  一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

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June 09, 2004

あるがまま咲く花あらば谷ゆりはわがやの庭でふつうに咲けり

あーゆううつゆううつ。私は無神論者ではないらしいけど、無宗教者かもしれない。それも正しい言い方ではなく、いかに宗教と国家というものが癒着しているか・・・つまりは、生活なのだろう。お葬式や結婚式をどうするか、ということはまだ軽やかなものであり、それが原因で戦争などを始められたらたまらんと思っているところは平均的日本人の一人である。しかも、なお一層の矛盾として、仏教徒に分類される。母はすでに戒名を受けているし、私は何もしていないけれども、院号もほとんどお金がかからないと言われている。だから、いろいろあってもごちゃごちゃ言われるのがいやなのでますます何もしない。
おばかなんだよなぁ・・・・何をするのもおばかなのである。
神道にしても、よく神社の悪口を言う人がいるけれども、これも自分には当てはまらない。逆に、出雲大社の神主さんにはお世話になり、祖霊社や奥の院も案内していただいた。もちろん私は何もしていない。ちょこちょこくっついているだけ。
あっさり語れば、聖と俗の区別しかない。
だから、この前、友だちにどうして戦争になるんだと言われて、聖書を開いたら、結論として、「神さまは何度も語りかけたけれども、彼らには神のメッセが聞こえない」らしいとだけ答えた。

マタイによる福音書 17. 24-27 神殿税を納める

神殿税なんだよね、結局。維持費。
地上の王が、争っている。
あらゆる宗教に地上の王がいて、争っている。
そして、それぞれのテリトリーに座っている。

一人で聖書開いているだけなら金はかからん。と思っていたら、著作権・・・
修道院のみならず仏門でも子どもが入信すると親はずっと仕送りしなければならない、という話がどこまで本当なのかわからないけれども、いささかそういう話ばかり。
ようするに、神殿税なんだろう。

それでひまつぶしに考えて、たどりついた結論は、万物の創造主である神は一人。そこからすべてが派生しているということ。そして、そのことは本当はすごい秘密なのだろう、ということ。

どうしてそういう風に思ったかというと、神として祭っている神は実在の人物であることが多いから。聖人という位になるのかな・・・よくわからない。聖人の上に神さまがいる。場合によってはその上にまだ神さまがいる。どうしてそういう階層性になるのかわからないけれども、そういうことらしい。

そのことは置いておいて、旧約と新約の違いは生業は生業、福音を伝えることは仕事ではないということかもしれない。

共鳴・共感というものがあるとすれば、使徒たちはバリバリのユダヤ人だもの。むしろ生真面目に律法をまもってきた人たち。シモーヌ・ヴェイユにしてもそう。だからこそ、話してみたいことがたくさんある。
あっさり語ると、私には無理やり改宗しなければならない理由は何もない。私が仏教やほかの宗教に失望すれば、別の国では似たような理由でキリスト教に失望している人たちがたくさんいる。自分的には、その人たちを一生懸命に励ます理由は何もない。
私は、何も失望していない。特に不満もない。ただ、神殿税がどのような形でか徴収されており、それとは別に聖域は聖域として存在している。それを誰がどのような形でおまもりしているのかは知らない。

一番いいのは、どこの国に生まれても、空を見上げて神さまとお話していることかもしれない。

一番困るのは、「うちの国ではね、教会ではこうするんだよ。日本ではどうなの?(つまりは仏教徒なんだろう、あたしは)」と言われることかも。よせばいいのに、また事細かに説明してしまう。そういうのは、一種の社交というか文化交流のようなものだから・・・

だから、何もないし、何もしない。なのにどうしてジーザスか?ということなんでしょ?そこなのよ、一番のミステリーは。
そして、話はまた不思議な光と静かな愛に包まれた話に戻る。謎。

エレミヤ書 48. 11-12

そそ。それがあるから、ルドビーさんのサイトに書いている。本当に困っているし、困っていたのかもしれない。自分的には、自分が死ねば自動的に戒名が与えられ、普通に人生をまっとうするのだろう。ただ、弁解がましく言えば、こひつじさんが、愛を与えられたらかえさなければならない、と言う。彼女、素直だし、わかりやすい人。
一番やりやすいのは、あれは単なる幻だったと思って忘れる。実際、それでも何も困らない。それでいて、どこか人生にやりのこしたことがあるようで、おそらくはそうなると死に際に後悔するような気がする。心残りというのかな・・・すっきりしない。母のことを考えれば、死ねそうで死ねないではないか。いやはやいやはや・・・困った。

