July 28, 2004

昼の月追いかけてゆく夏の道アスファルトにもあらくさは生え

6枚のハッシュドポテト焼きたれば誰食べるのと無意識に問う
すいか切り姉さんぶって夏休みおなかすいたと言われない夏
すこしずつ自分のことができてゆくせいいっぱいの夏はすぎゆき
白御影墓石のような階段がポーチに並ぶ不可思議な庭
家の中すこしずつでも模様替え片付けゐればまたものの増え
がむしゃらにせいいっぱいに生きている。わるくはないがつかれもはしる。
花のない庭はさびしき一年草いまこのときをともにすごさぬ
土掘れば汗はしたたり根の渦の紛れ込みたる埃舞い立ち
親のエゴふりまわされて今は夏御影の石は死後の贅沢

嫁さんに嫁なんだからと言われてはあんたの親はさらに他人さ
嫁さんに嫁なんだからと言われてはわたしゃ娘さあんたは他人
嫁さんに嫁なんだからと言われては弟の顔睨んでもみる
寝たきりの親がいること知っていて結婚したと思っていたが
何一つ迷惑かけていないだろ何が不満かわからない夏
新婚は他人なんだと思い出す離婚したとて事後でよろしく
親の世話ひとりでしてるつもりなら蚊帳の外には鬼嫁のあり
マザコンにあれこれ言ってしわよせがこちらに来る迷惑な夏
弟にしがみつきたるわが母は寝たきりのまま姑してる

関係ないよなぁ・・・

棺おけを取り囲まんと叔母はいう。思えば壮絶、連合部隊。
小姑の連合軍を指揮してはそそくさ逃げるわれを思いし

戦場よ、墓の中まで戦場か、御影の石は無料らしいが。
御影石贅沢なんだと知る夏は見知らぬ人がくれた石なり
気まぐれは突然にしてやってくる雷鳴のごと雷雨となりぬ
しがらみのなかりし人は親切に不器用な庭つくってくれる
戦場は誰がみるとかみないとか何もないのにややこしいさま
想念が怨念となる夏の日はあらくさばかり根ののこりたる
ふつふつと根ののこりたる怒りの根日照りのつづくぐったりと夏
昼の月追いかけてゆく夏の道アスファルトにもあらくさは生え

エゼキエル書 17. 1-10

芝の上土より先ににわか雨如雨露のような空を眺めり
めぐみの日育てた花はバックホーン根より捨てられあたらしい庭
夕立は気まぐれなまま石と芝わが庭にして秋を待ちたる
雷鳴の轟く日にはわが庭は石ころだけが残されている
ぼんやりと墓場の石の階段をながめる日々がやって来ている
母の死の報せを待てば夏の日は静かに庭を芝にしている
生存を確認してはわが庭はほんの少しの草木の茂り
秋が来て春が来たればわが庭は新たな夏を迎えるように
芝草に足止めをくう夏の日は紫陽花を待つここちするなり

マタイによる福音書 16. 5-12 ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種

ジグザグを描いたような人模様はずみと渦の日照りの夏よ

せっかく平和に暮らしているのに・・・
あっという間に戦場。
庭仕事してたほうが夏はすぎゆく。
夏は厳しい。

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July 27, 2004

コリントの信徒への手紙 二 4. 16-18 信仰に生きる

  だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

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ヘブライ人への手紙 7. 26-28

  このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。

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マタイによる福音書 25. 1-13 「十人のおとめ」のたとえ

 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れていたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

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July 26, 2004

ポリオから検診までも祖母まかせちょっといいなと思ってもみる

山から408号線をわが家へ向けて走った。
わが家はとても遠かった。

過去から今へ走る道。近くて遠い今。全部、今。

すぐそこに住んでいるよと言いたしも猛暑のグチをわたしに語る
犬連れて芝を歩けば都会からやって来たのと思われるのか
ドッグラン、公園デビューの柵の中、わんわんらんど、小犬3匹
ジグザグに並んだ家を眺めては農地がゆえに農家の並ぶ
一列に並んだ家を眺めては宅地がゆえに玄関並ぶ
あれ全部親戚なのかと農地とは農家以外に買うもののなき
並木道延々走る街並みは親を頼らず生きろと告げる
ポリオから検診までも祖母まかせちょっといいなと思ってもみる
頼る人いないからこそ街つくる意気込みの中、子を預かりぬ
オトくんの離れつくろう庭先に、長男なれば親と住まえり。
オトくんはずっと一緒か庭先に吾子うらやみし芝庭にする

マタイによる福音書 25. 1-13 「十人のおとめ」のたとえ

皮肉ではないのだけれど、何となくやってみたくなる。もう一匹ミニピンのメスを飼い、オトくんの離れを庭につくり、老後をオトくん家族と一緒に過ごす。どーだ。犬なら甘やかしても文句言われないし、親が家から餌まで面倒をみる。子犬の世話までか?
娘は人間だから、自分で何でもやってもらわないと。
近頃、娘がオトの真似をする・・・どーしよ。オトはずるいらしい・・・あーやだやだ。

ヘブライ人への手紙 7. 26-28

いけにえ・・・
オトの離れ・・・・

わからん・・・オトにやりたいと思っていることは、実は娘にしたいことだったりして。が、しかし、本当にそれでいいのだろうか?

