November 29, 2004

てのひらにおさまりそうな子犬飼い元気な爪にバラの棘あり

サイトって自分のためにあるんだな移転先なるURLみし
ブログ的一期一会の関係も少しつないで少し消えゆく
恋歌を拾い歩いている人のブログをながむ 短歌って何?

とこずれと呼ぶには過酷褥瘡の肉の殺げたる長き月日か
ひきつづく少年犯罪恐れれば鍵掛け忘れ出かけてる吾子
置手紙漢字で書けよ添削をしたくなりそな親心かな

てのひらにおさまりそうな子犬飼い元気な爪にバラの棘あり
はやばやと先に買い物済ます日はなぜか外食以心伝心
商品券送られてきて宛名から不幸を知りし見知らぬ神戸
オトくんは湯たんぽなのにマリちゃんは電気マットか息子と娘
犬2匹息子と娘は違うのか夫を見て感ず待遇の差を

新札の不器用なまま変わりゆく変わりきれない短歌のように
冬景色もとめてクルマ走らせば高低さつく並木はつづく
赤赤とドウダンツツジ燃えゆかば蜜柑載せられ野外灯あり

詩編 68. 12-14

投稿者 Blue Wind : 06:48 PM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 51. 36-45

  それゆえ、主はこう言われる。
  見よ、わたしはお前の訴えを取り上げ
  お前の仇を報いる。
  わたしはバビロンの海を干上がらせ
  泉を涸らす。
  バビロンは、瓦礫の山
  ジャッカルの住みかとなり
  恐怖と嘲りの的となり
  住む者はひとりもいなくなる。
  彼らは一斉に若獅子のようになり
  獅子の子のようにほえる。
  わたしは、たけりたつ彼らに
  宴を設けて酔わせる。
  彼らは泥酔して、よろめき
  いつまでも眠り続けて目を覚まさないと
  主は言われる。
  わたしは、彼らを小羊のように
  また雄羊や雄山羊ののように
  屠り場に引いて行く。

  シェシャク(バビロン)は占領された。
  全世界の賛美の的であったものが捕らえられた。
  バビロンは国々の間に恐怖の的となった。
  混沌の海がバビロンに襲いかかり
  バビロンは高波のとどろきに覆われた。
  町々は廃墟となり
  乾ききった地、荒れ地となる。
  そこは住む者のない土地となり
  人の子ひとり通らぬ所となる。
  わたしはバビロンでベルを罰し
  彼が呑み込んだものを口から吐き出させる。
  国々が川の流れのように
  そこに集まることはもはやない。
  バビロンの城壁は倒れた。
  わが民よ、その中から出よ。
  おのおの自分の命を救え
  主の激しい怒りを逃れて。

投稿者 Blue Wind : 01:45 PM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 19. 1-10 徴税人ザアカイ

  イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りをし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところへ行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

投稿者 Blue Wind : 01:35 PM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 14. 13-25

だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
  兄弟たち、物の判断については子供になってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。律法にこう書いてあります。
  「『異国の言葉を語る人々によって、
  異国の人々の唇で
  わたしはこの民に語るが、
  それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』
と主は言われる。」このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

投稿者 Blue Wind : 01:27 PM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 24. 1-14 火の上の鍋

  第九年の十月十日のことである。その月の十日に、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日にエルサレムの攻城を始めた。あなたは反逆の家に対してたとえを語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。
  据えよ、鍋を据えよ。
  またその中に水を注げ。
  それに肉の切れを入れよ。
  腿や肩肉、すべて上質の肉切れを集め
  最上の骨で鍋を満たせ。
  また、最上の羊を取り
  その下に骨を積み重ねよ。
  これを十分に沸騰させ
  中の骨まで煮えるようにせよ。
  それゆえ、主なる神はこう言われる。
  災いだ、流血の都よ。
  錆のついた鍋、その錆は取り除きえない。
  肉を一切れ一切れ取り出せ。
  くじがそのために引かれることはない。
  流血が都の中にあるからだ。
  彼女は血を裸の岩の上に流し
  土で覆うために地面に注ぐことをしなかった。
  わたしは復讐のため憤りをかき立て
  彼女の血を裸の岩の上に流し
  それが覆われないようにした。
  それゆえ、主なる神はこう言われる。
  災いだ、流血の都よ。
  わたしもまた、薪の山を大きくする。
  まきを積み重ね、火をつけよ。
  肉を煮込んで肉汁を作り、骨を焦がせ。
  鍋を空にして炭火にのせ
  熱して、青銅が赤くなるまで焼け。
  汚れがその中で溶け、錆がなくなるように。
  しかし、努力のかいもなく
  厚い錆は火でも取り除きえない。
  不貞によって、お前が汚れたので、わたしは清めようとしたが、お前は汚れから清くならなかった。わたしが憤りを晴らすまでは、清くなることは決してない。主なるわたしが語ったのだ。それは実現する。わたしがそれを行う。わたしはそれをやめず、惜しまず、憐れみもしない。お前の道と行いに従って、お前は裁かれる」と主なる神は言われる。

投稿者 Blue Wind : 01:15 PM | コメント (0) | トラックバック

釈放か・・・

インターネット・ジャンキーというのは壮絶。特に広義での出会い系のサイトに多い。あるいはチャット部屋の常連とか。まだネットを始めたばかりの頃には、とうとう呪いのサイトまでつくられてガイアックスにまで追いかけられてしまったことまである。
大抵は、嫉妬妄想とか、被害妄想とか、関係妄想とか、単なる妄想のような気がするけど、ネットは一方通行社会なので、そこまでになるとなかなか立ち直れない。わたしも2,3回、おおげさなまでに吐き気までするくらいになったことがある。もう、その電子文字が画面に現れただけで吐き気がする。まあ、そのうちに忘れるけど・・・こちらが忘れても相手が忘れていなければ延々と続くのかもしれないし、集団化しているとなおさら続くらしい。
ネットを始めたばかりの頃はサイトの作り方も知らないし、ヘンな話、パソコンの使い方も知らないから、結局、ランダムに知り合った人たちから情報を得る。そのうちに親しくなって、メル友になったり、チャッ友になったり、オフ会に誘われたり、物品をやり取りするようになったり、電話がかかってきたりする。何もなければ平和なんだろうけど、それが一度人間関係が荒れ出すと大変。なかなか消えない。普通は自然と疎遠になったりするものなんだけど、荒れたほうが消えにくいのかも。
要するに、生きるに必要な関係性ではないから、こころのつながりを求めて集まっているらしい。そういうグループが多い。こーね、そうやって集まっているうちに、自然と仲の良い人たちが分離していったり、仲間はずれがあったり、いろいろ。仲良くなったつもりでも、実はどこの誰かもわからないとか、こちらの人とは付き合うけど、あちらの人とは付き合わないとか、そういうラインも分けてはいるんだろうけど、そこが電子文字の悲しさで、たとえばBBSなどがあればレスがあるとかないとか、アクセスが簡単なだけにややこしい。そうするとBBSには書かないでメールだけとか。
長くやっていると、だんだんこの電子文字社会にうんざりしてきてしまう。完璧なジャンキーになると、男か女かもわからないし、サイトごと、メールごとにハンドル名を分けて別人格をつくって遊んでいたりする。そういう関わりが実は一番大変だったりする。消えると寂しいかららしい。人間関係の輪という意味なのかもしれないし、まったく知らないハンドル名で別人を装って現れたり、いろいろ複雑。

結社へ行こうと思ったのは、実はこういう面倒なジャンキー社会から解放されたかったのかもしれないし、逃げたかったのかもしれないし、それでいて、アクティブに活動できる立場ならネットなんかやってないって・・・正直な話。家庭の事情などがあるから、ネットでもやってみようかなと思っただけの話であり、たまたまダンナが新しいパソコンを買ってきたというだけの話だったのに、いつのまにやら歌人になってしまっていた。
誹謗・中傷、あらし騒動、勝手に懸賞に応募されたり、メルマガを申し込まれたり、そういう意味での危険性はあるけど、わたしはふつうの主婦なのである。アダルトサイトを運営しているわけでもないし、ヘンなストーカーに狙われるのもお門違いだし、家には家族がいる。よく考えたら、あまりにもあほらしいから、あっさり歌人のサイトをつくってしまった。そのほうがジャンキーは来ないだろうというもくろみだったのだけど、しばらくの間はBBSになりすましが現れたり、リアルとバーチャルが混在していたり、非常にややこしかった。
通りすがり的に歌を投稿してくれたり、感想を書いてくれたりする分は何も困らないけど、ジャンキーの世界の話題は削除。犬と遊んでいたほうがまだ楽しい。とうとうジャンキーサイトも消えたし、管理人さんには申し訳ないけど、何となくほっとした。ありがとう。

