March 20, 2004

視点

何がよくて、何がダメということはないでしょうけど、視点だ・・・
どうして視点なのかといえば、閉ざしてはいけないということなのかもしれない。
歌詠みの世界は、いつも歌詠みのことだけを考えて詠んでいる人たちが多い気がする。そういう瞬間、自分は窒息しそうになり、歌が出なくなった。自分がもともと歌詠みではないせいかもしれないし、そこにはもはや自由はない。なのに、どうして神父さんのサイトだと歌が出るのだろう?おそらくは、信者さんやほかの神父さまやシスターが来訪するのかもしれないし、そうなると歌よりも神さまとの対話を読みにいらっしゃる。中には、日本語のわからない人たちも多いかもしれない。だけど、一生懸命に、なにかをキャッチしようとなさる。自分はもはや赤裸々だ。毎日のうだうだ鬱々・・・まずいなーと思いながらも詠む。何がまずいかといえば、非常にまずい。でも、それはそれで叱られながらも詠む。

村松恒平さんのメルマガを詠む。最初に黙読の実験。つまりは、黙読するだけで何を読んでいるのかほかの人たちにイメージが伝わるというもの。変わっているけど、そういうこともありえる。娘が教科書を読んでいるのか、マンガを読んでいるのか、顔を見たら何となくわかるではないか。でも、言葉なき世界で言葉を伝えるということは、案外、ごくありふれたことなのかもしれない。ということは、黙読した瞬間、もうすでにそれを読んでいる人の中にはイメージが広がるわけであり、おそらくはそういうことを語りたかったのだろう。
目があって何も見ず、耳があって何も聞かず、そのようにインプットされた情報は自動的に処理される。無意識の中に蓄積されていくもの、選択的注意の中で知識として蓄積されていくもの、おそらくは自分が気がついている以上の情報が文字により与えられているはずだ。
もしかすると、何も与えられないテキストもあるかもしれないし、与えようとして何も与えず、通り過ぎようとしてこころに引っかかるテキストもあるかもしれない。

編集者というのはおもしろい。自分でも当然記事を書いたり、編集するわけだから、常に文字に埋もれている生活だ。そこからどうやって自分を救っているのかわからない。つまりは、夥しくも与えられてしまうものから常に自分を救わなければならない。それと同時に、常に書くという作業を見つめている。そこがすごいような気がした。ある意味、作家以上に書くことを熟知している。自分が書くためではなく、自分を救うためにだ。
村松さんクラスになると、あれだけ世に送り出しヒットした出版物は数限りないのにもかかわらず、自分自身の著作物も結構たくさんあるにもかかわらず、自分で書いたものは案外ヒットしない。それでいて、作家に対しては絶対的な権限を持つ。つまりは、誰かが文章を書いて持って行く。その時に編集者の意見が聞き入れられなければ出版されない。ということは、編集者は自分の目に絶対的な自信を持っているということになる。
文章が上手になりたければ、森鴎外を読めとかね・・・まさしくそういうことなのだろう。つまりは、そうやって無意識に何かを蓄積しなければならないのかもしれない。それを考えると自分は怠け者だ。夥しい歌集を読むよりも、詩集や入門書、聖書を読みながら詠んでいる。
だから、自分の歌はいつまでも下手なのかもしれないと思う。それでいて人生は短い。

魂というものがどこに存在するのかわからないけれども、おそらくは、言の葉の中にもその片鱗があったとしても不思議はない。つまりは、つたえあうもの、だからだ。それでいて、それはどこか無意識の中に響かなければならないらしい。自分には何があるのだろう。夥しくも舞い散る言の葉の中で、いつも原風景がある。自分が表現したい世界が一体どこから来たものか、自分ではすでに忘れてしまっている。
でも、一つ発見したのは、おちゆく感覚というのは雪の上に寝ている感覚なのだろう。
あまりにもあたたかく気持ちがよい。空を見ながら雪の上に寝る。あまりにも気持ちがよいので、そのまま眠くなる。そして、母に叱られる。
雪の上で眠ったら死んでしまうらしい。だから、雪の中に閉じ込められた時には、眠らないことが生存の秘訣なのだそう。だから、逆に語れば、雪の中で静かに眠れば、そのまま気持ちよく死んでいくのかもしれないと子どもの頃に思った。まだ、死が遠いところにあるために実感はない。でも、まずいと思って、ひょっこり立ち上がる。家の中に入ったとたん、自分が冷え切っていたということを知る。いきなり血が回り出した時の手のかじかむような感覚から、自分が冷えていたことを知る。

