June 29, 2004

わが心の郷愁

この数日ほど、右翼的気分に揺られているのを感じる。ふるき日本に対する郷愁というかノスタルジーというか、夏には蚊取り線香、盆踊り、みたいなレトロな世界に揺られている。それ自体は悪いことではないだろう。少しはゆとりというものが出てきたのかも。それがどうしてゆとりなのかはわからない。もしかすると、それは今でも当たり前なのかもしれないし、バリ島のホテルで蚊取り線香の匂いを嗅いだとき、不意に懐かしい気がしてしまったことを思うと、少なくても自分の生活には蚊取り線香は無くなってしまったことに気づいただけだ。

夏休み、イタリアへ行く。それは以前から決めていたことだ。ところが、それがとても自分を殺伐とした気分にさせている。基本的にペルージャ空港を往復するだけなので、その界隈を周遊するだけで精一杯だ。だって田舎だもの。
単にビーチを徘徊するだけなら、アジアのほうが安くて近くて綺麗だ。まさしくリゾート。わたしがイタリア人ならそちらのほうへ行くだろう。ところが、今年はどういうわけかヨーロッパへ行く。この矛盾に加えて、アッシジはともかくヴァチカン・・・
夏のくそ暑い中、暑っ苦しい話を聴きたいか?
いや、理由はそういうことではないのだろう。今回、レーガン元大統領が亡くなり、まあ、お葬式があった。そこに、法王とブッシュが一緒に並んでいるのを見たら、どことなく不愉快な気分になってしまう。仮に、僅かでもそういうことにより、イラクへの主権委譲が行われたとしても、それがあまりにも身勝手なものであるような気にさえなる。
爆弾落としておいて、勝手に国をめちゃくちゃにして、復興も何もあったもんじゃないぜ!
って言いたい。
それと同時に、民族としての怒りがふつふつと湧き上がる。戦争に負けたのは仕方がない。戦力が違う。そのことは冷静に受け止めてしかるべき。ところが、問題はそんなことではなく、本当に日本に主権が存在しているのか?という極めて基本的な疑惑がふつふつとこみ上げてきてしまった。
はっきり言うと、ヒラリー・クリントン気分。つまりは、共和党が嫌いなのである。民主主義、民主主義と喚きながら爆弾を投下する。元はと言えば、一つの国家だった国が身勝手なイデオロギー的対立により分断される。力がすべてという発想。もーね、憲法9条は素晴らしいし、戦争も自衛隊もうんざりだけど、それ以上に共和党が嫌い。今回、自衛隊が多国籍軍の中で働くことになった。できれば、アメリカをイラクから追い出してほしい。(ほえ?)

こーねー、ノスタルジーなのよ。ふるきよき日本に対するノスタルジー。シンガポールの戦争記念館で、日章旗を振り回している狂った日本兵の姿も見てきたし、おそらくは悪いことをたくさんしてきたのだと思うよ。それはそれで、その被害に遭ったアジアの人たちが本音の部分で日本人を嫌っていても仕方がないだろう。わたしだって、はっきり言えば、嫌いだ。つまりは、日の丸を日章旗に変えたその醜さが嫌いだ。
そして、それを通り過ぎて、今はなおそれ以前の日本に郷愁を感じている。
うちの国って、本当にそういう国なんだろうか?
単に、ちっぽけな島国ではないか。
こんなちっぽけな島国なんだから、そっとしておいてほしい。
どこか、そういうノスタルジックな気持ちがふつふつと湧いてきてしまっている。

もーねー、昔と違って、日本がどこにあるかと訊かれることも、中国人に間違えられることもめっきり無くなったし、日本円は強いので、そのまま通貨として使えたりするし、日本語を話せる人の数も増えた。そんなことを考えると、自分の郷愁がどこからきているのかわからない。
こーさー、アジアの端っこにちょこんとあって、大して資源も国土もない代わりに外敵もいないとかさぁ・・・経済大国と言われて、侵略戦争がどうたらこうたらなどと言われるような国ではなく・・・・なんというか、いたって田舎でローカルでのんびりやまとっぽく。そういう敷島が懐かしい。
神社があって、お寺があって、そういうちゃらんぽらんさも好きだ。そして、祭りとなると山車や御輿が出て・・・みたいなローカルさも好きだ。イタリアにとっては、キリスト教がすでにそういうローカルな祭りの世界だから、それに触発された部分があるのかも、逆に。

どこか遠い国で死ぬより、母国の土の上で死にたい。おそらくは、イタリアの教会を回ってくるのだろうけど、ヴァチカンはボイコット。インターナショナルに生きるより、敷島の人でありたい。かといって、もう自分はふるい村落共同体みたいなところでは生きられないだろう。窒息しそうになる。

郷愁・・・・

投稿者 Blue Wind : June 29, 2004 09:44 AM | トラックバック
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