オトは犬だから、今さらオトの親やオトの元の飼い主がやって来て、オトを取ったとか取らないとか文句言われないからね・・・ましてや、オトの親の面倒をみろとか言われない。親の数が多すぎ。両方の親が平等に子どもにしたとしても、子どもがその両方を平等に面倒みるなんてことは不可能だろう。孫も取り合い。いやな世の中。
が、しかし・・・・自分の子の世話もしたこともない親が多いのだから、なんか勝てそうな気がする。

まあ、いいや。オトがいるから。何を考えているのだか・・・

コリントの信徒への手紙 二 4. 16-18 信仰に生きる

昔みたいに、無事に育ってくれたらいい、というのが嘘みたいに喧嘩になる。

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マタイによる福音書 16. 1-4 人々はしるしを欲しがる

  ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

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ローマの信徒への手紙 15. 18-21

キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
  「彼のことを告げられていなかった人々が見、
  聞かなかった人々が悟るであろう」
と書いてあるとおりです。

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July 24, 2004

軽やかに街並みになるわたくしは垣根のように人にならえり

みかんの木瞬時に枯れた暑き夏憐れみもないバックホーンよ
梨の木の農家に並ぶ筑波嶺は気楽に植えて気楽にそだつ
分布図を眺めゐるより庭の本イメージの中広がりそだつ
子育てに親の世話さえつまらない人生というたいくつないま
あれこれと忙しいまま働けば金は出る出る子らに家にと
あれこれとひまなわたしはあれこれと動かされては停滞してる
かったるいひねもすはゆき夏は来る。サンダル履いてイタリアへゆく。
冷房車乗って涼しき夏の日を想い出しては荷物的人
与われて生きてみようよ夏の日の暑さもいまは蝉の声する

ローマの信徒への手紙 15. 18-21

資産価値さがりゆけども都会には老いたる親の住みつづくらし
細々と子らの減りゆく都会には昔ながらの年寄りが住み
公園に子らの遊べる街並みはつながりゆかむ人らの暮らし
少しずつバランス狂う敷島はいにしえにして今をむかえり
軽やかに街並みになるわたくしは垣根のように人にならえり
衰弱すよわきこころは浦のよう水はたたえり意味なき風車
たいくつをたいくつとしる人生はいくとせすぎていまをすごせり
くるくるとうつろいゆかばひとかわるいくとせつちはよこたわりたる
生きること必死におもう人の目に広告塔のめまぐるしき日

すりきれたファンベルトのよう。

マタイによる福音書 16. 1-4 人々はしるしを欲しがる

あんたたちのつくった社会が気に入らない、ってことなんだろう。窮屈で窒息しそうな社会。かといって出口もない。逃げるしかなく逃げる道が見つからない。田舎的人付き合いや姻戚関係のややこしさを考えると中央集権。中央集権的荷物的人の集合体を考えると地方。年功序列の少子化社会なんて最悪。年金、託児所、少子化社会。茶髪、金髪でも足りないだろうな。オトは黒。よかった。

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July 23, 2004

エゼキエル書 41. 4

更に、拝殿の奥の面まで奥行きを測ると二十アンマ、その横幅も二十アンマであって。そして彼はわたしに、「ここが至聖所である」と言った。

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歴代誌上 21. 11-13

ガドはダビデのもとに来て告げた。「主はこう言われる。『いずれかを受け取るがよい。三年間の飢饉か、三か月間敵に蹂躙され、仇の剣に攻められることか、三日間この国に主の剣、疫病が起こり、主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされることか。』わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」

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イザヤ書 30. 26

  主が民の傷を包み
  重い打ち傷をいやされる日
  月の光は太陽の光になり
  太陽の光は七倍になり
  七つの日の光となる。

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コリントの信徒への手紙 二 3. 4-6

  わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

投稿者 Blue Wind : 11:14 PM | コメント (0) | トラックバック

夏の陽は平等にして暑かりしクーラー代の入った珈琲

ヤンキーの降り口ながすエレベーター霞ヶ浦をながめる夏よ
土浦は退屈そうに夏休み駅ビルの前あしばやな人
首都圏と言われる地価と駅前を霞ヶ浦は濁川かな
本当の田舎のよさのなかりせば田舎は地価のかろき街かな
高層のマンションの窓数えては日当たりなどを考えてみる
屋上にたどりついたる駐車場急勾配におどろき走る
偏差値と地価のうつろうひねもすをパスポート取り逃げ出し走る
鉄道の通った街はうららかに人を吐き出し遠路へつづく
邪魔そうに停めた車の狭いみちそろりそろりと逃げ出し走る
通勤を考えぬ日はうららかに帽子をかぶる吾子をながむる

コリントの信徒への手紙 二 3. 4-6

のんびりとエスカレーター降り立てばリゾート風のバッグが並ぶ
夏景色感じるビルは夏服の売り場の中にこの夏ありき
値札さえ揺れさえもせぬ空調は夏の暑さを隠してみせる
ひまわりもディスプレイ用ショップ内これでは夏はいずこにあると
照り返す厳しき陽射し屋上に夏はあるよと車は並ぶ
ぎらぎらと夏をのみこむ黒服のヤンキーの耳ゆれる金色
衝動に走れるもののなかりせば赤札だけがきわだちゆれる
買い物をするしかないとエアコンはビルを冷やしていま夏休み

退屈がこころつぶすと街並みはたいくつなままぎらぎらと夏

イザヤ書 30. 26

鉄道はないほうがいい、たまに思う、ぎらぎらとした陽は輝けり。
おしつぶすフロントガラス陽が射せば地獄のみちも風とおしよく
アクセルをのんびり踏んで田舎道カーブの空はひろくあおくと
さるすべり民家の庭に咲きたればまもなくみちはわが家へつづく

しあわせと感じる夏は陽が射せば風吹きながれ花の咲くみち

歴代誌上 21. 11-13

うわのそら右から左うわのそらそぞろあるきぬ石ころの庭
苛立ちも愛想わらいもうわのそら並んで咲いたあらくさもなく
たいくつで死にそうな日は書物かな並んだ文字さえうわのそらかな
あれこれと世間話についやせば不安と不満あの人この人
つながりの白墨として描かれた黒板の文字粉にかわれり
教育費出してやれよと年寄りは数の多さに未来の孤独
子育てを終わってみてから考える人生なんてちょっとさみしい
つながりの保てぬ夏は子らのない公園のよう冷えた部屋かな
それぞれに家があるよと留守がちな通勤客の詰まった電車
それぞれに電話あるよと携帯は直通メールわんぎりの音

エゼキエル書 41. 4

安物のリゾートバッグをながむれば静かにこころ衰弱はてる

夏の陽は平等にして暑かりしクーラー代の入った珈琲

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マタイによる福音書 9. 18-26 指導者の娘とイエスの服に触れる女 35-38 群集に同情する

  指導者の娘とイエスの服に触れる女
  イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群集を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群集を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。

