March 09, 2004

ノーマルモードと歌モードの違い

どういう歌が好きかというと、ひたすら傍若無人な歌。石川啄木も好きだし、小野小町の辞世の歌などは惚れ惚れしてしまう。

いつとなくかへさはやなんかりの身のいつつのいろもかはりゆくなり

もしかすると、歌に詳しい人ならば解説してくださるのかもしれないけど、自分にはできそうにない。いつとなくかへさはやなんかりの身、いつのまにかすぎゆく日々といつかは土に帰るかりの身、そして、いつつのいろもかわりゆくなりとあるけれど、いつつのいろってなんのことだろう?そこがまたご本人に尋ねてみたいところだけど、誰かが代わって解説してくれるのだろうか。自分的には、傍若無人な歌だと解釈しているけどどうなんだろう。はなのいろ、いつつのいろ、そういう分類があったのかもしれないし、それこそ色彩などは色相環で眺めたり、色の番号などで色を呼んだりしているとそういう大雑把さというものがすでに理解できない。理解できないからこそ惚れ惚れしてしまうのかも。現代語に置き換えても理解できない。つまりは、すでに他人に何かを理解してもらおうという部分が欠如した歌が好きなのかも。そこのところに、当時はいつつのいろを使っていたと解説されると、何となくつまらなさを感じてしまう。そんなことはどうでもいいような・・・つまりは、いろのなかになにかをたとえているわけで、その部分がすでに本人にしかわからない世界。しかも、かはりゆくなり。なにに変わるのかそこのところがまた謎めいていてわからない。わからないところをわからないままにあの世に旅立つというところが好きだ。

村松恒平さんのメルマガを読んでいて、作家になりたいと思って小説を書いている人の小説が一番つまらないとあった。要するに、文章を書くには2つのベクトルしかないらしい。1つは他人のために書く。つまりすでに実用書を含めてわかりやすく簡潔にということなんだろう。他人のために書くってそういうこと。もう1つは自分のため。ひたすら自分のために書く。要するに書くことにより、自分を救う。そのどちらにもあてはまらない中途半端な文章が実は一番多いらしい。
歌もあまりにも説明的でわかりやすい歌だと歌になってないなーとはよく思う。他人にはわからない要素で曖昧模糊としたまま詠んだ歌のほうが印象に残るらしい。そういう歌は最初から理解を求めていないからかもしれない。理解を求めて詠んでいるわけではないと思いながらもこころのどこかで他人に理解されたいと思うからこそ今日も誰かがせっせと歌を詠んでいる気がするし、詩を書いているのかもしれない。もちろん、その他諸々いかに他人に自分を理解してもらおうかという努力は人間ならごく当たり前の行為。それがいきすぎるとうざいだけだ。それがどこまでうざいものかは、他人のグチの相手をしたことがある人ならわかるかもしれない。しかもね、あれな人たちを相手にしていたら、理解されないというだけで怒りまくって暴力とかね、言葉も含めて。そういう理解されないのが当たり前の人たちの一方通行にも慣れてしまったりすると、理解されないのが当たり前であると達観している人の文章などは清々しい。

理解しあえないほうが当たり前。
逆に語ると、何を言っても無意味な人たちに対して書く。無意味だと思っているから書けるのかもしれないと思う。話せばわかるというのも大嘘だし、辞書的な定義を読んだだけで何かを知ったと誤解する人たち。メタ認知というわけではないけれども、自分が何を知らないかに気がついた瞬間ようやく何かを理解する。それが普通だ。
にもかかわらず、傍若無人。
言葉ってね、そもそもがコミュニケーション・ツールなんだと思う。が、しかし、傍若無人。思考や感情の発露。自己満足などというなまやさしい世界ではない。傍若無人。なんか、そういう傍若無人さが好きだ。通常のコミュニケーション世界では無理。無理だからこそ、書く。無理だからこそ歌を詠む。なんでそういう発露が必要なのか、そこのところはあまり深く考えたくない。つまりは、一切合財の説明的要素を排除し、傍若無人に詠うことで自分を救う。
やはり、日常が通常のコミュニケーション世界だからこそ、傍若無人な世界が必要になるという・・・

文学・・・
アート・・・・
あーあ。

投稿者 Blue Wind : March 9, 2004 12:50 AM
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