April 22, 2004

聖書の引用

聖書に著作権があるということが不可思議に思いながらも、日本聖書協会にメールを書く。聖書からの引用についての規定などを読みながら、引用というか、写教聖書というか、あれにこれにと考える。個人サイトでもあるし、あえて著作権料を支払わなければならない状態でもないし、歌を詠んで聖書を開くという習慣も、写教聖書という習慣も特に悪いことをしているという状態でもないでしょうし、一番厄介なケースのような気がする。
というわけで、このような場合、どうするかと言えば、おそらくは良心に基づき行動するしかない。常識的判断として、献金した。後援会にも入る。その上で、ご注意をいただいたらそれに従う。
そんなこんなを考えながら、家にある聖書の数を数えたら4冊あった。子どもの頃に近所の教会の牧師さんにいただいた新約聖書を含めると5冊。でも、それは実家に置いてきたのかもしれないし、見つからない。
2冊は、大学時代に実家を出たとき、勉強のために買ったものかもしれない。新約聖書と旧約聖書つきの聖書の2冊。もう1冊は、卒業したときにいただいたもので、詩篇つきの新約聖書。その3冊は何となく辞書と一緒にあった。
残りの1冊は、この前不意に思い立って、歌のために買ったもの。
ダンナに言わせると、ホテルなどに行けば、大抵は、ご自由にお持ち帰りくださいと書いてあるので、聖書はタダだと思っている。そうやって考えるとそうかもしれないけど、そうやって置いてある聖書をどうしても旅の道連れにしなければならないほどの過酷な旅に遭遇したことはないために、どうしても聖書を必要とする人たちのためにそうやって書かれているに過ぎない気がするんだけどどうなんだろう。あるいは、世界の地域によってはそう簡単に聖書が手に入らないところもあるわけで、そういうところからの旅行者なら聖書を持って帰ることにはそれなりの意義があるような気がするけど、要するに水のようなもので、子どもの頃にタダでもらったら、またほかの誰かがそのように聖書を受けとれるように献金しなければならないものなのかも。決まりではないけれども決まりではないルールもある。簡単に語ると、良心の問題なんだろう。誰も何も言わない。だからこそ何となく気になってしまう。
それと、自分が欲しかったのは、旧約聖書つきの聖書。タダの聖書は大抵は新約聖書だ。
創世記のアダムの罪から始まって、それを贖ったのがイエスだとすると、どうしても旧約から読まないとわからないことのほうが多いから。それでいて、あまりにも分厚いために、パッと開くだけの生活が続いている。顕微鏡を覗くような聖書の読み方かもしれない。
一体、あたしは何をしているのだろう?
自分でもよくわからない。
ダンナにも、聖書を読んでいて楽しいのかと訊かれた。ってことは、おそらくは楽しそうに読んでいるのだろう。そんな話はしたことはないもの。どうして楽しいかと言われても説明できない。面白いし・・・聖書は。

それと同時に、AOLとcoolを解約した。もはや使っていないから。考えてみたら、そちらへ出費するより、聖書教会へ献金するほうがいい。献金すると、いかに無駄の多い生活をしているかよくわかる。基本的に主婦の小遣いの範囲であるからにしてささやかなるものだけど、そうやってコツコツ。
楽しい。

投稿者 Blue Wind : April 22, 2004 02:03 AM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?