December 31, 2004

ムスリマ歌人との出会い

外は雪。
昨日の晩、母の病院から電話があり、吸引用の使い捨て手袋がなくなったと連絡。たしか買い置きを置いておいたはずだと思いながら、あっという間にそれがなくなったらしい。病院というところは不思議な世界で、歯ブラシがない、ティッシュがない、と欠品については案外神経質に連絡が来る。
おかげで、中越地震の余波で、わが家のほうも震度4くらいの地震が何度も続いていたにもかかわらず、渋滞の信号待ちをしている間に流れたカーラジオのニュースで地震の話をしていても、自分が揺れているということにまったく気づかなかった。その時はたしかティッシュを届けに病院へ向かっている最中だったと思う。

世の中が地震の恐怖に怯えている中、わたしは地震を単なるクルマのアイドリングだと思っていたわけである。地震よりもティッシュの欠品のほうが重大問題だった。

9月1日の朝、イタリアから帰国。言っておいただろうと思いながらも、学校を休んだので、娘の担任から電話。

「・・・・まほちゃん、台風のせいでお休みかと思って・・・」

はあ?外はよく晴れていたし、どこに台風が・・・・
それに、台風なんてめずらしくもないし、先生が言う意味がわからなかった。

正直、イタリアで雨らしきものに遭遇したのは1日だけで、それもパラパラ落ちる程度で、大抵はペットボトルを持ち歩きながら暑さに喘いでいた。隣の国でオリンピックを開催しているというのに、結局、部屋でテレビを観るだけ。しかもイタリア人選手の活躍ばかりで日本人選手が出場していることすら不明。そうなるとフィレンツェで交通事故があったことは知っているけど、日本が台風被害に苦しんでいるなどという話はまったく知らない。

というわけで、帰国したばかりで、いきなり台風のことを言われてもわからなかった。

だから、スマトラ沖で地震が発生して、いきなり感染症を心配して世の中が大騒ぎしているというニュースを眺め、複雑な心境に陥っている。たしかにコレラやマラリアが蔓延したら大変なことになるだろうな・・・と思う一方で、子犬のマリアの感染症のことを考えるからである。

子犬の3割が感染症が原因で処分されてしまう。人間で考えれば大変なことである。生まれた子どもの3割が感染症が原因で亡くなるとすれば、それこそ感染したというだけで大変な事態である。犬の場合、その3割が簡単に殺されてしまうということであり、殺されないまでも死んでしまう。
わが家に赤ちゃんがいなかったから、わたしはのんきにしていたのだろうか?もし、パルボだとすれば、人間の赤ちゃんにも感染する。

マリのことではすごく怒っていて、獣医やペットショップの都合でマリが処分されてしまうということは人間のエゴイズムそのものであり、許しがたい行為のような気がした。何となく、自分を含めて、今まで身勝手に生きてきた人間が滅んでしまったとしても、どーでもいいような気分にまで陥る。もう、十分に生きてきたではないか・・と。

でも、その後すぐに本当に巨大地震と津波が発生し、何万人もの犠牲者。なおかつ二次災害としての感染症が心配されているとなると、おそらくはもっとたくさんの人たちがそれで命を落とす可能性がある。

マリがパルボではなく、コレラやマラリアに感染していたとしたどうだろう・・・


*********************

姑さんが、結婚した時から言う。息子のところは国際結婚みたいなものだから、と。

わたしは日本人である。ダンナも日本人である。少なくても国際結婚ではない。でも、今回、まるやむさんの短歌を読んで、その意味が何となくわかった。バングラディッシュの人と結婚し、日本では数少ないムスリマであり、それでいて作歌歴20年、どこまでも和歌っぽい短歌。敷島だな〜とヘンなところで感心してしまう。

あっさり語れば、わたしはクリスチャンなのである。

いつから自分がクリスチャンになったのかも覚えていない。それくらい、潜在的にクリスチャン。いまだに洗礼も受けていないし、礼拝にも行かない。にもかかわらず、おそらくはわたしがキリスト教国に生まれていたら、「仏教徒の日本人と国際結婚をした嫁」という立場にあるんだろうなーと自分を理解した。

近頃、姑さんが元気で、うちがずっとこちらにいるのなら、神戸の墓をつくばに移し、姑さんが仏壇を、と言っている。日頃、信仰心などないにもかかわらず、お墓のこととなるとやたらとうるさい日本人の典型みたいなもので、姑さんが亡くなったら、わたしが仏壇を管理しなければならないらしい。

いや、母が普通の人だったから、彼女がやっていたことをわたしがすればよいだけのこと。禅宗だったらおしきみを取り替えて、毎朝、お水とご飯。うちはあまりご飯を食べないので、そうなるとお米をそのまま供えるとかね。で、線香立てて、チ〜ンチ〜ンとやっていたら、文句は言われない。
こういうのは、文化の一つであり、その通りにしていれば誰も文句を言わない。

でも、わたしはクリスチャンなのである。

祖母のように、熱心な仏教徒だと、それこそ宗派によって教えが違うとばかりにものすごくこだわりがある。祖父の家は禅宗で、祖母の実家は日蓮宗。そうなると、仏事は仏事、宗教は宗教とばかりに、祖母は身延山とか誕生寺や清澄山のように日蓮さんゆかりの地へ毎年巡礼。生き様闘争みたいなもので、例えば浄土真宗みたいに他力本願はダメ、となる。日蓮さんのような改革派が好きらしい。法華経の世界だからね・・・わたしは詳しいことはわからないけれども、自分の人生は半分以上自分で取り替えられるものである、というのが祖母の主張だった。

祖母がクリスチャンだとすれば、カトリックではなくプロテスタントなのだろう。素直にお釈迦さまを拝むより、法華経という世界だから。何となく共通の匂いを感じる。

このような家庭環境にもかかわらず、わたしはクリスチャンなのである。

特に何が不服とか、食わず嫌いというわけでもなく、信仰心というのはいわば理屈を凌駕して存在しているために、逆に日頃はこういうことで諍いになるのはつまらないとばかりに避けて暮らしている。

わたしは、日蓮さんが好きである。祖母の影響もあるのかもしれないけど、人間的に好きなのである。それでいて、それが本当の意味で、信仰心とは思えない。愛も感じ、尊敬の念も感じ、それでいて、神さまというのはもっと大きな存在としてわたしの中では存在している。そこのところの違いがうまく説明できない。

姑さんが、国際結婚みたいなものだと笑う理由がここにあるのかもしれない。

わたしは、和歌も短歌もまるで好きだとは思えない。それでいて、毎日、神父さんのサイトで詠んでいた。

真中朋久さんから『エウラキロン』という歌集をいただいた。どうして、わたしのところになんか送ってくださるのかまるで理解できなかった。一つには、わたしのサイトに来訪して、ということと、「今度の歌集は宗教色が強かったかもしれない」という真中さんの言葉の中にその理由を見つけた。

そうなんだよなぁ・・・というか。わたし的には、『エウラキロン』はまるで宗教色などないような気がしてしまうのである。世の中はもっと濃厚な世界や書物はいくらでもあるのであり、ただ、それが歌集であるというだけの理由で、やたらとそういう負い目に近いものを感じざるをえない。

特に、イラク戦争や自衛隊の派遣の影響を受けて、いくらクリスチャンが反戦を訴えても、イラク戦争での従軍牧師の姿の映像が映し出されれば、わたしでさえ宗教的不信感に喘ぐ。そして、和歌という特殊な世界。

和歌というのは、いわば中越地震時におけるティッシュの欠品、スマトラ沖地震時におけるマリの感染症みたいなものなのかもしれない。世の中にはもっと重大な出来事が蔓延し、忘れ去られていってしまうことに比べれば、自分の悩みなんてほんの一握の砂なんだと思う。

傍若無人、か。

石川啄木になりたい。

神さまとだけお話せよ、か。

まあ、なんと言いますか・・・・わたくしとは宗教も環境も歌人歴も違うけれども、結社も同人も関係ない、それでいて短歌が好きで歌歴20年のつわもののムスリマ歌人が世の中にいるというだけでも救われた気分なのでございます。つおいよなぁ・・・朝日歌壇か。そーいうのあることも知らないわたし・・・

投稿者 Blue Wind : 05:26 PM | コメント (0) | トラックバック

ラブレターの添削?

アメブロにブログをつくって3週間になる。そろそろ慣れてきて、アメブロ内を散歩。いきなりトラックバックが飛んできて驚く人もいるのだなぁ・・などと、たしかに検索にも出難く、ひそやかにやろうと思えばいくらでもひそやかにやれそうなアメブロ内での露出を考える。

一番簡単なのは、トラステへ行き、お題を拾う。それに関連したネタをアップすれば誰も驚かないし、逆にアップするだけでトラバが飛んでくる。こちらからもトラバすれば相互リンクになる。これこそブログの醍醐味のような気がする。これで、YAHOOやGoogleなどの検索に引っかかるようになるとなおさら楽。

ところがあまり理想どおりにはいかないので、アメブロの検索を使う。これでキーワードを打ち込み、関連のありそうな記事を見つける。これがなかなか面倒な作業。

例えば、時事ネタを打てばいくらでも関連ブログが現れる。「スマトラ沖地震」とかね。ところが、「短歌」や「歌人」で検索しても、数が少ないのとあくまでもパーソナルなスタンスでブログをつくっているせいか、いきなりトラックバックを飛ばしても驚かれるということに気が付いた。

これなのよね・・・いつもこれ。

これってインターネットだからこれなのではなく、短歌にはいつも同人とかサークルというニュアンスが伴う。その大型化したものが結社や雑誌。作歌に関しては、歌人は一人の世界だと思っているので、作品発表というニュアンスがピンと来ない。歌をやりとりしていても、基本的にはそれぞれが自分の世界に揺られているだけだと思っているからなおさらかもしれない。

歌人の小林信也さんのサイトに、小説という短歌のコーナーがあり、恋歌などがアップしてある。これって、最初に見たとき衝撃でしたね〜♪ 恋歌が衝撃的だったのではなく、それを「小説」とカテゴライズしているところがなかなか衝撃的だったわけです。

短歌は基本が写実だと知ったのはその後なんですけど、自分の歌は「記憶の砂」だと日頃から思っているわたくしとしては、なおさら迷った。例えば、プーケットの津波被害を見ているうちに歌が浮んでくる。それは架空の世界かもしれないけれどもまったく架空の世界ではなく、かつてその地に立ち、その場で感じた風景などがフラッシュバックして自然と浮んでくる。

今現在の姿ではないかもしれない。でも、南国のスコールや雨季のタイの波の様子や、屋台など、いろいろな風景が浮んで、そこに微かなイマジネーションが混じる。

短歌は語句が少ないために、その一言を表現するためにあらゆる選択を瞬時に行う必要がある。だから、あくまでも写実に徹するか、抽象的な表現を含ませるかはその時々の気分次第のような気がしてしまう。

ネットは恋歌が多いと、よく言われる。若い頃ならせいぜい恋の歌くらいしか浮ばないのではないかと思っていたけど、実はそうでもなさそうなことに気が付いたのは最近。こういうのは好みの問題であって、年齢の問題ではないらしい。

自分的には、なんで女同士で恋の歌をやりとりしてるんだろーと不可思議になりながらも、しょせんネットは一人の世界、短歌は一人の世界と割り切って、恋愛観というか、愛と恋の違いとか、過去の記憶とか、あまり深く考えず詠んでいたこともある。
逆に、仮に相手が異性であったとしても、仲良くなったりすると、ぷぷぷ・・という感じで、とてもじゃないけど互いに恋歌なんてやりとりできないっすよ、ってなる。特に、奥さんがテキストを見張っていると思ったらなおさらかも。
そういう意味では、互いに不毛で非現実的で、生産性はなかったかも。

でも、個人の内面世界という点では、どうなんだろう・・・森瑤子さんでも、「まったく経験したことのないことは書けない」と書いていたから、現実と非現実と、それがどこまでがリアリティなのかまでは誰にもわからない。

ところが、実際には歌人の世界は大真面目。いきなり短歌をメールで送ってきて、「選歌してください」というノリのほうがニュアンスに近い。さすがにわたしのところにはそういうメールは来ないけど、メジャーになるほど多くなるのかも。感想まで書いている暇はないから、○とか△をつけるらしい。
たぶん、恋歌なんかも○や△をつけられるんだろうなーと思うと、ちょっと可笑しい。ラブレターを添削する人はいないと思うんだけど、そういうことを大真面目で皆でやっているというところが歌壇なんだなーという気もする。
まあ、セクハラ短歌を送ってきて、返歌しないと怒り出すというよりましな気がするけど。

大真面目なんだよなぁ・・・

その微かなる匂いをアメブロの読者に感じた。発信する側としても真面目なんだろうけど、読者としても真面目。トップランカーのブログなどを眺めていると、あのおっそろしいほど長い活字を毎日読みに来ている人がいることに驚く。目からうろこ。

あくまでも小説を書きたい、という一言でアメブロでは書評のジャンルでがんばるという切込隊長ブログの言葉を読んだ時、来年からジャンルを変更しようか迷っていたわたしは腹が据わる。小説を書くわけではないけど、短歌のブログだから書評のジャンルでいいのである。
芸能人のブログがないからアメブロにしたという点でも、まったくの同感であり、そうやって何となくノラクラしているうちにこのようにテキストが長文化していってしまう。

でもね・・・・この夥しいほどの活字中毒者のブログを眺めていると、わたしはまだまだ甘いことに気が付く。

文学の人間は、石川啄木のように傍若無人でかまわない。

こうやって、わたしは次第にアメブロに洗脳されていく。


----ハイパーリンク貼れよ〜。>わたし
----やだ。めんどっちー。

投稿者 Blue Wind : 01:00 AM | コメント (0) | トラックバック

December 30, 2004

パルモアの歌謳ひにはうんざりとつまびらやかな風は吹き去る
グローリアスグローリアスおゝグローリアス!一片の雪ひらひら落ちる!!
雪なのか霙なのかと叫んでもひらひらひらとななめに落ちる
消えちゃうよ明日の朝には消えちゃうよそんな雪にも凍えて座る
パルモアの歌謳ひにはうんざりと夢降る午後は五月雨のよう
パルモアの歌謳ひにはうんざりと言われているの、ひらひらと雪。
ひらひらと積もっているか屋根のうえ陽は容赦なくてらてら照らす
パルモアの歌謳ひなど幻さ。あの雲のうえ青空がある。
声もなく泣くのはやめて、降る雪よ。パルモアからの便りは届く。

ダニエル書 5. 17

ふかぶかとふる雪の音の美しき霙まじりの鈴の音一つ

投稿者 Blue Wind : 11:32 AM | コメント (0) | トラックバック

スマトラ沖の地震を知らずに過ごす

気が付けば雪が降り、テレビの画面はプーケット。今年の10大ニュースをアップするまで、わたしはスマトラ沖に地震が発生したことさえも知らなかった。

その間、何をしていたかというと、26日はクリスマスが終わり、マリのことでくよくよ過ごし、こういう時にはテポドンが飛んできても気が付かないだろうと思っていたら、ほんとにそうかもしれないと少しは反省している。

人間のエゴイズムに振り回され、赤ちゃんなのに母親から引き離されたあげく、感染症。しかも、医者もペットショップもそれを隠蔽しようとするし、一度ペットショップへ戻してしまったら殺されてしまう。そうやって考えたら、罪のないマリを守ってあげられるのはわたししかいないとばかりに、怒りのピークに達する。そして、マリの死を迎え・・・・脱力感。

そうなると、マリの話を書くのも聞くのも嫌で、ひたすら鬱々としながらも、平和な日常を過ごしていた。娘の塾の送り迎え、食事の支度、姑さんからの電話。年末だし冬休みだし、あれにこれにと時間ばかりが過ぎてゆく。

つまらないネタを探し、ブログをぱちぱち模様替え。
何となくケープパンワにでも行きたいような気分。ケープパンワはプーケットの南、コー・ピーピー、つまりピピ島にも近い。どうしてケープパンワなのかよくわからなかったけど、何となくスコールの海のあっけなさが恋しかったのかもしれない。
あっという間に黒い雲、黒い海、島さえも深い霧に包まれて見えなくなる。それでいて、あっという間にそれを潜れば何事もなかったかのようなビーチ。

恐ろしい数の人の死。
26日に地震が発生し、もう腐乱が始まり、身元の判別がつかなくなっている遺体。感染症の予防のためにすぐにも埋葬が始まると、さっきニュースで言っていた。8割が観光客だから、それこそ身元が判明するまでは恐ろしいほどの時間が必要なのだろう。灼熱の太陽は待ってくれない。

ツアーは中止、それでいて遺族を乗せて飛行機は飛ぶ。
津波が押し寄せてきたら、地元の人たちはひたすら逃げる。高いところへ登る。
どうしてプーケットのホテルはビーチまで遠いんだろうと思っていたら、そういうことだと今さらながら気づく。主要な建物は高台にある。ラグーン。
パトンビーチは海沿いにホテルが並び、みやげ物屋やレストランが通りを埋める。退廃的な雰囲気を求めて、世界中から若者が集まる。治安がよくないために、バリ島でいえばクタみたいなもので、安宿も多い。コテージというと聞こえがいい。

パトンビーチで過ごしている人たちは、スマトラ沖の地震のことを知っていたのだろうか。
たぶん、ほとんどの観光客の人たちは知らなかったかもしれない。

それでも、何も知らずに海の上でマリン・スポーツをしていた人たちは津波のことすら知らなかったらしい。島に滞在している人たちが知らないことを、わたしが知っているはずもない。テレビもニュースもないヴァカンス。

投稿者 Blue Wind : 01:35 AM | コメント (0) | トラックバック

December 29, 2004

自転車の轍のうえをとおりゆく犬も歩かぬ霙あるみち

まどろみに浮んだ歌もわすれゆくふかきねむりにおちゆくゆき日
自転車の轍のうえをとおりゆく犬も歩かぬ霙あるみち
ぬくぬくと白い雪降る窓のそと芝目の色のかわりゆく庭
降る雪のななめに走る白い冬身をこごみ咲く淡き薔薇の木
雪のなか傘もささずに遠目にぞ吾子のぬれ髪踊る歩道よ

おそろしい一年だったと画面みるわれはぬくぬく汝もぬくぬく

死んだのは人と建物陸のうえ。海のうえにはボート揺らるる。
波よするパトン・ビーチをながむればそういうことかとビーチは遠く
海はとても怖いよと波くりかえしくりかえし波よする砂浜
浜の砂こんもりとして丘のようなだらかな坂波の山よす
歩くことつらきスマトラ熱帯の狂える波の茫洋の浜
海のうえなだらかな波やりすごす津波の泥は島を襲ひぬ

海は海人は人空高ければ熱き陽射しの照りつける海
ゆるやかにコーピーピーを呑み尽くす波はつばめの巣を空高く
島の孔彫りあぐる波わたしには想うことすら暗い空洞

詩編 51. 12-14

黒雲のスコールの波つつまるる島影はやく遠ざかる船
何事もなかったような青空はいつも気まぐれ一秒の焔
点点と雲と島との違いなどわたしの目にはわからない窓
点点と雲従えて飛行機は降り立つ島を選んでをりし
海賊のCD盤は流されていづこにあるかパトンの沖か
あやふやな浜辺の道はいづこへと遺された人置き去りにする
退廃の泥水のなか椰子の木は呑み込まれつつ風に吹かれり

今は冬夏の想いを描いては雪の残った芝庭をみる
くりかえし波はおとづれ麗かな被災のあとの空高くあり
ハンモックとりのこされた部屋のまえ狂へる波につよき風吹く

箴言 17. 14

水漏れの水すらつたう柱にはビニール張りの風よけの壁


■BBS詠
舞い落つるわくらばさえもなき道に枯れ尾花群れゆっくりねむる

投稿者 Blue Wind : 10:59 PM | コメント (0) | トラックバック

ダニエル書 10. 8

わたしはひとり残ってその壮大な幻を眺めていたが、力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった。

投稿者 Blue Wind : 09:52 PM | コメント (0) | トラックバック

歌人のフェロモン

アメブロに逃げ出して以来、近頃、作歌をさぼっている。というか、これでも実は多いくらいなのかもしれない。次第に外から冷静に歌人の習性というものを観察できるようになった。

あっさり語れば、彼らは短歌が好きなのである。

当たり前のことなんだろうけど、好きになり方が違う。普通の好きではなく、マニアックな愛し方にも似ている。だから、このように短歌のブログのくせに駄文ばかり書いていて作歌量が減ったとしても、「短歌」というカテゴリーがあれば眺めないではいられない。それが歌人・・・

それで、好きな人になればなるほど、短歌の世界に没頭する。どうしてかといえば、歌人だから・・・

わたしには歌人という意識がなかったのである。それは言い訳ではなく、もともと短歌や和歌が好きではなかったから、どうして歌人がそんなに和歌に執着するのか、が理解できない。
でも、それは実は和歌そのものへの執着ではなく、いわば一つの自己表現手段だからこそ他人の歌も気になるのであり、選歌にもこだわる。