  群集に同情する
  イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

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詩編 119. 57-59

  主はわたしに与えられた分です。
  御言葉を守ることを約束します。
  御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。
  仰せのとおり、わたしを憐れんでください。
  わたしは自分の道を思い返し
  立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。

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ホセア書 6. 1-3

  「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
  主は我々を引き裂かれたが、いやし
  我々は打たれたが、傷を包んでくださる。
  二日の後、主は我々を生かし
  三日目に、立ち上がらせてくださる。
  我々は御前に生きる。
  我々は主を知ろう。
  主を知ることを追い求めよう。
  主は曙の光のように必ず現れ
  降り注ぐ雨のように
  大地を潤す春雨のように
      我々を訪れてくださる。」

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July 22, 2004

広き土地対角線に並ぶ家孫だけ歩くみちはつづきぬ

芝をはる前に花壇の場所などを決めろと言われて、石灰を買って来ました。せっかくだから庭の隅に野菜などを植えようと思って言ったら、また叱られた。畑にするなら駐車場の横らしい。日当たり。
石が家にあるから持って来てくれると言われて、何の話かと思ったら御影石が庭にごろごろあるので、ウッドデッキの跡にそれで階段をつくれという・・・あまりの気前のよさにクラクラしてお断りしました。
朝起きたら、タイヤの空気が抜けていて、パンクしていたらしい。そしたら、工事の人があっという間にスペアタイヤに取り替えてくださいました。うれしい。
親切なのよね・・・ただし、あちらを畑にして、スイカを植えたら、またつるがマンションのフェンスにからまったりして・・・植物の勢いはすごい。トケイソウでも、根を見たら木のようになっていて、だから、あっという間にフェンスを壊す勢いで成長してしまう。
植木名人というか、昔ながらの伝統で、樹齢の高い松ノ木などを手入れに歩いている年寄りがうちの庭で遊んでいるので、もしかするとひよこの木は忘れた頃には立派な木に成長しているかもしれない。
わたくしも秋になったら、また庭をつくろう。こりない。

オレンジの三日月浮ぶ熱帯夜われより先に吾子みつけ告ぐ
装丁の立派な歌集届きてやわれ知らぬうちわれは歌人か
狭き世の狭き敷島ちりばめる地球も狭きつくばの森よ
筑波嶺に赤穂の稲の実る頃わが庭とても生まれ変はらむ
山百合のいつしか消えゆ筑波山いのししの食むゆりねなるかな
御影石かいだんよりも歌碑にしろうふふとおもう昼寝時かな

ホセア書 6. 1-3

古代のお米をつくって配っているそうです。赤穂。美味しくはないらしいけど。昔は百合がたくさん咲いていたのに、いつの間にか筑波山から百合が消えてしまったそうです。小野小町ゆかりの地でもあるらしいし、万葉と郷土愛を学んで一からやりなおしか?まだまだ地元では自分が歌人とは言えない。なのに、大阪から立派な歌集をいただきました。礼状を書かないと。暑い。

ネット歌人つくばらしきとおもいきや筑波の山は万葉のさと
宇宙へとつづくみちすじのびきったガムのようだといにしえの山
のびゆけばちぢむ時空のよぎる森樹齢のようだ人知れぬ今
地中へとのびる木の根をさぐるよう親と子と森たちはだかりし
肥大する世を支えたる年金はいくえの世代交代させず
広き土地対角線に並ぶ家孫だけ歩くみちはつづきぬ

詩編 119. 57-59

あっちもこっちも不満だらけで、疲れた。

人生、85年として、男性は中高年の自殺者が多いから、統計的には低い。親はお金があってひまでやることがない。子どもは教育費がかかってお金がないから働かねばならない。だから、親の世話どころではない。そこへ、年金、託児所、介護保険、その他諸々福祉の充実。まるきり接点がないのよね。しかも、長生きだから、ひ孫まであっという間。そうなると、接点が薄いところにさらに薄いから、年寄りばかり増えて、子どもの数が少ない。子ども一人に親二人、そのまた親二人。さらに、その親。そして、その倍。どーにもならん。

なんか、疲れる世の中だな。
だんだんわかってきた。そりゃ自分が60歳を過ぎたら、親の危篤よりも孫の運動会だよね・・・あるいは、70歳過ぎてもまだ親が生きているわけだし・・・それでいて、4世代同居なんてありえないし、今時、農家こそ全部別々の家に住んでいるから・・・土地、あるし・・・・しかも、嫁さんがどこも高学歴。ねんじゅう喧嘩。
で、みんな、どこかへ行ってしまう。離れていたほうが気楽だもの。どこも同じか。

マタイによる福音書 9. 18-26 指導者の娘とイエスの服に触れる女 35-38 群集に同情する

子どもは別格か。そりゃそうだ。

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July 19, 2004

ダニエル書 11. 6-7

何年か後、二国は和睦し、南の王の娘は北の王に嫁ぎ、両国の友好を図る。だが、彼女は十分な支持を得ず、その子孫も力を持たない。やがて、彼女も、供の者も、彼女の子らも、その支持者に裏切られる。だが、彼女の実家から一つの芽が出て支配の座に着き、北の王の城塞に攻め入ってこれを破り、勝利を得る。

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ダニエル書 9. 23

お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。

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July 18, 2004

菜園のあらくさまみれあるじ留守いつしか葱は見えなくなりし

生きてると言わんばかりに雨戸あく娘の代わり窓辺立つ母
裏庭の明るい日差しオト鳴けば閉したるままの雨戸に気づく
今回はなかなか戻ってこれないとあるじは語り留守がちな昼
春の日はうららなままに放置されあちらこちらで動けない初夏
菜園のあらくさまみれあるじ留守いつしか葱は見えなくなりし

ややこしく開発されたつくばにはふるきしきたりあたらしき人
ふるき人声かけぬれば一族があつまりきたるわがやのにわさき
ふるき人あたらしき人あつまりぬのらくらすごすわがやのにわさき
隣人か地主か業者かくるくるとおなじ人らの話ながるる

