December 31, 2004

ムスリマ歌人との出会い

外は雪。
昨日の晩、母の病院から電話があり、吸引用の使い捨て手袋がなくなったと連絡。たしか買い置きを置いておいたはずだと思いながら、あっという間にそれがなくなったらしい。病院というところは不思議な世界で、歯ブラシがない、ティッシュがない、と欠品については案外神経質に連絡が来る。
おかげで、中越地震の余波で、わが家のほうも震度4くらいの地震が何度も続いていたにもかかわらず、渋滞の信号待ちをしている間に流れたカーラジオのニュースで地震の話をしていても、自分が揺れているということにまったく気づかなかった。その時はたしかティッシュを届けに病院へ向かっている最中だったと思う。

世の中が地震の恐怖に怯えている中、わたしは地震を単なるクルマのアイドリングだと思っていたわけである。地震よりもティッシュの欠品のほうが重大問題だった。

9月1日の朝、イタリアから帰国。言っておいただろうと思いながらも、学校を休んだので、娘の担任から電話。

「・・・・まほちゃん、台風のせいでお休みかと思って・・・」

はあ?外はよく晴れていたし、どこに台風が・・・・
それに、台風なんてめずらしくもないし、先生が言う意味がわからなかった。

正直、イタリアで雨らしきものに遭遇したのは1日だけで、それもパラパラ落ちる程度で、大抵はペットボトルを持ち歩きながら暑さに喘いでいた。隣の国でオリンピックを開催しているというのに、結局、部屋でテレビを観るだけ。しかもイタリア人選手の活躍ばかりで日本人選手が出場していることすら不明。そうなるとフィレンツェで交通事故があったことは知っているけど、日本が台風被害に苦しんでいるなどという話はまったく知らない。

というわけで、帰国したばかりで、いきなり台風のことを言われてもわからなかった。

だから、スマトラ沖で地震が発生して、いきなり感染症を心配して世の中が大騒ぎしているというニュースを眺め、複雑な心境に陥っている。たしかにコレラやマラリアが蔓延したら大変なことになるだろうな・・・と思う一方で、子犬のマリアの感染症のことを考えるからである。

子犬の3割が感染症が原因で処分されてしまう。人間で考えれば大変なことである。生まれた子どもの3割が感染症が原因で亡くなるとすれば、それこそ感染したというだけで大変な事態である。犬の場合、その3割が簡単に殺されてしまうということであり、殺されないまでも死んでしまう。
わが家に赤ちゃんがいなかったから、わたしはのんきにしていたのだろうか?もし、パルボだとすれば、人間の赤ちゃんにも感染する。

マリのことではすごく怒っていて、獣医やペットショップの都合でマリが処分されてしまうということは人間のエゴイズムそのものであり、許しがたい行為のような気がした。何となく、自分を含めて、今まで身勝手に生きてきた人間が滅んでしまったとしても、どーでもいいような気分にまで陥る。もう、十分に生きてきたではないか・・と。

でも、その後すぐに本当に巨大地震と津波が発生し、何万人もの犠牲者。なおかつ二次災害としての感染症が心配されているとなると、おそらくはもっとたくさんの人たちがそれで命を落とす可能性がある。

マリがパルボではなく、コレラやマラリアに感染していたとしたどうだろう・・・


*********************

姑さんが、結婚した時から言う。息子のところは国際結婚みたいなものだから、と。

わたしは日本人である。ダンナも日本人である。少なくても国際結婚ではない。でも、今回、まるやむさんの短歌を読んで、その意味が何となくわかった。バングラディッシュの人と結婚し、日本では数少ないムスリマであり、それでいて作歌歴20年、どこまでも和歌っぽい短歌。敷島だな〜とヘンなところで感心してしまう。

あっさり語れば、わたしはクリスチャンなのである。

いつから自分がクリスチャンになったのかも覚えていない。それくらい、潜在的にクリスチャン。いまだに洗礼も受けていないし、礼拝にも行かない。にもかかわらず、おそらくはわたしがキリスト教国に生まれていたら、「仏教徒の日本人と国際結婚をした嫁」という立場にあるんだろうなーと自分を理解した。