こーねー、これだけランダムに気楽に詠ってくると、そりゃいろいろな歌が雑じります。いくら短歌のことを知らないわたしでも、これは選歌されやすい、これは捨てられやすいということくらいの区別はつくようになってくる。

逆に考えると、わたしのどういう歌を選歌するかによって、その人の好みや人生観が見えてくることがある。


わたしは、歌人としては自由奔放だ。
その結果として、「形よりも心だ」と言われる。
あのー・・・・
それってつまり、わたしの歌は短歌ではないとおっしゃりたいのでしょうか?もう何を言われても、まったく気にならなくなってしまった。

言の葉を並べて短歌と言っている中でも、** Blue Wind ** の歌は好きだ、という表現を初めて読んだ。そこまでになると、褒められているんだかけなされているんだかわからない。

言葉の羅列の美しさという点において、形にこだわる人は多いと思う。でも、歌の好きな人たちにすれば、わたしがしらいしでもしろねこでもりんでもRindoでも、** Blue Wind ** でも、単なるテキストでもかまわないらしい。


この前、ちょろっとネットで検索して、馬場あき子さんの短歌を読んだ。

正直、素晴らしいと思った。雑誌などに掲載されている短歌よりも、歌集の歌のほうが素晴らしいと思った。いや、歌集が素晴らしいと思ったのではないだろう・・・だって歌集を読んだわけではない。
おそらくは、お弟子さんなんだと思う。歌集の中からピックアップして、並べている。おそらくは有名な短歌ばかりなんでしょうけど、わたしにはどれも新鮮だった。

そのサイトの中で、「馬場あき子の歌は食わず嫌いな人が多いけど」というフレーズを発見。

そうやって言われてみると、そうかもしれない。いや、そうではなく、わたしには高尚すぎるのだと思う。でも、その高尚さが美しさでもあり、深々とした和歌の世界を伝えている。

再びそのサイトの中で、「『サラダ記念日』は好きではなかったけど、馬場先生が褒めていたので読んでみた」というフレーズを発見。

本音だな・・・つまりは、歌人としての立場で考えればよくわかる。馬場あき子の短歌が好きな人は馬場あき子の短歌を詠んでみたいのである。馬場さんの短歌と俵さんの短歌では、一般論としてはまったくスタイルが違う。ところが、馬場さんは俵さんの短歌が好きだという・・・


誰が為に鐘が鳴る、ではないけれども、要するに姿形には現れない歌人の魂という鐘を聴く人がいるというだけのことであり、嗅覚や本能のように、秀歌には歌人を惹きつけるフェロモンがある。

そういうフェロモンを嗅ぎ取る程度には、わたしも歌人になったのだと思った。いや、歌人になったのではなく、短歌が好きになってきたのかもしれない。いや・・・そうではない。

神父さんの言葉の中に、「こころの静かな人にしか神さまは見えない」というフレーズがある。

おそらくは和歌も一緒なのだと思う。こころが静かにならないと歌のよさが見えてこない。

読者を信じろ、という内容の短歌の記事を読んだことがある。その時にはよく意味がわからなかったけれども、今ならその意味が少し理解できるようになった。

投稿者 Blue Wind : 12:42 PM | コメント (0) | トラックバック

また、うちのダンナをダシに使って『男の習性』などというネタを昼間書いていた。おちびを迎えに行く時間だったので、途中でローカルに保存し、そのままにしてある。

やっぱ、アップしないでおいてよかった〜♪

なんでかって?
わたしはお代官様だからである。

”お代官様”というセリフはカウンセラーに言われた。
心理屋の世界って、臨床系は身分が低い。あんなものはいまだに心理学ではないと思っている人もいるかもしれないし、実験実証主義においては常に基礎系が強い。はっきり言って、昔は視覚の研究くらいじゃなかったかな・・・日本の心理学界で国際的にレベルが高いと評価されていたのは。
論文を書くにしても、症例報告では学位は出ない。それくらい扱いが冷たい。

なのに、一般社会では、あっちが心理学って思われているんだなーって知ったのは主婦になってからである。

まず、考えてみよう。

知覚の恒常性。
どーして星が見えるんだ?
あんなものは見えなくてもいいはずだ。
まあ、大海原に船を出す人たちなら、星の運行は大切な羅針盤なのかもしれないし、それを考えると生きるに必要だから見えるのかもしれない。大抵の人たちは見えなくても歩ける。
夥しいほどの周波数の中で、人間が知覚できる範囲は狭い。つまりは、見えない世界(色)のほうが遥かに多いということになる。波長というのはそういうもので、どうして空が青いのかといえば、途中で長波長が吸収され、短波長である青しか地上にいるわたしたちには届かないから。

そのように理屈では理解しているにもかかわらず、宇宙から眺めても空は青いということを知る。ある日、NASAの写真をもらった。夕暮れ時の空。夕焼けの部分はきちんと茜色。あー、宇宙から眺めても同じなのかーと思ったら、わたしは何を理解しているのか、自分でもわからなくなった。

でも、青は地球のシンボルカラーなんだなーということくらいは理解できた。

でも、それだけではどーしてわたしが青が好きなのかわからない。
そーなってくると、色彩感情だの、因子分析だの、環境因子とわたしとの関係をこれまたわけのわからない尺度で数値化するらしい。

そもそも、知能検査だの心理テストだのペーパー系のテストは、誰かが考案したもの。それがどの程度有効かはそれなりの統計データが必要になってくる。つまりは、仕掛けがあり、どんなテストにもステレオタイプな人間なんて存在しないことをうかがわせるだけだ。

サーフィンしているうちに、宇宙の色についての研究があった。ベージュって表現しているからわからない。宇宙の色は色相環のど真ん中って言ってくれたら、何となくわかる。つまりは、黒ではないと言いたかっただけなのかもしれないけど、少なくても暗い世界ではないらしい。なのに、どーして暗いというイメージがあるのだろう。

本当は、誰か知っていたら、そういうことを教えてほしい。

こーさー、男の心理とか女の心理とかさー、そんなのどーでもいいじゃない?って思うのはあたしだけなんだろうか。それでいて、うちのダンナをネタにすると、ぽろぽろ出てくる出てくるわけのわからなさ。

こういうのを書くと、「りんちゅあ〜ん、わっかんな〜い」って酔っ払いにからまれるんだよね・・・

わたくしは歌人なのである。

そのうち筆名考えようかな・・・


青き星いつかはやがて砕け散り鳥は目指すよ夜明けのブルー

大昔に詠った歌。

投稿者 Blue Wind : 03:55 AM | コメント (0) | トラックバック

December 28, 2004

【今年の10大ニュース】

 1. マツケン・サンバ兇梁腑劵奪
 2. イラクでの日本人人質殺害事件
 3. ブッシュの再選
 4. イチローの記録達成
 5. アテネ五輪のマラソンでの走行妨害
 6. 台風被害と中越地震の連続災害
 7. 同級生殺害事件(子どもの犯罪)
 8. 渋谷で4人の女の子たちが誘拐・拉致
 9. 家に空き巣用シールが貼られていたのに気が付いた
10. 北朝鮮拉致被害者等の帰国と韓流ブーム


あくまでも自分にとってインパクトがあった順です。
一番衝撃的な出来事は、マツケン・サンバ兇鮟蕕瓩童た瞬間。

自衛隊のイラク派遣により、潜在的に保守化の傾向が強くなりつつあり、韓流ブームもマツケン・サンバ兇離劵奪箸盞茲靴洞然ではない。

世界を救うのはマツケンしかいないのだろうか?
なんてね・・
なんで、うちの娘まで歌ってるんだろう・・・


■関連

アーティスト: 松平健
タイトル: マツケンサンバII
タイトル: マツケンサンバII 振り付け完全マニュアルDVD

*トラックバック・ステーションへのトラバ。

投稿者 Blue Wind : 03:52 PM | コメント (0) | トラックバック

雨粒

アメブロにブログをつくって18日目。都会の雑踏に大粒の雨。

4年前なら、3日で放置していたと思う。

あの頃は、義理の姉のサイトや近所の人のサイトを眺めて、わたしもああいうサイトをつくろうと思っていた。庭の花やペットの写真、旅行先の風景、ささやかな日常、のんびりとした来訪者。HPをつくるということ自体に興味があるから、ビルダーなどを使って、サイトをデザインする。

わたしはもともと機械が好きではなかったので、マニュアルを買ってきてもすぐに放り出す。せっかくつくっても、せいぜい知り合いかチャット部屋で知り合った人にURLを教えたりするだけで、いつも決まった人たちしか来ない。退屈。


チャットで知り合った人のサイトは、一日5ヒット程度。なのに、次から次へとCGIを覚えたとか、こむずかしい業を覚えたとか、マメ。今は、無い。妹に携帯を勝手に使われたとか、買ったばかりのクルマの修理代とか、ぼやいているうちにいつしか消えていた。

そのうち、これは仕事用のサイトだとか、雑誌に紹介されたとか、が始まる。そうなるとサイトからBBSが消える。


最初、ガイアックスにサイトをつくったばかりの頃、どうして知らない来訪者が次から次へとやってくるのか不思議だった。コミュニティだから、日記をアップしたり、来訪するとログが残り、簡易リンクのようになるからだと知る。

そうなると、誰に対して書くのかが変わってくる。少し慣れてくると、BBSでやりとりした内容などをネタに、BBSだけでは書ききれなかったことを日記に書く。


ある日、突然、義理の姉がわたしの日記を読んで怒っていた。

知り合いしか来ないようなサイトと、一般の来訪者とのコミュニケーションを主体にしたサイトとではおのずとトーンが変わる。レスも変わるし、個人情報を出さないようになるし、テキストなんてものは如何ようにでも変容するために、当たり障りなくも書けるし、過激にも書ける。自分でも意識しないうちに、かなり書き方が変わっていたのだと思う。


ある日、浮気が原因で職場が変わったという人の話を書いたら、まったく予想外の人が怒ったことがある。いくらアンタのことを書いたわけではないと言っても無駄だった。わたしがその人のプライバシーについていささかも知るはずもないのに、その人の知り合いがうちのサイトの来訪者でもあり、たまにメールが着たりしていたから、誤解されたのかも。

わたしにしてみれば、誰と誰が知り合いなのかも知るわけがない。仕事仲間なら最初からそうだと言ってくれたらいいのに、こちらにとってはどちらも自分のサイトの来訪者にすぎない。


あっさり語ると、アメブロは枯れているから、気楽かも。

基本が一方通行テキスト社会だから、いくらコミュニケーションがあるといっても、コメントやトラックバックが基本。誰かが勝手に書いたものを勝手に読む。

同じ内容のミラーをいくつか違うサーバにつくっていると、来訪者のトーンによってこちらの気持ちが変わることに気が付く。

今までだったら、一度発信してしまったら受け手がそれに対してどのように思うかまでは責任は持てないにもかかわらず、すったもんだしたりすること然り。でも、アメブロだと、まるきり責任ない気がする。読者が1万人コンスタントにいる世界だと、その一人一人のリアクションを知ることは不可能。

自分のブログがそうなるとは言っていないけど、雰囲気ってあるでしょ?
それが楽しいかどうかまではわからないけど、ある意味、開放感はある。


それにしても、今日はちょっと重すぎ・・・アメブロ。
模様替えの日だったんでしょうか・・・ユーザーの。
ping送信も届いていないし・・・困った。

投稿者 Blue Wind : 02:16 AM | コメント (0) | トラックバック

December 27, 2004

日本人の活字好き

ネットで知り合った友達に、ご主人が元アメリカ兵という人がいる。彼女の話の中で、一番印象に残っているのが、「結婚したとき、家の中に一冊も本が無かった」という話。

これってすごいと思った。
まず、毎朝新聞を配達してくれる国が日本のほかにどこがあるのか、わたしはいまだに知らない。大抵の国では、新聞や雑誌はニューススタンドなどで購入するらしい。気が付いたら新聞よりも折込広告ののほうが遥かに重いなどと思いながら、いまだにほとんどの家庭では新聞を配達してもらっているのではないかしら?この国では・・・

海外のリゾートへ行くと、ホテルの中に図書室があり、英語が読めればそこで借りたほうがよいのかもしれないと思いつつ、つい成田で読みもしない本を買ったりする。何となく日本語に飢えてしまうからかもしれない。

ちなみに、読み終わった本をどうするのか尋ねたら、元アメリカ兵のご主人は雑誌にしろ新聞にしろペーパーバックにしろ、さっさとごみ箱に捨ててしまうらしい。

そうやって言われると、O・ヘンリーでさえ、シドニー・シェルダンでさえ、ペーパーバックだといかにも読み終わったら捨ててくださいとばかりに、表紙からして安っぽい。文庫本などがそれに相当するのかもしれないけど、ある程度古くならないと捨てないせいか、つい本が溜まってしまうわが家とは違う。

わたしの父などは活字に人生を求めるタイプではなかったので、たしかに人生を求めるなら競馬新聞やスワロフスキーのクリスタルのほうが眺めていて楽しかったもしれないと、今ごろになってわたしは彼を理解するようになった。

うちのダンナも、まず仕事以外で何かを読むという習慣がない。近頃、例外としてボウリングの本やらペットの躾の本をたまに買ってきて読んでいる。あと、空手。わたしにも読めというのだけれど、せいぜい犬の写真を眺めて終わり。

これに対して、わたしの母や叔母は活字中毒。ヒマさえあれば何か読んでいた。さすがに母は、今は何も読まなくなったけど。

プーケットへ行って、読めないタイ語を眺めていると、まるで活字を必要としないことに気が付いた。せいぜいカタコトのタイ語が通じたら喜ばねば。アレくらい読めないとまるで覚えようという気力が湧かないから救われる。

漢字が悪いのだと思う。中国語は聴いていてもまるでわからないけど、漢字を眺めていると少しわかったような気になってしまう。漢文を考えると、そういうものなのかも。

アルファベットはなお悪い。英語を知っていれば、もしかするとほかの言語のアルファベットの羅列も理解できるかも、という錯覚に陥る。ところが実際には、イタリアのホテルのレストランでフライドポテトをオーダーしたら、どうしても意味が通じず、フロントの人がやって来た。ポテイトーもパターテーもよく似たようなものじゃないかと思ったんだけど、彼らにしてみたら互いに意味不明の世界らしい。

という具合に、自分でキーボードを打つようになって以来、わたしの手は止まらない。

500冊発行して、200冊は歌壇に寄贈するとして、それでも完売という話の少ない歌集。200人以上の歌人が集まって、1500冊を売るのに苦労するアンソロジー・・・

それでいて、図書館へ行って、古い歌集を写本している歌人・・・


■関連書籍

著者: 飯島 淳秀, オー ヘンリー
タイトル: オー・ヘンリー傑作集〈1〉最後の一葉
著者: オー・ヘンリー, リスベート・ツヴェルガー, 矢川 澄子
タイトル: 賢者のおくりもの
著者: シドニー シェルダン, 天馬 龍行, 中山 和郎
タイトル: ゲームの達人
著者: シドニィ シェルダン, 天馬 龍行, 紀 泰隆
タイトル: 真夜中は別の顔〈上〉
著者: シドニィ シェルダン, 天馬 龍行, 紀 泰隆
タイトル: 真夜中は別の顔〈下〉
著者: 「地球の歩き方」編集室
タイトル: プーケット―サムイ島/ピピ島/クラビ
著者: 大山 由里香
タイトル: DVD付 大山由里香ボウリング・レッスン
著者: ティーピーエム
タイトル: 犬カフェ―犬と一緒にいけるカフェ&レストラン

投稿者 Blue Wind : 02:08 PM | コメント (0) | トラックバック

ひんやりと肉球黒くかなしけれ小さな氷さわったような

テポドンが飛んできたとて嘆かない罪なきこいぬ眠りゆく空
わたしたち、明日がどうなるものとても身勝手すぎて憐れんで泣く
今は明日、明日は明後日、いつの日かこわれゆくままねむりゆくまま。
ほとほとにほとほとすぎて疲れ果つこいぬのマリア幼すぎる死
生まれては引き離されて渡り逝くいのちあはれかあはれ生くべし
キーボード打つくらいしかできないとあはれんでみてわがみむなしき

反戦の旗印さえむなしくも誰がためにぞ夕暮るる空
テポドンよ、飛んで来いよとあはれめば、身はやつるほど700グラム。
べこべこに背中の皮にはりついた身の無きマリに血液検査
生きるって出してくれよと檻の中叫べど飛べどだれもこたえず
悔しさは怒っているのと違うのよ!べこべこになる脱水のマリ

ほんわりとやすらかな顔ねむりゆくまんまるおめめ、しあわせって何?
届かない眠りの中の眠り姫大空遥か魂いづこ
天高く追い求めるかオトくんは二階にのぼり誰に遠吠え
つながれた糸むなしくもてのさきは指が聳えて人間といふ
ひんやりと肉球黒くかなしけれ小さな氷さわったような

やんわりと皮のむこうにやんわりと冷たいマリのふにゃりと身体
永遠は永遠すぎて幻のとおりゆく道そらたかくあり
魂はあっというまにのぼりゆくみあぐる夜空星の瞬き
光より速く夜空に輝けりきらきらとした魂の息

ダニエル書 10. 8


◇ご返歌
サンダルでクルマ転がす癖つけば季節外れの爪先は冬
枯れ枝の細い切り絵の刻刻と透かす夕陽に消ゆるわくらば
空からの落つる雨雪消ゆるともめぐりゆく雲天使に変わる

投稿者 Blue Wind : 12:11 AM | コメント (0) | トラックバック

December 26, 2004

哀歌 2. 9-14

  城門はことごとく地に倒れ、かんぬきは砕けた。
  王と君侯は異国の民の中にあり
  律法を教える者は失われ
  預言者は主からの幻による託宣を
      もはや見いだすことができない。

  おとめシオンの長老は皆、地に座して黙し
  頭に灰をかぶり、粗布を身にまとう。
  エルサレムのおとめらは、頭を地につけている。

  わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。
  わたしの民の娘が打ち砕かれたので
      わたしのはらわたは溶けて地に流れる。
  幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。

  幼子は母に言う
      パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。
  都の広場で傷つき、衰えて
  母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。

  おとめエルサレムよ
      あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。
  おとめシオンよ
      あなたを何になぞらえて慰めよう。
  海のように深い痛手を負ったあなたを
      誰が癒せよう。

  預言者はあなたに託宣を与えたが
      むなしい、偽りの言葉ばかりであった。
  あなたを立ち直らせるには
      一度、罪をあばくべきなのに
  むなしく、迷わすことを
      あなたに向かって告げるばかりであった。

投稿者 Blue Wind : 11:49 PM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 9. 36-37

そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

投稿者 Blue Wind : 11:42 PM | コメント (0) | トラックバック

数値

今日で、アメブロに新しいブログをつくって16日目。ランキングの虚しさに気が付いてしまった。


その理由1: 更新もせず、アクセス数が毎日3ヒットくらいで、コメントもトラックバックもほとんど見当たらないのに、なんでランキングがUPしているんだろう?

不思議だ・・・

そういうサイトに癒しを感じてどうするんだろうと思いながらも、覗いている。


その理由2: ランキング上位のブログのアクセス数が軽く1万ヒット以上、多いと3万ヒット以上ある。

まるで桁が違うために、それを考えると、3ヒットも30ヒットも大した差がないことを知る。

固定読者が1万人以上いるってすごい。
かつて言われたのは、個人サイトなら一日50ヒットあれば成功、100ヒット以上あるということは値打ちがある、200以上になるとYAHOO?


その理由3: なんでこの16日間に1万以上の新規ブログが増えているのだろう?