わが庭のわが庭ならぬわが庭はふるき隣人あたらしき人
パチパチとにらみおうてるわが庭をカーテン越しにオトとながむる

風よ風くるくるまわる風ぐるま風見鶏なら風まかせかな
関東のからっかぜ吹くビル風のおそろしき庭ものさえおかぬ
ひねもすを世間話についやせばくるくる人のいれかわりたる
壁あれど地面を空をこえゆかむ草木は気まま人あつめたる
わが庭のわが庭ならぬわが庭はみちゆくひとのいれかわりたる

もう何十年もドンパチしてるから、たいへんらしい。うちのねこのひたいのような庭に、北条米の農家のおじいさんやら、筑波山の地主さんやら、この辺のもともとの地主さんが、庭仕事にやってきているらしい。うちは単に庭を隣のマンションの大家さんを通して頼むことになっただけ。木が大きくなりすぎて、わたしではどうにもならん、というだけのことが、なんでこんな大袈裟なことになってしまったのだろう。

うちのウェスタンスタイルの下手な庭を、芝の産地である自慢の赤土の山だったのだから、芝に戻せばすべてが解決するらしい。百合が・・・って言ったら、百合根をのこしてくれて、もってきてくれた。
怒っていいのか、安くこんなに丁寧に工事をしてくれて感謝するべきなのか、わたしにはもはやわからないです。
掘るのもたいへんな粘土質の赤土がようやく腐葉土にかわったと思って喜んでいたら、あちらにしてみたら土をダメにしているのだそう。そんな土にするから植木が育ちすぎて、どうにもならなくなる、と叱られた。そのように言われたらまさしくそのとおり。
交通のこととか、街のこととか、景観とか、そんなことより、「土」のことしか考えない。それでいて、おらが村は美しく発展しないことには子どもたちが都会から戻ってきてくれないと嘆く。こちらはこちらで、都会から親がきてくれないから、悩んでいる。
都会の生活に慣れた人たちでも、どうにかここなら暮らせると思う場所でありつつ、昔ながらの農家の生活も。まっぷたつでありつつ家庭内問題でもありつつ。えっちらおっちら山から人が・・・わかるような・・・わからないような・・・
突然、こんなところに街をつくった国がわるいんだろう。

ちょっと上の世代になると、まっぷたつだもの。みごとにまっぷたつ。話しても無駄だろう。互いに無駄だということに気づかないことには始まらない。

というわけで、うちの庭は芝の庭になるらしい。わたしの苦労は何だったのだろう?
農家のじいさんたちに言わせると、子どもの遊びなんだそう。そーやって言われたらそのとおりなのだけれども、農業で食ってるわけじゃないから、厳しく言われも無意味だから。
たしかに、研究所を並べるにはもったいないほどのよい土。もっと農業には適さないような土地を選べばよかったのに、国はいつもそこまでは考えない。だから、今回は、農家は民主党らしい。なんかね・・・わかりやすい。それでいて、そのおかげで、農家は大金持ちなのだから、よいと思うのだけれど、それなりの鬱憤と不満。
あたしには何の関係もない話だろうに。あみだくじでこっちに来ただけだ。

人間に関係ないとオトくんはドアから庭へ飛び出し走る
芝庭を喜びたるは長男のオトは走るよ、気ままに走る。

ほんと、オトくんはいいよね。
おじさんたちがまびきした梨の実をもごもご。
ほんと、オトはへいわだ。

それが本来なのかもしれん。よーわからん。

ダニエル書 9. 23

まびきした梨をくわえてオトくんは秋の実りを待つのだろうか
ぼんぼりのようにならんだ梨の実は秋を待たずにひとつごになり
片の実の捨てられたるをながむればオトはよろこび目をまるくする
ぼんぼりをぼんぼりのまま眺めたい梨の実なればおとすものかな
スーパーに並んだ梨で育ちたる吾には梨の姿みえざる
百合の花根のため植えるものなると言われて気づくゆりねなるかな
天然の野菜なる木の難ければ人の手知りて人手に渡る
野菜からポルシェにかわるみちのりは黒き布にて覆われている
公務員貧乏人と言われては集団決議口論の街

ダニエル書 11. 6-7

わたしの「ながねんのくろう」は、まけた。きのうきょう。にわかあめ。

落雷にのせて咲かせる火花かな線香花火はむなしくおつる

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July 16, 2004

ネヘミヤ記 9. 30-31

  長い年月、あなたは忍耐し
  あなたの霊を送り
  預言者によって勧められたが
  彼らは耳を貸さなかったので
  諸国の民に彼らを渡された。
  しかし、まことに憐れみ深いあなたは
  彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず
  見捨てようとはなさらなかった。
  まことにあなたは恵みに満ち、憐れみ深い神。

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切られても咲かせる花のあるように球根ねむる初夏の空庭

荒れた庭なつかしむには空庭のうたの気配の空元気かな
強烈な落雷を背に立ちたるは農家の壁のよく似合う人
言い訳は天がするよと落雷は悲鳴のように鳴り響きたり
あっけなく消えうせたのは荒れた庭ウッドデッキも草木も花も
あの花はこの花はなど言いたしも世に咲く花は厳しくもあり
伝統か垣根か花かくだものか芝生か枝か今より春か
わが庭はわが庭ならぬわが庭は金を払って瞬時に消えた
さっぱりと生きるもよしと腐葉土にかわりた土にせめて落雷
考えることもむなしと世の中はあっさりとして花を消しさる
怒る気もなれぬ厳しき大地とは落雷とてもいいわけにせぬ

また、獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル。

コツコツと植えたらいいさ草花を理解はむなし農家の庭よ
美意識の違いの中で薔薇の花嫌われ切られさびしき庭よ

親切なんだよね・・・わたしのためにさっぱりしてくれているらしい。あーあ。

薔薇も紫陽花も百合も何もかも、ない。
梨はまびきまでしてくれている。
いつでも畑にはなるな・・・が、しかし、庭、だから、芝、らしい。
こんなんでいいのか?
うちの庭ではないだろうか?
かわいそう、だから、あっちもこっちも、わたしの代わり、に鋏を入れてくれているらしい。
たしかに、わたしが農家の嫁さんで仕事できないというのであれば、かわいそう。せっかく植えて育てた花や木を切られてかわいそうだとは思ってくれないらしい。なんかね・・・わかりやすい。トケイソウより、あの安物のフェンスのほうが大切らしい。わかりにくい。

