April 10, 2004

夜明け前

おそらくは結社などへ行けば、自分はまだ若い方の部類に分類され、作歌歴も浅いことからして、ボロカスに言われる可能性が高い。つまりは、軽いノリで詠った歌を結社などに持っていけば、そこの趣旨から離れれば離れるほどに叩かれる。それをあえて実行するほどに自分は歌に対してのこだわりはない。

村松恒平さんのメルマガ、「村松恒平が語る文章の書き方 プロ編集者による 文章上達<秘伝>スクール」を読む。 第135号「直感的思考法」、第134号「語彙を豊富にしたい」には、若い歌人の投稿がある。作歌歴4年、歌会でボロカスに言われ、1年くらい作歌を離れていたらしい。先生の気に入る歌を詠めば評価が上がるし、それでいて自分の詠みたい歌を詠いたい。それでいて閉鎖された社会における甘美と苦しさ。
あーこれが結社なんだなーって思った。好きな歌人を挙げろと村松さんに言われて挙げている。あーきつい。プロの編集者でも知らんなら、あたしが知らなくても当たり前だろう。自分の入会している結社の主宰の名前くらいは知っているけど。
以下、秘伝135号より若い歌人の質問に対する村松恒平さんのコメントをそのまま引用。

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コメント◇村松

せっかく歌人の名前を挙げてもらったけれども、不勉強にして知りません。
ごめんなさい。機会があれば、チェックしてみましょう。

しかし。
んー、なんか不完全燃焼な感じだなあ。
ここからは、ひょっとしたら、あなたにとっては、いらぬお節介かもしれません
が、もう少し書きたくなりました。

この件に関して、何か伏せられたままのカードが1,2枚あると思うのですよ。

「歌人は、歌と歌に対する姿勢は違うのです」

この言葉、意味がわからない。あるいは脱字とかではないのとか思うけれども、
なんかエネルギーが淀んでいる。
つまり、短歌の結社の特殊性とか、狭い人間関係や、閉鎖的な美意識を言いたい
(あるいは言いたくない)のだと思うのね。

「そして、主宰者の思惑に沿った歌を詠えば、ランクはあがりますが、私の
こころは満たされません。私の感性で詠った歌であれば、ランクは下がります」

これは、ありがち、というか、あって当たり前のことだけれども、こちらのほう
がよほどまずい、というか、考えなければいけないことのように思えるのですね。
こういう二重基準を容認してしまうことに比べたら、語彙力がどうの、という
ことはあまり問題にならないことのように思えます。

つまり、狭い人間関係や、閉鎖的な美意識によって、自分の感性が評価されない
としたら、普通、そこからは逃げだすよね。
「短歌に自分の表現意思を賭けてい」るのだったら、なおさらそうしないと。

ところが辞められない。辞めると、たぶん、歌の読者も歌の評価をできる人間も
周囲にいなくなってしまう。
その途端にあなたが作り上げた歌の世界が崩壊してしまう。
しかし、そういうことであるなら、結社を変わるなんてことも許されないんで
しょうね。

僕は、結社とは距離をおいて、少数でもいいから自分の読者を持ったほうがいい、
と思いますね。メルマガやサイトをやってもいいし、葉書で個人誌を作ってとき
どき知人に送ってもいい。あるいは、気の合う同好の士と、気楽なグループを
作ってもいい。
自分で自分の作品を評価できるようになれば、先生はいらない。
仲間や読者がいればいいのです。
極端にいえば、自分の手帳に書き留めるだけだって、歌はできます。

ひょっとしたら、そういう自由な空気よりも、閉鎖的で濃密な空気のほうが
もはやあなたには甘美なのなもしれません。そういうことであれば、もはや、
僕の口を出す領域ではありません。