新着あらしかもしれないと思いながら、まったく更新する意志もなさそうなブログが延々と現れる。分母は増えても分子は増えないがごとく、アクティブ・ユーザー数自体はどこのブログでもほとんど横ばい。


あれにこれにと考えると、サウンド系、書評系、ブログ系、平和系、短歌系、ジャンキー系、旅行系みたいに一人でいくつもブログをつくってその日の気分でアップし、それぞれに読者登録とトラックバックをしていたら、さぞかしランキングが上がりそうな気がする。

すぐにやめてしまったけど、かつて関心空間にコーナーをつくっていたときのことを考えれば、商品情報を発信するみたいなほうが簡単でアクセス数が稼げる。リアクションもある。トラックバックも飛ばしやすい。

でも、つまらんのよ・・・・自分が。

本やらCDやら、海外旅行へ行くのだったらどこのホテルが快適だとか、自分がネットで検索するのはおよそそういう話題だったりするのに、自分が情報を提供するのはやたらとかったるい。

気分転換に、つまらないネタを観察したり、駄文を書いているほうが面白い。

それにしても、1クリックでデザインを変えられるのは楽だけど、あまりにもスキンの種類が少ない。来年に入るまでクリスマス用のスキンを使おうと思ったけど、シンガポールのバーゲン・セールみたいだからやめた。

投稿者 Blue Wind : 10:52 PM | コメント (0) | トラックバック

心残り

これも一つの風なのだと思う。
マリちゃんが死んで、巷では大騒ぎになっている。さっきもペットショップから電話。マリちゃんが亡くなったからご挨拶に伺いたいという・・・

たかが犬、されど犬。
うちの近所は愛犬家が多い。知り合いにも愛犬家が多い。おそらくはわたしの知らない誰かすらマリの死を悼んでいるのだろう・・・

犬好きの婦長さんがいて、マリが病気になったと言ったら、それこそ自分の犬のかかりつけの獣医に毎日電話で相談している。そのまた別の看護婦さんがやはり犬が好きで、こんなことは許せないとばかりに別の獣医に相談している。

そこへ、セントバーナードの赤ちゃんを連れて、通院しているのだろう・・・

看護婦さんと美容師さんを怒らせると、それこそ口コミで一斉に噂が広まる。今度は獣医さんまでが怒って、獣医師会で取り上げると言っているらしい。

もう、今は昔とは違う。

初期治療さえ間違わなければ、マリは命を落とさなかったのかもしれない。もちろん、感染症が原因で子犬の3割は命を落としているのだから、どこへ行ってもマリは助からなかったかもしれない。

これが人間の赤ちゃんだとしたら、訴訟だ、裁判だ、というのが普通だ。ずさんな医療ということで大問題になるだろう。あんないい加減な医療をしていてよく今まで問題にならなかったのか、そちらのほうが不思議だ。今度だって、たまたまうちのダンナが医者だったから、おかしいということに気が付いただけだ。大抵は、医者の言うことを鵜呑みにして泣き寝入りしてしまう。

仮に訴えたとしても証拠がない。最初の感染症の検査では陰性反応だった。今にして思えば、それがいかにいい加減なものであったか、それくらいの証言はわたしにもできるかもしれない。入院後、検査ばかりしていたけど、輸血してインターフェロンを使っているマリの血液データに、いかに信憑性があるか逆に伺いたい。

でも、本当の問題はそういうことではない。

皆が怒っているのは、『嘘』についてだ。単なるストレスが原因で子犬が死ぬだろうか?ブラシが合わないとか、餌が少ないとか、そういういい加減な獣医師の嘘を嗅ぎ取り、そこに不信感を抱くのは当然だ。

最初の段階で、犬の医療費もバカにならないし、でも感染症の疑いがあるのでインターフェロンを使うかどうか患者の家族と相談して決める、くらいの配慮があって当然だろう。中にはとてもじゃないけどそこまではできないと言う人もいるかもしれないし、うちのマリは小さいからさほど大したことはないけど、例えば大型犬だったら人間以上に薬代が必要になる。それでもしてやりたいという飼い主もいる。癌の治療に200万円とかね・・・

人間の場合、日本は医療保険があるから安い。ところがペットだと個人で保険に加入している以外は、全部実費。そこで獣医のほうも、あまり高い医療費を請求していると患者が来なくなる可能性があるから、どこまでアクティブに治療するかは、実はその獣医師の判断によってまちまちなのかも。

でも、近頃の風潮としては、アクティブにやる獣医のほうが人気が高い。

もう、昔みたいに、犬だから、猫だから、というのは通用しない。だって、家族だから・・・
特にマリみたいにまだ赤ちゃんで、朝から晩までわたしが世話をして、となるとなおさら心残りなのかも。

心残りなんだよね・・・

母が転院したということで、久しぶりに幼馴染から電話がかかってきた。ちょうどマリが死んだばかりで、その話をしたら、「子どもは悲しんだでしょう?」と訊かれた。

オイオイ・・・

そかそか・・・そーなんだよなぁ・・・世の中の人たちにしてみたら、母の病気のほうが重篤で、子犬の死なんてものは通りすぎた風のようなもの。わたしにしてみたら、もう5年以上母にはしてきているわけで、この前などは入浴から戻ってきたら温泉に入った後のようなさっぱりとした顔をして、気持ちよさそうに寝ていた。それを考えると、今は状態がよいからそうやって思うのかもしれないけど、母に対しては、いつ亡くなってもやるだけのことはした、という気持ちはある、弟もわたしも。

そこが違う。

近頃では、歌を詠むのもつらい。ずっとマリを抱っこして歌を詠んでいたから、鬱捨て場どころか逆に鬱を拾ってしまいそうになる。

投稿者 Blue Wind : 02:45 PM | コメント (0) | トラックバック

December 25, 2004

「りんちゅあ〜ん、わっかんな〜い」

ネットっていいよなーって思う。
つくづくしみじみ思う。

さっき、自分のプロフなどをアップしながら、ますます思う。

ネットが好きになった理由の一つに、「りんちゅあ〜ん、わっかんな〜い」というセリフがある。

そっかー、世の中わかんなくてもいいんだなってことを学んだ。

もー、なんでも知ってるのが当たり前、新しい言葉、造語であっても、専門用語っちゅーやつは待ってくれない。それが用語集に載ってからでは遅い。ぱらぱらぺらぺら上品に慣れた手つきで調べ者をする学者がいた。つい、憧れてしまう。

バッグの中にペーパーを入れて歩く。
ジャズ喫茶の騒音でもなかったら、思考が停止しない。
酒飲んでもダメ。

パラパラぺらぺらぱらぱらぺらぺら・・・・それが日常。

「りんちゅあ〜ん、わっかんな〜い」

そかそか・・・・あー、この人はふつーの主婦のあたしにわっかんな〜いって助けを求めているのか・・・・おおうそ、単なる酔っ払い主婦友。仕事の愚痴でも始まったらキリない。鬼。

ボンはどーした、ボンは。ガキいるだろ?

「寝てる」

そーだよなー、母親が酔っ払って帰った頃にゃ子は寝てる。ちなみに、あたしは起きてる。

ほんで、「りんちゅあ〜ん、わっかんな〜い」が始まる。

なんかね・・・・なんなんだ、ネットは。

ふぅ・・・

これが、ご対面形式だったらどーだろう・・・ざけんなよ、とか、あまえんなよ、とか、世論は厳しい。

あーもークリスマスだというのに、何を書いているのだろう・・・

めりめりくりすます〜☆

投稿者 Blue Wind : 12:28 PM | コメント (0) | トラックバック

過去から解放してくれて、ありがとう。

大きなありがとうから小さなありがとうまで、書き出したらキリがないのかもしれないけど、今年一番のありがとうは、名前も知らない人。たまたま母が最初に入った病室で向かい側にいた90歳のお祖母さんの付き添いのお嫁さん。

「お若いですねー、色白で綺麗で・・・」

一体誰のことを指して言っているのか、わからなかった。
しばらくして、うちの母のことを指して言っているのだと理解する。
わたしからしてみたら、変わり果てた母の姿で、叔母に言わせるともうお見舞いなども要らないそう。もう5年も意識がはっきりしないままで、首には孔、胃にも孔、という具合。脳の手術をしたためにおでこにも断層があるし、若き日の母のことを知る人たちからすれば、目も背けたくなるほどの変わりよう。

突然、母のことを褒められて、ぽかんとした。

何も知らないって、すごくありがたいと感じることがある。何となく過去から解放された気がしてうれしかった。どうしてありがとうなのかうまく伝えられないから、なおさらありがとう。


青き空いつもおそばにありがとう広がる笑顔子どもの未来

大昔に詠んだ歌。


* トラックバック・ステーションへのトラバ。

投稿者 Blue Wind : 01:02 AM | コメント (0) | トラックバック

December 24, 2004

昨日の話。

昨日の話。
お昼に娘の友達から電話。年の離れたお姉さんが二人いて、上のお姉さんがわたしと話したいという。すぐにピンと来た。マリの話だろう・・・

偶然同じ日に、下のお姉さんとペットショップで出くわし、彼女はセントバーナードの赤ちゃん、わが家はマリを買った。
こちらもマリが病気になったので、その時に一緒にいたセントバーナードの赤ちゃんが気になり、娘に尋ねたりしていた。いきなりマリが死んだという話を聞いて、慌てて電話をかけてきたことが様子でわかる。

そのセントバーナードの赤ちゃんは、頭ばかり大きくて、体が育たない。近頃では抜け毛が多くなり、さすがに心配になって動物病院へ連れて行く。当然、同じペットショップで買ったから、マリが通っていた病院を勧められる。
体が育たないのは餌が少ないからであり、抜け毛が多いのはブラシが合わないからと言われ、ブラシを買わされたらしい。

「・・・・・うちは、美容院なんですよね。いきなりブラシが合わないと言われて、妹が怒って・・・・・」

あーもーそれだけで、診察をしたのがあの女医だと分かる。

わたしはすでに話すのが嫌なので、ダンナに行ってもらい、「・・・・人間と動物は違うかもしれないけど、検査は必ずしも100%ではないし、症状から感染症の疑いが・・・・・」と、かわす。「いえ、パルボではありません、パルボではありません」と速攻で反応が戻ってきたらしい。

今度は、美容師さんをつかまえて、セントバーナードの抜け毛が増えたのはブラシが合わないのが原因だからとブラシを買わせている。

その娘の友達のお姉さんは、あまりにも腹が立ったのでペットショップに電話。あっさり、「別の犬とお取替えいたします」と言われたらしい。そしたらますます腹が立ち、「あの子が可愛いと思って買ったのに、違う犬をよこせば終わると思ってるの〜!」と、めちゃくちゃ怒っているところにうちのマリが死んだという話を聞いて、慌てて家族がうちに電話してくる。

「・・・・・・お客さんからいろいろ話を聞いて、あのペットショップは子犬が結構死んでいる、皆さん、動物病院なら9割がAへ連れて行っていると言うんですよ・・・・・・それで妹が心配して・・・・・・」

まったく同じ話をほかからも聞いているので、うちはストレスが原因だと言われたという話を話す。うちだけならともかく、ストレスの次には餌が足りないとかブラシが合わないとか、どうやってもその医者がよほどのヤブなのか、あるいは病気を隠蔽しているとしか思えないではないか。


******************

夕方、ペット霊園へ行く。
その時間でないと空いていないと言われ、4時。
少し早く着きすぎて、誰もいない。

青空に月が浮んでいる。
マリを燃やすのがかわいそうになり後ろの座席を振り返ると、夕陽。

一昨日。朝、硬直が始まっていたのに、娘が学校から戻って亡骸を抱いていたら、マリが柔らかい。目を閉じたはずなのに開いている。まるで生きているかのよう。最初にその不思議さを発見したのはダンナ。

なんだかマリが生き返りそうで、もう一度ダンナに本当にマリが死んだのか訊く。
当たり前だけど、心臓が停止しており、瞳孔が開いていることにより、マリは死んでいる。

「不思議だ。たしかに不思議だけど、マリは死んでいるし、僕は信仰心はないからね。」

というわけで、マリは予約時間にはペット霊園へ連れて行かれ、荼毘にふすことになった。ネットオークションでカジノに『マリアのトースト』を売った人のほうがよほど信仰心があるように思えてしまう。

わたしが千年くらい早く生まれていれば、教会やお寺に行き、「こんな不思議なことがありました」って報告するのかもしれない。

うちのダンナと話していると、自分がまるで、『奥様は魔女』のサマンサの家の隣の家の奥さんのような気分になってしまう。サマンサの魔法を見て、大騒ぎするのだけどそれをご主人に言っても信じてもらえない。

マリちゃんをおくるみに包み、火葬。

その間、レストランへ向かう。

いきなり隣の車線を走っていたクルマが犬を轢く。中央分離帯からの飛び出し。即死。後ろから大きなトラック。

警察に訴えてやろうかと思ったけど、ダンナに、「保健所だろう」と言われた。

マリはうちの子だから埋葬。骨壷の中。
ペット霊園のおじさんに、「動物はいつかは土に戻さなければならないのを知っていますか?」と訊かれた。「庭に散骨します」と答え、すでに真っ暗になってしまった霊園の中を出る。


*****************

せっかくのクリスマス・イブだというのに、何という話を書いているのだろう。
せめて、あのセントバーナードの赤ちゃんが元気になってほしい。赤ちゃんとは言っても、オトくんよりすでに大きい。700グラムのマリとは違って、体力もある。

マリは骨まで細かった・・・

哀歌 2. 9-14

投稿者 Blue Wind : 11:59 AM | コメント (0) | トラックバック

December 23, 2004

風狂の歌人

娘がわたしのお誕生日にくれた短歌の本は、『声に出して味わう日本の名短歌100選』。檀ふみさんの朗読CD付き。まだ聴いていない。万葉集から近現代の歌人の歌を収録している。短歌の魅力は、一重に詠み人しらずとか、山崎方代さんのような風狂の歌人にある。
詩でも八木重吉さんのように、亡くなってから作品が世に出るということはめずらしくない。つまりは、生きている間の独り言が亡くなってから発見される。生活から来るしみじみとした想い。

そういうことを考えると、休日の昼下がり、リビングのテレビの音を背に、こういう話を書いている自分はアマちゃんだと思う。そういう平凡な自分がいて、それでいてどこか風マニアな自分も存在している。


忘れもしない2001年2月5日、初詠み。(CGIに日時が記録されていたからである。)

時はなおガラスのように崩れゆき轟きを泣き震撼に泣く

これってね、恋の歌なんかじゃないんです。たまたまそういう歌ばかり集めているところに投歌したせいで、そうやって勘違いする人もいるかもしれないけど、実はわたしの人生・生活からくる悔しさ。

ある日突然、ダンナの神戸の実家が震災で焼けて、義父が癌で亡くなり、自分の母親までくも膜下出血で倒れ重度の障害者となり、姑さんは鬱病になるし、子どもはまだ赤ちゃん、ダンナは仕事・仕事・仕事。
そういう悔しさを詠んだ歌。

いざこれからという時にすべてを失ったという愚痴っぽさを短歌でカモフラージュしている。


星一つ見えない夜の暗闇に指先沈め砂文字をかく

2首目。これは、砂漠で暮らすランボーをイメージして・・などと優雅なことを語っているけど、実は、「バーチャルの闇」を詠んだ歌。


どちらもその時の心境が自然と歌になっただけ。


本音を語ると、短歌なんて嫌いだったし、いまだに『百人一首』ですら覚えていない。『サラダ記念日』ですら読んだことないし、要するにまるで興味がなかった。

この手の短歌がどういう部類に分類されるのか、わたしにはわからないし興味もない。

ある日、結社に加入するメリットとして、1200人の固定読者がいるという説明を受けた。・・・・・・・なんと語ってよいのか迷うべきだった。

その時、わたしがあっさり語ったのは、例えばガイアックスのサイトのトップページに歌を貼り付けてログジャンプすれば、一日500人以上の「読者」が確保できることになる、ということ。

桁が違う。

数にこだわるわけではないけれども、すでに作歌が日常生活になっているために、毎月数百首の歌を詠みこむ。


ある日、「孤高の歌人になれ」と言われた。

どうせなら風狂の歌人のほうがいい。


さてさて・・・
マリちゃんを送りにゆかねば。


■関連書籍

著者: 荒木 清, 佐佐木 幸綱, 檀 ふみ
タイトル: 声に出して味わう日本の名短歌100選
著者: 八木 重吉
タイトル: 八木重吉詩集

投稿者 Blue Wind : 07:10 PM | コメント (0) | トラックバック

December 22, 2004

抱きゆく微かな匂い今もなお少しの時間流れただけと

膝のうえ目をあけたまま亡骸になってしまった子犬のマリア
少しずつ閉したまなうらひらきゆく悲しいまなこ何を見つむる
キャロルスの淡淡として流れゆく悲しき調耳元にあり
抱きゆく微かな匂い今もなお少しの時間流れただけと

真つ黒な瞳は悲し宙というあるわけもない空間眺む
懐にぬくぬくとして眠りつく夜明けのマリア今はもう亡き
一夜だけわたしのために来てくれた子犬のマリア冷たいお鼻
首筋に冷たいマリのお鼻あるまどろみの火は冷たいドール

ふつふつと泡立ちながら夢のなか開いたまなこいつ閉じるのか
悲しいよ、悲しいよ、まだ悲しいよ。あの子のいない空白の息。
吹く風のあはれあはれと空のうえもう届かない子犬のマリア
寂しいよ、寂しいよ、まだ寂しいよ。虚ろな瞳すぐそばにあり。

マルコによる福音書 9. 36-37

まだマリの匂いするセーター左肩ふと気にしてはクリスマスツリー


◇トラックバック
まどかなる夢ふふむそら地球儀のうえに重ねて遠の星思ふ
説教は年寄りめいて若人よジョン・レノン臥す一発の撃

◇ご返歌
つらなるは小島のかげと雲のいろ空は気まぐれ透きとおる海

投稿者 Blue Wind : 02:53 PM | コメント (0) | トラックバック

コリント信徒への手紙 一 16. 13-14

  目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。

投稿者 Blue Wind : 02:38 PM | コメント (0) | トラックバック

オバデヤ書 13

  その災いの日に
  わが民の門に入ってはならない。
  その災いの日に
  苦しみを眺めてはならない。
  その災いの日に
  彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。

投稿者 Blue Wind : 02:35 PM | コメント (0) | トラックバック

雨風呂雑感

今日で、アメブロに新しいブログをつくって12日目。最初につくったきっかけがマリちゃんが入院してしまったせいの発作。鬱捨て場というわけではないけれども、ひたすらうつうつうつうつと、どうせ1クリックで削除できるんだから好きなことを書いてやろうというのが動機。

あっさり語るけど、甘かった。

その理由1: すぐにあたしだとバレてしまった。

もちろんアクセス数が低いために、ほかの自分のサイトやブログにリンクしたわけだから、当たり前と言えなくもないけど、少なくてもアメブロからはほかのわたしのサイトには飛べない。ネットは、実はおそろしいほど狭い世界なのかもしれないと思った。

その理由2: アメブロだからこそ、短歌に特化しなければならないのかも・・・

ランキングがあるからね・・・パッと見て、すべての人間がすべてのジャンルをクリアする必要性はない。だから、自分の専門やテーマがあって、ひたすらそれに関連した内容の記事を飛ばしたほうが固定客がつく。

その理由3: 読者が厳しい。

片岡義男さんのブログのコメント欄を眺めていて、そのように感じました。普通のサイトだったら、これってあらしじゃないの〜?って思ったりするのだけれど、削除しないところがプロなのかも。

その理由4: プロとアマの境界線がはっきりしない。

これって、きつい。自分の書いたものを出版して売ればれっきしとした商売だから、アマだとは言えない。それが売れるかどうかはともかくとして、近頃、ネットから活字へ回すのが流行っているらしく、下手に投稿して遊んでいると著作権を奪われてしまう。でも、自分で出せない、出しても売れない、ってなると載せてもらうほうが得か?

自分で有料サーバを借りて、サイトをつくっている分は気楽なのよね。だから、そちらでは写教聖書をやれても、アメブロやその他のサイトではできない。今は、聖書にも著作権があるから厳しい。

悩む・・・すこぶる悩む。

言い訳の問題なのかも。例えば、自分のサイトに短歌の感想を書いて勝手に引用してもそれは宣伝になるからどしどしやれという世論と、いや、短歌とはそういう世界ではないと思っている人たちと、インターネットはそのどちらの意見も受容してしまうほどの懐の深いメディア。

結局、自分のスタンスなんだろうな・・・
悩む。さてさて・・・・一体、気まぐれにネットを始めただけなのに、この先わたくしはどうなっていってしまうのだろう・・・すでに、自分のことなのに、どこか知らない自分が文字の世界に存在している気がする今日この頃・・・


それよか、マリちゃんを返してほしい。
やらなければならないことはある。でも、やりたくない。
少し眠ろうと思う。でも、テンションが高くて今は眠れそうにない。

なんか、疲れたな・・・
やっぱり、寝よう・・・

投稿者 Blue Wind : 12:45 PM | コメント (0) | トラックバック

あっという間の長い一日

少し泣いたらすっきりした。日課があるってありがたい。今朝、マリア・アンジェラは、2ヶ月と17日で短い生涯を終えた。

昨日は、わたしの誕生日。
お昼にはネットで注文したルドビーさんのご本、午後には娘が短歌の本、夕方にはダンナがマリちゃんを連れて帰ってきてくれた。
夜、マリちゃんはかなりむくみはあるものの、すこぶる元気で、一人ではもはや立つこともできないのに性格は変わらない。
やんちゃ。

誕生日だというのに、外へ買い物へ行く気力もない。
お昼頃、母の病院から電話がかかってきた。すっかり役所へ行くのを忘れている。いや・・・忘れていたのではなく、行く気力がなかった・・と、見知らぬ看護婦さんにどうやって事情を説明したらよいのかわからないので、そのまま謝って電話を切る。
ようやく母の容態が安定したので、車椅子をつくることになり、その福祉の書類を取ってきてほしいという。マリちゃんのことが気になって、それどころではない、などと失礼なことが言えるだろうか・・・?