言い返す元気もない。だって、親切、なんだもの。
価値観の違いなんだろう。

ネヘミヤ記 9. 30-31

考えよう・・・
イタリア、行きます。白血球が下がっても、水がたまって人工呼吸器でも、老衰が原因だから。新しい血液がつくられにくくなっている。だから、免疫力が落ちて、感染症がもともとあったために容態が悪化してしまった。病気ではなく、老衰・・・

切られても咲かせる花のあるように球根ねむる初夏の空庭

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マタイによる福音書 7. 15-20 実によって木を知る

  「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

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ルカによる福音書 24. 50-53 天に上げられる

  イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

投稿者 Blue Wind : 12:44 AM | コメント (0) | トラックバック

イザヤ書 30. 23-24

  主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。
  地の産み出す穀物は豊かに実る。
  その日には
  あなたの家畜は広い牧場で草をはみ
  地を耕す牛やろばは
  ふるいや箕でえり分け
  発酵させた飼葉を食べる。

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July 15, 2004

職人の手際と目とぞ眺めてはわが意志とてもむなしく吹けり

たまに思うんですけど、どうして事実を書くとドラマっぽくなってしまうんだろうと。もしかすると、どこにでもあることだからかもしれない。今、一番多く話しているのが、姑さんとかも。何となく救われる。そのまた向こうに義理の姉がいて、3人でうつうつしてる。似たもの同士なのかも。

順番に怒ってみたり笑ったり言いたいことも同じだったり
若き日をよめよめ呼ばれ腹を立ていつしか時は「わたしが親よ」
バランスを崩してみれば半分になってしまったウッドデッキか
突然に庭の掃除が始まりぬ悲惨な庭のいつに整う
人の手を借りてつくれば荒れ庭もグリーンベルトにかわれるやもと

やりはじめたらあっけない。

猟師町ずらり並んだポルシェかな型式の数のんびりかぞえ
うお市場午後には半値刺身かな鮮度落ちればわが街に来る
豪快に木を切り鎌で倒したるウッドデッキの残骸をみる
ごみ箱に捨てているよな紙幣かな阿字ヶ浦にぞ海の幸にぞ
駐車場向こうの川は海なのかジェットスキーが進んでいくよ
あのそれは高かった木です、言いたいがあっさり切られぼんやりながむ
ひとつずつ育ってしまった草木より芝にしろやとあっさり切られ
山男海の男は豪快に天の恵みをポルシェに変える
売れ残る魚を飾るトレーなど考えてみてありがたかったり
食うまでの道は険しとおじさんは初梨もいで味見している

イザヤ書 30. 23-24

たしかに、もとをただせばタダだから・・・わかりやすい。

並んでは他人の親を世話したるドミノ倒しに浮世は流れ
よこやりを入れてみてもとドミノなら倒れるままに倒れるままか
放牧に大義名分整えば番狂わせもたまにはありき
改宗を考えている義理の兄喪主つとめれば仏壇の前
海鳥は飛んでいくよと潮風はさかなの匂い漂わせてる
野も山も海の中さえ権利かなじゆうなさかないずこに泳ぐ
朽ちるなら朽ちてしまえと思ってもウッドデッキは片付いてゆく

ルカによる福音書 24. 50-53 天に上げられる

パワーダウンしてるな。

花咲けば実がなるのかと梨の木はツインのままで叱られている
どうなってしまうのだろう梨の木はわからぬままに叱られている

突然昼間隣のマンションの大家さんが来て、あちらへ庭木が行ってしまっているからと言われ、話しているうちに庭の工事が始まってしまった。いきなり大家さんの親戚の業者さんが来て、あっけらかんと見積書はあとまわし。田舎だ。

マタイによる福音書 7. 15-20 実によって木を知る

なるほど。
彼らによると、うちの庭で残したい木は、梨とざくろだけなんだって。
なんかね・・・そういうものなのかも。
要らないとなったら、わたしにもきいてくれない。職人・・・・とは。

酔芙蓉倒れてみれば百合の花群れなし咲くを見て驚きぬ
職人の手際と目とぞ眺めてはわが意志とてもむなしく吹けり

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July 14, 2004

ヘブライ人への手紙 10. 15-17

  聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
  「『それらの日の後、わたしが
      彼らと結ぶ契約はこれである』と。
  主は言われる。
  『わたしの律法を彼らの心に置き、
  彼らの思いにそれを書きつけよう。
  もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
  罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

投稿者 Blue Wind : 10:22 PM | コメント (0) | トラックバック

詩編 139. 15

  秘められたところでわたしは造られ
  深い地の底で織りなされた。
  あなたには、わたしの骨も隠されていない。

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イザヤ書 30. 27

  見よ、主の御名は遠くから来る
  怒りに燃え、立ち昇る濃い煙を伴って。
  その唇は憤りに満ち
  舌は焼き尽くす火のようだ。

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July 12, 2004

母憎く勝ち誇りたる嫁の顔背の高き弟むなし

転院が決まって、そのとたんに老衰が始まってしまった。普通の人より10歳くらい早く。大病(脳の損傷)したのが原因だと言うのだけれど、あまりにも突然で驚く。それと同時にすべてが分かりました。母が私に伝えたかったこと。一生懸命に言おうとするのだけれど、言葉が出ない苦しみ。

この10日間のうちに、母の10年間の月日が。わたしの知らない10年間。何があったのか。病室で意識のないはずの母が何を聞いていたのか。わたしが娘を育てているうちに、母に何があったのか。もう、これでは死んでも死にきれない。もはや、母の葬式に出るのもいやだ。

イザヤ書 30. 27

枯渇したこころの谷にあふるるは炎のごとく魂の立つ
悲しみをつたえるもののこころにはすでに愛など枯渇した文字
死す者の敗者のごとく伏す床は鬼火のごとく炎舞い立ち
鬼女のごと立つ人みれば弟の身の者と知る情けなき死よ