良心の呵責の問題かも。
いや・・・・神さまに会った時、どうやって弁解したらいいのだろう?
もういいような気がするんだけど。終わった終わった。
理屈で言えば何も悪いことはしていない気がするのに、ものすごく悪いことをしているようで気になって仕方がないことってある。
おそらくは、そういうことは私だけではなく、ほかにもたくさんいらっしゃると思う。黙って自分のことだけしているというほうがまともな気がするんだけど、何がどうなっているのだかもうわからなくなってきた。
この矛盾。自家撞着。愛が与えられたらうれしいよ?が、しかし、この矛盾と重さと苦しみ。
こう、なぁ・・・何もないのでございます。こちらに失望したからあちらとか、そういうこともまるでない。まるでない。だから困る。
ようするに、なわばりあらそいや戦争があるのが悪い。あたしは悪くない。

あるがまま咲く花あらば谷ゆりはわがやの庭でふつうに咲けり

ローマの信徒への手紙 7. 1-25

どうやっても罪人。ジェイラーなんだろう。諦めた。

投稿者 Blue Wind : 04:39 PM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 44. 1-3

  それから、彼はわたしを東に面した聖所の外の門の方へ連れ戻した。門は閉じられていた。主はわたしに言われた。「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、閉じられたままにしておく。しかし君主だけは、ここに君主として座り、主の前で食物を食べてもよい。ただし門の廊から入り、またそこから出て行かなければならない。」

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ヨハネの手紙 一 1. 1-4 命の言

  初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。----この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。----わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

投稿者 Blue Wind : 12:56 PM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネによる福音書 9. 1-12 生まれつきの盲人をいやす

  さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム----『遣わされた者』という意味----の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

投稿者 Blue Wind : 12:48 PM | コメント (0) | トラックバック

透きとおる海のなかみはうるわしき海より空は光だに満つ

ヨブよりつらく、だってヨブはまだ自分でお話できたではないですか、神の愛を知らない寝たきりの年寄りでも、人間としての尊厳に満ちあふれることもある。それが本当の奇跡なのかもしれない。母に対してはぶーぶー言いたいことがたくさんあったけれども、実際、たくさん言ってきたし、それでいて今はそういう母の尊厳を自分が受け止める度量がないような気がしてしまうのです。あのような姿になって、果たして、そういう自分を自分であると自分は受け入れられるのか、と。
できれば、みじめな姿、弱くなった自分をさらしものにしたくない。だから、祖母のように最期まできちんと身繕いをしてす〜っと眠るように亡くなるほうが幸せ。そのために、重度のリュウマチの叔母は今でも元気で歩いて家事をしています。それに比べると、母は弱い。強くて弱い母が弱くて強い人になった。

尊厳をよわき人らにもとむれば咲く花のごとあたわれて生く
世話がちにかよわき花の枯れぬれば朽ちた花にぞいぶきのもどり
生きる意味問われてむなし話すらできぬ母には尊厳のあり
果てしなきみちはつづきぬそらまでも文句言えるは元気な証拠

ヨハネによる福音書 9. 1-12 生まれつきの盲人をいやす

結局はそこなんだろうな。母は今の医療の中でこれ以上は望めないだろうという医療を受け、私ももう少し母が元気だったら今より何かできることがあるかもしれない。何もしないだろうけど、たぶん。一番困るのは、どうして何もしないのか、と言われることかも。
ああなったら、知識は不毛。そんだけ。だから何もしない。ホスピスですら無駄だろう。だって、本人はほとんど意識もないし、耳すら聞こえないかもしれない、言いたいことも言えない、無反応に近い。
結局、私が知りたいのは、母に何が起こったのか?ということ。