それよりも、マリちゃんを引き取って、家で看取るための準備をする。
まずは眠ること。もしかすると三日間くらい眠れないかもしれない。そのためには寝なくては・・などと思っているときに限って熟睡できない。

到着したマリちゃんは、輸血後なので、想像していたよりも元気。「これはもしかして・・」などと期待すると、ダンナが期待を打ち消す。食欲はあるみたいなんだけど、少し食べるとたちまち疲れ果ててぐったりする。

冷凍のグラタンをオーブンで焼く。
オトくんだけがやたらに元気で食欲もある。

夜中中、わたしの隣ですやすやくんくん動き回って寝ていたマリちゃんを、朝、ダンナが抱っこして下に連れてきた。もう、マリは首も座らない。

娘が学校へ行く支度をしなければならいので、ダンナが抱っこしてマリちゃんに飲み物を与えようとした。突然、マリの心臓が止まる。

マリちゃんは、今、静かに娘のために編んだおくるみに包まれて、クリスマスツリーの横で眠っている。

・・・・・・・・・・・・。


これが、光と闇・・・・

悲しくもあり、幸せでもあり、あっという間の長い一日が終わった。

投稿者 Blue Wind : 11:34 AM | コメント (0) | トラックバック

December 21, 2004

限界

昨日、入院している子犬のマリちゃんの容態が急に悪化したというので、慌てて病院へ行く。前日までは食欲も回復して、クリスマスには家に連れて戻れるかもしれないと喜んでいた。なのに、いきなりそれまでもつかどうかわからないという・・・

夕方の通勤アワーの渋滞をイライラしながらクルマを走らせ、到着するとまるでお通夜のような静けさ。その前にダンナが行って容態を説明されているので、もうスタッフの人たちとお話することもない。

小さな畳一畳分くらいの大きさの部屋の中にマリはいる。銀色の檻の中。行ったらちょうど輸血をしているところで、人間用のチューブの先にもう一つ細いチューブがつけられ、点滴の孔に血液が入れられる。

あまりにもやすらかな顔をして眠っているので、死んでいるのかと思った。

苦しい時には苦しい表情をしているのが普通。なのに、昨日のマリは、あまりにもやすらかな寝顔で今にも死んでしまいそうだ。話しかけると、目を開けようとする。でも、微かに白目が見えただけ。それでも少し反応があったのがうれしくて、「マリちゃん」と呼ぶ。
鼻がひくひく動く。

名前を呼ぶと・・・・・鼻をひくひく動かす。
もうそれが精一杯のお返事。
そうやって思ったら悲しくなった。

あまりにもやすらかな顔をして、無防備に寝ている。
昏睡状態の年寄りのように、寝ている。
あれは眠っているだけだと言う。

看取るために、家に連れてくる。
ダンナは、今日では早すぎるというのだけれど、明日まで生きているかどうかもわからない。

それくらいマリアはやすらかな顔で寝ていた。

そうやってやすらかに息を引き取るお年寄りは多い。
でも、マリちゃんはまだ赤ちゃん。
まだ生まれてきて2ヶ月半。
人生の大半を檻の中で過ごしたことになる。
毎日毎日過激な治療。

インターフェロン、輸血、増血剤、点滴、検査、その他諸々。
最初に感染症だと診断されていれば、こんなに重篤にならなかったかもしれない。
ストレスから下痢だとかね・・・
10日目に入院して、ストレスが原因だ言われたとき、わたしはその場で転院させようと思った。
でも、それすら命取りになりかねないほど衰弱していたので我慢する。
どこがストレスなのか、もう一度説明してほしい・・・けど、すでに担当医は変わり、そんなことを言っていた女医はわたしの顔を見ると逃げる。

わたしは、病室を出ると、「かわいそうに」と、ひとこと。
ほかにどうやって語ったらよいのかわからない。

何も言わないほうがよいのかもしれない。

こんなことをぼやいていると、犬と人間は違うよ、と言われる。

ストレスからくる下痢だから、ペットショップで預かってもらって、という説明を受けた。一ヶ月の生命保証があるから、だ。つまりは、「ストレスが原因で病状が思わしくないために、ほかの犬とお取替えします」という具合にうやむやにしようという。その病院で予防接種を受けたのに、パルボウィルスに感染していた、とか、ペットショップで感染した、ということになれば、非常にややこしいからだ。
うちのダンナが医者だとわかったとたんに、濃厚な治療が始まった。

なんか、考えるのが嫌になるほど憂鬱になる。
せめて、マリちゃんが元気になってくれたら、救われる。

もう、泣くしかないのだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 09:32 AM | コメント (0) | トラックバック

きよしこの夜

わくらばにてのひらのうえいのちありすやすやねむるきよしこの夜
苦しみは生きる苦しみやすらかにねむる笑顔はきよしこの夜
御マリアの名をいただきしマリアかないだかれし胸やすらかにあり

投稿者 Blue Wind : 12:14 AM | コメント (0) | トラックバック

December 20, 2004

鬱つながり

どうもわたしの周辺には鬱々とした人間が多い。家族、友人、知り合い、つながり、その他諸々、鬱々とした人間が多い。これはもしかすると遺伝かもしれないとすら思ってしまう。そのうちデパスの味を知っているのは、姑さんくらいだから、彼女の薬好きは有名だし、何十年も自分と付き合ってきているから、自分との付き合い方を知っている。

そういう鬱地獄からどうやって自分を救うか?

あっさり語れば放っておく。

要するに、自分で自分を救わなければならないのが、鬱の宿命であり、鬱からの脱出方法が人によって違うために、「あ、はじまった・・」と思ったら逃げなければならない。

なんて、わたしは冷たい人間なんだろうと思うのだけれど、幻の鬱を移された時の、あの何ともいえない孤独と絶望と人間不信を考えると、もうわたしなどは弱いからすぐに逃げてしまう。

しがみつかれて、毎日毎日同じような話を聞かされる。楽しい話なんて、ない。
あの人がどうたらこうたらとか、この人がどうたらこうたらとか、酷いと何十年も昔の話を何度も何度も聞かされる。

そのうち耳が貝のように塞がれ、うるさいおしゃべりから逃げるようにサウンドが流れる。

ふん、もうあんたなんかの話を聴きたくないのよ、と言わんばかりにたちまち平和になる。

とことん落ちれば、浮遊が始まる。

浮遊が始まった瞬間、友達に言われたことがある。「とことん地獄を味合わせてやりたい」、と。

勘弁してくれよ・・・
勝手に孤独と絶望に揺られて、世界を支えているのはあたかも自分ひとりのような身勝手さにはもううんざり。

砂漠へ行け、砂漠へ。

な〜んて思っていると、ネットは怖い。本当に砂漠へ行ってしまう人間もいれば、しばらく姿が見えない?と思ったら、またリスカとかね・・

どんなことにも慣れってあるから、すでに何とも思わなくなってきてしまう。

「りんさん、神さまはみんなを愛しているんじゃないのか?」

うっさい。聖書読め、聖書を。
みんなを愛しているけど、みんなを救うなんてセリフはないのである。たぶん。

ただ、ノアの時代のようなことは、つまり人類全部を滅ぼしてしまうなんてことはもうしないよ、ということと、アダムの罪はジーザスが贖ったからとりあえずお前たちの悪さにはしばらく目をつぶっていてやろう、と書かれているだけだ。

おお、なんと神さまは憐れみ深いのだろう!

なーんてね、この意味がわかるようになれば、どうしてわたしが2万首を詠むまでは放っておいてほしいと言っているのか、少しは理解してくれるんじゃないかなーって思うんだけど、現実は厳しい。あの歌集読めとかよい歌を出せとか・・・

なんで、あたしがイライラするのか、を説明するのが難しい。

もう慣れているから、とりあえずわたしは実際的な人でもあるために、サイトのハイパーリンクを増やす。つまらんつながりなんだよなぁ・・・って言うとまたブーイングが飛んでくるかも。

でもさ・・・わたしは一度も歌会に行ったことがないし、無名の歌人だし、しかも新しいブログで名前変えているし、こちらはあちらを単なるテキストとしか思っていないのである。が、しかし・・・歌壇はおっそろしいほど狭い。なんであたしだってバレたのかな・・・

考えると鬱々するから、やめる。

わたしの知らない『みんな』のことより、わたしの愛する誰かのほうが遥かに大切。


◇まあ、これでも読んで・・・

著者: 日本聖書協会
タイトル: ビニール 小型聖書 口語訳
著者: 小平 正寿
タイトル: イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く

投稿者 Blue Wind : 02:44 PM | コメント (0) | トラックバック

December 19, 2004

もうそれは愛ではないと茜いろゆうまぐれ待つほそき浮き雲

ジェラシーが点滅してる信号機危険地帯を立ち止まる道
向こうにはおなじ歩道がつづいてるこちら歩くかあちらわたるか
フラッシュの飛び出すような心臓におどろいている他人のわたし
まっしろなうさぎのまなこあかあかと信号の色うつしてをりし
たちどまる。飛びさるうさぎ。葉隠れにすかしたゆうひ。あしたもあるさ。
すこしずつ死んでいくこと愛と謂うモーリヤックは貸し出したまま

オバデヤ書 13

一枚の紙あらわれて「オバデヤ書」いつもあること忘れてめくる
とおりすぎたひねもすのなかわたしには気がつかない不可視な世界
まんまるく浮んだつきはみかづきにかくれてかげはそらを広げる

どろどろのアンビバレンスもぐる糸もろはのようなきみのある日々
よろこべと憎しみが言うみがってに愛はみなもにうかべる笑みか
戦争さ、最大限の憎しみは。神の愛すら奪いあうから。
神の愛ふかぶかとしてひろびろとはるかな風にアンビバレンス
もうそれは愛ではないと茜いろゆうまぐれ待つほそき浮き雲

コリント信徒への手紙 一 16. 13-14


◇ご返歌
はらりはらり言の葉の海広がりし敷島の四方あゝ海なんだ

◇BBS詠
雨のいろ季節の画家はどんなふうに今日のわたしの空を見つめる
みかづきはふまんなかけらそらのいろすこしひろげて遊泳してる

投稿者 Blue Wind : 10:36 AM | コメント (0) | トラックバック

ホセア書 9. 14

  主よ、彼らに与えてください
      あなたが与えようとされるものを。
  彼らに与えてください。
      子を産めない胎と枯れた乳房を。

投稿者 Blue Wind : 09:11 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 100. 1-5

      賛歌。感謝のために。
  全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
  喜び祝い、主に仕え
  喜び歌って御前に進み出よ。
  知れ、主こそ神であると。
  主はわたしたちを造られた。
  わたしたちは主のもの、その民
  主に養われる羊の群れ。

  感謝の歌をうたって主の門に進み
  賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
  感謝をささげ、御名をたたえよ。
  主は恵み深く、慈しみはとこしえに
  主の真実は代々に及ぶ。

投稿者 Blue Wind : 09:09 AM | コメント (0) | トラックバック

ひとりヨガり?

素樹文生さんの日記を読んでいて、たまにはヨガでも行って、瞑想に耽るのも心地よいのかもしれないと思った。ヨガでなくても、聖書を読みながら歌を詠むというのも一種のヒーリング・・・

このところトラックバック短歌で遊んでいる・・はずが、どうも現実に話を戻されてしまう。

理想と現実。
という意味での現実。

最初、歌を詠み始めたばかりの頃、返歌と連歌の違いもわからない人たちばかり。わたしも知らない。

ただ何となく、その人の短歌を読んで返歌する。もしかすると、この人だったら、わたしのこのつまらない歌をわかってくれるかもしれないと思うからかもしれない。

そうやって、ただ何となく詠んでいるうちに、それが自然と返歌のラリーとなっていっただけ。

投歌と返歌は違うよ。

投歌というのは、皆でそれぞれの歌を持ち寄る。それで、選者がいて、この歌がよいとか冴えないとかいろいろ。

ある意味、どこまでも権威主義的な世界。
インターネットでも変わらない。

返歌というのは、相手がわかってくれればいい。
何となく素直な共感。

◇関連書籍
著者: 素樹 文生
タイトル: クミコハウス
著者: 素樹 文生
タイトル: 旅々オートバイ

投稿者 Blue Wind : 05:21 AM | コメント (0) | トラックバック

December 18, 2004

好きにさせてよ・・・

歌人よ・・・・
あなたたちはたまに何か勘違いしていると思うことがある。

今朝、某サイトへ行った。久しぶりに遊ぼうかなーと思っただけ。しりとり短歌をしていて、去年あたりはたまにお邪魔していた。そこなら、どうしても初出の歌でないとダメだと言われるわけではないし、インターネットだから匿名で遊んでいる人たちも多いし、本格的にやっている人たちもいるし、それでいて初めて短歌を詠んだという人たちもいる。

すると・・・

BBSに、「初めて一句詠んだ」という書き込みがあった。まだ中学生かもしれないし、高校生かもしれないではないか。わたしだって、最初のうちは、一首と言わず、一句と言っていた。俳句と短歌の違いも文字数の違いくらいにしか思っていないから、あまりややこしいことは考えない。

そういうのはわたしだけだろうかと思っていたら、匿名でネットで知り合った人の中にも、短歌を一句と言っている人いて、訂正しようかと思ったけど、意味が通じるからそのままにした記憶がある。

そこの管理人さんも同じ考えのようで安心した。

でも、匿名でそういうことを通りすがりに怒ったように書く人もいる。短歌は一首と数えるものだって。

そのどちらも歌人なんだと思う。

わたしなんて、自分が歌人という自覚が出来たのはそれこそつい最近のような気がする。つまりは、それまでは単にサイトのネタで詠んでいただけだし、現に一緒に遊んでいた人たちは、これはまずいとなったらさっさとサイトを閉鎖して、短歌のたの字も出さずに違うジャンルで遊んでいる。
短歌をやめて、詩だけにするとかね。

それは、その人たちの自由。

わたしも、いわば、そういう人たちの一人に過ぎない。

なのに・・・

あっちは有名な歌人たちなんだから、わたしのような無名の歌人が何を書いていても無視すればよいだけのことではないだろうか?

なんだか憂鬱になるようなことばかりで、結社誌にも投歌しなくなってしまったし、わたしは非常に失敗した思っている。結社誌のほうも上に言われて慌てて出しただけ。

そもそも、歌人の名前なんて知らないのです。短歌が好きで詠み始めたわけでもなく、何となくのらくら詠んでいるだけ。普通は皆そういう感じだと思う。何度も何度もたまたま入門書で有名歌人の歌を見つけて、そこの結社に入ってみようかなと思ったに過ぎない、のらくらと雑誌購読のつもりで結社誌も買っているに過ぎない、と書いてきたはず。

それの何が気に食わないのか理解できない。

今回、でも、何となくわかった。

理想の問題なんだと思う。

わたし・・・はっきり書くけど、まだ来年の2月が来て、やっと歌歴4年。
どんな歌が好きで、どんな歌が詠みたいかは、まだまだこれからの課題だと思っているし、そういう点で、今はフリーな立場にいると思っている。

それに、「弟子という言葉はもう死語だと思っていた」とあっさり語る歌人もいるし、一つの世界しか知らないとそれが当たり前だと勘違いするけれど、同じ歌人の世界でも結社によってカラーが違うことも学んだ。

作風についても、すごくスタンダードな歌が好きな人たちもいれば、もっと違うスタンスで作歌を続けている人たちもいるし、紅白歌合戦だから、演歌が好きな人もいれば、ロックが好きな人たちもいる・・ということで、単に個人の好みなんだと思っている。

いずれにせよ、趣味なんだからさ・・・・短歌は。お仕事しているわけではないのです、わたくしは。

あんな記事読んだら、それこそ逆に引いちゃうんじゃないかな・・・事情を知らない人たちが見たら・・・

そんなことより、マリちゃんが回復したことを喜びたい。

投稿者 Blue Wind : 11:43 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌の鑑賞】 夢

忘れねば空の夢ともいいおかん風のゆくえに萩は打ち伏す馬場あき子

夢という言葉は、夏の夜空に相性がよい気がする。
あっという間に過ぎてしまう夏の夜。

今は、冬・・・
冬空の向こうには希望が似合う。

萩は一本一本が強くて細くて、それでいて、倒れるときにはしなるように大胆に倒れる。
今は、芝庭になってしまったので、萩は消えてしまった。
少し寂しい。

枡野浩一のかんたん短歌blogにトラックバック。

加藤先生、何か勘違いしてる?
なんかわたしの知らないところで何かが・・・・


*************************

いきなり、枡野さんからコメントが入りまして、この歌の出典が『桜花伝承』であることを知りました。ありがとうございます。
わたしは、「『短歌用語辞典』(新版) 司代隆三編著 飯塚書店」が出典です・・・
あと、検索。

◇関連書籍
著者: 馬場 あき子
タイトル: 鬼の研究
著者: 馬場 あき子
タイトル: 男うた女うた―女性歌人篇
著者: 馬場 あき子
タイトル: みやびのこころ千年の恋歌
著者: 馬場 あき子, 永井 路子
タイトル: 静御前,源頼朝
著者: 馬場 あき子
タイトル: 暁すばる―馬場あき子歌集
著者: 司代 隆三
タイトル: 新版 短歌用語辞典

投稿者 Blue Wind : 10:45 AM | コメント (0) | トラックバック

ふゆの朝突然光る東雲につながれた部屋ながいながい陽

生(あ)るように光の朝はやってくる そのうらがわで光待つ人
うらがわに生(あ)る世界には死人の絶える間もなくうらはらな愛
やんわりとしずかな炎燃えゆけばキャンドル・ライト光の輪いづ
ふゆの朝突然光る東雲につながれた部屋ながいながい陽
ふゆの陽はまぶしいだけで寒空に低くゆがんだ木の葉ゆらるる
待ちぼうけいろどりの夜いろどりの灯火だけが煌々と道
やんわりと冷えたポケット手ざわりが布の向こうのわたしの肉体
てのひらにわたしの気配みゃくみゃくとほっぺの上に冬のおとづれ
透明のステンドグラスそとのいろひとつの空き地みっつにわける
わたしってなんだか歩くスピードが速い気がする ステンドグラス

詩編 100. 1-5

たまゆらの小鳥の声の囁きはわれをつついて、朝・朝・朝。と
そんなにもつつかなくても窓のそと透かすカーテンえがく朝庭
植木鉢ころがったまま12月 風にもマケズ雨にもマケズ
ローソンの青い光はひっそりとクルマの屋根を染めて 暗がり
脳天気気象情報曇りのち晴れではないかと疑っている

点滴を外してマリは暴れてる おらおらそこの檻から出せよ!
ジェイラーになったみたいなマリちゃんの罪は重いよ、心配税さ。
檻の中ふふふのほほほ悪い子はしばらくねんね。白血球減る。
大掃除するはずもないクリスマスあっというまにタイムリミット
爆弾を抱えたような大晦日過ぎてしまえば寝て過ごす朝
なんだかなーなんでしょうかとお正月 学生のない冬はうれしい

ドタドタと足音がする ヘタヘタと足音がする あゝ朝なんだ

おめでとう、今日もどうやら無事に朝迎えたみたい、うるさいテレビ。

ホセア書 9. 14

テレビ、うるさい。

これがあるからなぁ・・・早起きは時間制限。

投稿者 Blue Wind : 07:09 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 9. 9-10

  山々で、悲しみ嘆く声をあげ
  荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ。
  そこは焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり
  家畜の鳴く声も聞こえなくなる。
  空の鳥も家畜も、ことごとく逃れ去った。
  わたしはエルサレムを瓦礫の山
      山犬の住みかとし
  ユダの町々を荒廃させる。
  そこに住む者はいなくなる。

投稿者 Blue Wind : 04:19 AM | コメント (0) | トラックバック

ローマの信徒への手紙 16. 17-20

  兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

投稿者 Blue Wind : 04:14 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 22. 13-16

  雄牛が群がってわたしを囲み
  バシャンの猛牛がわたしに迫る。
  餌食を前にした獅子のようにうなり
  牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
  わたしは水となって注ぎ出され
  骨はことごとくはずれ
  心は胸の中で蝋のように溶ける。
  口は渇いて素焼きのかけらとなり
  下は上顎にはり付く。
  あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

投稿者 Blue Wind : 04:09 AM | コメント (0) | トラックバック

December 17, 2004

お題とテーマ

今、わたしはトラックバックを覚えたので、トラックバック短歌、つまり、投歌をして遊んでいる。本当は、トラバ短にしたかったのだけど、これでは検索に引っかからないので、諦めてトラバ短歌にした。自分で言ってみて、トラバタンのほうが言いやすい。

いや、いっそのこと誰もわからなくてもトラバタンにしてしまおうか・・・

まあ、そんなことはどうでもいい。

わたしは、いまだにお題ってよくわからない。でも、俳句のサイトへ行って、ピンと来た。「ああ、お題、かあ・・・」みたいなシケた気分。トラックバック・センターへ行き、もっと理解した。つまり、お題がないと盛り上がらないから、お題なんだなぁ・・・と。

こういうお題で作文を書けとか、寄席とか、いわゆるお題。「座布団何枚持ってけ」の世界。
題詠マラソンのお題も、単にそういうニュアンスだったのかと何となく理解する。あまり馴染みがないせいで、よくわからなかった。

近頃ならテーマという言葉のほうがお題の意味に近い気がする。

短歌の場合のお題というのは、文字通り、「夢」なら「夢」という漢字が含まれていればよかったりする。夢中、悪夢、その他諸々基本的にその歌の中に文字が含まれていればよい。

例えば、題詠マラソンのお題の中に、「海老」というお題があった。「地中海老人つどう教会は白い柱と真っ暗な闇」という具合に詠む。歌としてはつまらないかもしれない。でも、「海老」ではなく、「地中/人」という具合に2句にまたがっても連続してその文字が含まれていればルール違反にはならない。