親が死ぬほど反対していた人と親が動けないことをよいことに結婚してしまった。ただそれだけのことなんだけど、次第にその理由が明らかになりつつある。あんなに仲のよかった叔母さえも、わたくしでさえ、悲しみも怒りも嘆きも死に対する悼みすら失せる。なんでだろう。母はまだ生きているとは言うけれど、そういう実感もない。

そう・・・・動けなくなったら終わり。死んだら終わり。何も言えなくなったら勝手につくられる。すべてがむなしい。母が動けないのをよいことに、あの人たちが好き勝手にしてきたことを考えると、そういう気にもなる。動けなくなったら負けなんだろうか? 一人で何もできない母は無力すぎる。あれでは拷問と同じだ。わかったわ。

母が言いたかったのは、わたしのところに来れば母は楽なのよね。恵まれてるよ、普通の患者さんに比べれば。にもかかわらず、弟のところで厄介者扱いされている。なんでだ? 弟が心配だからだ。母の実家で母の悪口言うな、あほ嫁。どーにもならん。みんな怒ってるし・・・あーあ。叔母さんたちが言う意味がわかってきた。彼女たちにしてみたら、わたしのところのほうが気楽。母のことだけだから。家族で送れる。なのに現実はややこしい。死んだら終わりなんだろうか? でもなー、今さら母の気持ちがわかったからといって、わたしに何ができるというのだろう?

詩編 139. 15

魂は死なないのだよ。

弟の手をひき歩く母の背は若き想いぞゆくりめぐれり
母の背をかろく超えたり弟は背を丸くして母に語れり
弟に三つ子のように語る嫁あな現実はわびしくもあり
年月を矢のようにして夢の中あな現実は厳しくもあり
病床の母の想いは病人の戯言なるか苦しみの顔
母憎く勝ち誇りたる嫁の顔背の高き弟むなし
小姑になってむなしきわたくしはつくばの夏をすぎゆくばかり
夏の日は繰り返したる吾子の友姉弟の姿のんびりながむ
今は過去すぎゆく未来子らの背に青々としたみどりひろがり

ヘブライ人への手紙 10. 15-17

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エゼキエル書 24. 15-27 エゼキエルの妻の死

  主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」
  朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は突然死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。人々はわたしに尋ねた。「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と。そこでわたしは、彼らに語った。「主の言葉がわたしに臨んだ。イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしは、わたしの聖所を汚す。それはお前たちの誇る砦であり、目の喜び、心の慕うものであった。お前たちが残してきた息子、娘たちは、剣によって滅びる。わたしがしたように、お前たちもするようになる。お前たちは口ひげを覆ってはならない。嘆きのパンを食べてはならない。頭にターバンを巻き、足に靴を履け。また、嘆いてはならない。泣いてはならない。お前たちは自分の罪ゆえに衰え、互いに嘆くようになる。エゼキエルはお前たちにとってしるしとなる。すべて彼が行ったように、お前たちもするであろう。すべてが実現したとき、お前たちは、わたしが主なる神であることを知るようになる。」
  人の子よ、わたしが彼らから、その砦、栄光の喜び、目の喜び、心の望みであるもの、息子、娘たちを取り去る日、その日、逃れて来た者が来てあなたの耳に告げる。その日に、あなたは逃れて来た者に向かって口を開いて語り、もはや黙しているな。あなたは彼らに対してしるしとなり、彼らはわたしが主であることを知るようになる。

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July 08, 2004

うまく行かないね

落ち着かない。
母の危篤はいつものことなんだけど、今回はなぜか落ち着かない。こちらのほうへ転院ということにしていたからなのかもしれないし、それによりまたあれこれ波紋が広がる。大した波紋ではないのだけれど、一度こちらへ来れば転院はない。そうなると、こちらでお葬式をすることになる。母の姉妹、つまり叔母たちは喜んでいる。ところが、弟や嫁さんにしてみれば、喜んでもいられないらしい。今までやってきたのだから、このまま葬式まで、のほうが私も気楽。が、しかし、弟が独身のうちは気楽だったけど、結婚したら嫁さんがいる。嫁さんがいるとなると、相談する。すると、何となくあちらの家族が関与することになりそう。そうなるとまた気を使う。ゆううつ。
母の家族だけで、というのは失礼なのだろうか?
付き合うとか付き合わないとか、世の中はややこしい。しめやかな気分が次第に遠のいていく。すると、あれにこれにと説明しなければならない。今までの家族の遍歴というものがまるで伝わらないために、疲れる。夫婦は他人だ。それでいて、他人の他人のそのまた他人がどうして母の葬式に関与しなければならないのかよくわからない。
あーわからない。
それでいて、それを主張するばかりでは、あたしはまるで意地悪な小姑のようではないか?
今までは嫁の立場で鬱憤がたまっていたけれども、今度は小姑の立場になってしまう。これがまたやたらとストレスになる。
姑さんに相談すると、あちらは先代の姑さんもおじいさんも他界して一人になってもまだ嫁・小姑の確執が続いている。それにはタッチしないことにしているので、法事のことなどは一切姑さんに任せている。直接お付き合いすると叱られるから。
世の中はどうしてこんなにややこしいのだろう。
私にも私なりに小姑がいるけど、姑さんが逆に何を言われても気にするなと言っている。なんかヘンだ。あなたの娘でしょう、って言いたいのだけれど、母子といえども、人生も価値観も嫁ぎ先も違うために意見が違うのは当然らしく、私はさらに他人なのだから、もっと通じない。

なんかね・・・
私だけではないのだろうし、世の中はそういうものだとわかっているにもかかわらず、非常に落ち着かない。父が亡くなったとき、弟が母の世話をすると言い切っていたではないか。だから、私は何もする必要はないし、母だって、婿の世話になるより息子の世話になっているほうがよいとずっと言っていたわけで、この点ですでに家族の話し合いは終わっている。なのに、なんであたしが嫁に何か言われないといけないのだろう?
嫁は離婚すれば他人だけど、娘は娘だから、私があれこれするのが当然らしい。
はあ?
たしかにそのとおりだけど、そうやって言われると釈然としないものを感じてしまう。その苦情が弟にいく。弟は、間に入ってどちらにも気を使う。
わかっちゃいるが、こちらもそうなると言わずにはいられない。だから、母はあなたと結婚するのをずっと反対していたのよ、って。そうなると、あちらから願い下げだから弟とも1度は別れたという話を持ち出す。だったら、そのままのほうがよかったわ、という気分になる。
これって放っておくと、泥沼ではないだろうか?