来年からは、また違った作風で詠めるようになるといいんだけど・・・まだまだこれからやらなくてはならないことが山ほど。

投稿者 Blue Wind : 02:21 AM | コメント (0) | トラックバック

November 28, 2004

満月よ頭上の月の高ければ澄みわたる空雲もなかりし

満月よ頭上の月の高ければ澄みわたる空雲もなかりし
はろばろと秋の季節の終わりゆく実りの季節息を潜めて
聖域は蔦からみゆく弱き人満月のごと息昇りゆく
ふうわりとみことばの息とけこめば鳩は軽がる空を飛び交い

釈放だ。くるくると蔦のびゆかば切られるぶどう重すぎて秋。

エゼキエル書 24. 1-14 火の上の鍋

エルサレム災いのなか歩みゆく反逆の罪とこしえにあり
やすらぎに身をかがめては惨禍とは道に落ちゆき踏まれたざくろ
戦争は無くならないよとジーザスは十字架のうえ吊るされている
地上戦魔物のような宗教は今なおつづく確執の渦
福音は何のためにぞあるものと確執の闇今もつづきぬ
地上には地上の罪があるように神は怒りぬ戦の波よ

信仰は諦めにあり秋の月聖書配られアラブ語でさえ
病院に祭壇ありき死ぬ人の死を待つ部屋の向こうの廊下
国境を隔てつ今日も安全はいづこにあると数を競えり

オトくんは生まれて生きて死んでゆくやすらぎのなか生きゆくばかり
人間はややこしい風吹き抜けて魂という理論合戦
退廃は昨日の渦を今日もまた傷に残して伝えられゆく

あー、なんかさっぱりしたなー。

コリントの信徒への手紙 一 14. 13-25

異言・・・

教会は賛美のためにあるものと集会を思うアラカルトかな
賛美とは賛美のためにあるのかと砂漠の中に吹く風を思い
ひっそりと木立の中にたたずみし教会跡は閉されて長く
教会を旅立ちゆかば青き海青き空にも雲は浮びぬ
深深と海はつづくよ珊瑚礁抜ければ波は高高とあり

子ども等のつどいし夢の広がればやさしき神は微笑んでいる
荒波はつづくよ空は天高く宇宙の果てへつづきぬ星か
現実はかくもつづくよ波の音くりかえしつつ光と闇よ

ルカによる福音書 19. 1-10 徴税人ザアカイ

ジーザスは罪人のため世に来たと祝う日のありクリスマスかな
少しずつライトアップす家並みをながめて庭の新しい家
裏庭の点灯のないクリスマス住人は減り魂増える
いやしなどどこにもないと吹く風にいつしか時のもたらしぬ息
ため息をいくつ木枯らし飛ばしゆく落ち葉のような敷石のうえ

いやしなど求めないでとひねもすはまったりとして明るい冬日
わだかまり深深とあり諍いのとけゆく淵はみそらの果てか
光あれ断崖のうえ光あれ明日見る夢は子らのうえかな
生まれゆく新たないのち朝のうちわが家に来るかマリーと名付け

欺瞞なら飽き飽きだよとひねもすは新たな日日をつなぎゆく空
鬱蒼と出版物はあらわれて圧し込めた箱開きゆくなり
毒の矢は放たれゆくか旅人よジェイルハウスでまた会う日まで
野心とは光の箱に閉ざされて盲人の冬キリストを待つ

神さまは一人しかないはずなのにぶどうの蔓はいくえにもあり
あの頃にくらべればまだしあわせと透きとおる空月は輝き
野の風の揺らす尾花は冬景色彫刻よりもやさしい風情
偶像よ、破壊されてはつむぎゆく糸の流れを天使が運ぶ。
聖霊よ、人の嘆きに神父あり、御手のゆく空星は輝き。
十字架よ、憐れみの丘たたずめば青白き肌真黒き闇に。

風・・・・・

エレミヤ書 51. 36-45

なんか、いやされてしまう・・・


◇BBS詠
ふるさとの道に立ち出で眺めしも見知らぬ世界座りてもなお
空気すら変わってしまうかふるさとよそよそよと風ぶるぶると吾
空港のレタスの味と葉の濃さに北海道の土の沁みいづ
ふるさとの道に佇みながむれば見知らぬ山に驚きぬ吾
あの山の見ゆる道かなこの道は幼き頃の身丈おもいし

ふゆやすみ迎えるまではのんびりと平日という年次休暇
暖冬のしょぼい秋刀魚の並びたるウィンドウ見てまだ早い冬
ぶらさがる葉っぱをながめいつ落ちる蒼いみどりの深まる秋よ
夏植えた花の今でも咲きたるかこごめて秋は青青き芝

投稿者 Blue Wind : 05:25 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 45. 1-9 聖域

  「あなたたちが、国を嗣業として割り当てるときは、土地の一部を聖なる献げ物として主にささげねばならない。その土地は、長さ二万五千アンマ、幅二万アンマであり、この領域は周囲全体にわたって聖なるものである。
  このうち縦横五百アンマの正方形の区域を聖所の境内とし、その周囲に幅五十アンマの放牧地を設けねばならない。あなたは、この地域から長さ二万五千アンマ、幅一万アンマを測り、そこに最も聖なる聖所を設けなければならない。それは、この地の聖なる場所であって、神殿に仕える祭司たちのものとなる。彼らは主に仕えるために近づくことができる。それは、彼らの家を建てる場所であって、聖所の聖域でもある。また、もう一つの長さ二万五千アンマ、幅一万アンマの地域は神殿に仕えるレビ人の所有となり、彼らの住む町となる。
  あなたたちは、聖なる献げ物としてささげた献納地に沿って、幅五千アンマ、長さ二万五千アンマの区域を都の所有にしなければならない。これは、イスラエルの家全体のものである。君主の領地は、聖なる献納地と都の所有地の両側にあって、聖なる献納地と都の所有地に隣接し、西側は西の方に、東側は東の方に広がっている。その長さは一つの部族の割り当て地の西の境から東の境に及ぶ長さに相当する。これは、君主がイスラエルにおいて所有する土地である。わたしが立てた君主たちは、もはやわが民を虐げない。彼らはその他の土地をイスラエルの家とその部族にゆだねる。」
  主なる神はこう言われる。
  イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。
  不法と強奪をやめよ。
  正義と恵みの業を行い
  わが民を追い立てることをやめよと
      主なる神は言われる。

投稿者 Blue Wind : 01:48 AM | コメント (0) | トラックバック

ガラテヤの信徒への手紙 1. 6-10 ほかの福音はない

  キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
  こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

投稿者 Blue Wind : 01:27 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨブ記 6. 2-7

  わたしの苦悩を秤にかけ
  わたしを滅ぼそうとするものを
      すべて天秤に載せるなら
  今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。
  わたしは言葉を失うほどだ。
  全能者の矢に射抜かれ
  わたしの霊はその毒を吸う。
  神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。
  青草があるのに野ろばが鳴くだろうか。
  飼葉があるのに牛がうなるだろうか。
  味のない物を塩もつけずに食べられようか。
  玉子の白身に味があろうか。
  わたしのパンが汚れたもののようになれば
  わたしの魂は触れることを拒むだろう。

投稿者 Blue Wind : 01:18 AM | コメント (0) | トラックバック

November 27, 2004

満月へ逃げろと言うか頭上には白き輝き佇んでいる

あんなの読んだら、クリスマスが憂鬱になるからやめてほしい。まだ歌の練習させられているほうがましだ。キャロルスはメインであり、遊びであり、テンションの緩和であり、一番受ける。
デビッド・ボウイのらぱぱんぱんを聴きたい。低音というのはええのう。このところ手抜きで山下達郎ばかり聴くクリスマス。

クリスマス迎えるかげで誕生日忘らるる吾今はよろこぶ
天国がうっとおしいと思うとき説教めいたファーザーの声
信仰は自由契約法王も約束されていないいのちか

ヨブ記は美しい。

サタンにぞ怒る気持ちの失せたればヨブの言葉に美しさあり
キリストの生まれる前にヨブ記あり最後のことはだれもわからぬ
救われたいのちのほむらありければ消えさるほむらなおつづきゆく
信仰は諦めにあり神さまは生きているよとわけなくもあり
最後にはいのちのほむらいづこへとつづくみちすじイール・シャローム

ヨブ記 6. 2-7

結局、ユダも使徒だったわけだし、イエスに従ったからといって最後には神さまが裁く。つまりは、クリスチャンになったからといって救われるわけでもない。つまりは、すべてが混沌としていて、何もわからない。

