April 26, 2004

暗中模索

イラクの人質解放の世論などを眺めていると、まるきり職員室での話題みたいでつまらない。要するに、学校に迷惑をかけて、先生やほかのお友達に迷惑をかけたのだから、それに対して家族が謝り、本人にも反省を促す。学校と違うのは、金で落とし前をつけさせようとしているところだろう。
あーこれが日本社会なんだなーっと思った。当たり前のようでいて当たり前でないのは、国際世論というものがあるからであり、純粋にイラクのことを考えて、復興援助のボランティア活動に行った人たちのことを賞賛する声もある一方で、日本政府の姿勢というのは、「皆さんにご迷惑をかけた」ということを批判するものであり、それに対して金という形での謝罪を要求している。従って、「今後何かがあれば自己責任ですよ」ってことになるのは、学校の責任逃れにもよく似た態度であり、そういう風潮があるからいじめにつながるんだなーなどと思ったりもする。
それでいて、アジア型の紛争解決においては、長老同士が話し合い、紛争を解決する姿勢というのはごくありふれたものであり、日本においても村落共同体の中ではそれが当たり前のことである。
自分の場合は、案外、常識的な人であるために、やはり自己責任だろうと思う一方で、自衛隊の復興支援というのは真っ赤な嘘であることにも気づく。つまりは、アメリカ支援のために付き合いで派兵しているだけであり、多くの日本国民はそういう紛争には巻き込まれたくないというのが本音。だからこその反戦ということになる。
だから、政府に同調しない姿勢で、イラクの復興のために活動する人たちは非難される。しかしながら、心情的には、こういう純粋な人たちがいるから人質解放にもつながり、だからこそ、少しは日本人の活動というものも見直されつつある。にもかかわらず、日本の世論、政府の姿勢。
あまりにもわかりやすいと同時に、米・英が迷惑なのは、そういう長老社会への批判であり、紛争を解決するどころかますますややこしいことになってしまうから。それでいて、民主主義というものをアジアに浸透させるという目的は、案外、これまた純粋にイデオロギー的対立まで生み、それにより安定した長老社会というものが破壊されようとしているのも事実。

こーねー、自分などは過渡期の世代だから、どちらが正しいのかなんてことはもはやわからないです。昨日、塔短歌会の結社誌が届き、やけに分厚い今月号を眺めながら、50年の間にはいろいろなことがあったのだと他人事のように読んだ。結社は長老社会だから、紛争が発生すれば長老同士が話し合うのでしょうし、超結社がどうたらこうたらというのは、要するにそういう風に長老同士の話し合いに頼らず個人間のつながりを持とうという姿勢なのかもしれないし、何となく村落社会における青年部のような・・・

その話は置いておいて、さらに興味深かったのは、消えた歌人の話。当時の塔短歌会としてはめずらしい部類の歌を歌会に持ち込んだのだろう。アララギではめずらしくなかった?その辺の事情は短歌のことにはまるで素人の自分としてはよくわからないけれども、日常的な歌ではなく、もっとアートな部類の歌を詠もうとしていただけなのかもしれないし、それでいてその幻の歌人は、その結社以外の歌人の影響を受けていただけであり、塔短歌会でもてあました歌人は、どこに住んでいるのかもよくわからず、歌会にも来なくなり結社誌にも投稿がなくなり行方不明になったらしい。
行方不明というのは大袈裟じゃないか?

インターネット歌人をしていると、自分のサイトがあるから特に一生懸命に結社誌へ投稿しようとは思わない。結社に不満があるとかないとかよりも、いまだに歌会にも行ったことがないし、それだってつくばの田舎に住んでいて、どうしても子どものことが中心の生活をしているせいであり、結婚するとどうしても自分の家庭の都合が優先されて友達付き合いをないがしろにしてしまいやすいということにも似ている。それでいて子どもの成長と共に少しは自分のことをやれる時間が持てたのでネットをやり、いつの間にかサイトのネタとして歌を詠むようになっていただけ。

しか〜も、「カルチャーセンターと一緒にするな」と言ったヤツがいる!!
悪いけど、あたしはカルチャーセンターというものには行ったことがない。だから、言われてもピンと来なかった。知り合いにカルチャーセンターの講師をしていたという人がいるけど、あまりピンと来なかった。この前、ネットで検索したら、朝日のカルチャーセンターにもなると講師陣というのもすごい(経歴が)。あーなるほど、そこで教えていたということは自慢になるのだということに気が付く。フランス語の先生らしいけど。

というわけで、こういう場合にはどーするかというとひたすら詠みまくる。あっちからもこっちからも何か言われたときには、そうやって淡々と自分のことに専念する。これは長い間の経験から来ているのかもしれない。なんせ、一つ言うためには十のことをこなさなければならない。
歌壇の事情に詳しくない自分としては、なんで声をかけてくれたのが『彗星集』(未来短歌会)なのかわからなかったのよね。つまりは、ネット短歌というか若い世代の歌を集める。果たして自分が若いかどうかはわからないけど、気ままな歌人であるには違いない。だからといって、それは歌が浅いだけであり、昔ながらの歌を詠んでいるとそれはそれでその中では浮いてしまうのかも。
ということは、両方のことができなければならないということになる。長老社会の中で長老の話にも耳を傾け、なおかつ自分のことは自分で続ける。しかも、素直に結社誌のほうに投稿していれば何の問題もないのでしょうけど、相変わらずネット歌人を続けろという試練は続く。
でも、こうやって苦労をしているから、その苦労を新たなる苦労として理解してくれる友達もいるわけで、かといってそれを発表してどうなるのかもわからないし、そこまでの責任が自分にあるとも思えない。だって、歌、浅いから。

閉鎖的な世界にいる甘美というものもあるし、それでいてそれだけではその世界は死に絶えてしまう。かといって古臭い世界に新しいものを持ち込もうとすればイラクの紛争のようになってしまう。あーなんてややこしいのだろう。
そんなこんなを思いながら、自由だ。
いずれにせよ、サイバー上に自分のサイトがある限り、自分が存在しているということくらいはわかるだろうし、少なくても結社誌のほうに歌を出さなくても消えたと騒がれることもない。まあ、サイトを移転させたり、消してしまえば所在はわからなくなるのかもしれないけど、今のところ無事に結社誌は届いているわけであり、あたくしは幽霊じゃございませぬ。(幽霊会員かもしれないけど)

それよりも、少しビシッとこれが自分の歌であると言えるような歌を詠んでみたいものだけど。まだまだあれにこれにと暗中模索は続く。

投稿者 Blue Wind : April 26, 2004 05:29 PM | トラックバック
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