June 09, 2004

透きとおる海のなかみはうるわしき海より空は光だに満つ

ヨブよりつらく、だってヨブはまだ自分でお話できたではないですか、神の愛を知らない寝たきりの年寄りでも、人間としての尊厳に満ちあふれることもある。それが本当の奇跡なのかもしれない。母に対してはぶーぶー言いたいことがたくさんあったけれども、実際、たくさん言ってきたし、それでいて今はそういう母の尊厳を自分が受け止める度量がないような気がしてしまうのです。あのような姿になって、果たして、そういう自分を自分であると自分は受け入れられるのか、と。
できれば、みじめな姿、弱くなった自分をさらしものにしたくない。だから、祖母のように最期まできちんと身繕いをしてす〜っと眠るように亡くなるほうが幸せ。そのために、重度のリュウマチの叔母は今でも元気で歩いて家事をしています。それに比べると、母は弱い。強くて弱い母が弱くて強い人になった。

尊厳をよわき人らにもとむれば咲く花のごとあたわれて生く
世話がちにかよわき花の枯れぬれば朽ちた花にぞいぶきのもどり
生きる意味問われてむなし話すらできぬ母には尊厳のあり
果てしなきみちはつづきぬそらまでも文句言えるは元気な証拠

ヨハネによる福音書 9. 1-12 生まれつきの盲人をいやす

結局はそこなんだろうな。母は今の医療の中でこれ以上は望めないだろうという医療を受け、私ももう少し母が元気だったら今より何かできることがあるかもしれない。何もしないだろうけど、たぶん。一番困るのは、どうして何もしないのか、と言われることかも。
ああなったら、知識は不毛。そんだけ。だから何もしない。ホスピスですら無駄だろう。だって、本人はほとんど意識もないし、耳すら聞こえないかもしれない、言いたいことも言えない、無反応に近い。
結局、私が知りたいのは、母に何が起こったのか?ということ。

実験実証主義においては、こんなに明確な事例はほかにないだろう、たぶん。
問題は、だったら何もしなくてもいいの?ということ。
いつもそう。そこ。

ヨハネの手紙 一 1. 1-4 命の言

かえすがえす蝶よ花よと生きぬればよきこともありあしきことあり
おなじ日をやがてはわれもむかえれば親の苦労はいやしとなりぬ
くりかえしうしろすがたをふりかえり見ることのないじぶんのせなか

そこか。世の中には屍をさらしている人もいる。彼女がどうして腐らないのか。

まみずにはまみずのなかの光あれみずよりえがく世界は光
透きとおる海のなかみはうるわしき海より空は光だに満つ
すいすいとおよぐさかなをおもわなばみちすじとなるみらいのことは

エゼキエル書 44. 1-3

こちらからは見えない。

投稿者 Blue Wind : June 9, 2004 12:36 PM | トラックバック
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