ところが、「捨て台詞」を「捨てゼリフ」と詠み、ルール違反を指摘された。サイバー上で詠んでいるために、勝手に変換されてしまい、自分がルール違反をしているという自覚はまったくなかった。

サーフィンしているうちに、「新月と冬の寒さ」というお題を見つけた。これってね、以前のわたしだったら通過していたと思う。つまり、意識の中ではこちらのほうがまさしく「お題」だからだ。

今の時代は、「お題=テーマ」と受け止める人たちのほうが多いから、短歌みたいにその語句そのものにこだわるというのは、本当は変なのかもしれない。これにはれっきしとした理由があるのかもしれないけれど、わたしにはわからない。

「東」という漢字を、東京、東雲、etc.という具合に、あれこれイメージすれば結局は同じことをしているのかもしれないけど、歌人がお題を提示すれば、「新月と冬の寒さ」は、新、月、冬、寒など、あるいは、せいぜい新月くらいに分割されてしまいそうな気がする。

「新月と冬の寒さ」がお題なら、普通は、それっぽくそれをイメージすればよい。まさしくそれが普通のような気がする。

サーフィンしているうちに、おや、とか、あれ、って思うことが多い。BBSなら通過したかもしれないけど、トラックバックというのは相手のサイトに掲載するのが目的ではないから気楽。なんか、遊んでしまう・・・

投稿者 Blue Wind : 02:13 PM | コメント (0) | トラックバック

トラックバック短歌

お題 「夢」

まどろんで夢さえ忘れ暗闇に浮かんだフレーズ聴くともなしに
流星になって飛び出す夢を見て宇宙(そら)の藻屑になってみたいな
覚えたてせっせと使ってみたくって夢中になって時を忘れて
マリの夢悲しみ色の朝がくる 子犬の顔が少女に変わり


お題 「新月と冬の寒さ」

東空スーパーのうえ満月がおぼろに浮び信号を待つ
西の月ゴンドラになり森のうえ寄り添う星に混じる飛行機
見上げれば空刺す枝が並んでる ひらひら揺れる最後の葉落つ
紺碧に浮んだ月は白白と小さな町を散歩している
ハンドルの冷たさだけが知るみちは季節外れの紅い薔薇咲く
ぼんやりと暗い庭にはクリスマスツリーにされたヒバの樹ライト
こゆびから凍えてしまう冬の部屋ポインセチアがクリスマス待つ
華やぎも空の暗さも明るさもキャンドル一つ月のない晩

★風マニアから、トラックバックして遊んでいました。

投稿者 Blue Wind : 11:10 AM | コメント (0) | トラックバック

December 16, 2004

コミュニケーション中毒

ネットの博愛主義者には、困ったものである。かく言うわたしもかつてはそうやって思われていたかもしれない。自分では、Rin-Scriptと呼んでいた。自分が単なる機械であり、電子文字であり、妄想の世界の住人であり、あの人たちが呼ぶRinとは誰のことなんだろうと、いつもうすらぼんやり考えていた。


最初の頃は、チャット。
常連化しているために、実際にどこの誰かも知らないくせに友達という意識がある。部屋に入ると一斉に自分の名前が画面に現れる。何となくうれしかった。

次には、メール。
当時はダイヤルアップで、テレ放題というサービスを使っていただけだったので、料金が高い。でも、オンすると未読メールが溜まっている。スパムなんてほとんどない時代だったから、それだけでうれしかった。
長いメールを一日に平均10通くらい書く。
死んだ。

その次は、BBSの管理人をしたけれど、それまでメル友だった人たちに掲示板に書いてくれって言ったら嫌われた。正直、メル友やチャット仲間にBBSは必要ない。

そこで、サイトをつくろうと思ったけれど、タグを知らない。仕方がないので、1分でサイトがつくれますという広告を見つけたので、そのままGaiaXに飛び込む。

ネタがない。
普通はサイトをつくるんだったら、それなりの目的やテーマがある。ところが、わたしには何もなかった。

でも、ある日、ネットの友達に、「友達のサイトはBBSへ直行よ〜」と書かれて、それ以外のコンテンツはつけたしでもかまわない、というより、あの世界では単なるおまけのようなものだということを学んだ。

どんどん増えていくフレンド・リンク。
どんどん増殖していくBBSのカキコ。
気がついたら、レスが4日遅れというのが当たり前。だって、BBSに書き込みがあったら、古いものから順にレスを書いていく。家にいて、ヒマさえあればレスを書く。

一番困ったのは、飛び込みで書き込みをしてくれる人。順番で遡ってレスを書いているだけという事情を知らない。だから、なるべくそういう人たちには、先にレスを返すようにする。レスが個別に対応するタイプではないから、どうして自分にレスをくれないのかと悩むらしい。
参った。

ふぅ・・・

今では、わたしはとても寂しい人と思われているらしい。

勘弁してくれよ・・・
わたしには生活がある。やりたいこともあれば、やらなければならないことにも振り回されている。あなたたちが死のうが生きようが、わたしには何の関係もない。

好きとか嫌いってどうしても人間なら誰にでもある。大抵の人たちは自分の好きな人と付き合うものなのである。

誰が死のうが生きようが、わたしには子犬のマリアの病気のほうがよほど深刻。一時は目も開けられないほど衰弱していたのに、ようやく食欲が回復してきた。

昨日まで、ぐったりしていたけれど、今日は元気。
わたしもマリアも・・・

投稿者 Blue Wind : 04:28 PM | コメント (0) | トラックバック

雨風呂ミステリー

アメブロに新しいブログをつくって6日目。想像していた以上にミステリアスな世界。せつない。

★風マニア(ミラーだから・・・意味ないかも。しかもアクセス数にカウントされないみたい。)

その理由1: アクセス数の表示が人気blogランキングの週間OUTの増加数よりどうして少ないんだろう?

おかしい。どうやって考えてもおかしい。自分でアクセス解析がつけられないから、あくまでも推測だけど、放置サイトでもあるまいし、更新してこんなにリアクションのない世界はめずらしい。だって勘違いでなければ、昨日は50クリックは人気blogランキングから来訪しているはずなのに、アメブロのランキングのアクセス数を見たら21クリックしかない。

なんか、こう、ほんとは秘密にしておこうと思ったのに、せっせと自分のほかのサイトでもなりふりかまわずネタにした。ひとえにアクセスアップのためである。ってことは、そちらからもある程度はアクセスがあると思うよ。なのに、うちの娘でもできそうな単純計算の数字がヘン。


その理由2: アメブロでカウントされるアクセス数というのは、アメブロユーザーの来訪者数ということなんだろうか?

よく、アメブロのランキングはインチキ臭いという記事を目にする。
これね・・・もしかすると、アメブロ内のアクセス数でランキングが決まるとなると、理由がわかるのよね。いくらほかのサーバからアクセスしてくれる人が多くても、それがカウントされないのだもの・・・せっせとコメントを残したり、読者登録やお気に入り登録した人が圧倒的に強いに決まっている。

*単なる推測ですけど・・・


その理由3: 分母が増えてからランキングが移動する。

朝7時、娘にバームクーヘンを食べさせながら、パソコンの電源を入れ、自分のブログにアクセスする。すると、分母の数が増えているのに、ランキングは移動していない。そういうこともあるのかなぁ・・と思い、サーフィンしながら再び戻る。すると、7時半にはランキングが変わっていた。

*つまらないことなんだけどね・・・ランキングを見ながらがんばれと言われているようで、ついつい眺めてしまう。


その理由4: わたしは気がついてしまった・・・

「あれ・・・これ、あの人のブログじゃない?」って思うこと、ネットではよくありますよね・・・今度は女子大生してる・・・って思いながら、やはりサーフィンしてしまいました。

「こら、おやじ、懲りないなー」って思いながらも、無視することにしました。コメントもトラックバックも残さなければ平和。心の中で、応援しています。が、しかし、もし賞金を受け取るとなるとどうなるんだろう。お嬢さんの名前で口座をつくるとか?(他人事なので忘れよう)

*でも、気になる・・・でも、しょせんインスタント・ブログだからな・・・思い過ごしかもしれないし・・・どーでもいいや。

それにしても、今のブログのミラーのつもりでつくったんだけど、これを短歌のブログやほかのコミュニテイの記事にしても意味ないのよね。どーしよ・・・

毎日気分でサイトのデザインを変更するかもしれないし、変更が1クリックで終わるから、記事にカラーのタグを使うのをやめた。編集がめんどーになるから。

書いている途中でカテゴリーを変更したら、記事が消えたし・・・泣く。

投稿者 Blue Wind : 12:37 PM | コメント (0) | トラックバック

背中から疲れが走るふゆぞらは腕をのばして陽をつかむ牙

少しずつ曲がり角には冬景色鮮やかすぎる寒椿咲く
道端にクリスマスの樹たたずめばイルミネーション漏れる青空
犬二匹離れていても犬二匹マリの匂いを嗅ぎ分けるオト
吠えるオト部屋の中には走るオト愛奪われた子どものように
ぐったりと霜枯れた草うたかたの光のなかの塵に燃えゆく
背中から疲れが走るふゆぞらは腕をのばして陽をつかむ牙

詩編 22. 13-16

明け方に見る悪夢から放たれつ子犬の顔の悲しげな目目
朝なれば光おとずれ幻はさめざめとした氷点の愛
ちぎるパンひとくち食べて餌皿のドッグフードは誰を待ちたる
鬱蒼とダイナミクスを感じとる犬の嗅覚果てしない風
犬二匹離れていてもお互いに生きること知るせわしなき息

真夜中に小鳥の声のさえずりが聴こえる大河空から落ちぬ
気もそぞろ。憂鬱な風邪、明日の空。調理実習、なめこ買いゆく。
背に鉛心に錨目に怒り暗い悪夢は夜明けの光
セーターが残暑のような部屋のなか病の温度夏景色かな
失敬な。あははのはだとあいうえお。すぐに怒るは死に絶へる前。

ローマの信徒への手紙 16. 17-20

お題にぞ話題の流れ人いきれあるがままにぞ季節は揺らぐ
題詠はトランプの札出すように歌出す世界 正座がつらい
紅白と裏番組をかわるがわる眺めるような最後の世界
紅白を眺めてみろと言われてももうわからない歌手の名前も
好きな曲聴いて流れるひねもすは有線よりもゆっくりと過ぐ

紅白歌合戦か。

プレステで太鼓叩いて曲の名を知りてネットで検索をする
こうやって波の音さえ売られては庭の小鳥の原価を量り
歌カルタ坊主めくりに使われていつの間にやら歌札失くす
伝統は諳んじられて伝わりぬ書かれた文字は埃の匂い

エレミヤ書 9. 9-10

脳音のいやいやながら詠むうたに空調の音うなる冬の夜

◇投句
留守番はふとんの中の犬の耳
ヨン様に頬の筋肉鍛えられ
道端にクリスマスツリー寒椿
裏庭にひかりかそけきクリスマス

投稿者 Blue Wind : 02:04 AM | コメント (0) | トラックバック

December 15, 2004

雨風呂に浸かって5日目

アメブロに新しいブログをつくって5日目。想像していた以上に孤独な世界だと思った。悲しい。

★風マニア(ミラーだから・・・意味ないかも)

その理由1: 新着記事が5分で消える。

これって酷くないか?
せっかく時間をかけて記事を書いても、それがトップページに表示される時間が5分しかない。毎日200〜300くらいのブログが開設されるために新設ブログのコーナーにもあっという間にリンクが消えてしまう。こんなんでどうやってアクセス数を稼げというのだろう?

*それで人気blogランキングに登録した。もっとほかにも検索エンジンに登録しようかと思うんだけど、意味ないかも。


その理由2: 毎朝7時半に更新されるランキング

新設したばかりだし、更新すればそれなりに上がる。そこまではいいんだけど、何の反応もない。そこでランキングをチェックすると、ほかのランキングから飛んで来てくれた来訪者の数とアクセス数が一致している。ということは、もしかすると、アメブロの中から飛んで来てくれた人はいない?

*いや・・・コメントが入っていたから、そういうことでもなさそう。


その理由3: 上位ブログを参考にしろという・・・

作家ブログはともかく、上位はどこかで見たようなサイトが多い。ということは、賞金狙いなのだろうか。しかも、ジャンルを「本・書籍」にしてしまったので、ジャンルのランキングに表示されることも難しい。せめて、邪魔とは言わないけど、同じジャンルランキング内にオフィーシャルをつくるというのは迷惑だからやめてほしい。

*もっとも、今のところ上位には縁がなさそうだけど。


その理由4: わたしは短歌のブログをつくりたかったのである。

どこのブログへ飛んでも似たようなデザインのブログばかりだし、カスタマイズできない。もっとポエムっぽくしようと思っても無理。しかも、どこのジャンルに置いてよいのかわからない。

*最初ね、作家陣がほかのブログよりも充実している気がしたから変だと思った。でも、そういうサイトにコメントしたり、トラックバックできるということが面白そうだったし、作歌の参考になるのではないかと思った。


その理由5: 検索にブログ名しか引っかからない。

検索の仕組みそのものを理解していないことはおいておいたとしても、ほかのブログ・サービスよりも検索にかかりにくいらしい。新着記事も5分で消え、アクセス数が少なければランクも上がらず、アメブロ内から飛んできてくれる来訪者が少ない上に、検索にもかかりにくいとなったら、どうやってこの孤独なブログを運営しろと言うのだろう。

ひたすら書いて書いて書きまくって賞金を狙うとか?

そういう人がまともに来訪してくれたとして、こんなに苦労して書いている記事を読んでくれるだろうか・・・虚しい。

*まあ、せっかくつくったのだから、気長に・・・やるしかないかも。

投稿者 Blue Wind : 01:37 PM | コメント (0) | トラックバック

箴言 17. 22

  喜びを抱く心はからだを養うが
  霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。

投稿者 Blue Wind : 09:14 AM | コメント (0) | トラックバック

列王記下 25. 27-30 ヨヤキンの解放

  ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼は出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された。

投稿者 Blue Wind : 09:11 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 16. 15

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。

投稿者 Blue Wind : 09:01 AM | コメント (0) | トラックバック

『[プロの編集者による]文章上達<秘伝>スクール』 村松恒平著

ある日、本屋の店内をフラフラ歩いているとき、やけにシンプルな装丁の本を見つけて手に取ったのが始まり。買って書籍からURLを拾い、メルマガを購読する。

当時は、メルマガはタダだったので、書籍を買ったのは損だったかもしれないと思った。プロの作品がタダだったら、新聞購読すら断ってしまった自分としては、ネットでしか購読しない。
ちなみに新聞購読を断ったのは、ネットをしているからという理由だけではなく、古新聞を捨てに行くのが嫌だというのが本音である。それでもないと不便なのが古新聞。仕方がないから今は娘のため?に小学生新聞を配達してもらっている。

話を元に戻すと、最初はタダだったメルマガがある日突然有料になってしまった。普及版が必要ということでたまに配信されることはあるけど、内容が薄い。
そこで、毎月メルマガに300円を支払うか、単行本を1500円で購入するか迷っているうちにずるずる今に至る。

それにしても、村松さんのメルマガは基本が読者からの質問に村松さんが答えるという形式を取り、それをそのまま活字にしてしまうというところが出版関係の人なんだなーと感じた。
でもね、共同出版のカラクリとか自費出版の意義とか、実際、出版なんてものは紙の無駄使いが多いような気もするし、売れないほうが普通だよね。そういう意味で、書き手の夢を破壊する一方で、読者の質問の裏の裏の裏まで核心に迫って行くような回答は、読んでいて小気味良い。

◇関連書籍
著者: 村松 恒平
タイトル: プロ編集者による文章上達秘伝スクール
著者: 村松 恒平
タイトル: 文章王―プロ編集者による文章上達秘伝スクール〈2〉
著者: 村松 恒平, 安生 和之, 藤山 不死男, 武居 悦子, 佐藤 克之, フジヤマ計画
タイトル: WINDOWS傑作ゲームコレクション SUPER DISK for Windows
著者: 村松 恒平
タイトル: ほとんどすべての人のための神様学入門

投稿者 Blue Wind : 02:17 AM | コメント (0) | トラックバック

December 14, 2004

いのちって摘まれゆくなら花びらに包まれた皮膚。今は包帯。

朝起きて白き光の射し込めば透明色の時間始まる
ひとつひとつぽつりぽつり声がする。片岡義男眺めてる朝。
遠まわり記憶の声は朝のうた告げゆく小鳥名もなき君等
群青はいづこにあると空見ればまばゆさだけが悲しい朝陽
ふうわりと流れる雲はなんと言う名前なのかと浮き雲に問う
あの形この形へと移ろえば雨の降らない朝はまばゆき

いのちって目の光にぞあるものと書いてあるのにマリは憂鬱
虚ろげに立つことさえもできないと体は回るマリは時計に
檻のなか子犬は眠る包帯を飛び出してゆくかぼそいチューブ
指先を少し伸ばして鼻触る。マリのまぶたは象の目のよう。

腹たてて眠れぬ夜は朝となる。おもえば朝は光射す今。
いのちって買うものなんだ細い糸せいめいほしょうああ無情なり
いのちって摘まれゆくなら花びらに包まれた皮膚。今は包帯。
銀色の棒の光が悲しいよ。下から上へ視線は走る。

ルカによる福音書 16. 15

契約が一つ結ばれ生命が別のいのちとすりかわる犬
マリちゃんはうちの子なんです。喉の奥胸倉の中くりかえし言う。
いのちって誰のものかと尋ねればインターフェロン。ミルク少々。
うんざりだ。獣医も店も大嫌い。金金金と店並びゆく。

風の色透きとおる朝カーテンは青から白に上弦の月
うねうねと布の波打つ窓辺にはポインセチアが寄り添うように
お陽さまと無邪気に話す赤い葉と背いて緑尖った葉先

列王記下 25. 27-30 ヨヤキンの解放

ひとりなら赦せもするか朝の罪放射線状シャーデーの声
くぐもれば低音だけがリズミカル。デジタルのよう満面の笑み。
ひとつだけ嘘の混じったラストには要らない白髪抜いてる手つき
もうだれも泣く人のない朝陽には夜吐き捨てた泥もただよう

白粘土赤い粘土と人工の黄色い粘土、おゝお正月?
クリスマスくるりと終わるクリスマス。大いに慌て年賀状書く。
もうだれもいない朝だと学生街さっぱりとした日の出の季節
自転車も違法駐車もない朝は風は清める道路のうえを
暖冬の部屋の中ではセーターとTシャツだけが議論を重ね

真夏日が過ぎてしまった寒椿今は冬だとささやきあって
冬化粧あざやかすぎる寒椿わざとらしさが悲しい垣根
木枯らしの吹きぬけ顔の寒椿まぬけな空に刺さりゆく枝
空を刺すすべての枝は冬の指こぼれた水は枯れ草のうえ

雫すらまるまるとした冬の雨凍てつくことも知らない子ども

箴言 17. 22

枯れた骨つつんだ背中しょんぼりと生まれてすぐにしぼみゆく犬

投稿者 Blue Wind : 11:22 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 106. 10-15

  主は憎む者の手から彼らを救い
  敵の手から贖われた。
  彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ
  生き残る者はひとりもなかった。
  彼らは御言葉を信じ
  賛美の歌をうたった。

  彼らはたちまち御業を忘れ去り
  神の計らいを待たず
  荒れ野で欲望を燃やし
  砂漠で神を試みた。
  主はその願いをかなえられたが
  彼らをやせ衰えさせられた。

投稿者 Blue Wind : 09:37 AM | コメント (0) | トラックバック

ローマの信徒への手紙 15. 20-21

このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
  「彼のことを告げられていなかった人々が見、
  聞かなかった人々が悟るであろう」
と書いてあるとおりです。

投稿者 Blue Wind : 09:34 AM | コメント (0) | トラックバック

エステル記 2. 12-14

  十二か月の美容の期間が終わると、娘たちは順番にクセルクセス王のもとに召されることになった。娘たちには六か月間ミルラ香油で、次の六か月間ほかの香料や化粧品で容姿を美しくすることが定められていた。こうして、どの娘も王のもとに召されたが、後宮から王宮に行くにあたって娘が持って行きたいと望むものは何でも与えられた。娘は夜行き、朝帰って別の後宮に連れて行かれ、側室たちの監督、宦官シャアシュガズに託された。王に望まれ、名指しで呼び出されるのでなければ、だれも再び行くことはなかった。

投稿者 Blue Wind : 09:30 AM | コメント (0) | トラックバック

次の風を待つ

短歌って、なにが短歌なんだかわからなくなるから面白いんだと思う。

今、久しぶりに短歌のサイトをサーフィンして、近頃、ブログばかり眺めているせいか、サイトって見にくいなどと思いながらも、--つまり、いちいちクリックして、行ったり来たりするみたいで、一枚ページに慣れてしまうとクリックすら一方通行が気分がよいとすら感じながら--、検索を遡る。
検索上位定番サイトを越えて、次第にマイナーなページへ飛び、今はもうすっかり廃れてしまった「100の質問」の歌人版などを眺めながら、もうこれを書く気力はわたしには残っていないなどと感じる。