近頃、姑さんが元気で、うちがずっとこちらにいるのなら、神戸の墓をつくばに移し、姑さんが仏壇を、と言っている。日頃、信仰心などないにもかかわらず、お墓のこととなるとやたらとうるさい日本人の典型みたいなもので、姑さんが亡くなったら、わたしが仏壇を管理しなければならないらしい。

いや、母が普通の人だったから、彼女がやっていたことをわたしがすればよいだけのこと。禅宗だったらおしきみを取り替えて、毎朝、お水とご飯。うちはあまりご飯を食べないので、そうなるとお米をそのまま供えるとかね。で、線香立てて、チ〜ンチ〜ンとやっていたら、文句は言われない。
こういうのは、文化の一つであり、その通りにしていれば誰も文句を言わない。

でも、わたしはクリスチャンなのである。

祖母のように、熱心な仏教徒だと、それこそ宗派によって教えが違うとばかりにものすごくこだわりがある。祖父の家は禅宗で、祖母の実家は日蓮宗。そうなると、仏事は仏事、宗教は宗教とばかりに、祖母は身延山とか誕生寺や清澄山のように日蓮さんゆかりの地へ毎年巡礼。生き様闘争みたいなもので、例えば浄土真宗みたいに他力本願はダメ、となる。日蓮さんのような改革派が好きらしい。法華経の世界だからね・・・わたしは詳しいことはわからないけれども、自分の人生は半分以上自分で取り替えられるものである、というのが祖母の主張だった。

祖母がクリスチャンだとすれば、カトリックではなくプロテスタントなのだろう。素直にお釈迦さまを拝むより、法華経という世界だから。何となく共通の匂いを感じる。

このような家庭環境にもかかわらず、わたしはクリスチャンなのである。

特に何が不服とか、食わず嫌いというわけでもなく、信仰心というのはいわば理屈を凌駕して存在しているために、逆に日頃はこういうことで諍いになるのはつまらないとばかりに避けて暮らしている。

わたしは、日蓮さんが好きである。祖母の影響もあるのかもしれないけど、人間的に好きなのである。それでいて、それが本当の意味で、信仰心とは思えない。愛も感じ、尊敬の念も感じ、それでいて、神さまというのはもっと大きな存在としてわたしの中では存在している。そこのところの違いがうまく説明できない。

姑さんが、国際結婚みたいなものだと笑う理由がここにあるのかもしれない。

わたしは、和歌も短歌もまるで好きだとは思えない。それでいて、毎日、神父さんのサイトで詠んでいた。

真中朋久さんから『エウラキロン』という歌集をいただいた。どうして、わたしのところになんか送ってくださるのかまるで理解できなかった。一つには、わたしのサイトに来訪して、ということと、「今度の歌集は宗教色が強かったかもしれない」という真中さんの言葉の中にその理由を見つけた。

そうなんだよなぁ・・・というか。わたし的には、『エウラキロン』はまるで宗教色などないような気がしてしまうのである。世の中はもっと濃厚な世界や書物はいくらでもあるのであり、ただ、それが歌集であるというだけの理由で、やたらとそういう負い目に近いものを感じざるをえない。

特に、イラク戦争や自衛隊の派遣の影響を受けて、いくらクリスチャンが反戦を訴えても、イラク戦争での従軍牧師の姿の映像が映し出されれば、わたしでさえ宗教的不信感に喘ぐ。そして、和歌という特殊な世界。

和歌というのは、いわば中越地震時におけるティッシュの欠品、スマトラ沖地震時におけるマリの感染症みたいなものなのかもしれない。世の中にはもっと重大な出来事が蔓延し、忘れ去られていってしまうことに比べれば、自分の悩みなんてほんの一握の砂なんだと思う。

傍若無人、か。

石川啄木になりたい。

神さまとだけお話せよ、か。

まあ、なんと言いますか・・・・わたくしとは宗教も環境も歌人歴も違うけれども、結社も同人も関係ない、それでいて短歌が好きで歌歴20年のつわもののムスリマ歌人が世の中にいるというだけでも救われた気分なのでございます。つおいよなぁ・・・朝日歌壇か。そーいうのあることも知らないわたし・・・

投稿者 Blue Wind : December 31, 2004 05:26 PM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?