実験実証主義においては、こんなに明確な事例はほかにないだろう、たぶん。
問題は、だったら何もしなくてもいいの?ということ。
いつもそう。そこ。

ヨハネの手紙 一 1. 1-4 命の言

かえすがえす蝶よ花よと生きぬればよきこともありあしきことあり
おなじ日をやがてはわれもむかえれば親の苦労はいやしとなりぬ
くりかえしうしろすがたをふりかえり見ることのないじぶんのせなか

そこか。世の中には屍をさらしている人もいる。彼女がどうして腐らないのか。

まみずにはまみずのなかの光あれみずよりえがく世界は光
透きとおる海のなかみはうるわしき海より空は光だに満つ
すいすいとおよぐさかなをおもわなばみちすじとなるみらいのことは

エゼキエル書 44. 1-3

こちらからは見えない。

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June 08, 2004

コリントの信徒への手紙 一 5. 8

だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

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ヨハネによる福音書 4. 27-30

  ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのものへやって来た。

投稿者 Blue Wind : 01:27 PM | コメント (0) | トラックバック

コロサイの信徒への手紙 2. 20-23 日々新たにされて

  あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

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尊厳

結局、一つわかったのは、人間としての尊厳の問題。
母はすでに自分では何もできない。話すことも聞くことも、食べることも動くことも何もできないに等しい。それでも、一つわかったのは、その姿がもはやかつてのように醜くは感じられないということだ。
とても元気で美しかった人が病人になる。しかも、母の場合頭蓋を開けてオペをしているわけだから、今でもその形跡がおでこのあたりにある。髪の毛も短く、もともと短かったんだけど、ああなると男か女かもわからない。
でも、最終的には尊厳の問題なんだろう。
誰でもいつかは年を取り、若い頃にできたことができなくなる。母のようになれば、何のために生きているのかわからないとかね・・・母だって、それなりに若い頃はあったわけだし、あの母がいるから私がこの世にいるわけで、最初からあのような姿だったわけではない。誰でも弱くなれば自信を無くし、もしかして意識があったならなおさら他人には会いたくないかもしれない。

が、しかし・・・
結局、尊厳の問題なんだろう。
寝たきりで意識のないような老人ばかりが集められた病室の中にいて、母が一番の寝たきりのような気がする。以前はとても苦しそうにしていたし、あの特有の重苦しさのある病室の中には説明できないくらいの重圧で濃厚な空気が立ち込めている。そういう中で、不思議に静かになってしまった母には尊厳がある。
尊厳なんだよなぁ・・・うまく説明できない。

自分があのような姿になったとして、そういう自分を私は受け入れることができるだろうか?

ってことなんだと思う。
少なくても、そうやって弱くなった自分をジーザスは愛してくれる。憐れみ。そういう愛し方。神の愛。平和。

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June 07, 2004

夕立の音闇のする昼間には雨の季節のもの悲しさよ

夕立の音闇のする昼間には雨の季節のもの悲しさよ
三層の動き出したる寝たきりは人や役所や事務仕事だに
生きるとは書類の中で決まるのか不思議に思う雨降りの音

コロサイの信徒への手紙 2. 20-23 日々新たにされて

戒律と法律の違いがわからん・・・

紙切れを一枚取り出す雨の日は旅程を書いて下調べする
母の旅のんびり立ててわたくしは自分の旅をのんびり立てる
日本には梅雨の季節があるようにガイドブックは読みながしたる
今日のこと明日のことなど梅雨時の空模様など気まぐれな雲
降りだした雨には傘を差すように草刈る人ら午前に終える
十字架をガイドブックで眺めては空気の絵の具チケット売り場

ヨハネによる福音書 4. 27-30

ベトザタの池を観に行っても意味ないでしょ?
そこなのよね。

厚化粧的中世を旅するもよし。

アスファルト舗道の道を歩くよう殻のパワーは街をつくれる
標識は迷子人を救いたる文字さえ読めぬ異国のことば
何もない空間たるやさっぱりと大きな月をながめるためか
干潟には砂はあつまりビーチには石ころならぶフランスの海
自然にも許可証いるか問いたしもみかげの山は埋立地へと

