March 24, 2004

詩情と市場

パリから始まった歌の旅は、いつの間にか聖書を通して中東へ飛び、旧約聖書の世界を理解できないためにアフガニスタンへ飛んだ。そして、アデンで暮らすランボーを思い浮かべながら、シルクロードを通り、帰国する。英訳つきの万葉集の写真集を買った。写真が美しい。そして、詩情にあふれた世界でもある。
自分には旧約聖書の世界が理解できない。戦争や飢饉の話など、少しも癒しがないような気がしてしまう。そして、その世界に思いを馳せていたら、自然と思いはアフガンへ飛んだ気がする。ソ連の侵攻から始まり、その後の内紛、ようやく平和を取り戻したと思ったら旱魃。あまりにも踏んだり蹴ったりで、いまだに電気もないような生活。自然と旧約聖書の世界を想い描いたとしても不思議はないような気がする。修道院のシスターたちの服は、おそらくは聖書の時代の人たちが普通に着ていた服なのかもしれないし、今でもアラビア半島の女性たちは似たような服装をしている。
そして、どうしてローマなのかなって思った。もちろん、すべての道がローマへ続いていたからローマなのかもしれないし、今でもローマ・カトリックはその伝統を受継いでいる。カトリックが国教のフランスの詩人ランボーは、とても信仰心の厚い少年だったのだそう。それがいつしかその反動があり、彼の詩へと続いて行ったのかもしれないし、それでいて詩を捨ててアデンで暮らす。いきなり有名な詩人が、シルクロードの入り口で隊商相手の商売を始める。そのニュアンスが自分にはよく理解できなかったのだけど、何となく中東の雰囲気を感じると、どうして彼がアデンへ行ったのか少し理解できたような気がした。つまりは、聖書の時代のなごりがたくさんあるのはフランスよりも中東だろう。イスラム教もキリスト教も、同じ神さまを信仰しており、問題は預言者の問題らしい。キリスト教はイエスを神として崇める。イスラム教でも敬っているけれども、あくまでもマホメッドに次ぐ預言者の扱いになっている。おそらくは、ここが大きな違いなんでしょうし、シルクロードを経て、万葉の時代にまでタイムスリップすると、ギリシャ正教はロシアの国教であり、そして仏教は南を伝わり日本にも伝えられた。でも、日蓮宗などでは、ヒンズー教の神さまと同一神と言われる祭神も祭ってあり、こうなると非常にややこしくて、自分などにはよくわからない。
一つわかったのは、あまり深く考えないほうがいいかもしれないということかも。新約聖書の世界は、関東平野くらいの広さの中の出来事であり、サマリア人というのもその地域内に住んでいる。つまりは、おらが村というか、もしもその時代にタイムスリップしたら、あたしにはユダヤ人とサマリア人の区別はつかないだろう。茨城村の人たちが千葉村の人たちをヨソモノと言って排除しているようなものなのかもしれない。日本だって戦国時代を考えれば、狭い国内でよくもまあという具合に戦争をしていたわけだから、それもわからなくもないけれど、そのおらが村の守り神がいつの間にか、世界の神さまになっている。しかも、こう考えたらどうだろう。たとえば、筑波神社の神さまをお祭していたら、いきなり預言者が現れ、彼を信仰する人たちが着物を着て礼拝をしている。たしかに、筑波山にもなると日本全国から参拝の人たちがあるからさほど不思議でもないのかもしれないけど、お護りしている人たちがいきなりローマ人となり着物を着ていたら悩む。でも、どうやらそういうことらしい。
そうやって考えると、キリスト教というのはあまりにも超現実的な宗教のような気がする。あまりにも現実離れした世界であり、太古へというか、聖書の中の世界へ突き進むほどにシュールな感覚へ陥ってしまう。こーね、白人の伝道師がやってきて、それを伝える。そういうことを不思議に思う人たちは少ないだろう。少なくても、国教としている国はたくさんあるのだから。でも、伝わり方や広がり方がそもそもがユニークすぎる。だって、旧約聖書にはイスラエルの神であると書いてある。
自分などは、キリスト教といえば、すでにラテンを切り離しては考えられない。でも、そもそもがどうしてラテンなのかそこのところが不思議な宗教としか語れない。歴史的に語ればもっともらしい理由もあるだろうけど、イスラム教みたいに国教として周辺国の制圧と共に広がったわけではない。むしろ、ローマは迫害している側であり、それがいつの間にか総本山がローマ・・つまり、バチカンにあること自体が不思議。
