May 10, 2004

生きている

母の日。娘に癒される。
もう私の年になると、母の日というと自分の母のことも思い出すし、自分が娘の母でもあるし、ややこしい。
それでもカサブランカを気まぐれで活けてあった花瓶にピンクや赤のカーネーションやカスミソウを一緒に活けるとグッと華やかになる。隣の駐車場に伸びてしまっている薔薇を切ろうと思ったけれど、今日はあいにくの雨でもあるし、庭の花はどうしても虫がついていたりするので悩む。
人間が成長しないと、わたくしみたいにいくつになっても母親のことを考えると、むかむかしてしまうというのも困る。考えてみれば、現実の母は4年半前から寝たきりであり意識もほとんどない。いわゆる植物状態のまま生きているわけだから、今さらむかつく理由もないのだけれど、どうしても元気なうちに倒れているせいか、こちらも娘気分になると未だにむかむかしてしまう。
「母」という抽象的存在に対して、遥かに私より娘のほうがやさしいし、愛情がある。簡単に語ると、私と母はいわゆる仲の悪い親子であり、私と娘はいわゆる仲の良い親子であり、私にしてみれば、仲の悪い親子から来る憤りを仲の良い親子で癒している。つまりは、自分が子どもの頃に憧れていた母というイメージを自分に重ねているわけで、自分の母を思い返せば、「ああいう母親にはなりたくない」という気持ちしかない。だから、娘にはそういう思いをさせたくない。なんてわかりやすいのだろう。そうやって自分で自分を癒している。
結局、親は選べない。でも、自分が親にはなれる。自分が完璧な親ではないことは自分が一番よく知っているけれども、それでいて仲良しだったらそれでいいかなーという。ふつうのお母さんに憧れる気持ちというのは他人に説明できるはずもなく、かりに理解してくれそうな人がいても、親子関係というのは他人が理解できるほどには簡単ではないために、結局は娘に癒されるしかないのかもしれないと、何となく思ったりもする。
もっと言ってしまえば、娘が癒しというよりも、娘に愛される自分が癒しなんだろう。だからねー、これに対してああでもない、こうでもない、と言いたがる人間は敵なのである。
いや・・・素直に娘を愛している自分が癒しなのかも。世の中には、自分の親のようになりたくないという理由で子どもを持ちたがらない人もいるくらいだから、それを考えたら、自分などは幸せだ。素直に娘を愛せる。それだけで幸せ。そうやって考えると、自分が思っているほどには自分は屈折していないのかもしれないし、それでいて未だにむかむかするということは自分が未熟なのかもしれないし、いずれにせよ、それが自分であり、そういう自分を素直に認める。だってなおらんから。
あの親がいたから自分がいるのだろうし、それでいて感謝するほどには自分は幸せではない。それでいて、不幸かと尋ねれば幸せであり、この辺の矛盾が何とも言えない。誰が私を幸せにしてくれているのか、という問題なのかもしれないし、母親のそばにいて、幸せを感じたことがないような気がするせいか、それとも当たり前だと思っているからそれに自分が気が付かないだけなのかわからない。子どもを持てば自分の苦労や気持ちがわかるだろうと母は高を括っていたけれども、ますますわからなくなった。あの人が言いたいこと、言いたかったことがますますわからなくなる。結論としては、それは誰にも理解できないことであり、おそらくはそこが違っていたのだろう。
今となってはすでに話し合うこともできないけれども、母を理解したいという気持ちもない。だから、素直に感謝できないのかも。それは互いに不幸であると知りながらも、寝たきりの母との確執は続く。確執というよりも人生闘争なのかも。あのように寝たきりになり、なおかつその姿を見て、素直に死なせてあげなかったのは私なのだろう。それでいて、あのようになりたくない、なったとしても娘には迷惑をかけたくない。あーなんとわがままなのだろう。その自分のわがままのせいで一番苦しんでいるのは誰なんだろう。
こうやって寝たきりの母にしがみついている。だから彼女はなかなか死ねないのかも。
一つわかったのは、生きているということに明確な意義のある人間などめったにいないということかも。だって、いつかは誰でも死ぬ。何のために生きているのかわからないけれども、彼女は生きている。それだけ。

イザヤ書 26. 18

投稿者 Blue Wind : May 10, 2004 12:36 AM | トラックバック
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