あほな嫁と付き合うよりも、母と娘と一緒に3人で散歩していた頃を思い出す。私にとってはおにばばあでも、娘にとってはやさしいおばあちゃんなんだなーと。平和。
それにしても、自分も嫁としては出来の悪いほうだけど、うちの弟の嫁はもっと悪いね。
いや・・・・それが普通なのかも。

なんでもいいから、母を引き取って知らん顔しているほうがマシなような・・・
あちらにしてみれば、母がこちらに来るより、今のままのほうがマシなのかも・・・

なんか、世の中というのは、このようにこころが欠如していく。それでいて、そんなことはないと言いたいだけの理由で、欺瞞が続く。

あー人生だなー。

エゼキエル書 24. 15-27 エゼキエルの妻の死

投稿者 Blue Wind : 01:19 AM | コメント (0) | トラックバック

July 05, 2004

テトスへの手紙 3. 1-11 善い行いの勧め

  人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
  この言葉は真実です。あなたがたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いにも励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益でむなしいものだからです。分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いことと知りつつ罪を犯しているのです。

投稿者 Blue Wind : 11:30 AM | コメント (0) | トラックバック

ガラテヤの信徒への手紙 4. 1-7

  つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、髪は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッパ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

投稿者 Blue Wind : 11:04 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 26. 15-21

  主なる神は、ティルスに向かってこう言われる。お前の中で、倒れた者が呻き、虐殺が行われるとき、町の倒れ落ちる響きで、島々は揺れ動かないだろうか。海の支配者たちは、皆その座から降り、礼服を取り去り、美しく織った衣服を脱ぐ。彼らは恐怖を身にまとい、地に座り、絶え間なく震えながらお前を見て驚きあきれる。彼らはお前に向かって嘆きの歌をうたって言う。
  ああ、あなたは滅びてしまった。
  海のかなたから来て住み着き
  誉れある町となったのに。
  この町とそこに住む民は海のつわものとなり
  海に住むすべての者を震え上がらせたのに。
  今や、その島々はあなたの倒れた日におののき
  海の島々は、あなたの終わりを見て恐れる。
  まことに、主なる神はこう言われる。わたしは、お前を住む者のない町のように荒れ果てた町とし、淵から水を湧き上がらせ、大水で覆う。こうしてわたしは、穴に下る者たちと共に、お前をいにしえの民の中に落とす。また、お前を穴に下る者たちと共に、永遠の昔からの廃墟のような深い地に住まわせ、お前が生ける者の地で栄誉をもって住むことができないようにする。わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。

投稿者 Blue Wind : 10:52 AM | コメント (0) | トラックバック

一滴とまた一滴と雨が降る雨はひろがる水たまりかな

地上に、そんなたくさん父親がいたら迷惑だから。わたしの父は父、天の父は父。まったく違う。ましてや、あの人がわたしの兄弟と言われた日には、同じ墓には入りたくない。こうやって地上は分化していく。アンチ中央集権。

母の容態が悪化し、転院は延期しました。みんながホッとしているという・・・弟にしてみれば、母を見捨てるのかとなるし、父さんにしてみれば、旅行すらやめようと言い出す始末。つまりは、留守の間に何かあったらどうしようとか、責任と良心の問題なんだと思う。誰も何も言わないと言っているのに、人間は、社会はややこしい。

これはよいことだよなぁ・・と思って何かをしても、その結果、誰かを苦しめる。まとも。

治療の必要性のない人をいつまでも置いておけないと言っていた医者は、治療する口実ができたので、今度はさらに前回同じ症状が出たときと違ったやり方であれこれやってくださるそうです。たしかに経営者(院長)がかわって、儲からない患者は追い出さなければならない。何か口実があれば、そういうことをしなくてもよい。なんかね・・・

容態が悪化して、そちらのほうを心配しなければならないはずなのに、何かどこかが違う。

よくわからないけれども、こうやってすべての人たちが罪によって裁かれないことが大切なのかも。罪のない人なんていない。

なんで、神さまはいつも沈黙しているのか、何となくわかりました。

こうやって批判的な内容を書いていて、罪悪感はないか?
シエナのパリオは、競馬に勝ったら復活できると言っている。本気なんだもの・・・だから今でもそのためのミサをする。そうなると、まるで罪悪感なんてないです。むしろ、純朴な人たちの素朴さに良心の呵責を覚えてしまう。それでいて、ミケランジェロは好きだ。救われる。

こんな話をすると、また誰かが踏み絵の話を持ち出す。踏み絵を踏んで殉死なさった方の純朴さには打たれるけれども、わたしなら、あっさり踏みます。紙を踏むだけだから。そういうことに縛られることのほうがよほど罪だ。それにより裁かれるか?みこころの風は吹く吹く・・・

葬式のことから、何から何まで決めて、もうこちらに来れば、あとはのほほんとしてたらいいのよ、というところまできて、また母にはやられた。

結局、すべての人たちが裁かれないためにジーザスは来た。
だから、わたしのジーザスはもはや十字架の上にはいないです。
わたしの目から見たら、軍人のように並んだ聖人像も静かな聖人のイメージを破壊するという意味で罪だし、わたしのジーザスをローマ兵のように銀の杖にして振り回しているのも罪だ。(なんか文句ある?)博物館の美術品は貧乏な教会に払い下げるとか?(うそうそ・・)見るために、何時間も並んでいるのもかったるいし、どこへ行っても入場料なんだもの。それだけで、そこの地区、国は潤う。(たぶん)金があるからよいってものじゃないでしょうけど、何となく・・・つくばの教会にピエタくれたら、わたしも明日から行って、働く。(何にもできないけど)←これ、撤回。あれこれ文句言うと、そのとおりになっているところが怖い。その恐怖を知らない人たちは幸せだと思う。学食に冷やし中華というのはわたしではないです。