カルチェリにシスター二人おりたれば一人は笑みし一人は不思議
カルチェリのミサにのんびりおりたればサタンのような親子あらわる
修道院いくつかわるかホテルにぞ当時の世界のぞかせており
暗黙にイラク戦争支持したる匂いを感ずファーザーの声
欺瞞とはふつふつとして泡立ちぬ従軍よりもまだましなるか
従軍しミサを行う兵士らは何のためにぞ暗黒に立ち

神に問う老いたればなお神に問え徴兵とても無意味だからさ
若者の反戦記など読みたれば行きたくないと書いているだけ
イラクへとウキウキとして旅立った自衛官あり不思議な世界
高齢化、戦争よりもまだ怖い不景気な世に突入しせり

満月へ逃げろと言うか頭上には白き輝き佇んでいる
ある日には夕陽の欠片今宵には頭上にありき空の月かな
気まぐれな月の軌道に驚けば地球はまわるまわりまわるよ
月さえも気まぐれならばうさぎさえ6倍に跳ね羽が無くとも

建物を競い合っては教会は時代の陰を偲ばせている
らぱぱんぱん好きに歌えよらぱぱんぱんMTVも廃れ果てたか
コカ・コーラ、サンタ・クロースも変えちゃったアメリカの罪、われは関せず。

ガラテヤの信徒への手紙 1. 6-10 ほかの福音はない

文化として伝わるってことはそういうことなのよね・・・だからね・・・たまに一体何をしているのかわからなくなるけど、聖書を開く。あの人たちは何もわかっていない。わたしはルドビーさんに言われたから、ではなく、ある日突然、「甘栗に蛆」がわいているのを見たから行動したにすぎない。
アシジへ行ったのも、チケットやら父さんの都合やら、いろいろなことでたまたまそうなったにすぎない。最初はフランスへ行く予定だった。
信仰は諦めであり、神に対する服従。だから、楽しいものでもうれしいものでもない。むしろ逆らって生きるほうが楽しいし、自分のやりたいことをしているような気さえする。
逆らってばかりいるからね・・・このように望まないことが原因で、嫌いな短歌を詠み、いつのまにか聖書を読まされることになってしまった。宗教の時間なんて寝ているかさぼっているか、だよね・・・ふつう。わたしは心理学の人だし・・・つけがまわってくるのですよ、いろいろ。

ぐちってたらきりないね。なんか、勘違いされるから。Solitude With God. 何となくやっていたら、どーやって考えても神さまからの手紙のような気がしてきてしまう。ランダムに開く中にキャッチボールがある。まさか、ジャンキー・ブロックのためにやり始めたなどとだれが思うだろう・・・

ちゃらぽらと生きているだけ首に鈴望まない頃呼ぶ音の鳴り

エゼキエル書 45. 1-9 聖域

聖域・・・
イール・シャローム。
母、大工、漁師・・・牧者。

静かな日静かな国に佇めば静かな人ら静かに生きる

夢のような世界。夢かも。

投稿者 Blue Wind : 05:02 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 16. 9-14

  わたしはお前を水で洗い、血を洗い落とし、油を塗った。そして、美しく織った服を着せ、上質の革靴を履かせ、亜麻布を頭にかぶらせ、絹の衣を掛けてやった。わたしはまた、装身具をお前につけ、腕には腕輪、首には首飾りをつけた。また鼻に飾りの輪を、耳には耳輪を、頭には美しい冠をかぶらせた。こうして、お前は金銀で身を飾り、亜麻布と絹とで美しく織った服を身に着けた。そして小麦粉と蜂蜜と油を食物とした。こうしてお前は非常に美しくなり、女王のようになった。その美しさのゆえに、お前の名は国々の間に広まった。わたしがお前を装わせた装いには、少しも欠けるところがなかったからである、と主なる神は言われる。

投稿者 Blue Wind : 01:54 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 106. 39-46

  彼らは自分たちの行いによって汚れ
  自分たちの業によって淫行に落ちた。
  主の怒りは民に向かって燃え上がり
  御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし
  彼らを諸国の民の手に渡された。
  彼らを憎む者らが彼らを支配し
  敵が彼らを虐げ
  その手によって彼らは征服された。
  主は幾度も彼らを助け出そうとされたが
  彼らは反抗し、思うままにふるまい
  自分たちの罪によって堕落した。
  主はなお、災いにある彼らを顧み
  その叫びを聞き
  彼らに対する契約を思い起こし
  豊かな慈しみに従って思いなおし
  彼らをとりこにしたすべての者が
  彼らを憐れむように計らわれた。

投稿者 Blue Wind : 01:49 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネによる福音書 6. 66-71

  このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

投稿者 Blue Wind : 01:45 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 18. 1-32 各人の責任

  主の言葉がわたしに臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。
  『先祖が酢いぶどうを食べれば
  子孫の歯が浮く』と。
  わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。
  もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。
  彼に生まれた息子が乱暴者で、これらの事の一つでも行う人の血を流し、自分自身はこれらすべての事の一つですら行わず、かえって山の上で偶像の供え物を食べ、隣人の妻を犯し、貧しい者、乏しい者を抑圧し、力ずくで奪い、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て忌まわしいことを行い、利息を天引きして金を貸し、高利を取るならば、彼は生きることができようか。彼は生きることはできない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある。
  ところで、その人にまた息子が生まれ、彼が父の行ったすべての過ちを見て省み、このような事を行わないなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、人を抑圧せず、質物を取らず、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、貧しい者の抑圧から手を引き、天引きの利息や高利を取らず、わたしの裁きを行い、わたしの掟に従って歩むなら、彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる。彼の父は搾取を行い、兄弟のものを力ずくで奪い、自分の民の中で善くない事をしたので、自分の罪のゆえに死んだのである。それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。
  悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
  しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえ彼は死ぬ。
  それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのはお前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬのなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
  それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

投稿者 Blue Wind : 01:40 AM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 14. 51-52 一人の若者、逃げる

  一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

投稿者 Blue Wind : 01:16 AM | コメント (0) | トラックバック

November 25, 2004

言の葉の旅立ちゆかばてのひらはもう届かない秋の落ち葉か

白い月白白とした白い空夕暮れどきの白い銀杏
木洩れ日を透かして天へ枝先をのばして冬をしのばせている
パステルの空に浮んだ枯れ枝に透明な陽のとけゆく光
こんなにも空が広いと思っても西へ走れば夕暮れの道
背に月の視線感じて夕暮るるパステル色のうろこ雲かな
はろばろと広がる空にうろこ雲西へ西へと風に吹かれて
どこまでもつづく気がする茜雲うろこ雲さえ風に消えるか
くるりんとロータリー降り信号は木立の中にたたずんでいる

枯れ枝の並木のうえに広がれば落ちゆく木の葉敷きつめた道
ゆらゆらと木の葉ゆらして風は吹く冬枯れの枝空にのびゆく

ヨハネによる福音書 6. 66-71

ユダのこと悪魔と知りてジーザスはなぜに選ぶか福音の意味
世の中はそんなものさと退廃は十字架のうえおのが道あり
ひとりひとりゆく道ありきわが道を与われて生く今を寿ぐ
諦めて愛きことあるか世の風を憂くカナリヤは籠を飛び立つ
はろばろと運ばれて風いづこへとめぐる空かな地球はまるく

詩編 106. 39-46

風は吹くミモザを揺らし秋風は勝手気ままに吹きぬけてゆく
禍に泣く人のある秋の陽は輝く光ただ照らしゆく
明日のことわからないさとひねもすは輝きのなかすぎゆくばかり
禍も太陽もまた輝きぬ誰のうえにも吾のうえにも

協会のつよき人らの声読めば1%に含まれぬ吾
福音を知らずに死ぬと考えて他の人を思うおおげさな人
言の葉の旅立ちゆかばてのひらはもう届かない秋の落ち葉か
ふふむ意味いくえにも読むひねもすもつぎからつぎへ憂きことはあり
変わりゆく時代の中で変わらないみことばさえも書き換えられて
木に揺れる落ち葉のように木枯らしが吹き飛ばすのか冬枯れなのか
ひらりひらり透明な陽を浴びる葉は木枯らし吹けば足下にあり
神さまは生きているよとメッセージてのひらにあり透明な陽よ
信仰は無為な月日を描いてはめぐる月日に薔薇の花咲く
諦めはしづかに沈む落陽をくりかえす日に没するごとく
信仰を諦めと呼ぶわたくしは海の落陽昇りゆくを見
あの夕陽昇っていると眺むれば明日も来るかと地球は浮ぶ