空を眺めながら、地球の中に落ちていくような感覚は、おそらくはその時のものなのだろう。

どうして旅へ出るかというと、目を補給するためなのだろう。自分の潜在意識の中に何かを埋め込む。だから、うすらぼんやり歩いているだけでおもしろい。何気ない生活の中に驚きがある。だから、旅は面白い。知らない街を歩いているとおもしろいのは、そういう何気ない驚きがあるからだろう。
アインシュタインが来日した時に彼が写した写真。赤ちゃんをおんぶした若いお母さんが、近所のおばさんと赤ちゃんをあやしながら立ち話をしている。ただそれだけの写真。昔はめずらしくも何ともない光景だったような気がする。土浦が好きだったのは、ベビーカーを押していると、それだけで知らないお婆さんが赤ちゃんを見て話しかけてくるところかも。都会だったら考えられない。赤ちゃんを抱っこしていても、目の前で座っている人たちは寝ている。それが電車の中であり、混んでいると、子どもを乗せて乗るなんて不可能だ。押しつぶされてしまいそうな恐怖がある。でも、それが当たり前の社会では、どうして子どもがそんなところにいるのだ思ってしまう。どちらが当たり前なのか悩む。そして、何となくアインシュタインの写真を思い出す。ああ、彼が日本に見たのはそういうことだったのかと。
だから、何気ない日常を当たり前に詠むと、おそらくは未知なる世界の人たちはそれを好奇心に満ちて眺めるのだろう。赤裸々だ。ごく当たり前の日常だ。少なくても、日本人なら驚かないだろう。お母さんがパートしてどうして受験塾や私立中学なのか、おそらくは誰が彼らに説明するのだろう。ビートたけしのお母さんは偉かったと思う。でも、形だけ真似しても意味がないような気がする。
それでいて、クルマの接触事故。どこか他人事であり、彼は敵として出没してくれたからまだ救われる。つまりは、いきなり、「殴ってやろうか」とクルマから降りてきた人だから悪くも書ける。だけど、もっと近所の人で、子どもが同じ学校に通っている人だったらどうだろう。たまたま隣の小学校だったから知らん顔もできる。
あっさり語るけど、口もききたくない。
でも、言えないよなあ・・・・言えない。おそらくは、知り合いなら、道で会えば挨拶をし、世間話をし、子どもの受験の話をし、「大変だけど、がんばってくださいね」としか言えないではないか。少なくても、母親がパートをして、という部分と、受験塾ということは、まったく別個の話題として語られるだけだ。あたしなどは調子がよいから、「偉いですねー」って言ってしまいそうだ。実際に偉いと思うよ。そうやって苦労して子育てしているのだから。家でぼーっとしているあたしは少しも偉くない。
でも、いきなり敵として現れた。交通事故の当事者同士。そうなると赤裸々だ。
現実はさ、わずか1万、2万を損したくないから、「殴ってやろうか」と血相を変えて脅迫してくる。人身の扱いにするぞ、とか、いろいろ。考えていることがあまりにもわかりやすい。ほんで、そういう人とは話したくないし、携帯も貸してくれそうにないので、ディーラーへ行き、そこから家と警察に電話する。警察が来た頃には少し落ち着き、そこにうちのダンナとディーラーの人がやってきたとたん敵はへいこらしている。あたし一人の時には、いきなり脅迫めいたことを言っていたというのに。
つまりは、あまりにも小心者で、わずかの出費のことや子どもの塾のことや勤め先のことしか頭に浮かばない。そういう人が、つまりはそういうガラのわるい人がいないようにと、私立の中学にでも入れようかと思っていた。でも、現実は厳しいな。かすかすぎりぎりの生活の中でのステータスだから。
そういう人をあっさりバカにしているうちの近所の人のほうが清々しい気がすることもある。子どもの出来がよいとそういうものなのかもしれない。私立へ行かなくても土浦一高に当たり前のように通り、自転車で通学している。息子がそういうふうだと、あくせく塾へと血相変えて送っている人たちをバカにしている。そうやってバカにしてみたいものだけど、うちの娘は癒し系だし・・・
すっかり話がずれてしまった。狭い受験の話でもね、もともとの地元の人たちは高校に学閥があり、公立の中学から県立の名門校へ進学するほうが、新設の私立へ通わせるよりも値打ちがある、という家庭もあれば、何がなんでも私立中学へ受験させてという家庭もあるし、あたしはいつもノラクラしている。視点が違うからさ・・・学校一つ取っても。フラフラしない母親になりたいけど、どうもノラクラしてしまう。誰を気にしているわけでもなく、それでいて何かを気にしているのかもしれないし、自分なんかは普通だもの・・・

目を補給し、かつ、自分のうだうだを詠む。知り合いなら、「大変ですね」って言う。見て見ないふりをする。でも、敵だから赤裸々にも詠んでしまえるのかも。いや、敵でなくても、なんというか・・・事象だから詠めるのかも。村松さんは自分のことをライターとは言わない。

投稿者 Blue Wind : March 20, 2004 06:02 PM
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