April 28, 2004

聖書

嵐の日。おそろしいほど歌を詠む。が、しかし、サイトに歌を上げない。
さくりふぃす、さくりふぃす、いる、・・・・・・でうす。
人と人との対立は人と人との対立であり、嵐の日には沈黙し、来客を迎える。
マホメッドかジーザスかなどというお話は、歌詠みにはまるで関係のない話である。
誰に信仰心があろうとなかろうと、わたしには何の関係もない話なのである。

あっさり語れば、聖人というのは純水にして神さまが選んだ人たちのことであり、信仰心というのはある日突然降ってくる雨のようなもの。

どんな教会もお寺も、海の十字架ほどの感動を与えてはくれない。
どんな俗物でも、赤道に沈む夕陽を眺めたら、感動を覚えずにはいられない。
信仰も、希望も、愛も、天然のままに横たわる。
ミチュアミおばさんも旅行者もサーファーもおとなも子どもも世界中から来た人も地元も人も人種、国籍、宗教、関係ない。
一瞬にして、そういうサンクチュアリーに出会えた人たちは幸せなのかも。

それでいて、あのレーサーのような道路、喧騒、コレラ、退廃。
それでいて、善良で素朴な人たち。信仰。嫉妬、助け合い、美しい田園。レストラン、暴利。
それでも、太陽は怒らない。壮大。
それでいて、星である以上、いつかは終わりの日はやって来る。
宇宙という真白い靄の世界で、どうやって生きろというのだろう?
意は意のままにある沈黙の意。

浜辺の屋台の前で喧嘩しているというのが人間なんだろう。
同じような屋台で同じような材料、同じ浜。それでいて味も値段も人次第。旅行者は迷う。
落陽を見るだけならタダなんだけど、どうもそういう風にはいかないように建物が並んでいる。
足もなくなる、治安も悪い。地元の人たちはどこからともなく集まって来るけど。
このように海の十字架の話から遠ざかり、バリ島にはすべてがあることがわかる。
それでいて年に数回と言われている本当に落陽の美しい日に出会うために足しげく通う人たちもいる。なのに、めぐりあえず、それでいて偶然により出会う人たちもいる。

無理無理。皆、それぞれに生活があり忙しい。毎日ビーチに座っていられるというのは限られた人たちであり、海の十字架が美しいからといってそればかりは眺めてはいられない。興味のない人たちも多いだろうし、どうしても見なければならないというものでもない。見たほうも見たからといってそれにどんな値打ちがあるのかもわからない。

それでいて、海の十字架は無条件に美しい。あれを見て感動しない人はいないだろう。運命なんだな・・・運命。だから、わかりにくくわかりやすい。
もっとあっさり語れば、海の十字架は宗教とは何の関係もない話である。それでいて感動を教えてくれる。

コヘレトの言葉 9. 13-15

投稿者 Blue Wind : April 28, 2004 02:38 PM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?