そして不意に、枡野浩一さんとか、加藤千恵さんとか、実は名前くらいしか知らないことに気づく。
歌人の名前なんて、正直、国語の教科書に載っている程度の知識しかない頃から詠んでいるために、自分がネット歌人を自称しているくせに、本当はそういうネット短歌自体にも興味がないことにも気づく。
あゝこの辺りから、イメージがつくられてしまっていったのだと気づく。

わたしには何の関係もない。
もう少し早く詠み始めていたら違っていたかもしれない。
その「100の質問」の中の、”リアルでは短歌とはなんの関係もない”というフレーズが印象的。
実際問題、わたしも歌会にも行ったことがないし、今はまだ行こうという気になれない。結社には入っているから、参加しようと思えば機会はあるのだけれど、何となく足が向かない。
それは、リアルとかバーチャルということではなく、単に日常が忙しいとか、歌会の意味と意義を理解していないとか、選歌の奴隷にはなりたくないとか、ある意味とてもわがままさが根底にある。もう7000首以上詠んでいるわけだから、それこそあれにこれにと歌はある。
ある人はそのままでいいと言い、ある人はそこから言葉の配列を考えたりしながら練り直す作業をしなければならないと言い、おそらくはそんなにたくさんいるかどうかは別として、100人の選者がいれば、100人の選者がそれぞれ違うことを言っていたとしても当たり前の話であり、のらくらといろいろな人たちの意見などを聞いてしまうと、ますますわからなくなっていってしまう。

詠み始めたばかりの素直さが懐かしい。
あの頃は、サイトに集まっているのが、それこそ気楽にネットで短歌を詠んでいる人たちばかりだったから、それは短歌ではないと言われればNHK歌壇に投稿して、「ほらほらほら〜、伊藤一彦さんが選歌してくれたよ〜♪」などと言って無邪気に遊んでいた。
伊藤さんだったからよかったのかも。これが、枡野さんだったらネット短歌と言われてしまったかもしれない。
偏見だよなぁ・・・・おそらくはすごい偏見なんだと思う。2,3回結社に投歌してみて、それは感じた。

昨日、書評のブログをサーフィンしているうちに、俵万智さんが与謝野晶子の歌をチョコレート語で翻訳しているという本が紹介されていた。調べないとタイトルはわからない・・・すでに忘れた。でも、あれは源氏物語の和歌を瀬戸内寂聴が口語訳しているよりも、意味不明だと思った。すでに、与謝野晶子の短歌が鑑賞付きで発売されているところをみると、もしかするとチョコレート語ではないと通じないのかもしれないという恐怖はある。

世代の差は歴然としてあるような気もする。
もしもわたしが高校生だったら、与謝野晶子調でなんて詠めんぜよ。それこそ授業中のひまつぶしにノートにちょこちょこ書くような歌が本気っぽくて面白い。でもさ・・・正直、わたしはジョン・レノンが射殺された年齢をすでに超えてしまったのである。ランボーが死んだ年をクリアして作歌を始め、あっという間に坂を下り、それでも今のところ無事に生きているみたいなので、今度の目標は森瑤子である。そこまで長生きすれば、また次のステップを考える勇気が出て来る可能性はある。

が、しかし・・・・匿名でいわゆるネット短歌っぽく遊んでいた人たちが、実は50代とか60代の人たちだったとしたら、どう思う?
気分だけは、10代、20代なのかもしれない。
わたしもそのうちそういう気持ちが理解できるような年頃になる。生きていれば。
ネットだから、できる業なんだと思う。
おじいさんが、枡野っぽく遊んでいる。
それはそれで悪いことではない。でも、きっとリアルではできないんだろうと、思う。いっそのことできる人ならネットなんかで遊んではいなかったりして。それは恋歌ではなくセクハラ短歌とまで言われている。ある意味、怖いものなしなんだろう。なんか、うらやましい。
老人ホーム、か。

選歌の奴隷・・・・・
昔はよかった。って、ついこの間なんだけど。
葉書出して当選したみたいなノリ。てきとーに詠んだ歌を宝くじ感覚で賞に出す。
今、もう、違うもん。
”本気”だからさ、ご意見番も。

などと何でもサイトのネタにしながら、時間は過ぎる。
これが短歌であるという定番もあれば、何が短歌なのかわからないという定番もできつつある。
で、次が・・・・・わからない。
風だからな・・・

投稿者 Blue Wind : 02:53 AM | コメント (0) | トラックバック

December 13, 2004

『エルサレムの詩(うた) イェフダ・アミハイ詩集』 村田靖子編訳

今度のブログは、ジャンルを「本・書評」にしたのだから、何かそれっぽいものを書かなければならない。大体において、書評とか歌評というのが苦手であるにもかかわらず、雰囲気と気分で決めるからこういうことになる・・・

アミハイの詩は、素晴らしいです。ユダヤ人とかユダヤ人問題と言われてもピンと来ないけれども、理屈ではなく、生きた言葉で今のエルサレムを感じることができる。つまりは、大抵のクリスチャンは新約聖書の中で生きているから、「アダムの罪を贖ったのがイエス・キリストである」などと言われてもよくわからない。われらの罪って何のことだろう、とかね。つまりは、どうして、ジーザスがエルサレムを見て泣いたのか、ファリサイ派もアブラハムの時代にはああではなかったとか、しみじみとアミハイの詩を通して、イエスの言葉の意味が少し理解できるようになる。

アミハイ自身は20世紀のイスラエルを代表する詩人であり、今のエルサレムを詠っているだけ。なのに、まるでタイム・スリップしたように過去と今とが交差する町、エルサレム。エルサレムの語源が本当は、イール・シャローム、平和の町だなんて。戦争ばかりしていて少しも平和でないような気がするのだけれど。

『ぼくの心のなかに平和がないから
外には戦争。
ぼくの内なる戦争を 心のなかにとどめておけなかった。』

(アミハイ「エルサレム----シオンの国の詩」より)

帯でこのフレーズを読んだとき、発作で買ってしまいました。
イエスがメシアであるとかないとか、興味のない人たちにはどうでもいいことのように思えることでも、ユダヤの人たちの神への愛やエルサレムへの郷愁を想うと、心の中に素直に響いてくる。彼らにとっては、カトリックとかプロテスタントとかギリシャ正教とか、まったく関係ないんだな・・と思うと、昨今、逆に癒されてしまう。


著者: イェフダ アミハイ, Yehuda Amichai, 村田 靖子
タイトル: エルサレムの詩―イェフダ・アミハイ詩集

投稿者 Blue Wind : 10:08 AM | コメント (0) | トラックバック

December 12, 2004

鬱蒼と雨空のなか群青は雲の向こうに広がるばかり

ぐったりとアニメ・ソングを聴く朝は日曜日だと早起きをする
ハングル語ニュースの声に混じりてはトピックを知る北朝鮮か
赤赤とドウダンツツジ壁に沿う冷たい風の吹くにまかせて
銀色の自転車ぽつり置かれてはドラマのようなドウダンツツジ
曇り空しらじらしくも日曜日鈍色の芝緑は雑草

ちっぽけな血管の中注ぎ込むブドウ糖食み座り込むマリ
胃の孔の食事の時間夕暮れもカーテン透かし速やかな闇
点滴が瀕死のマリア生かしてるインターフェロン子犬に投与
タタタタと走り回ってオトくんは餌を平らげ置いてきぼりか

気もそぞろ北か南か迷い道母かマリアか悩んでみては
ダニ避けのアロマの匂い漂えば抱っこしろよとオトが飛び乗り
静止する時間の中でシャーデーと洗濯の音聴こえるばかり
迷い道北風のなか飛び出せば無情の響きクルマは走る
日曜日鈍い空あり霜枯れた草は並んで消え去りつ、冬

エステル記 2. 12-14

晴れ晴れとしない空には冬色のドウダンツツジ鮮やかな赤
オトくんのタヌキ寝入りに騙されぬ耳は聳えて四方のアンテナ
グラスには季節はないと水滴はテーブルのうえ円く広がり
珈琲の大きな氷漂えば残量僅か透明な底
見えそうで見えない底を透かし見る氷の向こう円い異次元
五円玉どうして穴が開くままに糸も通さずレジをゆくのか

遺骨って家族愛だと北朝鮮ミステリアスに敷島暴く
もう今は芝さえ眠る冬の庭ぽつぽつと降る大粒の雨

ローマの信徒への手紙 15. 20-21

告げられて拒んでいる人追いかける闇雲な手の大空の下
赤子にぞ聞かせるような子守歌流れるような白い雲かな

結局、弱いんだろうな・・・

瀕死のマリちゃんのほうがよっぽど可哀想。
原因不明。
せめて原因が分かれば・・・・

鬱蒼と雨空のなか群青は雲の向こうに広がるばかり

詩編 106. 10-15

なんか、憂鬱だ。

投稿者 Blue Wind : 10:13 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 40. 1-4

  我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこに連れて行った。神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。主がわたしをそこに連れて行くと、その姿が青銅のように輝いている一人の人が門の傍らに立っており、手には麻縄と測り竿を持っていた。その人はわたしに向かって言った。「人の子よ、自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見ることを、すべてイスラエルの家に告げなさい。」

投稿者 Blue Wind : 08:42 AM | コメント (0) | トラックバック

ローマの信徒への手紙 16. 25-27 神への賛美

  神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵のある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

投稿者 Blue Wind : 08:37 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 5. 4-6

  わたしは思った。
  「これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。
  主の道、神の掟を知らない。
  身分の高い人々を訪れて語り合ってみよう。
  彼らなら
  主の道、神の掟を知っているはずだ」と。
  だが、彼らも同様に軛を折り
  綱を断ち切っていた。
  それゆえ、森の獅子が彼らを襲い
  荒地の狼が彼らを荒らし尽くす。
  豹が町々をねらい
  出て来る者を皆、餌食とする。
  彼らは背きを重ね
  その背信が甚だしいからだ。

投稿者 Blue Wind : 08:33 AM | コメント (0) | トラックバック

December 11, 2004

箱の使い方

インターネットの可能性は、無限大。
良い言葉。


自分という人間は、凝り性で飽きっぽい。実際には凝り性とまではいかないような気もする。要するに飽きっぽいから興味がなくなると自然と忘れてしまう。
機械の使い方も満足に知らないうちに、プロバイダーが1ヶ月無料という言葉に惹かれて、そのままネットにはまり込む。とりあえず、チャット→メール→BBSの管理人→インスタント・サイトの管理人・・・という順番にノラクラやっている。この世界は日進月歩みたいな世界なので、あっという間に流行が変わる。
いろいろやっているうちに、テキストを書くことを覚え、タグを覚え、最初の頃は、「りんはおばかなんです〜♪」というノリが楽しかった。もともと人間が軽いし・・・すぐに遊んでしまう。
そのうちジャンキーに追われて、これではまずいということで、毒舌サイトへ逃げる。これも一種のストレス発散。面と向かっては言えないようなことでも、単なるテキストだと思えば書ける。そのほうがアクセス数も多い。一体自分でも何をやっているんだか・・などと思いながら、歌人にならなかったら、そのまま続けていたかもしれない。
歌壇は、狭い・・・しかも、完璧な上下関係社会。匿名で遊んでいるうちは気楽だけど、どういうわけか、そういうわけにもいかなくなり、ブログへ逃げる。まだ今みたいにインスタント・ブログが少なかった頃で、自分で有料サーバを借りてアップ。少し待てば、もっと楽だったのに・・と思いながらも、自分でアップしたブログの場合、そのままFFFTPで自分のパソコンに落とせるので、よく考えてみたらこちらのほうが楽。

問題は、サイトの性質かもしれない。
BBSなど、コミュニケーションが主体のサイトの場合、レスがあるとかないとか、リンクがどうたらこうたらとか、いろいろややこしすぎる。知り合いにしかURLを知らせないとかね。果たして、そういうサイトをつくってもらったときに気がついたのだけど、自分にはそういうサイトは必要ない。だって、友達だったらメッセンジャーとかメールとか、BBSが必要な理由は何もない。
そこでまた、グチ。
歌壇は狭い。しかも、完璧な上下関係社会。短歌に特化したサイトをつくった場合、誰が読みに来ているかわからない。それでいて匿名でないとなったら、書きたいことも書けなくなる。これでは何のためにサイトをやっているのかわからない。
わたしは書くのが好きなのである。楽しい。面白い。ストレス発散。
だから、書きたいことが書けないくらいなら、何のためにネットをしているのかわからない。
だったら、短歌だけにしろとか?
これもやってみたんだけど、どうしても歌に毒が混じるために、結局は同じことのような気がした。

この前からいろいろ迷っていて、旧いサイトをどうしようとか、いまだに勘違い系のあらしがあるし、あんなサイトは閉鎖したほうがよいような気もする。だけど、4年近くあれで遊んで来たのだから、いざ閉鎖するというのも寂しいし、無責任。かといって、憂鬱だよ〜〜〜(笑)。

それで迷った挙句、新しいブログをつくった。サーバが提供しているブログを眺めると、何となくそこの雰囲気がわかるような気がする。作家のブログが多いところを借りる。プロの作家なら、トラックバックを送信しても逆に気を使う必要性がない。
こう、インターネットは無限大ということで、感性を拾いたいのよね・・・プロの作家でなくても、何となくインスパイアされるテキストを見つけて、そこから作歌のイメージを掴んで行く。
短歌のブログもたくさんあるけど、何となく逆に気を使う。
もっと自由に胸を借りて、そこからコミュニケーションが派生して行くというのが今の目標かもしれない。写真やイラストのサイトへ行って、そこから感性を拾ってもいい。

あれこれ親のこととか、マリちゃんのことなどを考えているより、その瞬間だけでもそれから解放されるから、作歌や駄文を書くエネルギーに繋がるのかも。単なる気分転換のネットなのかな。基本的には同じテキストだったらミラーをつくっても意味がないのかもしれない。でも、あっちに書いたり、こっちに書いたりするほうが気晴らしになるし、逃げやすい。
いくつサイトをつくっても似たような人たちばかり来訪しているというのでは、何となく寂しくないか?わたしの考えすぎなんだろうか。

とりあえず、不意にインスパイアされたので、やってみよう、と思う。そのうちまたネットはすぐに変わって行く世界だから、来年は違うことをしているかもしれない。ちなみに、ドッグイヤーは7年ではなく、4年みたいです、昨今、犬も長生きなので。

投稿者 Blue Wind : 12:37 PM | コメント (0) | トラックバック

マリの入院

マリちゃんが入院してしまい、急に何もかも嫌になって新しくブログをつくってしまった。

マリというのは、ミニチュア・ピンシャーの子犬。やっと2ヶ月になったばかり。約2週間ほど前に家に来て、その二日後くらいから急に下痢や血便が始まり容態が悪化した。
ペットショップに連絡すると、環境が変わったストレスなどで子犬にはよくあることだからと説明され、下痢が止まるまでしばらく預かりますと言われた。
(いや・・・ペットショップに預けられるような状態では・・・ない。)

とりあえず、生まれたときからかかりつけの動物病院があるというので、そちらへ連れて行く。お薬やブドウ糖をもらって通院する。ところがよくならない。普通だったら、下痢止めの薬を飲んで2,3日もすると食欲も回復し、元気になるらしい。が、しかし、1週間を過ぎても、10日を過ぎても、逆に食欲が落ちるばかりで、850グラムあった体重が700グラムにまで落ちる。
その間、下痢の始末、ドッグミルク、赤ちゃん用のサプリ、抱っこするなと言われたり抱っこしろと言われたり、とにかくミニピンは寒がりなので、セーターの中に入れて寝かせたり、ひたすらマリの世話に明け暮れる。
これだけやったせいか、血便と下痢は止まった。ところが、それでも体重は落ち、食欲は回復しない。心配なので、結局、点滴と抗生剤を射ちに通院。挙句、入院。どうも普通の下痢ではなく、小腸の炎症を起こしているらしく栄養が吸収されないらしい。もしかするとウィルス感染もあるかもしれないし、いずれにせよ、栄養を与えないとこのまま衰弱して死んでしまうとまで言われた。

指折り数えたら、わが家に来てまだ13日。
なのに、もうずっと前からいるような気がする。
肩の上が好きで、抱っこすると腕から肩へ上って寝てしまう。
顔の大きさも卵くらいで、マリは小さい。
小さい顔をわたしの首に凭せかけて寝る。

気分転換かな・・・
こう、鬱蒼と自分の世界に埋没したいという。いくつか旧いサイトを整理し、来年のお正月でネットを始めて5年になるし、ネットも長くなると膿がある。

マリが戻って来たらまた忙しくなるけど、何となくそうやって新しい日々を迎えたい。

投稿者 Blue Wind : 07:17 AM | コメント (0) | トラックバック

December 10, 2004

まあいいや、言っても無駄と諦める。オムツするのは親のほうなり。

絶え間なく曇り空かな白い日は眠りの小箱子犬の寝息
わが母の眠りつく日々過ぎゆかば伯母の杖さえ吾に届かず
歩けるか歩けないかもわからない月日のなかに陸は孤島に
師走には動物病院駆け足で駆け込みながらひねもすはゆく
自動車を北へ南へ走らせばカーラジオさえ聴きなれた曲
お正月待ってくれぬか洗濯をそういう年を迎えつつあり
少しずつ子犬のマリは快方に向かいながらも食むこと忘れ
飼育だと思ってしまえばスポイトを使う手つきも慣れた心地す
仕事だな。これは仕事だ、走る道。寒空の下、薄着に気づく。
馬鹿馬鹿し親の世話など好んではやりたくもない寒空の下
奇麗事言ってくれるな、なーんてね、言ってもみたいため息一つ。
世話するかさせてもらうかあほらしく親子の情より娘の義務さ
年寄りがうざく思える月日には頭ごなしの言い方のあり
まあいいや、言っても無駄と諦める。オムツするのは親のほうなり。

エレミヤ書 5. 4-6

フセインを倒してみてもミニ・フセイン乱立するを国家と呼びし
憲法を改正しても世の中は因習のうえ法律があり
形だけ整えてみて魂は消えもしないか天にも地にも
くるくると台風のよう因習のくるくるまわるミッション布教
脳内を白紙にしても暈けるだけあゝ年寄りだ子ども過ぎては
ふわふわと柔軟剤に漬け込んだセーターの脳吹くかたつむり

伯母さんはまだ若いよと敷島の平均寿命思い出しては
世代すら区別のつかぬ街景色髪の色すら彩るカラス
霜枯れる草の立ちたる花壇には伸びるのやめたあらくさ似合う

シャーデーと和歌の関係ありなしも気分転換霜枯れの部屋
くちびるの渇いた季節四季はなしエアコンの息部屋に流れり

ローマの信徒への手紙 16. 25-27 神への賛美

生まれては暈けて死ぬまで蝕まれ肉体のごと土くれとなる
脳発作何もするなと書置きを遺していても無為というもの
死にたいと言ってた母ももう五年いのちづよいと言われていては
この五年母にとっては五ヶ月かたまに感じる止まった時刻
もう一年あと一年とひねもすは昨日のような師走を迎え
きらきらときんきらきんにお月さま浮んだ空はありもせぬ夢

ユダヤ的退廃の満つひねもすも明るい陽射し雲去るを知る

エゼキエル書 40. 1-4

颯爽と吹く風の音聴こえぬも晴れる窓辺に動く雲見る

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ゼカリヤ書 6. 1-7 第八の幻

  わたしが再び目を留めて見ると、四両の戦車が二つの山の間から出て来た。その山は青銅の山であった。最初の戦車には赤毛の馬数頭、二番目の戦車には黒い馬数頭、三番目の戦車には白い馬数頭、四番目の戦車にはまだらの強い馬数頭がつけられていた。わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに、「主よ、これおは何ですか」と尋ねると、御使いはわたしに言った。「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである。その中の黒い馬は北の国に向かって出て行き、白い馬は西の方へ出て行き、まだらの馬は南の国に向かって出て行く。」強い馬も出て来て、今にも飛び出して地上を行き巡ろうとしていたところ、彼が、「さあ地上を行き巡れ」と命じたので、彼らは地上を行き巡った。彼はわたしに叫びながら言った。「よく見るがよい。北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた。」

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ヨハネによる福音書 6. 1-15 五千人に食べ物を与える

  その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群集が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群集が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られた預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

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エレミヤ書 19. 10-13

  「あなたは、共に行く人々の見ているところで、その壷を砕き、彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。わたしはこのようにこのところとその住民とに対して行う、と主は言われる。そしてこの都をトフェトのようにする。エルサレムの家々、ユダの王たちの家々は、トフェトのように汚れたものとなる。これらの家はすべて、屋上で人々が天の万象に香をたき、他の神々にぶどう酒の献げ物をささげた家だ。」