退廃よ諦めの中浮ぶ雲、風は描くよ勝手気ままに。

エゼキエル書 16. 9-14

そーなんだよなぁ・・・選歌してくれるのがまともな歌ばかりという情けなさ。あまりにも綺麗すぎて・・・選歌されるとものたりない。

天国と地獄。
いろんな意味で、天国と地獄。

ふりむけば眩しき夕陽窓を撃つオレンジ色に透ける一日
神さまとお話をするひねもすは夕陽をみつめ残像ゆれる眼

投稿者 Blue Wind : 04:29 PM | コメント (0) | トラックバック

キリストの苦しみを思う秋の日になぜかジャズ聴くラッパは甘く

うろこ雲浮んで秋は白白とパステルの陽をにじませている
うろこ雲西の彼方へ消えゆくか木洩れ日の中クルマ走らせ

教会もいやしにならぬ秋の日はつきまとい思うネットの画面

ひねもすはいろんなことがあるからと平和な日々を脅かす蛇
延々とつきまといては嫌がらせうんざりしても歌詠む月日
世の中はこういうものさ嫌がらせかえすがえすもつきまといかな

嫌いってすごいことだとたまに思う反吐が出そうな画面をながめ
警察も弁護士さえも役立たずジャンキーの森消えゆくサイト
メールよりまだましなるか掲示板静かな秋に吾子を待ちたり
悲しみは嫌いな人のあわらるる掲示板なり悪意の森は
反吐が出る苦しみならばわたくしも味わっている掲示板かな
キリストの苦しみを思う掲示板ちょっと笑ってポインセチアか

いづこへと悪意の渦を落とさねば救われないとあらわるる蛇

マルコによる福音書 14. 51-52 一人の若者、逃げる

逃げるよなそりゃ逃げるよな若いもの未来は君の肩にありけり
若者のブログに逃げるネットかな妖精ババアれんこんあらし
高校生写真を見ればいいでしょと簡単に言う素直な言葉

二万首のみちのりけわし頂に冷凍保存された雪かな
年寄りは怒るが先と暴れ出す気持ちもわかるあらし騒動
電子文字自己顕示欲眺めてはほかのカキコは読まないと彼
若者の逃げ出しゆかば年寄りは怒り出すからまんなかに吾
関西のおかん負けてはいけないと漫才で聞く言葉思いぬ
これだから関西人は嫌いだと思ったけれど上品な人
尼崎なぜに嫌うか関西人ちょっとだけ知る掲示板なり

クリさんのほうがましなんだよね・・・たしかに。

ノーギャラと言われてしまうネットかな花の香りのうるわしき秋
秋風にスタン・ゲッツのラッパ聴くうるわしき日をお祝いしよう
ひねもすを朝から電話鳴り出せばヒステリーとは仕事は厳し
ジャズさんの苦労を思うネットかなノーギャラの秋逃げ出せば冬
蒼い薔薇いつのまにやら咲き出せば店頭ならぶ日も近づくと
わがサイト何のためにぞ紹介す・・BBSの閉鎖の決意・・
サイトなど要らないだろと言われればそういうものかネットの輪かな

キリストの苦しみを思う秋の日になぜかジャズ聴くラッパは甘く
小画面スペース開けて歌を詠むしばし続くか電子文字なり
苦しみは含み笑いにかわりゆくあれよりもましこれよりもまし
ノーギャラは責任ないとカウンセラーさっぱりとして仕事は終わる
父さんに長生きしてと思う秋仕事嫌いはラテーノになる

エゼキエル書 18. 1-32 各人の責任

各人の責任。

投稿者 Blue Wind : 04:28 PM | コメント (0) | トラックバック

詩編 84. 11-13

  あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。
  主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
  わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。
  主は太陽、盾。
  神は恵み、栄光。
  完全な道を歩く人に主は与え
  良いものを拒もうとはなさいません。
  万軍の主よ、あなたに依り頼む人は
  いかに幸いなことでしょう。

投稿者 Blue Wind : 11:35 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネによる福音書 15. 1-17 イエスはまことのぶどうの木

  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいるもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
  これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

投稿者 Blue Wind : 11:26 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 28. 11-19

  主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。
  主なる神はこう言われる。
  お前はあるべき姿を印章としたものであり
  知恵に満ち、美しさの極みである。
  お前は神の園であるエデンにいた。
  あらゆる宝石がお前を包んでいた。
  ルビー、黄玉、紫水晶
  かんらん石、縞めのう、碧玉
  サファイア、ざくろ石、エメラルド。
  それらは金で作られた留め金で
  お前に着けられていた。
  それらはお前が創造された日に整えられた。
  わたしはお前を
      翼を広げてケルプとして造った。
  お前は神の聖なる山にいて
  火の石の間を歩いていた。
  お前が創造された日から
  お前の歩みは無垢であったが
  ついに不正がお前の中に
      見いだされるようになった。
  お前の取り引きが盛んになると
  お前の中に不法が満ち
  罪を犯すようになった。
  そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
  翼で覆うケルプであるお前を
  火の石の間から滅ぼした。
  お前の心は美しさのゆえに高慢となり
  栄華のゆえに知恵を堕落させた。
  わたしはお前を地の上に投げ落とし
  王たちの前で見せ物とした。
  お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って
  自分の聖所を汚した。
  それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ
  わたしは見ている者すべての前で
  お前を地上の灰にした。
  諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆
  お前のゆえにぼう然とする。
  お前は人々に恐怖を引き起こし
  とこしえに消え失せる。」

投稿者 Blue Wind : 11:21 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 6. 20-26 幸いと不幸

  さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
  「貧しい人々は、幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
  しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
  あなたがたはもう慰めを受けている。
  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である、
  あなたがたは悲しみに泣くようになる。
  すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

投稿者 Blue Wind : 11:18 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 26. 15-18

  主なる神は、ティルスに向かってこう言われる。お前の中で、倒れた者が呻き、虐殺が行われるとき、町の倒れる響きで、島々は揺れ動かないだろうか。海の支配者たちは、皆その座から降り、礼服を取り去り、美しく織った衣服を脱ぐ。彼らは恐怖を身にまとい、地に座り、絶え間なく震えながらお前を見て驚きあきれる。彼らはお前に向かって嘆きの歌をうたって言う。
  ああ、あなたは滅びてしまった。
  海のかなたから来て住み着き
  誉れある町となったのに。
  この町とそこに住む民は海のつわものとなり
  海に住むすべての者を震え上がらせたのに。
  今や、その島々はあなたの倒れた日におののき
  海の島々は、あなたの終わりを見て恐れる。

投稿者 Blue Wind : 11:15 AM | コメント (0) | トラックバック

November 24, 2004

眉毛だけ真っ黒な人座りおる指定席抜け母の病室

貧乏は感謝の中に住んでおり不景気な人妬みの中住む
仮設にもランクがあるか神戸かな立ち退かぬ人いつまでもおり
憐れみを求められても金くれと言われるような被災者の声
テレビでは貧しい人を映すけど富んだ人らは温泉に入る
憐れみを求めたいけど世の中はもっと不幸な人泳ぐ海
不要物送らないでと新潟はテレビの中で訴えている

エゼキエル書 26. 15-18

一瞬で破壊されゆく人生を通過ページに置き換えて読む
吾子ありて生死の境感ずれば吾子想いしはわがままなのか
半壊の実家の風呂が先なおり家族で通う友は明るき
老いたればあっけらかんとはいかないと姑のぐち何年つづく
子の世話になりたくないと姑は震災以来くちぐせとなり
一瞬で破壊されたは年寄りと何となく思う子の知らぬ過去
年寄りのぐちにまみれて生きるよりやること多きひねもすはゆく
老いたれば未来はないと年寄りは女中がいても不満あるらし
あくせくと旗持ち当番こなしては幸せを思う眠き朝かな
震災の革命ありきささやかなつくばねの道広々とあり
ルミナリエ輝く下で姑と古き女中のいる暮らしかな・・

ルカによる福音書 6. 20-26 幸いと不幸

断崖に要求水準おきたれば昨日と明日は満ち欠けの月

なんかもうめんどくさいや怠惰なり耳はサウンド目で歌詠みし
人は生き人は逝きすぎ人生まれ怠惰な風は地中を回る

元気でも元気なき人増えゆかば環境因子からまわりする
関西の老人社会思うより秋生い茂るミモザ葉を見る

刈られても鬱蒼とするミモザかないつのまにやら葉隠れの陽よ
月桂樹夏に寂しき君だけどいつのまにやらオリンピアの木
熊手持ちあらくさ掘りをする吾子の気まぐれな息時間潰しか
テラスドア疾風のようオトくんの駆け出してゆく秋の庭みし

瞳すら動かないのかわが母の視線を追いし隣のカーテン
苦しげに息音のする向かい側聴こえているか開けられた窓
鬱蒼と死の歌の数増えたれば飽きもするかな記事を読んでは
年寄りに写実求める短歌かな仕方ないさと横目でながむ

