June 04, 2004

陽よ雨よ枯らしもすればめぐみたる気まぐれな空花は咲きたる

こんにちは、ご無沙汰しています。
忙しかった。どういうわけかひたすら忙しかった。
母のことだけではなくあれにこれにと忙しかった。
というわけで、久しぶりにのんびりネットを繋いでいます。
おかげさまで、母はパリ祭の頃にはつくばにやって来れそうです。
翌日が東京のお盆。
パリ祭はいつも母に付き合わされてシャンソンを聞きに出かけました。
以心伝心、すべてが順調です。

イザヤ書 65. 24

神さまはさきまわりして道ひらく明日ひらく花知るかのやうに
今日のこと明日のこともわからない空の雲さえうつろいながら

電動のバリカン買って刈り込めば花咲く庭に小道のもどり
名も知らぬ小鳥のような鳩のよう太った鳥がブランコに乗る
照りつける太陽のしたあらくさは腐葉土となり勢いとなる
ちっぽけな庭さえ空は気ままかな生きるがままに手を添える吾
生きるまま育ちゆくままめぐりゆく季節はかわるひとつ学んで
薔薇の花絶えることなく咲きゆかば休みの季節バカンスとなる
花々はかわるがわるに咲きつづけ初夏の風には小さな木の実
子みかんや子なし子ざくろミニチュアのおもちゃのように実をつけており

ヨブ記 31. 29-30

何のため生きる苦しみ背負いたる母の苦しみ生きる喜び
ヨブよりも苦しき母の姿かな陽はのぼりゆき輝きを増す
生きていることさえ奇跡と言われしも生きる姿の苦しげに泣く
枯れかけた花さえ息のもどりせば陽よ雨よと咲きたるがごと
陽よ雨よ枯らしもすればめぐみたる気まぐれな空花は咲きたる
雨と水。まったく違う空の色。空の咲かせた花はうるわし。

コリントの信徒への手紙 二 8. 16-24 諸教会からの使者

母は祖母のように死ぬつもりだったから発見が遅れて(つまり隠していた)、それから無理やりオペして奇跡的に助かって、その後何度心臓が停止したことだろう。それでも死なない。死ねない、という表現のほうが正しい気がすることがある。
こちらへ来たら、再び脳外科で検査するところから始めるそうです。普通だったら考えられない。それ自体が奇跡に近い。するするとまるで何かが決まっていたかのように道が拓く。

自分だったらどうするだろう。母もずっとそうなったら何もしないで死なせてほしいというのが口癖だった。そうなんだよね・・・大抵の人は、もちろん自分も含めて母と同じように考えると思う。「できればこのまま・・」みたいに。
が、しかし、僅かでも助かる見込みがあるならオペするでしょ?
が、しかし、普通は頼んでもオペしてくれないようなケース。勢いだけでオペ。いわば延命治療のひとつのようなものだと誰しも思っていたし、自分ですら3年生きたときにはすでに諦めがあった。普通だったら助からないし、生きても半年とか?しかも、寝たきりで半年後に自発呼吸が戻っただけでもすごいと言われた。

どんよりとした朦朧とした目は死んでいる証拠かもしれない。目の焦点があっていて、澄んでいるということは生きている証拠かもしれない。全然違う。

祖母はね、こころがけのよい人だったから、60歳過ぎたら着物にすべてしつけ糸をかけて、いつ発作がきてもよいように身支度していたのよね。だから、いざ発作がきて、眠るように亡くなったときに皆が驚いたんだから。「そんなバカなことをしていないで、生きているうちに」などといくら言われても知らん顔をして、自分のことだけしていた。
母はこころがけが悪かったから、いざ発作がきて、あれにこれにと私がどれほど苦労したか。整理までやらなければならない。しかも不要なものがありすぎて未だに困っている。それでいて、何もしなければ祖母のように死ねると考えていること自体がこころえ違いしていたのかも。たしかに物理的な死に方はできるのかもしれないけど、現実は違う。現実というか、真実が違う。死ねば終わるのかもしれないけど、死ねないではないか。

天の受け入れ態勢が整うのに病院より時間がかかるのかもしれない。(ほんとか?)
道をまっすぐに。

祖母はごく普通に生活していて、発作で倒れて3日のうちにすべての人が会いに来たとたんに息を引き取った。しかもいざという時のために着物にはしつけ、一筆書いたものまで出てきた。大袈裟なものではないけれども、万が一生きてしまった時のことも考えて。理想の死に方。
母はどうなんだろう・・・こうなったら少しは母にあやかりたいと皆が思ってくれるようになるまでは生きていてもらいませう。いや・・・、諦めよう。まったく逆だもの・・・昨日まで元気で過ごしていたかと思ったら、突然、あれ以上ひどい状態はないという状態で生きている。祖母のときとはまったく逆だ。

何のために生きたり死んだりしなければならないのだろう。よーわからん。

ルカによる福音書 16. 12-13

そそ、ママが欲しかったのは金だ。
死んでから、というか、倒れてからのほうが人間的かもしれん。
無力で倒れて一人では何もできないほうが人間的というのはなぁ・・・困った。

復活、か。

死ねば終わるというのは嘘だね。やはり、生きて贖わなければ死ねない。ママが大切にしていたものは何の役にもたたない。「ただ生きている」、ことへの感謝なのかもしれない。

目がしっかりして、不思議なほど静かな人になってしまったのです。
病床にいて、何もできないけど、不思議に目がしっかりして澄んでいて、それだけ。それだけなんだよなぁ・・・それだけ。生きている。
ママもジーザスに会ったのだろうか。ずるい。
どうやったら神さまに会えるのか?
さあ・・・・・

こころのなかがぐっちゃぐちゃでも寝たきりでもわるいひとにもよいひとにも、あなたにもわたしにも。

ヘブライ人への手紙 1. 1-4 神は御子によって語られた

母は彼に会った。
母がいきなり歩き出したら、誰でも信じるだろう。
聖書の時代はよかった。

「永遠の命」。

ややこしい。ややこしいーよーー。

眠りより目覚めたような瞳には見つむる先の見えているやも
苦しみをとおりすぎたる目覚めにはしずけさだけが漂っている

ローマの信徒への手紙 15. 21

わかった。話しかけ方が違ってる。神さまとお話するように、母とも話さないと通じない。

投稿者 Blue Wind : June 4, 2004 02:55 PM | トラックバック
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