自分は、基本的に宗教の人間ではないので、そういうところは極めてラフに考えている。どうしても、というこだわりはない。ただ、ジーザスが好きなのです。どうして好きかという理由は、昔から好き嫌いに理由はないために、今でもうまく説明できそうにない。
それにしても、パリから、中東、アフガニスタンを経て、シルクロードを通って帰国する。単なる想念の世界なんだけど、その世界には、今でも日本がどこにあるのかも知らない人たちが多い。もしかすると、アメリカがどこにあるのかも知らないだろう。日本はまだマシだ。少なくても大陸の隣にある。でも、その想念の旅の中にはアメリカ大陸は存在せず、逆に、広島・長崎、朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタン、中東など、アメリカに爆弾を落とされた国は多い。あっさり語るけど、これでどうやってアメリカ人に好印象を持てと言うわけ?
もちろん、アフガンでもお金持ちは扁桃腺が腫れただけで、ニューヨークやらロンドンへ行くらしい。それを考えると、一部の人たちは飛行機にも乗り、アメリカがどこにあるかくらいは知っているだろう。でも、大多数の人たちに川や山の向こうに何があり、どんな国があるのか、その隣の国へ行くには、とか、そういうことを訊いても無駄だ。昔、プーランの本を読んだとき、しみじみインド人ってやつはって思った。嫁に行くときくらいしか、村から出ることもないのだろう。文字も読めない。地球が丸いということもおそらくは知らないのだろう。だって、川の向こう側の世界も知らないくらいなのだから。
と、一気に書いてはみたものの、自分にはすでに戦争をイメージすることができない。事故ってしまって、いきなり「殴ってやろうか」というのは酷くガラが悪いような気がしたけど、とりあえずはいきなりピストルで撃たれるとは思わないもの。だから、夜、一人でクルマを運転してスーパーにも行ける。世の中の治安が悪く、いつそういう凶悪な人に出くわすかわからなかったら、うっかり一人でクルマにも乗れない。まあ、24時間営業の自動販売機があるということだけでも驚く人たちが多いらしいから、それを考えたら日本は暮らしやすいところなのだろう。まだ。
日本はまだアメリカの言い分を聞けるだけマシかもしれない。ピンポイント攻撃がどうたらこうたらとか、自分の国に爆弾を落とされるとは思っていないせいか、冷静なのかも。もっとも内紛の激しいところならば、それこそもっと戦争は身近なのかもしれないし、ロケット弾、ピストル、地雷、この手の代物が徘徊しているのだろう。その手の人たちがウロチョロしていたら、いくら学校があってもうっかり子どもを家から出せない。今でもかなり物騒だと思っているくらいなのに。
旧約聖書の世界は、戦争が当たり前で、しかも水が貴重な国。洗礼。水の持つ重みが違う。そういう国の人たちが水洗トイレを見たら泣くだろうなという気がする。うちの娘に限っては、どうして水道がないのか訊く。アフガンの子どもたちが汲んでいる水を見て、それを飲むのかと訊く。日本の水道水はマシでしょ?それでも、学校の水が飲めない子どももいる。汚いと思っているのだろう。そうやって感じているのならそれはそれで仕方がない。学校の設備が古いために、水道管が錆びていたのだろう。赤い水が出てきたのに驚き、それですっかり飲めなくなってしまったらしい。サビは特に有害というわけではないだろうけど、そうなると大騒ぎになるのが小学校。
でも、あれこれ考えると、テロリストとはエリートなのだということが何となくわかる。外国語が話せて、飛行機まで操縦できる。その親分がビン・ラーディン。壮絶。憎いアメリカへの報復?誰でも外国語が話せて、自分で飛行機へ乗れるようになったら、おそらくはビン・ラーディンは単なるテロリストにしか見えなくなるのかもしれない。アメリカはかなりアジアを虐めすぎたね。反論があるなら自分でなどと言っても、外国語も話せない、それどころか自分の国の言葉すら読み書きできないかもしれない。そういう人たち相手に何をしているのか、わかっていないのかも。これは、反米感情ではなく、呆れているのです。アメリカにせめて武士道というものがあって、ソ連が崩壊した今、いかに情けない行動をしているのか反省してほしいような気がする。イラクでさえ、あのような始末。なんでその後始末を日本がやらないとダメなんだ?まあ、これでまた日本製品を買ってもらえるならそれも意味があるのかも。マーケットか。

投稿者 Blue Wind : March 24, 2004 03:54 AM
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