がんがんに馬鹿やっている年寄りに振り回されて歌詠みになり
肺がんのつまらん話聞くよりもおバカなほうが救われるかも
ジャンキーのネカマの名前ならべれば飲み屋の名刺ジジ抜きしてる
明日のない連中なんだと憐れめば残念ながらのびゆく寿命
少しずつ拡大するは薬屋の介護用品扱う売り場
眉毛だけ真っ黒な人座りおる指定席抜け母の病室

エゼキエル書 28. 11-19

は〜、これが日本か、ってなるのか。華やかな青春時代を過ごしただけつらいものがあるな。

鬱蒼と年寄りばかり歩いてる危険地帯のうつつとかわる
転んでも骨折をする年寄りを避けて通りぬ通りは狭く
転んでも訴訟になるか事故ならば車でなくも起こりうる道
ボケ老人脱走しては徘徊す夜中の道は車も危険
高熱の伝染するか病室は感染予防子は連れられず
住む家がぽしゃっちゃったらおしまいと災害の日を不安に暮らす
チャット部屋派手な名前が並んではシルバー部屋でひねもす過ごす
あちこちであらし騒動起こりなば年寄り同士何してるかと
今は過去10年後には当たり前20年後にはわが身の不安
排出す年寄りの数増える裏兵役制度復活するか

学生街疎んでいても学生の歩いてるだけましな気がする

ヨハネによる福音書 15. 1-17 イエスはまことのぶどうの木

詩編 84. 11-13

静かな日怠惰な歌の流れては未来は遠く未来は過ぎる


◇BBS詠
森のうえ低空飛行銀杏の実より大きな月は浮びぬ

投稿者 Blue Wind : 05:48 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 77. 5-7

  あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。
  心は騒ぎますが、わたしは語りません。
  いにしえの日々をわたしは思います。
  とこしえに続く年月を。
  夜、わたしの歌を心に思い続け
  わたしの霊は悩んで問いかけます。

投稿者 Blue Wind : 01:23 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 51. 11-14

  矢を研ぎ澄まし、盾を用意せよ。
  主はメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。
  バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。
  これこそ主の復讐
  主の神殿の復讐だ。
  バビロンの城壁に向かって旗を立て
  見張りを強化せよ。
  見張りの者を立て、伏兵を置け。
  主は思い定め、それを実行される
  バビロンの住民に告げられたことを。
  豊かな水の傍らに住み、財宝に富む者よ。
  お前の終わりの時は来た。命の糸は断たれる。
  万軍の主は、御自分にかけて誓われた。
  「わたしは必ず、いなごの大軍のような人々で
      お前を満たす。
  彼らはお前を攻め、叫び声をあげる。」

投稿者 Blue Wind : 01:20 AM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 16. 1-8 復活する

  安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガラリヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

投稿者 Blue Wind : 01:16 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 143. 1-6

      賛歌。ダビデの詩。
  主よ、わたしの祈りをお聞きください。
  嘆き祈る声に耳を傾けてください。
  あなたのまこと、恵みの御業によって
  わたしに答えてください。
  あなたの僕を裁きにかけないでください。
  御前に正しいと認められる者は
      命あるものの中にはいません。

  敵はわたしの魂に追い迫り
  わたしの命を地に踏みにじり
  とこしえの死者と共に
      闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
  わたしの霊はなえ果て
  心は胸の中で挫けます。
  わたしはいにしえの日々を思い起こし
  あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
  御手の業を思いめぐらします。
  あなたに向かって両手を広げ
  渇いた大地のようなわたしの魂を
      あなたに向けます。

投稿者 Blue Wind : 01:09 AM | コメント (0) | トラックバック

November 23, 2004

尾花菊広い野原に立ちゆかばこびとのような吾を思いし

十字架は改悛の情示しては悲しき調奏でおるかな
人の愛人に吊られて木の上に罪はのこりぬ悲しき調
退廃は罪にあらずと人の声くりかえしつつ悪は広がり
悪魔とは闇に現れ闇の声調にのせてまとわりつかん
憤り悲しみもまた幾たびかくりかえされし波の音かな
消え去れと言っているからなおのこと改悛したと現れるかな

夏の蝿今なお冬に飛びたれば冷凍のカニ残骸の中

詩編 143. 1-6

ラサさんの サイト が消えたそうです。
彼女は今ごろせいせいしているでしょうか・・・・なんか、うらやましい。

嫌うほどぶんぶんうなる蝿の羽餌はどこにもないはずなのに
蝿の罪いづこにあると考えて肉を求めて飛びおるからか

ブルガリで癒されている香りかな鈴木重子の風の歌声
挙式用信仰心のなき人の奏でる音は今日も流れる
営業は全国ネット展開す御用聞きありピアニストかな
教会も営業なんだとドレス着てお葬式まで行って来たよと
死者の顔知りもしないで悲しみを描いて曲は流されており
演奏は刺身のつまか流れゆく聴く人もなく弾く人のあり

カーネーション薔薇にかえてとあの人は言っていたけどカーネーションあり
挙式用飾られた花ながむれば土曜の昼は雨上がりかな
生涯に一度の日にも祭壇の花は並びぬ朝な夕なと
教会の二階の席はのんびりと光射す窓雨の降る窓

ボリショイのバレエの日にも先生に挨拶に行くピアニストかな
住む世界違うからねと曖昧に濁してみてもタダ券なりき
銀座まで独唱会に出かけては顔の動きを眺めておりぬ
歌声を楽しむよりも変わる顔眺め終わりて山野楽器へ
颯爽とジャズ喫茶へと飛び込めば沈黙のなか寝ている人ら
旋律の別れ聴こえるわが耳はマーラーとてもいやしとならぬ
クリスマス第九の咳を聴くために咳を我慢し窮屈な席

のんびりと特等席に座りては好きな曲など聴いている秋
ブルガリのコロンの香り流るるは鈴木重子のかすれゆく声

マルコによる福音書 16. 1-8 復活する

音楽は美しいけど音楽の世界醜しと合言葉聞く
あの人とわたしはちがうとあの人はなにを秤に語っているか
わたしには美しい音聴こえれば今が至福とよろこびもとむ

白菊を描いているか白い穂のたたずむ野には枯れ尾花咲く
しだれゆく菊の花びら枯れ尾花巨大な花を野に描きたる

深まりし秋に誘われミモザ葉の生い茂るなか陽は昇りゆく
葉隠れのフェンスに映る太陽はふたつの光照らし輝き
ぶどうの木苗木のように残さるるミモザ葉のした照らす朝を見

夕焼けはうっすらと空染めゆけど夕陽まぶしき西の窓かな
澄み渡る秋の空には太陽の朝な夕なと残光描き
太陽の低空飛行窓一つ南にうつし吾を撃ちたる

ジャズというカテゴリーには沿わないと鈴木重子のアルバムを聴く
ランボーを真似しただけか柳の木聖書読みに来わがサイトかな
真中うた眺めて秋は深深と神の愛ありエウラキロン、さ
投げ歌をいづこにするか迷いては耽耽として繊細な糸
遊び歌うくくと詠んで芸術の秋だアートだ木枯らしの吹く

蝿の声聴こうとすれば悲しみは十字架にあり沈黙の愛

エレミヤ書 51. 11-14

やんわりと新約聖書読みたれば言い方一つ書き換えられて
ふふむ意味おなじとわかる今もなお滅びの意味を十字架に知る

歌詠みは耽耽として歌を詠む強き調も弱き調も
ファーザーの肩の上かな二階席揺れる木立に季節を感ず

罵声飛ぶ駒場の部屋を逃げ出せばやんわりとした宮代の丘
吹く風の音さえ違う地下鉄は都会を狭く広くも見せる

暗闇に激情さえも消えゆかば白き尾花は菊の花びら
尾花菊広い野原に立ちゆかばこびとのような吾を思いし
花びらの一つになるかすすきの穂大きな菊の泡立ち咲かめ

歌用のバイブル片手表紙さえいつのまにやらすりきれている
ボロまとい未読部分を抱えては使い古した辞書の匂いか

詩編 77. 5-7

神さまにまぶたつかまれ朝ぼらけ小鳥の声に挨拶さるる

賛美に変わるまでの2万首なのかも・・・生きていれば。まだ7千首を越えたところ。今、どの辺かな。考えるのやめよう。

白い陽の始まりゆかば朝は来ぬその日その月その年となり

心の底から嫌い。


◇BBS詠
静かにぞ昇る朝日は輝きぬフェンスに当たりふたつの光
生い茂る秋のミモザに葉隠れの朝の眩しき太陽ありき
落陽の西窓を撃つ向こう岸秋を暢気に過ごせない森
菊花にもみまごうばかり白い穂の固まり咲くかしだれる尾花

