June 09, 2004

あるがまま咲く花あらば谷ゆりはわがやの庭でふつうに咲けり

あーゆううつゆううつ。私は無神論者ではないらしいけど、無宗教者かもしれない。それも正しい言い方ではなく、いかに宗教と国家というものが癒着しているか・・・つまりは、生活なのだろう。お葬式や結婚式をどうするか、ということはまだ軽やかなものであり、それが原因で戦争などを始められたらたまらんと思っているところは平均的日本人の一人である。しかも、なお一層の矛盾として、仏教徒に分類される。母はすでに戒名を受けているし、私は何もしていないけれども、院号もほとんどお金がかからないと言われている。だから、いろいろあってもごちゃごちゃ言われるのがいやなのでますます何もしない。
おばかなんだよなぁ・・・・何をするのもおばかなのである。
神道にしても、よく神社の悪口を言う人がいるけれども、これも自分には当てはまらない。逆に、出雲大社の神主さんにはお世話になり、祖霊社や奥の院も案内していただいた。もちろん私は何もしていない。ちょこちょこくっついているだけ。
あっさり語れば、聖と俗の区別しかない。
だから、この前、友だちにどうして戦争になるんだと言われて、聖書を開いたら、結論として、「神さまは何度も語りかけたけれども、彼らには神のメッセが聞こえない」らしいとだけ答えた。

マタイによる福音書 17. 24-27 神殿税を納める

神殿税なんだよね、結局。維持費。
地上の王が、争っている。
あらゆる宗教に地上の王がいて、争っている。
そして、それぞれのテリトリーに座っている。

一人で聖書開いているだけなら金はかからん。と思っていたら、著作権・・・
修道院のみならず仏門でも子どもが入信すると親はずっと仕送りしなければならない、という話がどこまで本当なのかわからないけれども、いささかそういう話ばかり。
ようするに、神殿税なんだろう。

それでひまつぶしに考えて、たどりついた結論は、万物の創造主である神は一人。そこからすべてが派生しているということ。そして、そのことは本当はすごい秘密なのだろう、ということ。

どうしてそういう風に思ったかというと、神として祭っている神は実在の人物であることが多いから。聖人という位になるのかな・・・よくわからない。聖人の上に神さまがいる。場合によってはその上にまだ神さまがいる。どうしてそういう階層性になるのかわからないけれども、そういうことらしい。

そのことは置いておいて、旧約と新約の違いは生業は生業、福音を伝えることは仕事ではないということかもしれない。

共鳴・共感というものがあるとすれば、使徒たちはバリバリのユダヤ人だもの。むしろ生真面目に律法をまもってきた人たち。シモーヌ・ヴェイユにしてもそう。だからこそ、話してみたいことがたくさんある。
あっさり語ると、私には無理やり改宗しなければならない理由は何もない。私が仏教やほかの宗教に失望すれば、別の国では似たような理由でキリスト教に失望している人たちがたくさんいる。自分的には、その人たちを一生懸命に励ます理由は何もない。
私は、何も失望していない。特に不満もない。ただ、神殿税がどのような形でか徴収されており、それとは別に聖域は聖域として存在している。それを誰がどのような形でおまもりしているのかは知らない。

一番いいのは、どこの国に生まれても、空を見上げて神さまとお話していることかもしれない。

一番困るのは、「うちの国ではね、教会ではこうするんだよ。日本ではどうなの?(つまりは仏教徒なんだろう、あたしは)」と言われることかも。よせばいいのに、また事細かに説明してしまう。そういうのは、一種の社交というか文化交流のようなものだから・・・

だから、何もないし、何もしない。なのにどうしてジーザスか?ということなんでしょ?そこなのよ、一番のミステリーは。
そして、話はまた不思議な光と静かな愛に包まれた話に戻る。謎。

エレミヤ書 48. 11-12

そそ。それがあるから、ルドビーさんのサイトに書いている。本当に困っているし、困っていたのかもしれない。自分的には、自分が死ねば自動的に戒名が与えられ、普通に人生をまっとうするのだろう。ただ、弁解がましく言えば、こひつじさんが、愛を与えられたらかえさなければならない、と言う。彼女、素直だし、わかりやすい人。
一番やりやすいのは、あれは単なる幻だったと思って忘れる。実際、それでも何も困らない。それでいて、どこか人生にやりのこしたことがあるようで、おそらくはそうなると死に際に後悔するような気がする。心残りというのかな・・・すっきりしない。母のことを考えれば、死ねそうで死ねないではないか。いやはやいやはや・・・困った。

良心の呵責の問題かも。
いや・・・・神さまに会った時、どうやって弁解したらいいのだろう?
もういいような気がするんだけど。終わった終わった。
理屈で言えば何も悪いことはしていない気がするのに、ものすごく悪いことをしているようで気になって仕方がないことってある。
おそらくは、そういうことは私だけではなく、ほかにもたくさんいらっしゃると思う。黙って自分のことだけしているというほうがまともな気がするんだけど、何がどうなっているのだかもうわからなくなってきた。
この矛盾。自家撞着。愛が与えられたらうれしいよ?が、しかし、この矛盾と重さと苦しみ。
こう、なぁ・・・何もないのでございます。こちらに失望したからあちらとか、そういうこともまるでない。まるでない。だから困る。
ようするに、なわばりあらそいや戦争があるのが悪い。あたしは悪くない。

あるがまま咲く花あらば谷ゆりはわがやの庭でふつうに咲けり

ローマの信徒への手紙 7. 1-25

どうやっても罪人。ジェイラーなんだろう。諦めた。

投稿者 Blue Wind : June 9, 2004 04:39 PM | トラックバック
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