コリントの信徒への手紙 一 5. 8

古いパン種・・・
古いパン種集=ガイドブックかもしれない。わかりやすい。

もう晴れている。

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June 05, 2004

滞る日記

シモーヌ・ヴェイユ。すごい変わり者だったのだろうと思う。彼女に比べれば、わたしは非常にまともだと思う。世の中探せば上には上がいるわけで、そういう意味では安心感がある。ユダヤ人。それでいてジーザスとの出会い。彼女がユダヤ人でなければもっと普通っぽかったのかもしれない。とことんマイペース。そのうち読もうかとも思っているけれども、眠くなりそうな気がしなくもないのでそのままになっている。
今は、どういうわけかあれにこれにと急に忙しくなってしまったがゆえにのんびりネットをしていたり、本を読む時間すらない。つまりは、人付き合いをセーブするとか、庭を手抜きにしておくとか、何かどこかでセーブをしなければのんびりネットなどをしているヒマはないわけで、それがまとめて慌しくなったから、ひたすら眠い。

ダメだ。日記を更新しようと思ったけど、ひたすら眠い。
寝よう。

投稿者 Blue Wind : 02:04 AM | コメント (0) | トラックバック

ローマの信徒への手紙 15. 21

  「彼のことを告げられていなかった人々が見、
  聞かなかった人々が悟るだであろう」
と書いてあるとおりです。

投稿者 Blue Wind : 01:33 AM | コメント (0) | トラックバック

ヘブライ人への手紙 1. 1-4 神は御子によって語られた

  神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

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ルカによる福音書 16. 12-13

また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

投稿者 Blue Wind : 01:24 AM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 二 8. 16-24 諸教会からの使者

  あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱いてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。

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ヨブ記 31. 29-30

  わたしを憎む者の不幸を喜び
  彼が災いに遭うのを見て
      わたしがはやしたてたことは、決してない。
  呪いをかけて人の命を求めることによって
  自分の口が罪を犯すのを許したことは
      決してない。

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イザヤ書 65. 24

  彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
  まだ語りかけている間に、聞き届ける。

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June 04, 2004

陽よ雨よ枯らしもすればめぐみたる気まぐれな空花は咲きたる

こんにちは、ご無沙汰しています。
忙しかった。どういうわけかひたすら忙しかった。
母のことだけではなくあれにこれにと忙しかった。
というわけで、久しぶりにのんびりネットを繋いでいます。
おかげさまで、母はパリ祭の頃にはつくばにやって来れそうです。
翌日が東京のお盆。
パリ祭はいつも母に付き合わされてシャンソンを聞きに出かけました。
以心伝心、すべてが順調です。

イザヤ書 65. 24

神さまはさきまわりして道ひらく明日ひらく花知るかのやうに
今日のこと明日のこともわからない空の雲さえうつろいながら

電動のバリカン買って刈り込めば花咲く庭に小道のもどり
名も知らぬ小鳥のような鳩のよう太った鳥がブランコに乗る
照りつける太陽のしたあらくさは腐葉土となり勢いとなる
ちっぽけな庭さえ空は気ままかな生きるがままに手を添える吾
生きるまま育ちゆくままめぐりゆく季節はかわるひとつ学んで
薔薇の花絶えることなく咲きゆかば休みの季節バカンスとなる
花々はかわるがわるに咲きつづけ初夏の風には小さな木の実
子みかんや子なし子ざくろミニチュアのおもちゃのように実をつけており

ヨブ記 31. 29-30

何のため生きる苦しみ背負いたる母の苦しみ生きる喜び
ヨブよりも苦しき母の姿かな陽はのぼりゆき輝きを増す
生きていることさえ奇跡と言われしも生きる姿の苦しげに泣く
枯れかけた花さえ息のもどりせば陽よ雨よと咲きたるがごと
陽よ雨よ枯らしもすればめぐみたる気まぐれな空花は咲きたる
雨と水。まったく違う空の色。空の咲かせた花はうるわし。

コリントの信徒への手紙 二 8. 16-24 諸教会からの使者

母は祖母のように死ぬつもりだったから発見が遅れて(つまり隠していた)、それから無理やりオペして奇跡的に助かって、その後何度心臓が停止したことだろう。それでも死なない。死ねない、という表現のほうが正しい気がすることがある。
こちらへ来たら、再び脳外科で検査するところから始めるそうです。普通だったら考えられない。それ自体が奇跡に近い。するするとまるで何かが決まっていたかのように道が拓く。

