June 28, 2004

正直

ルドビーさん、やはり嘘は書けないと思うのです。正直、わたしは共和党も嫌いだし、教皇という存在に愛を感じることはできない。だからこそ、イタリアでも教皇派と皇帝派がいて争ってきた。実際のところそれがどれほどのことなのかは、敷島生まれのわたしには想像できないけれども。多くのキリスト教国により、いくたの争いが生まれた。実際、そのようにも考えているし、ネイティブをバカにして滅ぼし、そしてまたそれを保護しようとしているオージーみたいなもの。
だから、この点に関しては考えれば常に怒りを伴います。
ならば、どうして自分が信仰に立ち戻れるか?
それは、一切そういうつまらないことを考えない時間があるからだと思うのです。ジョン・レノンではないけれども、国も宗教も関係ない。神と自分との関係が存続している限り、教会やその他諸々の社会制度が消えても信仰は残るからです。
つながっているのなら、ジーザスにつながっているべきです。それは社会や制度、教育により与えられたものではなく、夕立のようなもので、ある日突然神の愛は与えられる。こういう書き方をするとあまりにも書きふるされた内容だから、今さら自分が書く必要性は何もないような気さえします。

いささか残念なのは、自分が与えられた愛をあらわすことができないことかもしれません。すべての思考と感情が停止し、ましろき世界。あまりにも静かな愛なので、わたしのように元来の気性が激しい人間にはあらわすことができません。
一瞬にして、すべてがどうでもよくなってしまう。それがどういうことなのかうまく語ることができないです。いささか宗教系の活動や説教にも政治にもうんざりしているし、世の中すべてイネガリテ。あれにこれにとうんざりすることだらけ。世の中から、こういううざいものが消えたらさっぱりするだろうなーとは常々感じたりします。つまり、要らないストレッサーなら要らないし、あの世の幸福でもこの世の幸福でも、それぞれの人たちがそれぞれに幸せならどうでもいい。世の中がどうなろうと関係ない。
ぽいって捨てたら神さまだけいた。そんなものなのだから、ややこしいことがめんどーならばすべて放り投げてもいいのよ、としか語れないです。お仕着せによる宗教は情けないものがあります。何がお仕着せなのかとまでは語れないけど。

ひとつ言いたいのは、露出の多いこれみよがしに真実はないような気がするということかも。

自分は未だに聖書を通読していないし、教会にもほとんど行ったこともない。信者でもないし、未だに敷島の人間。法王の写真見てはむっかむっかしているし、実に反抗的な羊なんでしょう。それくらい世の中は欺瞞に満ちあふれているし、それでいてそれを否定するつもりもない。
つまりは、どうでもいいことだらけにすぎず、それに過分に執着しているような人たちがいるから戦争にもなるような気もする。だったら、最初から何もないほうがすっきりしている。

何もないから救われている。たまに心の底からそうやって思うことがある。ジーザスとだけつながっているのがわかるからかもしれない。なんかね・・・ほかのものは単なる飾りなんだろう。狭き門。もしかすると、狭き門というのは何もないところなのかも。露出的に神さま神さまと言っている人たちは嫌いだ。すべてが上の空に聞こえる。

すぎゆかば風となりたし消えゆかばみそらだにまつかたき世は鳴る

ヨハネの黙示録 2. 1-7 エフェソにある教会にあてた手紙

投稿者 Blue Wind : June 28, 2004 12:07 PM | トラックバック
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