May 01, 2004

まどろみに悪態ついて儚くも浮遊のなかへ落ち込んでゆく

現実はいつもシビアで、「気の合う人とだけ付き合いたい」と言うだけで、差別だの偏見だのいじめだの仲間はずれだの騒ぐ人がいる。

使徒言行録 13. 44-52

相当、根深い問題なのかもしれない。

イスラエル迫害・差別騒いでも白人ユダヤセムを差別し
シオニズムクールにながむユダヤ人無神論者のイスラエルかな
ハザール人いつの間にやらユダヤ人ややこしくてはわれにはわからぬ
友情も社会問題抱えては逃げるが勝ちとその他大勢
社会的友情よりも本当の友だちとだけ気ままに過ごす
何のため仲間仲間と騒ぐのか虚無の浮かべるネットの罠か
誰がために生きると言わん空の星いつかは砕け碧にも燃え

マタイによる福音書 28. 16-20 弟子たちを派遣する

あ、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」って書いてある。聖書は最初から最後まで読んでも、理解できない代物なのかも。

吐き気を我慢してまで付き合わないとダメなんだろうか?それが愛と言われてもねぇ・・・・おそらくは、みんなが怒ったのもここだろう。

エフェソの信徒への手紙 4. 7-16

微笑んで階段上って口閉ざし鬱にまどろむ憐れみのなか
まどろみに悪態ついて儚くも浮遊のなかへ落ち込んでゆく
愛はなぜ憎まれつつも聳え立つ威厳の燃ゆる彼方へゆかむ
激しくも燃えるほむらは音もなくたなびく風も激しさを増す

ルカによる福音書 11. 8-13

要するに、差し迫った要求があるかどうかということのほうが重要なんだろう。そりゃそうだ。が、しかし、地球はあなたのためにだけ回っているのではないのです。わたしのためにだけでもない。

それにしても、社会的友情。これなんだな、問題は。チャリティ、ボランティア、社会的友情となると、まったくスタンス違うもの。あっさり語れば、きっちり区分したい。必要性だけで友達やってるから。なんで吐き気我慢してまで付き合わないとダメなのかというと、「社会的友情」だからなのよね。そんなんでいいのか?だから、どこが愛なんだと言われてしまう。ほんとほんと。政治家や外交官のほうが遥かに愛に溢れているということになるわ。この理屈だと。そこにジーザスを引き合いにするから怒るのよ。間違ってはいないんだろうけど、何かどこかが違う。

死に絶える時間の中で朝までも友情支援考えてみる
敵国に塩を送ると言いながら毒入りの塩なぜに返しぬ
チャリティの何が愛だと言われては憐れみのない塩をまかれる

エレミヤ書 48. 35-39

愛のない責任をまたジーザスに押し付けたるを教えと語る
哀れみと書いた足跡責められし汚いからと言われて悩む
哀れみをかけられること恥と思う旧い世代に何をか語らむ
憐れみを愛を知らない「チャリティ」は一人歩きし言の葉だけが
社会とはチャリティという制度生む憐れみなくも募金はできる
行いを素晴らしいなどことほぎも反感だけが一人歩きす
殿様がふんぞり返って憐れみを民にかけるをチャリティと呼ぶ

使徒言行録 12. 1-5 ヤコブの殺害とペトロの投獄

投稿者 Blue Wind : May 1, 2004 05:57 AM | トラックバック
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