March 11, 2004

ミモザとの会話

とりあえず、目標の歌人とか好きな歌人と問われた場合、小野小町と答えることにした。これは愛読書と問われて聖書と答えるようなものかもしれない。これだけ乱読していると、すでに何を読んだかも忘れていることが多いし、ましてや小説の類となるとタイトルすら忘れているから、間違えて読んだ本を買ってしまうこともある。かといって、今は昔ほどその手の類の本は読まなくなった。
好きなアーティストと訊かれれば、それこそおそろしいほどCDを聴いているわけだから、あれもこれもとなってしまうわりにはいちいちライナーノーツを眺める習慣がないために、毎日聴いている曲の名前すら知らない。要するに気分屋というのはそういうものであり、そのときの気分次第でジャケットを選ぶだけだから、いちいち曲名なども眺めない。たまにライナーノーツを覗いて、初めてそれがそういう意味だったのかと知る。その瞬間に、なんと、あの意味不明な言語がアフリカ語だったのかということに気がついたりして・・・言葉がわからないほうが音楽はすっきりしていていいなーという気もする。
それにしても、エブリシング・バット・ザ・ガールは好きだ。トレイシー・ソーンのアルトボイスが好きなのかも。憧れに近い。メゾソプラノのあたしは完璧なアルトボイスや完璧なソプラノというものにはどこか憧憬に近いものがあるのかも。なかなかそういう完璧なまでにアルトやソプラノという声はめずらしい。
だったら素直にトレイシー・ソーンが好きだと答えればよいのに、その瞬間ほかにもあれにこれにと浮かんでしまうからつい億劫になる。EBTGの雰囲気が好きでもあるし、個々の曲が好きというわけでもないのかもしれないし、どこが好きと問われれば、声。だからもしかすると、ほかの人がEBTGの歌を歌ったとしても好きにはならないかもしれない。だったら、曲が好きというわけではないのだから、相手の問いの要求の矛先の判断が難しいためになかなか素直に答えることができなくなる。ためしに誰かがEBTGの歌を歌っていて、それを聴いたあたしがどう思うかを知りたいのだけれど、いまだにそういう機会には恵まれていない。

大体ねー、短歌。歌くらい好きに詠っていたって罰は当たらないのではないだろうか?うちの庭のアカシアが実はアカシアではなく銀葉アカシア、つまりはミモザだったからといってそれがどうだというのだろう?苗で買ってきた。あっという間に育つ。ガーデンセンターにはアカシアと書いてあった。つまりはそれだけのことだ。ただし、黄色い花が咲く。葉の色が違う。でも、アカシアと書いてあったから、あたしはこれがアカシアだと信じていた。それだけのことだ。
短歌も元はと言えば、こんなものは誰でも詠めるという独自の判断によりサイトのネタの1つとして詠んできた。これは短歌ではないなどと言いがかりをつけられれば、雑誌に投稿。入選すれば誰も文句は言えない。自分の歌をアップしてサイトをつくる。結社でもリンクしてくれるし、短歌系のウェブリングでも短歌でないなどとは言われたことはない。なのに、どうしてそういうつまらないいちゃもんを言いたがる人がいるのだろう?

結社。
「どんな歌を送ったらいいのでしょう?」
「いや、そのままでいいです」
「・・・・・・・・」

これにはさすがに悩んだ。
何を悩んだかというと、”そのまま”と言われる意味がわからなかったからだ。とりあえずいろいろな種類の歌を詠んでいるために、その中から送るわけでしょ?自分は自分なりにいくつものパターンで詠んでいるつもり。漢語調もあるかもしれないし、概念歌もあるかもしれないし、それこそ花の歌から日常の歌。とにかくなんでもありいで下手は下手なりに歌にしている。全部自己流。あまりにも自己流なので、逆に結社に歌を送ってみようという気になった。そこを逆にそのままでよいと言われると逆に悩んでしまう。
大きく考えれば、ニューウェーブがどうたらこうたらとか、うたがどうたらこうたらとか、あれこれそれはそれなりにあるのかもしれないけれど、ささやかな日常的楽しみで詠んでいる分にはそういうことが逆にどうでもよいことのような気さえする。つまりは、好きに詠んでいるだけのどこが悪いのかよくわからない。
よく、ネットだと自己満足だとか、ニューウェーブは終わったとか言う人たちがいる。あっさり言えば、自分には何のことかよくわからない。その時々で、気まぐれに詠んでいるだけの歌に学名は要らないような気がする。梨園の超めずらしい花も結局名前がわからなかった。詳しく調べればわかるのかもしれないけど、実際のところ単に咲いているだけなら名前は要らないらしい。
最初の頃、庭の蒲公英が小さくて、北海道の蒲公英とは違う蒲公英なのかもしれないと諦めた。ところが根が残っているのだろう・・・そうすると毎年蒲公英の花が巨大化する。まずは茎の長さが違う。かくして、うちの庭の蒲公英はどこか北海道に咲いていたような蒲公英となった。ということは、同じ蒲公英なんだろうと勝手に決めている。

というわけで、好き勝手に詠むということは破壊活動なのだろうか?
いや、違う。
というわけで、目標とする歌人を小野小町にした。
問題は、「小野小町のどこが好きか?」ということの違いにあるから。古語で詠むとかそれを現代語で詠むとか、そういうことではなく、平明な言葉しか使わないのに実に奥深い歌人だからとしか語れない。あの独特の鬱々した雰囲気も好きだし、飾らない言葉の中に歌がある。技法は遊びだ。だからといって、十二単を着てしまおうという悪趣味さはない。恋歌もあれば、普通の歌もある。数は少ないけれどもエッセンスがある。
キーボードで歌を詠っていても手書きでも何でもいいでしょ?歌は歌にすぎない。
誰に師事していたかと問われれば小野小町?
さすがにそれはないだろうけど、ある意味、すごい師匠でもある。
ベクトルの違いなんだろうな・・・古来の歌を伝えることが狙いではない。新しい形をつくることが狙いなのでもない。むしろ、混沌とした時代の中へ突き進む。つまりは、古ければ古いほど混沌としているのが当たり前だから。そういう混沌とした時代には整然とは語れない世界がある。
考えすぎなんだろうか?
そうかもしれない。それに、あたしが機関銃のように小野小町に質問したとしても、果たして彼女が理路整然とあたしの問いに答えてくれるとは思えない。そこがわからないし伝えられないから歌を詠む。だから、とても奥深い。

そういえば、近頃、歌も自問自答の世界に入ってきてしまった。そういうことなんだろう。よくわからないけど。鬱々しながらわからないから歌を詠む。そして聖書を開く。すると、それがまるで神さまからの手紙のような気がしてしまう。よくわからないけど、おそらくはそれが歌なのかもしれない。なんかね・・・なんなのだろう・・・・なんだかよくわからない。1つわかったのは、うちのアカシアがミモザだということかも。東のミモザ。

投稿者 Blue Wind : March 11, 2004 05:37 PM
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