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December 09, 2004

奥が深いから終わらない

マリを動物病院へ連れて行かないと、と気は堰きながらも思いついたら書かないとすぐに忘れてしまう。

それにしても、歌会というのは、院生時代の研究会に相当するんだな・・と、うすらぼんやり考える。最初の頃は慣れないから、それこそ用語の定義から始まって、一斉に攻撃された記憶がある。そのうち何年も研究会に出席するうちに同じようなテーマのせいか、誰か何か言ってくれよ、みたいな雰囲気になってしまう。
これが、学内進学なら違うのよね。卒論の担当教官がそのまま指導教授になっていたりすると、遠慮があってあまり厳しい質問は飛んでこない。ところが、外様だと大変。
誰も何も言わないときには、義理で一番上?の先生が当たり障りのない質問をして終わる。でも、後になって考えると、厳しく質問された人ほど長くあの世界に埋没して行くようになるから不思議だ。単にやる気の問題なのかも。
まあ、どんなことでも長くやっていると、知識という点で専門性が出て来るから、逆に議論にはなりにくくなるのかもしれないし、それと新しいことに対する貪欲さがあって初めて進展がある世界だから、厳しさにつながるのかもしれないし、慣れると質問される内容も検討がつくためにあらかじめ準備しているから心構えが違うだけなのかもしれないし、単なる伝統や気質の問題に過ぎないのかも。

大体において、「短歌はセカンド・アートでいい」って言ったとたんに猛反撃をくらった。どうしても第二芸術論を連想するのが普通らしく、文字通りの「セカンド・アート」とはなかなか伝わらない。セカンド・アートとして楽しむ余裕かな・・・いわば、文化として普及された世界では、誰でも絵を描いたり、歌を詠んだり、専門性をもって生きていない人でもやり方くらいは知っている。
チャーチルが絵を描き出したきっかけも、最初は昔で言えば使用人というのかな・・・描きたいと言ったら、「先生、こうやって描くんですよ」と深い意味もなくささささ〜っと描き方を教えてくれたのがきっかけだったそう。それが画伯と呼ばれるまでになったのだから、チャーチルがすごいと言うべきか、最初にチャーチルに絵の描き方を教えた人のセンスがよかったのか、いずれにせよ誰でも描ける文化範囲の中から始まったわけで、そういう大衆層の中にいたほうが気楽という意味合いもある。
それと今さらわたしの世代の人間に、第二芸術論と言われて悔しくなったいにしえの人たちの心情なんて理解できるわけないではないか。もうわたしが生まれた頃には和歌は廃れてしまっていて、どこかマニアの世界のような気さえするわけで、それでいてちょっとやってみようかなと思いながら詠んでいるだけでも、季語などを入れて詠めばそれっぽい歌も詠める。
つまりは、詩は民族の歴史というか、古来のメンタリスティックな部分を詠むか、今まさに生きる時代の感性を詠むかだけの違い。そういうことに翻弄されながら詠んでいるわけでもなく、それでいて翻弄されてしまうのは発表という手続きと概念が存在しているからに過ぎない。

この前、石原裕次郎のドラマを観ていて、その中で石原慎太郎が大学のサークルか何かで小説を発表しているシーンがあった。かなりボロカス。それをそのまま賞と映画化へ結びつけてしまった慎太郎が強いのか、それともそういう世界なのかわたしにはよくわからない。
まあ、どんな世界でも議論が活発になるというか、批判があるほうがそれだけインパクトがあるということなのかもしれないし、今さらながら、どうしてそういうものが必要なのか、わたしにはわからない。ただ、それが励みになる人と励みにならない人がいる、ということくらいは理解できる。
自分の場合はどうなんだろう・・・精神的には鍛えられたかもしれない。それとうまく説明できないけど、自分と研究とを別の次元で考えられるようになった。こう、それに懸けていると、自分そのものを否定されたような悲観的な気分になってしまう。でも、慣れると、そういうことでいちいち悲観的に陥るほうがどうかしているとまで思ってしまう。つまりは、言われて悔しかったらそれ相応の勉強をしろということなのだろうか。厳しい・・
でも、そういう身を守るための知識と研究とが別だったように、歌も、知識と歌とは別のような気がする。知識で固めるより、データのほうが重要ということを叩き込まれたからかもしれない。結局、他人にどんなに批判されても、データだけは自分のものという・・・
その都度新しい研究が出てくればすぐにひっくり返ってしまうし、波があるのが当たり前。それに翻弄されるよりもデータを積む。実験するだけなら頭必要ないもんね。たぶん。

そういえば、題詠マラソンでも何やら広辞苑論争やってたな。造語のおもしろさのない世界なのかな。国語の先生をしているわけではないのだから、教養を財源にして歌を詠むより、気分で詠んでいるほうが気分がよい。
古来の和歌を伝えたいのか、国語の教科書に載りたいのか、それともそういう戦後の体質を保持したいのか、わたしにはそれすらもよくわからない。

いずれにせよ、下手な作歌は続く・・・たぶん。
2万首までは詠むって言ったら、タイム・トライアルみたいだからやめろとは言われたけど。自己ベストの向上となると、どこかオリンピックみたいで、ずっとやっているわけにはいかなくなるからかも。
知識を得て、気に入る歌が詠めるようになったらいきなりやめてしまうからかもしれない。でも、なかなかそういう具合にはいかないから続いているのかもしれないし、奥が深いから際限なく続いていくのかも。

一度詠み出したら、みょうにはまってしまう。

投稿者 Blue Wind : 10:56 AM | コメント (0) | トラックバック

December 08, 2004

窓越しに朝の光を浴びながら白いページに目の焼かれ入る

屋根越しに朝の光の射し込めば壁には星のかたちの反射
外壁の自由空間庭のうえ通過する朝光まばゆき
窓越しに朝の光を浴びながら白いページに目の焼かれ入る
広げれば書物光りぬ朝机手で影造り指先の跡
揃えても光の抜けるゆびさきをもてあましては透かし日を見る
セーターの腕を焦がすか陽だまりはぬるま湯の中シガーの煙
からからと氷の音を響かせてアイス珈琲季節外れか
陽だまりは壁に寄り添い机上ゆくやけに冷たい指の先かな

エレミヤ書 19. 10-13

北風に安全坊や立ちながら事故を見つめぬ信号無視か
雨の日も北風の日も立ちつくす安全坊や信号の下
ひさかたの森羅万象おとづれる聖霊の息バアルと呼ぶか
陽だまりに工事の音が流れれば昼間は留守の隣家のはずが
陽だまりはなぜにしづもる家のなか犬と子犬は朝寝の時間

待ち時間ホットかアイスかアメリカン迷いつ経てば残るぬくもり
ひとすじのヘッドライトがゆっくりと山からこちら。待てど進まず。
暗闇を照らすライトは闇の道ガードレールも延々続く
片ライトすれ違う道狭ければ田の中までと落つる心地す
ふらふらと走るクルマの増えたれば今が師走と赤い信号
割れた石いつの間にやら直りては何事もなく師走を向かえ

ヨハネによる福音書 6. 1-15 五千人に食べ物を与える

風の道希望の空は茜色浮ぶ横雲放射せし暮れ
ガラス色求めて空は輝きぬあまたの夢は泡立つ雲か
殻の中おりて今吹く風の中陽だまりだけが時間を告げる
泡立ちはいつ始まりて石鹸の水に消え去る残り香のよう

アングラはまっぴらなんだ通勤も箱に詰まれた缶詰みたい
墓の中歩くようだと都会にはビルが並ぶと言われてみれば
りすの絵のまんまるお目目描く吾子小さないやし小さな希望
パン袋鳴らしただけでオトくんのまんまるお目目吾を見つめる
甘え耳しっぽふりふり後ろ足電話のベルに一声吠える

ゼカリヤ書 6. 1-7 第八の幻

◇BBS詠
生りきれて落つる石榴の踏まれしを惜しんで今は葉も落つる冬
初詠みを思うと背には深深と霜枯れ草を浴びたたずみし
ここ過ぎて茫洋の空眺めれば横雲浮び茜と灰と

投稿者 Blue Wind : 10:27 AM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 16. 5-9

  わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。

投稿者 Blue Wind : 09:11 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 19. 10-11

  お前の母は水のほとりに植えられた
      園のぶどうの木のようだ。
  多くの水のゆえに
  豊かな実を結ぶ枝を張った。
  その木には
  支配者たちの杖となる強い枝があった。
  丈は雲間に届くほど高くなり
  丈高く、枝が多いゆえに際立って見えた。

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詩編 32. 6-7

  あなたの慈しみに生きる人は皆
  あなたを見いだしうる間にあなたの祈ります。
  大水が溢れ流れるときにも
  その人に及ぶことは決してありません。
  あなたはわたしの隠れが。
  苦難から守ってくださる方。
  救いの喜びをもって
      わたしを囲んでくださる方。

投稿者 Blue Wind : 09:04 AM | コメント (0) | トラックバック

December 07, 2004

フリー・ライフ

わたしは日本人なので、ランボーのようにアデンへ逃げる必要性もなければ、バタイユのようにマグダラのマリアの傍で眠る必要性もないことを神に感謝しなければならない。

宗教は嫌いだ。というより、宗教団体に帰属したり活動したりすることを嫌う。もともとが心理学の人間なので、心理学と哲学は相性が悪いし、自分はクリスチャンでもなければ仏教徒でもなく、ごく普通の日本人だと思っている。だから、戦争が起きれば、イスラム教とキリスト教を比較した本を読んだり、西行の和歌は素晴らしいなどと感動している。
大学がカトリックとか、大学院がプロテスタントといっても、大抵の学生も教師も信者ではない。学問は学問であり、それでいて宗教学が必修というところが多いような気がする。でも、さすがに院まで行ってしまうとまるで関係ない。

では、どうして聖書を読んでいるかといえば、これもまた一つの成り行きであり、こういう自分の不可解さを説明するには、シンクロニティとか、インスパイアとか、それこそ宗教という枠組みを越えた中の行動である。つまりは、神さまとだけお話すればよいのではないか・・という・・・
イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同じ神さまを信仰している。そういう中で長年の確執がある。だから戦争にもなるのだと思うし、そういう歴史に関係のない日本に生まれるとピンと来ないけど、それは一つ恵まれているとすら感じてしまう。
社会という枠組みや組織や人間という枠の中ではもはや信仰に自由など存在しないとすら思えてしまう、特に戦争などが発生すれば。
そういう中での逃げ場として、聖書があったり、空があったり、それこそ最後には天を仰ぐという感性は人間ならごく自然な出来事だと思う。アフガニスタンで天に祈りを捧げている女性の姿の写真を見たときには感動した。
自然の中で聖霊との対話。ユングのそういう発想も好きだし、それが東洋哲学からの影響と言われても、哲学かどうかは別として、自分の中にもそういう思想の流れがどうも根づいているような気さえする。

おそらくは和歌の歴史は古く、俳句は根底が禅だから、今でも季語を入れるというのはそういう四季折々の移ろいがとても日本人のメンタリスティックな部分に共鳴を引き起こすのだと思う。そういう民族の深層というか、共通無意識というか、詩は民族の歴史とまで語っている詩人がいるように、魂の根源まで行ってしまうと、結局はそういうことにたどり着くような気さえする。

詩や短歌は、自分にとっては解放区である。つまりは生きるに必要のない世界。ある意味、宗教や学問というのも理想はそうあってほしい。だけど、生活がどっぷりそれにはまるとそういうわけには行かなくなる。それこそ組織として宗教が存在すれば、政治から生活から人付き合いからあれにこれにと自由が制約される。社会とはそういうものだ。
フリーで生きていれば、少なくてもそういう制約はない。

これも成り行きだけど、聖書協会は気楽だと思った。カトリックとプロテスタントの共訳であり、中には匿名で献金している人もいるし、1万冊くらい世界中に聖書を頒布した中で、一人くらい救われたら献金するほうも救われる。この際の救われるというのは、深い意味はない。生きていきやすくなるということだろうか。

○○療法とか、いろんなセラピーが考案されるのを読むたびにかつて思ったのは、治れば何でもいいってことかも。もっとも自分は基礎系だったので実際にはあまり興味がなかったから無責任にそうやって思うのかもしれないけど。
いずれにせよ、その人が幸せならば、何でもありいのような気がする。結局、ライフ・スタイルや思想、その他諸々、あれにこれにと社会はややこしい。日本に生まれて日本社会に適応しつつ、その片隅で解放区を詩や歌に求めて歌を詠む。
そこまでおおげさなものでないにしろ、学問やアートは自分にとってはそういう世界なのかもしれない。一般社会というか、既成概念や常識で整列された社会の成員として生きる中での息抜きの場。

主婦の息抜き・・・

学生街の気楽さ。
サイエンス・シティ、か。
気まま。

投稿者 Blue Wind : 06:38 AM | コメント (0) | トラックバック

俳句

学校の宿題で、娘が俳句を詠んでいる。いきなり、「お母さん、季語わかる?」って訊くから、一体何のことかと思ってしまう。どこからどこまでが季語かわからないので、ネットで検索し、そのまま4句詠む。

セーターが回転木馬走る犬
ポインセチア枯れないうちにクリスマス
冬めく日暖炉あること思い出す
北風にたなびく尾花ねむりゆく

俳句って詠んだことがないから、これが初詠みだろうか・・・

毎日短歌を詠んでいるので、その辺のネタから拾う。短歌だと季語が必要ないので、季語という意識がないままに詠んでいることがわかった。いきなり季語から季語を絡めて詠めと言われても、つい句を捻ってしまいたくなる。そうなるとうまく浮ばない。それよりも何となく部屋の中を見回して季語になりそうなものを探したほうが詠みやすい。

俳句や川柳だと何となくいつもは物足りないから、自然と下の句を付けたくなってしまう。でも、最初から、575のリズムで詠うとその後が続かない。
今は、俳句でも季語を使わない句もあるらしいし、そうなると形や数ででしか短歌と区別がつかないのかも。それでいて、自分の中では短歌と俳句はまるで違う。どこが違うのかわからないけど、まるで違うような気がする。

言葉が少なくなればなるほど、理解するまでの時間が必要となる。

でも、良い歌や句は、一瞬にして入ってくる。
言葉が少ないからこそ、季語。共通項が含まれているから言葉が少なくても共鳴共感の世界が広がる。が、しかし、昨今、花の名前を言われてもわからない私としては材料が限られている。でも、ありふれた花だから逆によいような気もする。

オトやマリにしても、ミニピンと言ってもわからないだろうとダンナにまで言われてしまった。せめてミニチュア・ピンシャーとか? でも、そうやって書いても長すぎるし、ミニチュア・ダックスやチワワなら通じるかもしれないけど、ミニピンだと写真を見てもわからないかもしれない。すると、犬とか子犬って詠むほうが万人に通じやすい。それでいて、なるべく具体的な表現のほうがよい、という。

結局、そういうややこしいことを考えないで、自分の好きな歌を自分のサイトにアップしているというほうが気楽だ。すると自己満足と言われてしまう。が、しかし・・・自己満足のどこが悪いのか、そこがいまいちわかっていないのかも。

感性の問題を言葉で表現し、マニュアル化しようというほうが無理な気がするのだけど。

娘の国語のノートの最後のページに4句をさらさら〜っと書く。
「お母さん、どうしてそんなに早く詠めるの?」
「毎日短歌を詠んでいるから・・」
これでいいんだよなぁ・・・母親って。一流のシェフになるわけでもなく、皆揃って家庭料理。
それにしても娘の俳句は下手だ。あれでは俳句ではないような気がしたけど、学校の宿題なので諦める。まあ、親からして、「これは短歌ではない」などと言われながら詠んでいたわけで、娘のことは言えない。そのうちあっちが主流になるかもしれないし・・・なんでもいいんだな・・・時代は変わる。人間が変わらないなら、せめて時代くらい変わらんと。

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December 06, 2004

ぶるぶると身を震わせてドッグラン セーターの裾回転木馬

詩編 32. 6-7

エナジーを砂の漠たる白い塩海は飲めない水のかたまり
風の音うなりゆく朝迎えてはまさかの夏日ゆくかゆくかな
イデオロギー宗教さえも和歌さえもややこしくする戦争のよう
年賀状出すよと言われクリスマス寡黙の音の鳴り響く夜
軽やかにシンガポールの新年はセールの季節クリスマスから
植民地さむざむとして熱帯はスコールの道 今年の冬は
遠まわり近道をして聖書かな今ごろ気づくユダヤのつよさ
あみだくじ引いているのか宗教は比較文化とながき確執
砂ならば波にさらわれ漂うか白い砂浜みかづき描く
微笑みと花、ボサノバは暗い時代の開かれた空

ちっぽけなレトロな曲が流れれば今も昔も今は昔に
宗教も法律さえも家の中素通りしてく空気入れ替え
神というカラクリさえも人の箱バイアスしては大気圏かな

点滅をしながら空を飛行機が左から右飛ぶゆくばかり
夜空には星に紛れて飛行機が点滅しては自己主張する
地上への合図のような航路にはわが家の明かり街の一部か
月のない空にも飛ぶか航空機雲ひとつない冬の夏日に
飛行機と星の区別も難しい夏の空より冴え渡る冬

エゼキエル書 19. 10-11

がんばって詠むものなのか対自分 マリはとうとう袖から生まれた
ジーンズにゆるいうんちを撒かれては慌てる理由マリのもよおし
セーターの袖口抜けてマリちゃんは耳を逸らせてこの世にいづる
犬の世話いつ終わるのか二ヶ月は三歳くらい。あと一ヶ月。

パートより儲からないな印税は。ギャンブルのよう作歌の世界。
ひとりきりいやし求めて歌詠めばパチンコ玉のゆくえ追うよう
冊数が札数ならば見積もりが雪のようでも納得をする

マリちゃんをセーターの中放り込みパソコン画面現れる文字
床のうえマリを放ってキーを打ちくすぐったいと足下にマリ
一首詠みマリを捜して一首詠む 子犬の歌が流れる画面
深夜にはひとりの時間あるものだ。しかしマリアは夜行動物。

ぶるぶると身を震わせてドッグラン セーターの裾回転木馬

コリントの信徒への手紙 一 16. 5-9

投稿者 Blue Wind : 12:25 AM | コメント (0) | トラックバック

December 05, 2004

エゼキエル書 12. 8-16

  朝になって、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、反逆の家、イスラエルの家は、あなたに向かって、『何をしているのか』と尋ねなかったか。あなたは、彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる。この託宣は、エルサレムの首長と、そこにいるイスラエルの家すべてにかかわる。あなたは言わねばならない。『わたしは、あなたたちのためのしるしである。わたしがやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く。彼らの中の首長も、暗闇の中で荷物を肩に担ぎ、壁に運び出すための穴をうがって出て行く。彼は目でこの土地を見ないように顔を覆う。』わたしは、彼の上に網を広げ、彼はわたしの罠にかかる。その彼をわたしはカルデアの地、バビロンに連れて行くが、彼はその地を見ることはできず、そこで死ぬ。わたしは、彼を取り巻くすべての従者と軍隊とを、四方にまき散らし、剣を抜いてその後を追う。わたしが彼らを国々の中に散らし、諸国にまき散らすとき、彼らは、わたしが主なる神であることを知るようになる。しかし、わたしは彼らの中から少数の人々を残し、剣と飢えた疫病から守る。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」

投稿者 Blue Wind : 11:45 PM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 12. 22-34 思い悩むな

  それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

投稿者 Blue Wind : 11:36 PM | コメント (0) | トラックバック

厳しさと朝

この前、病み上がりのダンナがボウリングを始めたと思ったら、一緒に通っているうちに急に娘が上達してしまった。ボウリングなら娘の友達も一緒に連れて行けるくらいの軽いノリで始めて、たま〜に週末に出かける程度だったのに、もう150くらいのスコアを出すようになっている。正直、わたしはすでに娘にはかなわない。
最初のうちは、プロ・ボウラーの人も娘にマイ・ボールはまだ早いと言っていたのに、今回ボウリング場でスタンプを集めるとマイ・ボールをつくってくれるというキャンペーンがあって、勝手にスタンプを押してタダで娘のボールをつくってくれた。小学生なのに11ポンドを投げているし、握力を測ったらかなり強いので、いきなり12ポンドにしたらと言われたらしい。茨城県はジュニアのボウリングが強いので、チームに入って将来はプロ・ボウラーになるなど期待されている・・?