友にぞと何もできない月日ならせめては歌を詠みて過ごさん
健やかに生き苦しまず死にたいと誰もがねがう恋は儚し
傍観者偶像ながむここちかな泡立つ尾花菊の花びら

投稿者 Blue Wind : 06:44 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

投稿者 Blue Wind : 01:33 AM | コメント (0) | トラックバック

ローマの信徒への手紙 1. 8-15 ローマ訪問の願い

  まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を述べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何かの実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

投稿者 Blue Wind : 12:53 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 47. 1-12 命の水

  彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」

投稿者 Blue Wind : 12:46 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネの黙示録 11. 1-14 二人の証人

  それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。
  第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る。

投稿者 Blue Wind : 12:28 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 17. 20-37 神の国が来る

  ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるものだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。一人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

投稿者 Blue Wind : 12:13 AM | コメント (0) | トラックバック

November 21, 2004

ゆりかごの月はゆらゆら動かぬも突然の雨雲はおとずれ

断絶を歌の書棚に眺めては老人と孫並んでおりぬ
半月のゆりかごのごと浮んでる雲は流るる白きカーテン
ゆりかごの月はゆらゆら動かぬも突然の雨雲はおとずれ
鑑賞を寂しく読みし歌集かな与謝野晶子の歌に添えられ
書棚から消え去りしかな鑑賞のつかない歌集返本となり
一つずつ書店をまわるこひつじかニコリのような聖書となりき
めずらしく連続ドラマ眺めては太陽族の爆発をみる
メダルにもコマーシャルにも慣れちゃったオリンピックのあった夏去り
うねりゆく大波のよう新世紀訪れたのは数年前か

ルカによる福音書 17. 20-37 神の国が来る

神の国かたちのように現れてかたちなきさま描いておりし
われわれは幻想なのか視知覚のまぼろしを想うたましいいづこ
最後には人間性だ夫は言いしモスクの中で人殺しあり
アユタヤの遺跡をながむテレビかな首無き仏並んでおりし
聖書すら破きかねない憎しみも破けないから救わるる人
善と悪いのちいのちと喚きたてこころなきこと最後の一歩
殺伐と世を想うとき善と悪いづこにもとむ鐘の鳴る音

二義性を鏡のように眺めてはこころなき人鏡に生きる

わざわいは無くならないよとひねもすはそういう星に生まれ消えゆく
裕次郎偶像のなか生き抜けば昭和も終わりスクリーン消え
感動は海のヨットかダム工事うつつの人ら退廃もとむ
真実はスクリーンの外きらきらと輝く海と広大なダム
描けずに終われば海は輝きぬ今を生きては明日もあるかと

ヨハネの黙示録 11. 1-14 二人の証人

海やダムなら描く必要はないのかもしれない。

真実はきらきらとした星のよう下手な写真に染みは写りぬ
情けないアシジの写真空の月泣いた泣いたよ黒に染みあり
音のない稲妻光るウンブリア広大な空言の葉にする
西に陽を東に月を眺めては広大な空昼と夜あり

少しもおおげさでもなく、過小表現に悩む。わたしの写真よりはましだろう。

狭い空見慣れた人に差し出せば写真の月は小さな星か
広い空月が巨大に見えるほどイタリアの月浮ぶ空かな
まあのぼれロッカ・マジョーレ柵のない校舎のうえも椅子のうえかな

エゼキエル書 47. 1-12 命の水

また同じページ。

足下に一つの石が転がればこの石にてか町は造られ
戦争を終わらせたのは足下の小さな石かアシジの奇跡
塀越しにアシジの空をながむれば高高とありカルチェリの庵
石積むも石を投げるも人心うつしてやまぬ空澄み渡る

原爆で戦争終えた敷島はそりゃないだろと空の月みる
音のない落雷の音眺めては音の違いに壮絶な秋
アメリカに戦争やめてと言ったって空しき音の鳴り響く空
騒音も掻き消すほどの雷鳴に怯えてみてもへそはまだあり
身をかがむ子らに伝わる戯言に生きる知恵もちかえすがえすも

憲法9条はへそか? 日米同盟がへそなのかも・・・ のっちでもいいや。

戦争を知らぬ世代に生まれては空に月あり夕陽は沈む
福音は何のためにぞあるものと自衛隊みて何となく知る

うわっうわっうわっ、あんなんだったらどーしよう。

のんびりとアシジの空をながめてる夕餉の時間音なく光る
雨のないアシジの夏はアウトドア屋根にビニール張られておりし
落雷にしづかに気づく人あらば皆で雨を驚き待ちぬ
音もない落雷ならばのんびりと歓談つづくレストランかな

世の終わり考えてみて戦争は老いた首相の象徴となる
落雷は怖いものかと音のない落雷を見るアシジの夏よ
茫洋にながむる光遠ければ美しさだに轟きにあり
音のない静けさはまた雨のないビニール張りの屋根の下かな
降る雨のくりかえす日はドラム音たまに聴こえるキッチンの裏

ローマの信徒への手紙 1. 8-15 ローマ訪問の願い

屋外ライト点滅させると、レストランと間違われるのよ、うち・・・

新年をシンガポールで迎えては熱帯の雨雪の日の薔薇
雨のない炎天の道歩いてはサンダルの夏台風の道
混在す世界の果てははろばろと違う景色を描いておりし
カイサリア地球も狭くなったかとアディエマス聴く海の歌声
クリスマス地から海から空からか聖なる夜の歌声響く
八重桜紅い木の葉を揺らしては春の息吹を身に静めおり
桜の木ライト巻かれてたたずめばクリスマスには光り輝き
聖夜には光りぞ満ちて力とは枯れた通り木吐く白い息

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

今年はどこもクリスマス・ムードが薄い気がする。気のせいかな。クリさんにボロカスに言われていた去年のクリスマスのほうがまだクリスマスっぽい。いやな年だな。

投稿者 Blue Wind : 05:42 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 47. 12

「川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実りをつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」

投稿者 Blue Wind : 12:27 AM | コメント (0) | トラックバック

イザヤ書 63. 11-14

  そのとき、主の民は思い起こした
  昔の日々を、モーセを。
  どこにおられるのか
  その群れを飼う者を海から導き出された方は。
  どこにおられるのか
  聖なる霊を彼らのうちにおかれた方は。
  主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ
  民の前で海を二つに分け
  とこしえの名声を得られた。
  主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが
  彼らは荒れ野を行く馬のように
  つまずくこともなかった。
  谷間に下りて行く家畜のように
  主の霊は彼らを憩わせられた。
  このようにあなたは御自分の民を導き
  輝く名声を得られた。

投稿者 Blue Wind : 12:23 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 51. 15-19

  御力をもって大地を造り
  知恵をもって世界を固く据え
  英知をもって天を広げられた方。
  主が御声を発せられると天の大水はどよめく。
  地の果てから雨雲を湧き上がらせ
  稲妻を放って雨を降らせ
  風から倉を送り出される。
  人は皆、愚かで知識に達しえない。
  金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。
  鋳て造った像は欺きにすぎず
  霊を持っていない。
  彼らは空しく、また嘲られるもの。
  裁きの時が来れば滅びてしまう。
  ヤコブの分である神はこのような方ではない。
  万物の創造者であり
  ヤコブはその方の嗣業の民である。
  その御名は万軍の主。

投稿者 Blue Wind : 12:18 AM | コメント (0) | トラックバック

November 20, 2004

小鳥の目線

娘の絵は、わたしが中学生の頃に初めてビートルズに出会った時のような快進撃である。小学校の校舎の屋上で、グラウンドを真下に眺めるような絵。小鳥の目線。
小学校の授業ではよくある光景だ。図画の時間に校内をスケッチする。ただそれだけのことなんだけど、自分の子どもの頃とはまさしく風が違う。好きなところを描いてもよいと言われれば、校舎や教室、グラウンドなど学校という世界は限られている。わたしなら屋上に座っていたとしても、そこから見えている風景を描いてしまいそうな気がする。せいぜい光や風や木立、建物などを描く。
娘の絵は自由奔放で、秩序がある。四方に木立があり、絵の中央に描かれたグラウンドを囲んでいる。その倒れこむような描き方に鳥の目線を感じる。そして、真上から眺めたようなグラウンドのライン。実際の航空写真ではあのような世界はありえない。
屋上に座って、黙々と小鳥のように飛びながらあちこちの風景をとらえていく。その高さたるや一体どれくらいになるのか、実は絵を見ただけでは想像がつかない。