ミケランジェロは、ジーザスを十字架から降ろしたかったんだと思った。

エゼキエル書 26. 15-21

誰でもティルスのようになりたくないと思うほうが普通だろう。ティルスのようになりたくないから、栄誉栄華を求めて神をおそれてきた。
その名残なんだろうな・・・
ボッティチェリは、見事に晩年は狂ってしまった。あんなに彼の作品は愛されているのに。
憐れみのない世界なんだろう。

沈黙の時代の春はせつなくて語らぬ愛に憐れみのあり
誰がために沈黙しせり梅雨の日はドライな風の音は鳴る鳴る
暑き日は夏のようだと思いしも蝉の鳴かない今はまだ梅雨
暑き秋蝉とこおろぎ鳴きたれば忘れた「冬」にこおろぎすわる
暑い日は単に「暑い」と言うだけだ。夏か秋かも梅雨もわからぬ。
虫鳴けば季節はめぐり花は咲く。それさえ今は身勝手な庭。
今は初夏。薔薇のまほろに咲きたれば紅き薔薇なら咲き終わりたる。
紫陽花の予定どおりに咲き終わる。気ままな薔薇はうららかに咲く。

中世の装束を着た男の人が、おしゃぶり咥えて歩いているのが復活なんだろうか。たのむよ・・・

ガラテヤの信徒への手紙 4. 1-7

子、なのね。わかったようなわからないような・・・「あなたがたは相続人なのです」。引き継ごうと意気込みのある人と、そーでない人がいるだけのことなのかも。

こーなぁ・・・相続権争いなんだよね。ジーザスを認めるとか認めないとか。最初から自分には関係ないと思っていたら、関係ないのよね。

「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの」
友だちとか彼氏というのは、そういうわずらわしさはないから。

誰がママでもパパでも関係ないよなぁ・・・

ジーザスが、「僕がキングです」ってやって来るか?
ない、ない。
あんなに静かな人はいないと思う。
底なしの湖よりもまだ静か。底なしの湖があるかどうかは別として。

能無しなんだろうな。沈黙しているほうがすっきり。

教会なら大変なことでも、何もないと何もない。

荘厳にひかりかがやくひかりよりしずしずとしてしずまる夕陽
幻のかたくシュールに漂えばこなごなくだく水面のひかり
一滴とまた一滴と雨が降る雨はひろがる水たまりかな
雨は降る空は遠くと水面にはひろがる紋を不思議にながむ

テトスへの手紙 3. 1-11 善い行いの勧め

聖書と議論してるのよ。あーでもない、こーでもないと、よく続くよなぁ・・・

昨日の分の聖書をカットしようとしたら、サーバが落ちてる。抜かしてはいけないということなんだろうか。なんでも順番。

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マタイによる福音書 19. 16-30 金持ちの青年

  さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何が欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
  イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは誰が救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

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July 01, 2004

薄氷

なんか救われるなぁ・・・この街は救われる。
へいわだ。
最初、イール・シャロームのイメージが湧き上がってきたとき、朝靄の中のような静かな湖で漁をしている人がいた。聖人。つまりは、聖人というのは、そういうイメージ。音もなく静かな世界で静かに漁をしている人がいる。
ミーハー的に考えれば、それがペトロだったりするとひっくりかえりそう。だって聖人だもの。われらとは違う。
ところが、あまりにも平和で静けさに包まれた世界では、あまりにも静かに人がいるために、すでに何も感じない。ああ、この国ではこれが普通なんだな・・って思っただけ。

そのように静かな癒しの世界が、一気に破壊される。パリパリと音を立てて何かが崩れていくように、一気に壊れていく。薄氷に亀裂が走るみたいに。
その原因が、ヴァチカンの宮殿の上に聳え立つ軍人のような聖人の像だったり、われらがジーザスをローマ兵のように軽やかに銀の杖にしている人だったり、ましてやそこにどうやって愛を感じろというのだろう?
いたって純朴な人たちを知っている。素朴だもの・・・なんかうれしそう。神の国はかれらのものだと思っていた。もしかするとそうなのかもしれないけれど、それに対しても、薄氷が割れる。

結局、宗教大会や教祖のイメージから逃れることができない。あっさり語ると、そういうの、大嫌いだし、群集心理というか、カルト的心理というか、偶像崇拝の世界を見ているよう。カトリックをそういう狭い価値観で捕らえてはいけないし、このように批判的な見方をすることに対して、いささか罪悪感というものを感じさせてくれる人たちがいるとすれば、純朴な人たち。素直に信じているし、祭りがあれば楽しんでいる人たち。
ただし、シエナのパリオみたいなお祭りは、どうも・・・
競馬に勝つと、復活できるという話にもついていけそうにないし、それでいて、あの意気込み。レースの前に、教会でミサがある。勝つと報告する。そして、負けると本気で泣く。パレードがあって、中世の装束をした人たちがおしゃぶりを咥えながら歩いているらしい。伝統のある社会なんだろう。

そういうのを観に行きたいか?
もう、いいや。

天皇陛下万歳的宗教観にもうんざりだし、それとほかの宗教とどこが違うのか理解できない。それよりも、もっと軽やかにホップステップジャンプ。
自分が中世の時代の人間ならば、これだけ書いたら殺されていただろう。あるいは拷問とか?(あーやだやだ)
そういう集団心理にもうんざりだし、正直、眺めているだけで、静かにセロトニンが失われていくような世界はどうでもいい。せっかく静かに与えられたセロトニンが一気に欠乏していく。
あまりにも権威主義的社会にも人間にも疲れてしまう。せっかく与えられた静けさが崩れていく。もううんざりですな。

一番いいのは、そういうのを見ないこと。
疲れる社会。

薄氷のようだ。

マタイによる福音書 19. 16-30 金持ちの青年

イール・シャロームは湖しかなかった。

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詩編 51. 12-15

  神よ、わたしの内に清い心を創造し
  新しく確かな霊を授けてください。
  御前からわたしを退けず
  あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
  御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
  自由の霊によって支えてください。

  わたしはあなたの道を教えます
      あなたに背いている者に
  罪人が御もとに立ち帰れるように。

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使徒言行録 27. 13-26

  ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。
  人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」

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