どうもわたしの周辺には鬱々とした人間が多い。家族、友人、知り合い、つながり、その他諸々、鬱々とした人間が多い。これはもしかすると遺伝かもしれないとすら思ってしまう。そのうちデパスの味を知っているのは、姑さんくらいだから、彼女の薬好きは有名だし、何十年も自分と付き合ってきているから、自分との付き合い方を知っている。
そういう鬱地獄からどうやって自分を救うか?
あっさり語れば放っておく。
要するに、自分で自分を救わなければならないのが、鬱の宿命であり、鬱からの脱出方法が人によって違うために、「あ、はじまった・・」と思ったら逃げなければならない。
なんて、わたしは冷たい人間なんだろうと思うのだけれど、幻の鬱を移された時の、あの何ともいえない孤独と絶望と人間不信を考えると、もうわたしなどは弱いからすぐに逃げてしまう。
しがみつかれて、毎日毎日同じような話を聞かされる。楽しい話なんて、ない。
あの人がどうたらこうたらとか、この人がどうたらこうたらとか、酷いと何十年も昔の話を何度も何度も聞かされる。
そのうち耳が貝のように塞がれ、うるさいおしゃべりから逃げるようにサウンドが流れる。
ふん、もうあんたなんかの話を聴きたくないのよ、と言わんばかりにたちまち平和になる。
とことん落ちれば、浮遊が始まる。
浮遊が始まった瞬間、友達に言われたことがある。「とことん地獄を味合わせてやりたい」、と。
勘弁してくれよ・・・
勝手に孤独と絶望に揺られて、世界を支えているのはあたかも自分ひとりのような身勝手さにはもううんざり。
砂漠へ行け、砂漠へ。
な〜んて思っていると、ネットは怖い。本当に砂漠へ行ってしまう人間もいれば、しばらく姿が見えない?と思ったら、またリスカとかね・・
どんなことにも慣れってあるから、すでに何とも思わなくなってきてしまう。
「りんさん、神さまはみんなを愛しているんじゃないのか?」
うっさい。聖書読め、聖書を。
みんなを愛しているけど、みんなを救うなんてセリフはないのである。たぶん。
ただ、ノアの時代のようなことは、つまり人類全部を滅ぼしてしまうなんてことはもうしないよ、ということと、アダムの罪はジーザスが贖ったからとりあえずお前たちの悪さにはしばらく目をつぶっていてやろう、と書かれているだけだ。
おお、なんと神さまは憐れみ深いのだろう!
なーんてね、この意味がわかるようになれば、どうしてわたしが2万首を詠むまでは放っておいてほしいと言っているのか、少しは理解してくれるんじゃないかなーって思うんだけど、現実は厳しい。あの歌集読めとかよい歌を出せとか・・・
なんで、あたしがイライラするのか、を説明するのが難しい。
もう慣れているから、とりあえずわたしは実際的な人でもあるために、サイトのハイパーリンクを増やす。つまらんつながりなんだよなぁ・・・って言うとまたブーイングが飛んでくるかも。
でもさ・・・わたしは一度も歌会に行ったことがないし、無名の歌人だし、しかも新しいブログで名前変えているし、こちらはあちらを単なるテキストとしか思っていないのである。が、しかし・・・歌壇はおっそろしいほど狭い。なんであたしだってバレたのかな・・・
考えると鬱々するから、やめる。
わたしの知らない『みんな』のことより、わたしの愛する誰かのほうが遥かに大切。
◇まあ、これでも読んで・・・
著者: 日本聖書協会
タイトル: ビニール 小型聖書 口語訳
著者: 小平 正寿
タイトル: イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く