May 12, 2004

『孤高の歌人』?

娘は遠足から戻って寝ているし、ダンナは友だちの快気祝いがあるためにお出かけしたので、サイトを更新。更新したら娘を起こし、今日は面倒だからファミレスにでも行こう。なんせこのところ非常に鬱々しており、ステファン・ミクスが悪いのかもしれないし、すっかり自分の世界に入ってしまっている。

例の如く、母は肺炎から立ち直り、またあの状態のまま生きていくのだろう。「寝たきりの老人」と定義するにはあれ以上の重度の状態はないらしいし、食事も喉に孔を空けてそこから栄養食。何かあれば酸素マスク、点滴、かろうじて自発呼吸があるのと、脳が一部生きているために脳死でもない。感染症があるために、個室か二人部屋、それでも緊急性がないために、状況によってはたまに大部屋という具合に病院で生きている。起きているのか寝ているのかもわからない。寒いのか暑いのかもわからない。耳が聞こえるのか、目が見えるのかもわからない。それでも母は生きている。一人では、指の先さえ動かせない。頭の向きさえ変えられない。つまりは動けない。自発呼吸があったとしても、すでにあの状態では家で介護することは不可能。それでも老人病院にいるわけではないので、清潔にしている。家族がするのは、せいぜい替えのタオルの洗濯と爪を切ることくらいで、それ以外は看護婦さん。
一番悲しいのは、そういう状態でも、「母は元気です」と言うことかもしれない。元気は元気なのだろう。ほとんど意識のない状態でも元気だし、体力があるからあのように肺炎を起こしても快復する。
祖母は、脳出血で3日で眠るように亡くなった。それから20年以上経過し、母は脳出血とくも膜下出血の同時併発で脳のオペ。命を取り留めたとしても、「寝たきり」を宣告されていた。なんて便利な言葉だろう。「寝たきり」。同じ寝たきりでも話せる人もいれば、食事のできる人もいる。それくらい個人差が激しい便利な言葉。
弟などはシンプルだから、「近頃、母さん、元気になってね」と言う。逆に、状態を話すと、世間の人たちは一生懸命に励ましてくれるそう。私などはすでにそういう話はあまりしないようにしている。説明するのも疲れるからかも。義姉などは姑さんが寝たきりになったらどうしようかと真面目に心配しているけれども、母のことを考えると、世の中はどうとでもなるとしか言えない。よく考えてみれば、そのおかげでその手のグチをあまり相手にしなくても済むようになったのだから、喜ぶべきかもしれない。母の状態を考えれば、まだ自分で歩けるとか、話せるとか、それだけでも幸せな気分になるからかも。自分的には鬱の種であり、なんであんなに苦しい思いをしてまで生きていかなければならないのかわからなくなるし、自分の時にはさらに医療が進歩して、母よりも意識がはっきりしていれば、もっとつらい思いをしなければならないかもしれない。
人それぞれだ。「なんであんなに苦しい思いをしてまで」と思うのはまだ自分が若いからかもしれないし、叔母たちにしてみれば、明日のわが身だから、「動けるうちは」と思ってがんばっている。

そうやっているうちに結社誌が届いた。なんか、こう、うまく説明できないけれども、自分の歌が載っていてもどこか遠くの世界の出来事のようであり、遠い。他人の歌を眺めるように、羅列された歌を眺める。切り揃えられたばかりの木のようであり、「かたいな」と思っただけ。常識的な概念歌が多いせいかもしれない。「ああ、こうやって自分というものが切られて存在していくのか」と思った。それでいて、痛みもない。「母よりマシだ」とわけのわからんことを考えながら、ステファンの鬱に浸る。『孤高の歌人』。いつから孤高の歌人になったんだろうと思いながら、聖書を開くようになって以来、そういえば、かつての軽いノリも嫌うようになってしまったし、それでいて自分の毒はおさまる所を知らないらしい。
かつて、岡井さんが近藤さん宛てに歌を送りつけていたという記述をどこかで読んだ記憶があるけれど、そういう結社のライバル意識とか徒弟制を、自分の場合、テンションとして維持できない。歌会に行ったことがないせいかも、とか、歌を読んで入会したのではないから、とか、そういうことかもしれないと思っていたけれど、どうもそれとも違うらしい。ほかの結社誌でも、まずは気になる歌人を見つけて、とか、そういう風に書いてあった気がするけど、どうもそういう気分にはなれない。いたとしても、そこに何をぶつけろというのだろう?私のグチグチ、うだうだ、か?
無理だ。そもそもが答えのない世界のうだうだであり、グチグチであり、それを誰かにどうやって言っても無意味。だから、神さまとだけお話せよ、ということなのかも。今頃気づく。
こう、うまく説明できないけど、結社に送って急にうたを詠む気がしなくなってしまった時期がある。結社が悪いのではなく、なんて言ったらいいのだろう。気力が消えてしまったというか・・・退屈で退屈で、精神が死にそうになった。
全然、孤高の人ではないにもかかわらず、歌に関しては、孤高の歌人なのかもしれない。なんか大袈裟すぎて好きな表現ではないけど。まあ、いいか。ステファン・ミクスは重すぎ。でも、一度、この味を知ってしまったらうまく復帰できそうにない。あるいは復帰する必要もないのかもしれない。まあ、いいや。アートってそれくらい厳しい。孤高の極み。セカンド・アートか。言っても通じなかった。アートは厳しい。他人の介在をゆるさないくらい厳しい。深く考えたくない。

投稿者 Blue Wind : May 12, 2004 07:46 PM | トラックバック
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