このように褒めても、娘の反応は実にクールであり、もっと立体感をつけたらよかったとか、せっかく先生に屋上に入る許可をもらったのだから豪快に描かないととか、あっけらかんとしている。そこがわが子という気もするし、今の時代の子という気もするし、感性という点では、もはやわたしは娘にかなわない。
これは絵をみる視点においても如実に現れている気がする。今回イタリアへ連れて行ってみて、とにかく主要な美術館へは足を運んだと思う。二人並んで、すでに違うものをみている。あまりにもたくさんみたために、すでにミラノへ到着した時点では飽きてしまったのかと思ったら、違う。要するに娘のお気に入りの絵は、アンジェリコの「受胎告知」らしい。あの絵をみてしまったら、ほかの絵はどうでもよくなってしまったのだろう。なかなか手厳しい批評家である。
こころの中に素直に飛び込んできた絵。受胎告知をモチーフにした絵はたくさんほかにもあるけれども、完璧にあの一枚を指定している。名画はほかにもたくさんあるけれども、子どもは実に素直に何かをキャッチする。
こういう瞬間、実に老いぼれてしまった自分を感じる。
ひらめきを感じる、インスパイアされた中に素直に飛び込む。ちょっとやってみようという程度の気まぐれなら自分にもある。だけど、その世界に素直に飛び込めない自分を感じる。
素直に飛び込みたい世界がシュルレアリスムだったとしたら、これはすでに自分にとっては敵である。敵でありながらそこに吸引されてしまう自家撞着というものが自分の感性を支えているのではないかと思う。シュルレアリスムが破壊の感性だとすれば、自分にはせいぜいエッシャーの不思議絵の世界や空を眺めているくらいしかないではないか。人間の視知覚そのもののおもしろさ、シュールな感覚。レンズに映っているものをそのままみているわけではないわたしたち。
だから、飛べない。
そこをあっけらかんと昇華して、娘は軽がる飛んでしまう。小鳥のような娘の自由さが酷くうらやましい。そして、娘のこの素直な感性にわたしは救われる。ルネッサンスの奔放さの時代に、修道院で絵筆を握っていたアンジェリコ。明るくもあり自由でもあり、真摯であり純粋。なんか、うらやましい。

投稿者 Blue Wind : 04:43 PM | コメント (0) | トラックバック

雨降るも命の水のなかりせばただ降るばかりくるくると傘

テーブルのしたからライトまぶしけれ手作りツリー眺めてる吾子
針がねで編み上げられたツリーには赤いビーズの並んでおりし
キャンドルの中から明かりいづるよう不思議なツリークリスマス待ち
病室に飾りゆくかな雨の日は大きな傘が往来をゆく

山崩し会場つくる万博のテーマを聞いて悩むか愛知
自然との共生というテーマにはふつふつとした欺瞞を覚え
広報は悩んでいると言われてもつくばねまでは響いておらぬ

万博の記念の駅ができるらし過去は記念す市長の汚職
鉄道は何のためにぞつくられる便利になって環境破壊

ファミレスに張り紙ありき学生の勉強禁ずながながき夜
張り紙を眺めてクルマ減りたるかみんなで動く学生の村
村落を国立大に感じては街は自由な往来にあり

自然との共生求め自動車を走らせている日曜日かな
ドッグラン求めてクルマ走らすか侵略されるつくばねの森

マリちゃんの匂いがするかオトくんが膝から降りぬひねもすはゆく
吾子の友ペットショップにおりたればちょっと驚くどしゃぶりの雨
子犬とはあんなにでかいものなのかセントバーナード抱っこしている
マリちゃんは生まれたばかりミニピンの手に隠れるか重さなきよう
ぴょんぴょんと飛び跳ねているマリちゃんはわんわん物語の子犬
犬のため芝庭つくる親バカの雨に降られて閉じこもる部屋
マリちゃんもクリスマスには家の中オトと一緒に走りまわるか
マリは箱母は病室拡大すつくばねの家廊下は道路

エレミヤ書 51. 15-19

なんかいつもと違うと思ったら、昨日の分の写教聖書終わっていない。

「あなたならウェルカムです」言ってみて少し欺瞞が歌に出にけり
トヨタ車を買えと言われるわけでなし友達という不思議な関係
欺瞞なら欺瞞なんだと言っちまえ吾に言わせるサラリーマンかな
りんさんが言っていたよとサラリーマンしづしづとして広報に言う?
主婦という無責任さのただよえば社会は遠く壁すら越える
リーマンよなんで自分で言えぬのかわかっちゃいるが主婦は言霊

胸の奥喉につかえた魚骨抜く思いの過ぎる沈黙社会
反戦を唱えていても土曜にはクルマ走らせ自然をながむ
人生はいたちごっこにひねもすを無難に過ごす雑誌のごとく
ひとりでは何も言えない校風は国立大そばファミレスにあり

中間ボツ歌。
まあ、いいか・・・・なんでもいいや。

片方で自然賛美と言われても片方のネタ愛知万博
かおいろを眺めていてはささやかな欺瞞のうずはおおげさなもの
しょぼいネタ振るなと言ってみたいけど命運求め苦しんでいる
こんなとき歌詠んでいるわたくしは鬱蒼とした雨の中おり
過激派の張り紙ながめボイコットあほらしい雨ファミレスのうえ

イザヤ書 63. 11-14

聖霊はモーセにありて思うものユダヤの民の永き月日か
聖霊はアシジの丘にあるものと腐らぬミイラ置かれておりし
黒服を真似してみてはエホバかなみことば捨てるクセの遺りき

愛想よく答えてむなし秋風よこころの雫どしゃぶりの雨
鬱蒼とつぶれるこころ覚えてはこれが暮らしとひねもすはゆく
落陽も見たことのない子らいるとメルマガを読む鬱蒼と雨
崩された山見て育つ子らなのか愛知万博すこし悲しむ
退廃は言っても無駄とひねもすを上司の顔に何を眺めん
虚しさは深々として訪れの速まりゆかん秋の闇雨

暗闇を求めて吾子はテーブルの下に潜りきツリーの光

エゼキエル書 47. 12

雨降るも命の水のなかりせばただ降るばかりくるくると傘


◇BBS詠
水たまりおそるおそると走らせる台風前のどしゃぶりの雨
止まったら死ぬと言われているような仮免中の水の道かな
豪快にラリーのように走りゆく事故車の眠る台風の道
乗り上げた分離帯にはこちら向く事故車のありき大通り行く
雪の日も停まっていたなパトカーはくるくるライト点滅させて

投稿者 Blue Wind : 05:03 AM | コメント (0) | トラックバック

マタイによる福音書 21. 5

  「シオンの娘に告げよ。
  『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
  柔和な方で、ろばに乗り、
  荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

投稿者 Blue Wind : 03:07 AM | コメント (0) | トラックバック

ゼカリヤ書 3. 9-10

  「ここに石がある。
  これはわたしがヨシュアの前に差し出すものだ。
  この一つの石に七つの目がある。
  わたしはそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。
  そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く。
  その日には、と万軍の主は言われる。
  あなたたちは互いに呼びかけて
  ぶどうといちじくの木陰で招き合う。」

投稿者 Blue Wind : 03:05 AM | コメント (0) | トラックバック

November 18, 2004

子ろば乗りてくてく歩く石畳うつむいてろばてくてく歩く

子どもなら飛べるんだなと柵のない屋上のうえ空飛ぶ絵の具
豪快に飛んでくれたかまほちゃんは小鳥の目線空に飛びこみ
風は吹く低き山並みながむれば小鳥のように子は飛び跳ねる
炎天に焼かれて吾は疲れ果つ子は山のうえ飛びまわる鳩
ゆくみちを鳩のロザリオ掛けたれば子は教会に招きぬポリス
軽がると魚のように泳ぐ吾子夕暮るる浜砂の城あり
地中海白い道あり海のうえ歩いてもなおますぐにひかり

豪快に空飛ぶ小鳥ながむれば老いたる吾をしみじみと思う
空高くながむる星は遠かりしすみわたる空くっきりと星
飛行機の点滅さえもくっきりと深まる秋はすみわたる空
雲のなか白く隠れてお月さま空すみわたり星と飛行機

自由とは子どものものと空の月飛行機の横ならんで浮ぶ
素直ってよいものなんだとしみじみと庭の囀り朝のあいさつ

馬車の音高らか響く窓の下朝を迎えりフィレンツェの駅
石畳いくつ歩いて美術館パン持ち歩く吾子の手を引き
ながながき列を並んで美術館鳩の溜まりで一休みする
自由って空飛ぶ鳩のあつまりし木陰のベンチ炎天の夏
自由って走るのやめて立ち止まる馬糞の落ちたフィレンツェの道
ぱかぱかとお馬は走る石畳”アテンショーネ”と高らかな声

ゼカリヤ書 3. 9-10

やわらかな磯の香りを求めては海に潜りきあわい潮風
きらきらとうす暗がりの浜辺には砂の城掘る子らのたわむれ
「レベッカ」と呼ばれて彼は女の子大きな父と小さな娘
夕暮るる白い光のいづる道逃げて追わるる浜辺の散歩
音のない落雷に似し潮風は磯の香りもなかりき海辺
しづしづとひねもすはゆききらきらとひかる海には白い風吹く

