March 02, 2004

レトロの形象

短歌の弱点は、あまりにもストラテジーがはっきりしすぎていることかもしれない。つまりは、方略というものが明確に存在し、しかも定型詩。しかも、詩と言ってもよいのかたまに酷く迷ったりする。思考を柔軟にあろうと努力をすると、常にそれとは別のベクトルにより押し留められてしまう。つまり、何となくでしょうけど、短歌とはこうあるべき、みたいな型があるのだと思う。それを破壊するためには、あまりにも壁が大きすぎかな。だから、一般的に人気のある歌人だと詩のほうが有名だったりする。寺山修司や北原白秋が歌を詠んでいたということも知らなかったくらいだから・・・中原中也の短歌をこの前発見して、驚いた。彼が中学を落第したのは、短歌ばかり詠んでいたかららしい。
これだけ文学について無知な自分がどうしてアート云々について語れるかというと、おそらくは大学から”アートの親方”という証書をもらっているからだろうし、文系は博士号が極めて取得が困難な状況にあるために、とりあえず、どうしてこういう分類になるのか知らんけど、とりあえずはM.A.がある以上、あれこれ能書きを言っても今まで文句を言われたことはない。ところが、短歌のこととなるといささか事情が異なる。それくらい特殊化された世界。近頃、ようやくそれが少し見えてきた。
つまりは、支えすぎているんだろうな・・・あまりにも支えようとするベクトルが強すぎて、過保護な文学とも言える。やけに過保護。詩ならあれこれ言われないようなことでも短歌となると、「これは短歌ではない」などと平気で言う人たちがいる。ならば、「短歌とはなに?」と訊いても、これまで納得するような回答を発見できたようにも思えない。(河野裕子さんの説明が何となく一番好きだったけど・・・)
もしかすると、いわゆる”格上”の人たちなら、まったく逆のことを考えているようにも思えるんだけど、末端になると型から出るにはあまりにも重石が重すぎ。これを跳ね除けるには詩を書けと言われる。ヘンだ・・・なんで短歌ではダメなんだろう?
自分は短歌はセカンドアートでよいと思っている。何気ない日常や歌のやりとり。たくさんの言葉で語るよりも少ない言葉のほうが気持ちが伝わることもある。携帯にさりげなく57577を放り込む人たちもオシャレな気がするし、そういうさりげなさが短歌のよさだと思っていたんだけど、それではいかんらしい。どのようにいかんかというと、短歌はアートでなければならないらしい。アニメも文化なのだから、短歌がアートでもかまわないと言うと、また叱られそうだ。このように叱られながらも歌を詠む。叱られるところが短歌のおもしろさなのかもしれないし、そこをまた観察すると、さらにおもしろい。
現代短歌とか、ニューウェーブとか、あれこれ古めかしい言葉もある。現代と言われて眺めれば、著作権切れしている歌も多い・・・それでも近代短歌ではないらしい。短歌にはレトロなよさがある。古めかしいよさというか、古今東西人間なんて変わらないから文学などと思ってきたけれど、そういう中で現代を詠めという・・・現代を詠めと言われること自体が古めかしい・・・どこまでもレトロな世界。詩の定義を借りることにより短歌をアートと定めるならば、結局、詩を書いたほうが早い。

はなのいろはうつりにけりないたずらにわがみよにふるながめせしまに

小野小町は偉大だ。なぜかと言えば、自分が暗記している和歌はこれだけだからだ。暗記しようと思ってしたわけではなく、何となく覚えていただけ。あとは、もしかすると覚えているのかもしれないけど、辞書から暗記のために暗記した英単語のようで必要にならないと浮かばないらしい。この前、サイトで聖書ストーリーを眺めていたけど、聖書を読んだこともないのに知っている話ばかり。ジーザスのセリフすら残らず知っている。いつのまに・・・
株も雑誌を眺めてから売買したのでは損するばかりらしいし、ふわふわと飛んでいるのはむずかしい。

投稿者 Blue Wind : March 2, 2004 12:42 AM
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?