自分だったらどうするだろう。母もずっとそうなったら何もしないで死なせてほしいというのが口癖だった。そうなんだよね・・・大抵の人は、もちろん自分も含めて母と同じように考えると思う。「できればこのまま・・」みたいに。
が、しかし、僅かでも助かる見込みがあるならオペするでしょ?
が、しかし、普通は頼んでもオペしてくれないようなケース。勢いだけでオペ。いわば延命治療のひとつのようなものだと誰しも思っていたし、自分ですら3年生きたときにはすでに諦めがあった。普通だったら助からないし、生きても半年とか?しかも、寝たきりで半年後に自発呼吸が戻っただけでもすごいと言われた。

どんよりとした朦朧とした目は死んでいる証拠かもしれない。目の焦点があっていて、澄んでいるということは生きている証拠かもしれない。全然違う。

祖母はね、こころがけのよい人だったから、60歳過ぎたら着物にすべてしつけ糸をかけて、いつ発作がきてもよいように身支度していたのよね。だから、いざ発作がきて、眠るように亡くなったときに皆が驚いたんだから。「そんなバカなことをしていないで、生きているうちに」などといくら言われても知らん顔をして、自分のことだけしていた。
母はこころがけが悪かったから、いざ発作がきて、あれにこれにと私がどれほど苦労したか。整理までやらなければならない。しかも不要なものがありすぎて未だに困っている。それでいて、何もしなければ祖母のように死ねると考えていること自体がこころえ違いしていたのかも。たしかに物理的な死に方はできるのかもしれないけど、現実は違う。現実というか、真実が違う。死ねば終わるのかもしれないけど、死ねないではないか。

天の受け入れ態勢が整うのに病院より時間がかかるのかもしれない。(ほんとか?)
道をまっすぐに。

祖母はごく普通に生活していて、発作で倒れて3日のうちにすべての人が会いに来たとたんに息を引き取った。しかもいざという時のために着物にはしつけ、一筆書いたものまで出てきた。大袈裟なものではないけれども、万が一生きてしまった時のことも考えて。理想の死に方。
母はどうなんだろう・・・こうなったら少しは母にあやかりたいと皆が思ってくれるようになるまでは生きていてもらいませう。いや・・・、諦めよう。まったく逆だもの・・・昨日まで元気で過ごしていたかと思ったら、突然、あれ以上ひどい状態はないという状態で生きている。祖母のときとはまったく逆だ。

何のために生きたり死んだりしなければならないのだろう。よーわからん。

ルカによる福音書 16. 12-13

そそ、ママが欲しかったのは金だ。
死んでから、というか、倒れてからのほうが人間的かもしれん。
無力で倒れて一人では何もできないほうが人間的というのはなぁ・・・困った。

復活、か。

死ねば終わるというのは嘘だね。やはり、生きて贖わなければ死ねない。ママが大切にしていたものは何の役にもたたない。「ただ生きている」、ことへの感謝なのかもしれない。

目がしっかりして、不思議なほど静かな人になってしまったのです。
病床にいて、何もできないけど、不思議に目がしっかりして澄んでいて、それだけ。それだけなんだよなぁ・・・それだけ。生きている。
ママもジーザスに会ったのだろうか。ずるい。
どうやったら神さまに会えるのか?
さあ・・・・・

こころのなかがぐっちゃぐちゃでも寝たきりでもわるいひとにもよいひとにも、あなたにもわたしにも。

ヘブライ人への手紙 1. 1-4 神は御子によって語られた

母は彼に会った。
母がいきなり歩き出したら、誰でも信じるだろう。
聖書の時代はよかった。

「永遠の命」。

ややこしい。ややこしいーよーー。

眠りより目覚めたような瞳には見つむる先の見えているやも
苦しみをとおりすぎたる目覚めにはしずけさだけが漂っている

ローマの信徒への手紙 15. 21

わかった。話しかけ方が違ってる。神さまとお話するように、母とも話さないと通じない。

投稿者 Blue Wind : 02:55 PM | コメント (0) | トラックバック