March 14, 2004

親の死に間に合ふ人のなかりせば誰そみおくる日々の流るる

歴史とのつきあい方が下手なのと不意に気がつくうたことばかな
京の町唐の時代の模倣品ならべてうれしやまと魂
すごろくを自分でつくる落書き帳伝統文化テトラゴンなり
ヘキサゴンいきなり吾子に問われてもオクタゴンとの区別もつかぬ
ラテンからギリシャをつたふ言の葉をカタカナ表記吾子に問はれり
商社からアメリカ製の家を買ふ日本人の普通の文化
お針箱切れ端見つけオトくんのおもちゃをつくる器用な娘

年ゆきた人と話すは今の吾の年頃のことそは誰のこと
親の死に間に合ふ人のなかりせば誰そみおくる日々の流るる
吾知らぬ数十年の年月は過ぎ去りしごと反復となる
あの世まで時効の無きを不可思議に生きた月日の終焉は亡き
今もなほかごとの渦のそらたかく墓石のなかもちてゆくらむ
今の日をゆくりゆくりと過ごすべく長生きの日におのはさがせぬ

母系ゆえつたわるうたの詠い方つどえる人の父系のごとく
母親の一人残れる世の中は濃くなりつつも淡く消え去る
親よりも子の先立つ世の中は今がまほろと儚くも思ふ

マタイによる福音書 24. 3-14 終末の徴

どうして長生きするとその日の出来事を思い出せなくなるのでしょう。姑さんに、先代の姑さんが亡くなったとき、あたしは中学生だったんですけど、って言っても通じない。理屈では通じるんですけど、話しているうちに忘れてしまう。会ったこともないんですけど、身内なんでしょうね。なんでそれが自分と関係があるのかよくわからなくなることのほうが多いのです。話せばわかるというのは嘘です。だってわからないから。知らないし・・・もとをただせば全部他人。あの叔母さんもあの叔母さんも全部まとめて実は全部他人であることに気がついた。だって、嫁さんだもの。よーわからん。自分から見ても他人だけど、あの人たちが集まっていても他人同士らしい。他人にもなりきれない他人同士というのが一番不可解な気がする。

世の終わりかー、などと言われても、なんかどーでもいい気分になってしまいます。ひ孫までいる人がまだ子ども子どもと話している時代だからかも。

投稿者 Blue Wind : March 14, 2004 10:47 PM
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