___________________(以上)


結社ナルシズムというのはある気がする。狭い世界で、共通の美意識に向かって酔いしれる。で、その狭い中で、あれこれこういう歌がよいとか、師匠を乗り越えろとか、あれこれ。一歩外へ出てしまうとどうでもよいことのような気がするし、もしかすると結社に帰属せず自由にネットをメディアとして活動している歌人たちと結社型の歌人たちとの違いをあえて挙げろと言われれば、そこだけのような。つまり、好みの問題なような気がするけど、どうなんだろう。
自分のようにもともと短歌が嫌いで歌を詠み始めると、どうして短歌が嫌いかというと狭い美意識が苦手なだけなような気がする。誰だって他人の感性を押し付けられれば窒息してしまう。自己表現の一つの手段として歌を詠んでいる人たちなら尚更だろう。それでいて閉鎖された世界は甘美だ。何故かというと、苦しみが見えやすいから。つまりは、背景が固定されているために、そこから発生する苦悩はその中にいる人たちなら共通の悩みであり、苦労や悩みを共有することにより、こころのつながりが保てる。だから、そういう意味で、苦悩の中へ飛び込んでしまえば仲間であり、そういう苦悩を共有しないで自由に活動する人たちが異物に感じられたとしても仕方がないのである。

が、しかし、結社に入っても一生懸命に徒弟制の中でがんばる人たちもいれば、気が向いたときに歌を送るだけの人たちもいるし、つまりは一生懸命であればあるほど苦悩は大きいわけで、ふわふわとのらくらと当たり障りなく存在することも可能だ。
悩む。
何を悩んでいるかというと、たとえば1つの結社に送る歌はせいぜい10首までなわけ。だから、半分はボツ歌だとしても15くらいの結社に入っても大丈夫なくらいな程度には毎日詠んでいる。雑誌投稿などを考慮しても、10くらいは大丈夫かも。この歌はこっちにはダメだけど、あっちなら大丈夫だろうと思いながらてきとーに詠んでいる。なんせ気分屋だから、その日の気分で詠む。写実だったら塔へ送ろうとか、概念歌やニューウェーブだったら未来とかね・・・特に何を喧嘩する必要性もないのであります。
どこにも送れないような歌は自分のサイトに置いておくとか?サイトなら短歌でも詩でも駄文でもなんでもありいだし、誰にも何も言われない。
それでいて、一番の問題は、上述の若い歌人のように、そういう苦悩の中へどうして飛び込まないとダメなのかわからないということなのかも。つまりは、自らの意志で戦地へ行くようなものであり、どうもその辺が自分の美意識からは外れてしまう。
ネットだけでも大変。ちょっと結社へ行くと言っただけで大騒ぎするような輩もいる。そこまでの帰属意識や忠誠心はあいにく持ち合わせていない。それよりも精神系の来訪者をどうしようかと思ってしまう。

つまりは、どうせなら自分を救いたい。短歌が苦しいなら詩を詠む、組織が苦しいなら神さまとだけお話する、仲間がうざいならパッと飛び出す。つまりは言いたいことが言えないなら何のために生きているのかわからないし、詠いたい歌を詠えないのなら何のために詠うのかわからない。つまりは、精神の自由というのはそれくらいきつい代物であり、どちらが一層の苦悩があるだろう?他人の顔色を見ながら他人を気にする苦悩と、自分に忠実であろうとすることの苦悩とどちらがきついか?

村松氏に言わせると、星を目指せという・・・つまりは、ああ詠め、こう詠めと言ってくれる存在はすでに星ではないらしい。何故ならいつも近くにいてアドバイスしてくれるから。小学生が松井秀喜に憧れる。彼は星だ。バッティング・コーチなどしてくれないだろう。あれこれ身近にいてアドバイスしてくれるコーチは星ではない。
つまりは、目指すなら小野小町でなければならない。星は手が届かないから存在価値があるらしい。師匠は星ではない。先生だ。弟子は師匠に勝るものではないと聖書にも書いてある。だから、師匠を星と思って崇めてはいけないのである。
例外は、ジーザスの弟子になることだろう。どうやっても乗り越えることはできない。でも、みことばを行う者は友であり、愛を行う者は友なのだそう。などと書いても、自分はジーザスの弟子ではない。聖人になろうと思って生きているわけではない。
ただ、ハートというのかな・・・「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの」という表現が気に入っている。それくらいやんわりした雰囲気のほうが好きだ。あっけらかんとそういうやんわりした雰囲気で気楽に詠っていたはずが、このところやけに暗い。わかっているけど暗い。苦悩は嫌いだ。自分を救いたい。

ヨハネの福音書 15. 1-17 イエスはまことのぶどうの木

投稿者 Blue Wind : April 10, 2004 03:15 PM | トラックバック
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