June 27, 2004

なんでもてきとー

Buon giorno. Io sono Masako, ed allora questo e mia figlia. Non parlo italiano.

18年前、英語の勉強をしに行ったら、まわりがイタリア人だらけだったために、英語よりイタリア語に囲まれて暮らしていた。よーわからん。毎日、Si, si, si.... Si prego. Grazie tante. とか。先生と話すより、イタリア人と話している時間のほうが多いという・・・そんなものなのかも。

文法、わからん。活用、わからん。でも、活用があることを知っているのはフランス語を勉強したからかも。これもねー、てきとー。なんでもてきとー。てきとーで困らないのが生活というものなのかも。

子連れで旅行しているとしましょう。訊かれること決まってるから。子どもの名前、一人っ子かどうか、年齢、どこから来たのか、パパはどうしたのかとか。話す内容も話す前から決まっている。今の一番の問題は、メニューが読めないということかも。これはね・・・泣く。まさかシンガポールのレストランみたいにスープの中に虫が入っているということはないだろうけど、それが高いやつだから食えと言われた日には・・・

バレーボールの試合の日に断食していたチームの苦労を考えると、まだましかもしれない。食文化はどーにもならん。その次に困るのは、バリ島だったらうっかり子どもの頭をなでたらいけないとかね・・・あれにこれにと神経をつかう。それでも日本に来たらマックでしか食事できないアメリカの高校生よりましだろう。バリ島のすごいところは、空港にだけだけどマックがあり、ホテルのレストランにはオージービーフが入っているということかも。ちなみにイタリア人はピザをフォークとナイフで食べる。うちも。世の中はそういうものなのね。あと言いたくないけど、教会の服装チェックとか。最初からそういうものだと諦めていれば、どこ行ってもかわらん。アジアがいかにパラダイスかわかる。子どもにやさしい。
最初からそういうものだと思って諦めると、どこへ行ってもかわらん。通り過ぎる風みたいなもので、すべてが景色と同化する。単なる風景なのかも・・・
教会での日本人のマナーが悪いというのは、どこのガイドブックにも書いてあるけど、それは海外だけではなく、教会だけではないから・・・国の責任かもね。知らん。それでいて、行儀のよい国民。謎。
政治にも宗教にも興味のないうるわしの国。

使徒言行録 8. 32-40

結局、ハートがないんだよね・・・
みごとに戦争が日本を変えた。よくもわるくも。こんなに否定された国は少ないかもしれない。住みやすいよい国なんだけど。

すべてがどうでもよく、すべてが自分たちには関係ない。親は子どもを甘やかし、子は親を尊敬しない。み親の神すら信心しない。ましてやほかの宗教なんてどうでもいい。日本で言うところの神というのは、ご先祖さん。建国の父。らしい。それまでばらばらに暮らしていた人たちをひとつの国にした。だから、エターナル・ファーザーとは少しも矛盾しない。

そして、仏教が大陸から伝わった。手厚く保護されて国教となる。それでいて、次から次だもの。

謎がひとつ。

死者の中から復活したのはジーザスが最初だという。永遠の命というのは、霊のことなのだろうか?この概念は歴史の浅い日本では、すでにもっと昔からある発想だと思っていた。つまりは、紀元前にはなかった発想なのだろうか?じゃあ、エジプトは?そこがわからない。死んだら誰でも仏さまだから・・・この手の発想はそんなに古いものではないのか?

なんで、人間がこんなにばらばらになってしまったのかは、聖書に書いてあった。あまりにもばらばらすぎて何もかもが混沌としている。わたしには、どこの教義も興味がない。それぞれがすべての一滴にしか思えない。なぜだと問えば、それがあるから、つまりは、律法があるから悪を知り、罪を知る。律法がなければ悪も罪もない。だから、律法はよいものらしい。ならば、すべてが集まったらどういうことになるのだろう。単なる自覚を促すために言の葉が与えられているのだろうか?だとすれば、ひとつでは完璧ではないはず。なのに、それぞれが完璧であり、自分たちが正しいと主張する。でも、誰も神さまに会ったことはない。名前も知らない。

だから、ここまで屈折すると、霊しか信じない。あまり好きな言葉ではないけれど、ほかに言い方を知らない。与えられたものしか信じない。形では惑わされるだけ。何も見えなくなる。実際、見えないから見える。いや、見えない。わからないし、へんな迷信と一緒にされても困る。もしかすると何もわかっていないのかもしれない。それでも何も困らない。いや、もしかすると困るのかもしれない。永遠の命さえ要らないとなったら、何も要らないということになる。何にしがみついているのかわからない。すべてがどうでもいいとなってしまう。

なんかね・・・もしかすると、どうでもいいのかも。あの世で幸せ願うのとこの世で幸せ願うのとどう違うのだろう。なんて不自由な世界なんだろう。どちらも。
形が与えられているから、そうやって思うだけなのかも。何もなければ何もない。何もないほうがさっぱりしている。それでいて、何もないというわけにはいかない。

いずれにせよ、社会だから。制度も文化も人も建物もある。
なかみはほとんどかわらないのに。
神さまに祈ることなんて、大差ない。

賛美している人は救われるのかも。明るいから。

まじめにかんがえると、うんざりすることばっかだもの。なんかもうどうでもいい。あんたなんかきらい。どっちもどっちのマインドコントロール。はやく終末にならないかな。そのほうがさっぱりしてる。お〜い、ってね。

詩編 56

宗教的祝日の日には、一般の人は制限されているでしょ?なんでそんな時にわざわざなのよね。なんでか知らないけど、そういう日程になってしまった。正直、行きたくもない。が、しかし、そういうことになってしまったからには、ねこは行かなければならない。

投稿者 Blue Wind : June 27, 2004 03:21 PM | トラックバック
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