March 15, 2004

舞い散るほうが美しい?

それにしても父系社会というのは他人の集合体のような気がしてしまう。叔母さんたちが集まっても全部他人だし・・・つまりは、長男の嫁、次男の嫁、妹という関係はとりあえず義理の姉妹であってもすべてが他人だ。年寄りが長生きする時代ゆえ、母親一人が残ったりするとどう考えても他人となるらしい。完全に他人ならまだしも、それまでの生きてきた確執などがあったりすると、本当に他人同士のほうがマシであるということを学ぶ。そういう中で、うちのダンナなどは末っ子だし、年も離れているために従兄とは言っても一回り違う。それでも50代で亡くなったのだからまだお若いとしか言えない。お子さんもいらっしゃらないし・・・
姑さんが、子ども子どもと騒いでも皆おじさんおばさんであり、末っ子に近い姑さんの場合、姉と言っても一回りくらい上だったりする。そうなると、ひ孫がいる。それでも、いまだに子ども子どもと子どもの話をする。もうそうなると子どもとは言ってもおじいさんだろうってあたしなどは思うんだけど、そこで比較されても非常に感性が違うために困る。
このように、年上の人たちとお付き合いすることが非常に苦痛であるために、特に子どもの話をされて、そのお子さまが自分などより遥かに年上だった日には、どうやって話を逸らそうかと思ってしまう。それでもなかなか逸れないのは、共通の話題が子育てのことだったりするからであり、それ以外に何を話せと言うのだろう?
世紀末とか、世の終わりなどと言っても、なんかどうでもいい気になってしまうのは、ひ孫までいる人たちがいつまでも子ども子どもと老いた子どもの話をリアルタイムのように語っているからかもしれないし、年を取るとどういうわけかその日の出来事は忘れてしまうけれども、過去の出来事などは鮮明にお話をされるという奇妙な事実があるからかもしれないし、そうなると、仮に短命の家系のあたしが長生きしてしまったとしても、あたしはおそらくは今の日の出来事をせっせと語る年寄りになっている確率が高い。
今でさえ、過去の出来事などを語ると燃えカスと言われてしまうというのに、これ以上ババアになったらせめて腐葉土と呼ばれていたいなどと勝手に考えている。
昨日の夕方、サイトを更新した。でも、ボツにした。
うたことばのことについて書いたような記憶がある。つまりは、『NHK歌壇』の3月号を何となく読んでいたら、俗語についての話が書かれており、なるほどなるほどと思う反面、あまりにもおおげさだったからだ。それと夕飯前だったので、あれにこれにと途中で邪魔されて、何が書きたいのかわからないようなテキストになってしまったせいでもある。
なんと言ったらよいのだろう・・・・短歌というのは、元来俗語は使わず、うたことばや雅な言葉だけで詠わなければならないものであり、だからこそ俗語の入った歌などを眺めるとひたすらこういう言葉を使ってもよいものかと思ったという記述を発見し、俗語を知らない人であればそういう言葉を使えと言われてもどうせ使えないに決まっているし、知っているならどんどん使ってもよいのではないかと勝手に思ったりして・・・かつ、俗語を知っているのにわざわざ使わないようにしたい人はそのようにすればよいし、そういう人たちがいるから下手な歌を詠む張り合いがあるのではないかという・・・
世の中には、本当に俗語というものを知らない人たちが存在しているわけであり、自分でもずいぶんネットをするようになってから覚えた単語もあるような気がする。だから、インターネットに発信するとどうしても毒々しくなってしまう。なんで、あほなジャンキーに襲撃されるんだろうと言えば、”あほなジャンキー”って書くからだと言われてしまう。・・・・・・おっしゃるとおり。
それでもそうやって書きたいのだからあたしのことは放っておいてほしいと思う。

----りんさん、もう少し上品なうたが詠めませんか?
----う〜ん・・・・・そういううたを詠みたいのならうたなど詠んでいないと思います。

それでいて、これが自分の歌集であると名刺代わりに配るためには少々勇気が必要かもしれないなどと思いながらそれでも詠んでいる。少しは世間体などというものを考えたら、うたらしいうたを詠まないとというプレッシャーもあるんだけど、娘の担任の先生が、あたしが短歌を詠んでいると娘が言っても本気にしてくれなかったそうなのでやめた。大体がアメリカ製の家に住んで、ボサノバやロックなどを聴いている。詩を書いているというのであればまだしも、”短歌”だから本気にしないような担任なのである。つまりは、あたしのことを表面的にしか知らないわけであり、それが世間なんだなーとチラッと考える。ちなみにうちの姑さんのほうがマシだ。少なくても驚かないもの。
本当は、雅な言葉などを使いながら、みことばなどをうたにしていくことが理想なのかもしれないけど、どうしてもそれでは物足りなくなってしまう。それこそエミリー・ブロンテではないけれども毒々しくなってしまうのは仕方がないような気さえする。たまに必要以上の猛毒を発していることに気がつくこともあるけれど、それが癒しなんだから諦めてほしい。(誰に向かって言っているのかわからん・・)
それと、歌評などを読んでいると、いやになってきてしまう。つまりは、この人はこういう身の上で、こういう事情があってこの歌を詠んだなどと書いてあると、しみじみつくづくいやになってきてしまう。まあ、死んだ後なら何を言われてもかまわないのかもしれないけど、こう、他人に仮に自分のことを書かれたとしてね、その時にこの人は自分のことをこういうふうに考えていたのだと思ったりすると、それが仮に素晴らしい内容だったとしてもかたはらいたくなってしまうし、言い返せない苛立ちが残る。それが文学だと言われてしまうとそういう世界なのかもしれないし、何か書くなら実験したり実証したりする世界のほうがまだ救われる。
もともとが自分のことは客観的には見ない。それでいて勝手にあれこれイメージされているのだと思うとつらい。ならば自分のことをせっせと書く?そこまではちょっと。
いずれにせよ、なんと言うか、舞い散る言の葉。
派手に詠もうと思ったら、言葉の大盤振る舞いというか・・・
でも、そうならないように詠む。
でも、わからんのよ。
これは、本気でわからないのだと思う。
本気の本気でわからない。

投稿者 Blue Wind : March 15, 2004 03:21 AM
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