子どもっておもしろい。受験はどうした、お絵かきはどうした、と思っても、父親と二人で両立させればよいと言っている。この前までケーキ屋さんになりたいと言っていたのに、すぐに変わる。大学に通いながらプロ・ボウラーの資格を取ってもいいし、要するになんでもいいんだな、と。
今は大学生も就職難だし、何でも才能だから、やっておいて損はない。やりすぎて腱鞘炎になったり学校に行かなくなるというのでは困るけど。一番やりたいのが絵の勉強、二番目がボウリング、とかね・・・まだまだ出てきそう。一つのことしか出来ないというより、いくつもやりたいことがあるほうがいい。まだ小学生。

短歌は、娘の将来の夢みたいなもので、最初は復学待ちをしている間のひまつぶしネットで詠み始めただけだから、どうもこれに本気を出してという気持ちにはなかなかなれない。でも、気が付いたら、わたしは歌人らしい。
どこにそのラインがあるのかわからなかったけど、実際に僅かのことでも出版物に自分の歌が載るとなると、自分の儲けにはならないにもかかわらず、物が売れるとか売れないとか、そういうリスクを背負っている人たちがいる。そうなると厳しく言われる理由も何となく理解できるようになる。
あくまでも趣味なんだけど、自費出版ではないし、毎日のように夥しい数の出版物が売り出され、その競争を考えるといかに大変かが何となくわかる。出版社や編集者は遊びじゃないもんなぁ・・・
そのうち、自分の歌集を出して、とか?
そういう希望はあるけど、まだ実感が湧かない。娘が美大へ進学する頃になったら、彼女に表紙絵をなどと思ったりもするけど、これではまるで亡くなった都立大の加藤先生のようだ。お嬢さんが美大の受験に失敗して2浪している時、ご自分の出版物の表紙にお嬢さんの絵を使っていた。その際、「娘はこれがすごいことだというありがたみがまったくわかってないからね」と笑いながら言っていた。
家の中にいると、何となくすべてが家の中の出来事にすぎない。

でも、まあ、なんと言いますか、主婦は気楽。ネットでも、趣味で描いた絵だからとぽんぽん気楽に送ってもらう。仕事がどうたらこうたらとか、出版がどうたらこうたらとかまるで金のことを考えない。だから、最後には釘を刺されてしまう。友達はノーギャラ、ほかの人はダメ、って。
ネットって、基本的に無償配布の世界だから、うちのサイトでアップしていたら、ほかの人が使いたいと言い出しても無理はないような気がする。無償と有料の区別が難しい。
それに素晴らしい素材屋さんはたくさんあるし・・・そういうややこしさがあるから、無償の素材を使っているほうが気楽になる。

最初から売れないとわかっていて出版する人たちの意気込みって何なんだろう。ある人に言わせると、僅かでも自分の描いたものが売れるというのは楽しいらしい。実際にはたばこ銭くらいの儲けだろうと思うんだけど。
言われて岡本太郎の本を探しているうちに、ユングの言葉にたどり着く。何となく「これだ!」と思った。それでいて、臨床系にはまるで縁がなかったために、あのややこしい世界観をアートとして眺めるというのは悩ましい。
まあ、岡本太郎にはたどり着けなかったけど、とりあえず自分的には来年の作歌の目標が見つかった。人の縁って不思議。

などと先々のことを考えているうちに、今年ももうすぐ終わろうとしている。インターネット歌人としてやってきて、今年は結社のほうにリンクしてもらったり、題詠マラソンに出場したり、毎日平凡にネットを日課にしているだけなのに、どんどん世の中の流れに巻き込まれる。
来年はそれが単行本になるらしい。少し知り合いに配ったり、老人施設や病院で歌会をしているところに寄贈しようと思っている。ヘンな話、少しヒマになったら、そういうところへお手伝いに行ってもいい。短歌や俳句はリハビリに効果があるということで、かなりメンタリスティックにはきついかもしれないけど、仕事ではないし、ボランティア。自分もいろいろ勉強になるだろうし・・・

最後には自分もパタンと母のように倒れてしまうかもしれない。その時までの時間つぶしかも。それを考えると、自分には時間がない。やりたいことが多すぎる。

吹きすさぶ風の音さえ子守歌ねんねんころりフレンチ・ジャズさ
まどろみに外の音さえ切れ切れに厚き外壁風を防ぎぬ
雨よりも風よりも今聴いているフレンチ・ジャズはいつもの音色
窓うなる悲鳴のような朝の風陽の訪れぬ今日の始まり
もう少し最後の台詞考えて仕舞いに歌のいづる朝かな
蒼い闇今が夜だと言われても気づかないほど朝は遠のき
闇の中閉ざされる朝風の音厳しき冬の訪れだよ、と。

投稿者 Blue Wind : 06:32 AM | コメント (0) | トラックバック

チョコレート一つつまんで犬の世話ポインセチアの水遣り忘れ

てのひらに犬のミルクを流しこみ白き河川の旱魃眺む
沼になり川になりすぐ舐められて子犬のミルクてのひらのうえ
犬用の哺乳瓶など手に取ればおもちゃのようにかすれゆく文字
セーターの中に隠れてマリちゃんは袖を枕にすやすや寝息
ゆで卵袖に隠しているような小さな頭小さな寝息
吾子の指マリの腕だと比べても走る姿はミニチュア・ピンシャ
オトくんが近頃やけに重いなと感ずる午後は陽だまりの夢
外は雨子犬と過ごす土曜日はあっという間にタイム・オーバー
目覚めてはお腹空いたとマリちゃんが寝かしてくれぬ赤ちゃん係

ルカによる福音書 12. 22-34 思い悩むな

おかしいな・・・なんでこんなに犬の世話が大変になるんだろう・・・

野良犬のいかに生まれて死にゆくか学んでみたい子犬の係
16杯てのひらのうえ飲ませろと言うのかミルクひねもすはゆく
空皿はオトのひと舐め犬ミルク犬の月日の宇宙ロケット
チョコレート一つつまんで犬の世話ポインセチアの水遣り忘れ

セーターの中のぬくもり感じてはやすらかな顔子犬の抱っこ

餌よりも抱っこなのかもしれないな・・・

母犬の今頃何をしているか真夜中の吾眠さこらえる
朝までは静かにつづく夜なのにあわただしくも昼を待ちたり

エゼキエル書 12. 8-16

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December 04, 2004

幸と不幸のバランス

母の病室を行き来しながら、目に見える苦労というのは他人に説明する必要がないだけ幸せという気がしてしまう。病院の売店で買って大きな紙オムツのパックを抱えて歩いていたり、洗濯物の入った大きな紙袋をぶら下げて歩いていると、何となく同情の視線を感じたりする。
世の中には不幸つながりというのもあって、慢性病床に移って以来ほかの患者さんの家族というものに出くわしたことがないという不可思議さに比べて、急性期の病床ではいつも付き添いの人や見舞いの人たちがいるために、話し相手には不自由しない。ぽつりぽつりいろいろな人たちと会話をするうちに、どうして病院の待合室が老人ばかりになってしまうのか、次第に理解できるようになる。
動物病院へ行っても、次から次へと犬や猫が入ってくる。怪我や病気、妊娠、予防接種、来院する理由はそれぞれに違うけど、30分くらい待たされている間、話し相手には不自由しない。特にマリちゃんはまだ赤ちゃんなので、なおさらなのかも。
若い頃、スキーで骨折して、治って街中を片足をおおげさに引き摺りながら歩いていたときには、病人くさい自分が酷くみじめに思えたこともある。まだ包帯などを巻いているほうが救われる。同情の視線というより、好奇心で眺められているような気がしたからかもしれない。通院しているだけならまだしも、皆が元気な中に理由もなくみじめな自分が存在しているような気がしてつらかった記憶がある。
人とのつながりということを考えるとき、何となくこの二つの異次元が浮んで消える。不幸なら不幸な人たちの輪があるし、幸せなら幸せな人たちの輪がある。不幸であるにもかかわらず幸せの輪の中へ行こうとするときほどつらいものはない。それでいて、幸せな人は不幸の輪には入りにくい。どこで幸と不幸をわけるのかわからない。だから、目に見える不幸というのはわかりやすい分、気楽かもしれない。
その逆もある。世の中には目に見える幸せというのも存在しているらしい。
というわけで、常にバランスが大切なような気がする。他人に見える形で、幸と不幸のバランスがあるというほうが当たり前のような気がする。

母の世話をしながら、娘にややこしいことを説明する必要性がないことがありがたい。一人娘だし、いつかは娘の世話にならなくてはならない日が来る。これは同居するとかしないとかそういうことではなく、誰でも年を取れば、いつかはわたしの母のように自分では何もできなくなる日が来る可能性が高い。つまりは、親はいつまでも元気でいるわけではない、それどころか逆に誰かの世話にならなければならない時が来る。親離れを促すわけではないけれども、そういう当たり前のことが当たり前なものとして育っていってくれるってありがたい。しっかりしろとか、親に甘えるなとか、そういうつまらない意味での躾をする必要性がない。逆にこちらも子どものほうがそのようにあらゆることを自然体で受け止めてくれると子どもにしがみつく必要性がない。
核家族は気楽だけど、親子だけでは補いきれないものがあるような気もする。

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エゼキエル書 26. 1-6

  第十一年、その月の第一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、ティルスがエルサレムを嘲る。『ああ、諸国民の門であったお前は打ち破られ、わたしのものになった。わたしは富み、お前は廃れる。』それゆえ、主なる神はこう言われる。
  ティルスよ、わたしがお前に立ち向かう。
  わたしは海が波を巻き起こすように
  多くの国々をお前に立ち向かわせる。
  彼らはティルスの城壁を倒し、塔を破壊する。
  わたしはその土くれまでぬぐい去り
  ティルスを裸の岩にする。
  ティルスは海の中にある網干し場となる。
  これはわたし自身が語ったことだと
  主なる神は言われる。
  ティルスは諸国民に略奪され
  陸にある周囲の町々も剣で滅ぼされる。
  そのとき彼らは
      わたしが主であることを知るようになる。

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詩編 102. 24-25

    わたしの力が道半ばで衰え
    生涯を短くされようとしたとき
    わたしは言った。
    「わたしの神よ、生涯の半ばで
    わたしを取り去らないでください。
    あなたの歳月は代々に続くのです。

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ホセア書 7. 13-16

  なんと災いなことか。
  彼らはわたしから離れ去った。
  わたしに背いたから、彼らは滅びる。
  どんなに彼らを救おうとしても
  彼らはわたしに偽って語る。
  彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。
  寝床の上で泣き叫び
  穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが
  わたしには背を向けている。
  わたしは、彼らを教えてその腕を強くしたが
  彼らはわたしに対して悪事をたくらんだ。
  彼らは戻ってきたが
  ねじれた弓のようにむなしいものに向かった。
  高官たちは自分で吐いた呪いのために
      剣にかかって倒れ
  エジプトの地で、物笑いの種になる。

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December 03, 2004

子が一人犬が二匹のひねもすは騒々しくも冬空の下

ブドウ糖てのひらのうえ舐める犬パソコンのうえ飛び乗り歩く
システムの復元してはパソコンは儚い箱と子犬のワルツ
犬二匹”中学生と赤ん坊”ふりまわされてひねもす終わる
マリちゃんを預かりますと電話あり一ヶ月では無謀な企画
犬の年考えてみて二ヶ月の短きなかにランドセルあり
あと少しあと少しだと考えて子の育つ日々いつまでつづく

ホセア書 7. 13-16

まどろみにクレモンティーヌ流れれば二言三言青いため息
権威主義尺度にかえて測っても意味なき月日いつの世もあり
白い空暮れゆく時間流れればひかり眩き道を走りぬ
道断のしるしをながめ一つ前左に折れる迷子みちかな
10年を似たような道走りゆきいまだ見知らぬ道あらわれる
慣れたみち苛立つ想いかかえてはラジオを消してマリの鳴き声
外出をさせてもよいか迷いつつ動物病院直走り行く
着替え持ち母の病室おなじみちのんびりと待つ信号の色
せかせかと老いと若きと赤ん坊時の流れはイネガリテかな

闇のなか紫色に光りたる気象観測しているオブジェ
ふゆひかる紫色の雲間よりみちゆくオブジェ宇宙を眺め

詩編 102. 24-25

神の世の永遠の時刻むなら今ひとときの吾のひととき
砂粒に生まれ流され砂浜に置かれた砂は弧を描きゆく
ちっぽけなタームのなかに生きるならしゃぼんのようなひねもすとわれ

ふうわりと浮んだ雲の数なんて数えてむなし言の葉のよう
舞い散れと言わんばかりに白い空浮んで闇はしづしづと来る
言の葉をカウントしてはCGI回っているけどマリのあしあと
入力もおかしくなったパソコンはヘルプでさえも検索できず

ぼんやりと一人の時間コーヒーをアイスにしたりホットにしたり
子が一人犬が二匹のひねもすは騒々しくも冬空の下
子育てが終わって祖母は本ばかり読んでいたなとちいさな自由
もう一度おとなになったわたくしは祖母のとなりで本を読みたし
りんさんは何がしたいと問われてもちっぽけな夢儚くも夢

エゼキエル書 26. 1-6

またティルスか。
やっぱ、マリちゃんを二階でひとりぼっちにしておいたのが間違いなのよね。ほかの犬と接触させないでください、か。オトを閉じ込めるわけにもいかないし、わたしは日中ひとりしかいない。マニュアル通りには行かないって・・・悩む。

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ヨブ記 6. 24-30

  間違っているのなら分からせてくれ
  教えてくれれば口を閉ざそう。
  率直な話のどこが困難なのか。
  あなたたちの議論は何のための議論なのか。
  言葉数が議論になると思うのか。
  絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか。
  あなたたちは孤児をすらくじで取り引きし
  友をさえ売り物にするのか。
  だが今は、どうかわたしに顔を向けてくれ。
  その顔に、偽りは言わない。
  考え直してくれ
      不正があってはならない。
  考え直してくれ
      わたしの正しさが懸かっているのだ。
  わたしの舌に不正があろうか
  わたしの口は滅ぼすものを
      わきまえていないだろうか。

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エレミヤ書 50. 4-5

  その日、その時には、と主は言われる。
  イスラエルの人々が来る
  ユダの人々も共に。
  彼らは泣きながら来て
  彼らの神、主を尋ね求める。
  彼らはシオンへの道を尋ね
  顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。
  彼らは主に結びつき
  永遠の契約が忘れられることはない。

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ヨハネによる福音書 18. 38-40

ピラトは言った。「真理とは何か。」
  ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例となっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

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December 02, 2004

テンション過多になりそう

いろいろな意味で、秋篠宮さまの記者会見でのお言葉にはすべてがあるような気がしてしまっている。「公務は与えられたものであり、自分のやりたいこととは別。」公務でなくても、仕事というのはそういうものなのかもしれないし、本当はナマズの研究をしているほうが楽しいのかもしれないけど、皇族をしている以上公務は当たり前。人生はなかなか自分の思うようにはならないというのは当たり前なのかもしれない。
雅子さまの場合、比較する規模は違うかもしれないけど、結婚したらなかなか自分のやりたいことができない、仕事を続けられない、姑や嫁ぎ先の家族がいて外出も自由にできない、子どもに恵まれない、などなど同質の悩みは世の中には蔓延しているし、そういう自分の本音を出しにくいということも誰しも感じたりする出来事の一つだと思えば、あまりにもわかりやすくてため息一つ。

題詠マラソンの選歌をしながら、何度も繰り返される「自選」という言葉。まあ、中には荻原さんや五十嵐さんが主催しているからという理由で投歌する人もいるのかもしれないし、本当はその辺が大きいのかもしれないけど、いわば飛び込みで出場した人間にとってはそういうことすら遠い世界の出来事にすぎない。28000首。来年はもっと増えると予想している。となると、これだけの短歌を選歌するとなると一体誰が報酬なしに引き受けてくれるというのだろう。それでいて、出版しても赤字を出さないだけで精一杯となると、虚しさを感じる人がいたとしても不思議はない。
学術書なんて高い値段を出して買っても、この手のものは売りにくいと言われて、古本屋へ持って行っても一冊100円くらいに叩かれてしまう。まだマンガのほうがましな気がしてしまう。絵本や児童書はニーズがあるから、結構高値で売られている。
この前近所の本屋さんへ行ったら、古い歌集は返本されてしまったようだ。句集はまだあった。短歌は入門書や鑑賞付き、あるいは若い人たちが読むようなものに真っ二つに分離していた。それでもその手の類の本が置いてあるだけ、大きな書店なのだと思ったりもする。

何が言いたいのかというと、「公務と自分のやりたいこととは別」ということかも。わたしは本当の意味で和歌が好きだとは思っていない。でも、好きな人たちはマニアの世界だから、これに人生を捧げている人たちも存在している。だけど、そういう人たちだけで秀歌選を出そうということになれば、来年から参加者は減るだろう。そうするとキャッチフレーズである「初心者から上級者まで」ということは嘘になる。あくまでもイベントなのだから、これだけの歌が集まるわけであり、秀歌選を出したところで、マニアの世界にだけ流通して行くのではないだろうか。
なまじか和歌には縁がないから、「今、こんなことやって遊んでいるよ〜」みたいなノリで友達も興味を持ってくれたりする。そうすると、今までそういうものに興味がなかった人でも、「どれどれ・・」という具合にちょっとやってみようと思うらしい。そうやって広がるからまじめにやっている人たちに値打ちが出てくるのだろうし、購買層が広がる。「サラリーマン川柳」のヒットで、今度は歌人が川柳に挑戦というのではどこか本末転倒のような気がしてしまうけど、もしかすると世の中はそういうものなのかもしれない。
短歌が巷に広がると、カラオケ歌壇だと批判するような体質は改めたほうが歌壇のためだと思う。逆に、インターネットから結社へ行って、もっと厳しい世界を経験してほしいとか、いろいろな意見があるのかも、とちらっと思ったりもする。が、しかし・・・昨今、このように短歌を詠じているだけでも一種の社会貢献だとまで言われてしまう。

もっとまじめに考えると、うちに来たばかりの子犬のマリちゃんが病気になり、慌てて病院へ連れて行く。人間の赤ちゃんと変わらない。いきなり環境が激変したのが原因で、ストレス性の潰瘍が出来てしまったらしい。
娘も風邪で学校を休んでいる。母の容態もいつ変化するかわからない。マリちゃんが来たせいで、オトくんまでストレスがたまって、めずらしく朝も起きて来ない。
そうなると、主婦は忙しい。放っておくわけにはいかないではないか。(放って寝かせるのが一番なんだけどね・・)
大きく考えれば、キャリアとか自分のやりたいこととか、いろいろあったとしても、日常はこうやって雑事に追われて過ぎていく。仕事だったら、甘えていると言われるのだろう。が、しかし、そうやって秤にかけて考えたとしても、自分には短歌よりも家族のケアのほうが大事であり、自分の仕事でもある。家族や犬を犠牲にして自分のやりたいことをやるというのは人生における本末転倒である。
甘えているのではなく、これは長い長い自己格闘の上で成立した心構えである。一生懸命にやってきたことがある日突然ぽしゃってしまったり、直接被害というわけではないけど、間接被害という点でも結構人生の歯車が狂わされてしまった阪神の震災など、諦めるしかないような出来事に遭遇すれば誰でもそうなるような気がするけど、どうなんだろう。
そのように考えると、明日がどうなるのかわからないなら、歌でも詠み、家族と共に過ごす、という心境はごく普通のものであり、そういうことを理解してくれる友達に、愛を込めて、近況報告的に単行本などを贈ったりしても罰は当たらないと思う。

主催者の苦労かぁ・・・
売れて謝礼が出たら解決するのかな。そういう問題とも違うのかな。なんか、よくわからない世界。

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December 01, 2004

失望に慣れてしまえばランボーの砂文字さえもアデンに眠る

皇室を縮図にながむここちする与われたことやりたいことと
空いっぱい気楽に飛べてよかろうと小鳥は庭で小鳥の会話
戦利品眺めてみれば子が一人犬が二匹と寝たきりの親
のんびりと子育てをする紀子さまにもう一人とは世論は勝手
少子化を考えてみて世の中は身勝手すぎて対立してる
恋をして結婚をして子が生まれ母と変わりし人生の色

歌詠みは楽しいものか訊かれても鬱捨て場だとあっさり答え
片隅にエゴの生る木の植えられて実が落ちるまで風は吹きすぎ
東雲を従えゆくか満月はゆく道にあり戻り道なし
曲がり角いくつ曲がって満月は姿あらわし姿消しさる

ヨハネによる福音書 18. 38-40

鬱々と退廃のなか沈みゆく冬の落ち日のまぶしき視線
太陽のひかりの中にたたずめば面積さえもまぶしさの中
ちっぽけなマリちゃんの爪腕のうえ痛くもないし痒くもないし
火曜日も第五なんだと霜月は終わりを迎え宙に浮いた日
雑誌すら二冊置かれて無駄になるあわただしき午後すみわたる空

せめてもと歌詠むときはひとりきり眠りつく夜蹴飛ばされては
歌詠みは楽しいものか訊かれてもわが世界いづすべての時間

エレミヤ書 50. 4-5

おなじ神信仰してはわかれゆく枝葉のような大樹をながめ
さらさらと生まれゆきては流れゆく小川もいつか大海となり
拘泥は道に踏まれたざくろの実ぱっかり割れて潰れて消える
あの森が筑波大だとわかっても夕暮るる空森のうえかな
かがやきも燃える夕陽も暗闇もみあげるままにたたずんでいる

少しずつ地球の姿かわりゆくくりかえす波蔽われる浜
遺伝子はつたわりゆくもきえうせし継承者とは浜辺の岩か
二千年経ってみたけど人の夜は水面の月のうつろうがごと
失望に慣れてしまえばランボーの砂文字さえもアデンに眠る

ヨブ記 6. 24-30

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詩編 68. 12-14

  主は約束をお与えになり
  大勢の女たちが良い知らせを告げる。
  「王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る」と。
  家にいる美しい女も戦利品を分けている。
  あなたたちは二つの鞍袋の間に横たわるのか。
  鳩の翼は銀に、羽は黄金に被われている。

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