夢ひとつかなえてくれた吾子の絵に希望の風は空を飛び吹く
くるりんとほっぷすてっぷだんすしてみちを歩きぬわが子がふしぎ
羽はえてうさぎも空を飛び跳ねるここちがするか三日月の夜
子どもなら鳩の羽さえ軽がると風に飛ばして風にとけゆく
豪快にしっぽまわして吾子を待つ写真屋の犬坂道に寝る
ピザの犬ジェシカ一番可愛いといつの間にやら名を呼びし吾子

老人が隣に座りアイス食む呼ばれて妻はカフェの椅子居る
教会の階段のうえ座りたる若者のなか子と並び居る
カフェの椅子二人並んだ若者を日本人だと眺めてみては

マタイによる福音書 21. 5

子ろば乗りてくてく歩く石畳うつむいてろばてくてく歩く

老いたろばねこ。

投稿者 Blue Wind : 05:06 AM | コメント (0) | トラックバック

箴言 25. 13-14

  忠実な使者は遣わす人にとって
  刈り入れの日の冷たい雪。
  主人の魂を生き返らせる。
  雨雲が垂れこめ風が吹くのに雨が降らない。
  与えもしない贈り物について吹聴する人。

投稿者 Blue Wind : 01:36 AM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 15. 36-42

愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星の間の輝きにも違いがあります。
  死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、

投稿者 Blue Wind : 01:33 AM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 4. 10-21

わたしたちはキリストのために愚かな者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
  こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせるでしょう。わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。

投稿者 Blue Wind : 01:26 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 4. 1-13 誘惑を受ける

  さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
  「『あなたの神である主を拝み、
  ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
  『神はあなたのために天使たちに命じて、
  あなたをしっかり守らせる。』
  また、
  『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
  天使たちは手であなたを支える。』」
  イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

投稿者 Blue Wind : 01:16 AM | コメント (0) | トラックバック

November 17, 2004

音のない落雷なんて降る雪の遠くに光る静けさのよう

三日月のなぜに浮ぶか森のうえ大きな弓の黄色く光る
西日さす窓の光は煌々と森へのみちをつくりたまいし
森のうえ落ちる夕陽の燃えたてば三日月浮ぶ森のうえかな
混在す時間の中で輝きは遮られてはひねもすはゆく
はろばろと浮ぶ月などながむればオレンジ色の夕陽の欠片

校庭を真上にながむ吾子の絵にシュールな影の見え隠れする
鳥の目の木を越えゆかむ校庭をまうえにながめ四方の風吹く
くるくると旋回するは空のうえ小鳥のようにながめる大地
小鳥には小鳥の世界広がるか空飛びゆかばますぐにぞ見る
空からぞ射す光には佇みし吾の頭の見えるばかりか
屋上で風に吹かれてまほちゃんは黙々として絵を描きおりし

ルカによる福音書 4. 1-13 誘惑を受ける

校庭の絵、か。

黙々と自由な空の広がれば青き緑と黄色の土に
屋上にスケッチブック持ちゆかば風の中にも光ただよう
黙々と絵を描きおりしまほちゃんに蒲公英畑吹く風を想い

暮れゆかばひねもすはゆきすみやかな時の流れにみまごうばかり

エネルギー保存されてはひねもすを沈みゆく陽に燃やされている
ふつふつと怒ってみても退廃は疲るるばかり泡立つばかり
いつの日か泣くことあるかまほちゃんにタイムカプセル渡したくもあり

吾子の絵にいやされてなおへぼ歌人迷子のこみち迷いゆくかな
脳内をくるりんとして素直さは学びのみちをむなしくもする
吾子になり素直になって飛びまわる小鳥のような絵を描きまおし

ランボー、ピカソ、中原中也 対 アンジェリコ 的図式。
エッシャー的アンジェリコ。
なんか、もう、むすめにもかなわない。なさけなか。

コリントの信徒への手紙 一 4. 10-21

どうやったらあんなに素直な感性が育つんでしょうね・・・ってあたしが母ではないか。親でもわからん、子のことは。

ひねひねと獅子の洞窟育ちたる垣間見し夢吾子に求めり
青青と闇の広がる空見れば三日月浮ぶ森のうえかな
ロッシーニ歌いて春はいくたびかめぐれど愛はなお静かなり
あれほどに静かな愛はなきものと泡立ちぬ今遠のくばかり
音のない落雷なんて喉の奥胸につかえた言の葉のよう
ああつらいなんかつらいと言の葉はひらひらひらと舞い散る落ち葉
音のない落雷なんて降る雪の遠くに光る静けさのよう
音のない落雷なんてため息の微かに落ちる公園のよう
先走る気持ちの中で音のない落雷の音胸に抑えり
あの音をイメージしろと神さまは音もないのに稲光見せ
青闇に小さく光る落雷は轟きもせず厚き雲間に

なんか、つらい。なんか、つらい。がんがんに音が鳴るほうが普通だ。

コリントの信徒への手紙 一 15. 36-42

言の葉のととのわぬうち聖書には見慣れた言葉並んでおりし
一つ一つ言の葉生まれ一つずつ言葉となりきくりかえす波
鳴声の分かれているか庭の鳥何のためにぞ囀り歌う
今のわれ鳴声もなく歌う鳥落っこちそうな巣穴の中で

2万首いく頃にはましになるかな。わからん。

箴言 25. 13-14

箴言のこのセンスのよさ。
わかりそうでわからないところがすごい脈絡。

投稿者 Blue Wind : 06:33 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 3. 19-22

  わたしは思っていた。
  「子らの中でも、お前には何をしようか。
  お前に望ましい土地
  あらゆる国の中で
  最も麗しい地を継がせよう」と。
  そして、思った。
  「わが父と、お前はわたしを呼んでいる。
  わたしから離れることはあるまい」と。
  だが、妻が夫を欺くように
  イスラエルの家よ、お前はわたしを欺いたと
  主は言われる。

  裸の山々に声が聞こえる
  イスラエルの子らの嘆き訴える声が。
  彼らはその道を曲げ
  主なる神を忘れたからだ。
  「背信の子らよ、立ち帰れ。
  わたしたちは背いたお前たちをいやす。」

投稿者 Blue Wind : 02:19 AM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 1. 40-45 重い皮膚病を患っている人をいやす

  さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

投稿者 Blue Wind : 02:14 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 2. 33-37

  なんと巧みにお前は情事を求めることか。
  悪い女たちにさえ、その道を教えるほどだ。
  お前の着物の裾には
  罪のない貧しい者を殺した血が染みついている。
  それは、盗みに押し入ったときに
      付いたものではない。
  それにもかかわらず
  「わたしには罪がない」とか
  「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。
  だが、見よ。
      「わたしは罪を犯していない」と言うなら
  お前は裁きの座に引き出される。
  なんと軽率にお前は道を変えるのか。
  アッシリアによって辱められたように
  エジプトにも辱められるだろう。
  そこからも、お前は両手を頭に置いて出て来る。
  主がお前が頼りにしているものを退けられる。
  彼らに頼ろうとしても成功するはずがない。

投稿者 Blue Wind : 02:07 AM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 9. 38-41 逆らわない者は味方

  ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

投稿者 Blue Wind : 02:02 AM | コメント (0) | トラックバック

November 16, 2004

真性悪魔

れんこんあらしにはうんざり。名前で検索しても、ネットの懸賞で牛肉を当てたという記事しか出てこない。よくわからんね・・・匿名だと思って安心しているのかも。とにかくやることなすこと壮絶。あんな人を相手にしていたら、こっちが殺伐としてしまう。あーやだやだ、なのである。
本人も悪魔って言ってるように、真性の悪魔なのかも。冗談でなさそうなところが怖い。ヒステリーを起こして聖書を破きかねないタイプ。正直、世の中で一番苦手なタイプ。それで相手を怒らせて、相手を悪魔、悪魔と言っている。言われてもかまわない。だって、何の憐れみも感じないのだから、向こうにとってはこちらもまた悪魔なのかもしれない。
テロリストの言い分というか、アラジンの言い分というか、悪者の側から見たら、善は悪らしい。となると、悪魔から見たら、神はやはり敵なのだろう。あの過剰反応・・・壮絶。
まあ、もともとがああいう人だから、こうやって何を書いても関係ないんだろうな・・という気はする。虚しい。

なんかね・・・わたしはあまり神さま神さまと生きているタイプではないわけ。いわば、いやしを求めて聖書を読んでいたり、歌を詠んでいるわけで、常に思うのだけれども、いやしがほしいのはわたしのほうだと思う。ところが、あそこまでいやしのないタイプに襲撃されると、後は神のみぞ知るという気分になってしまう。
わりにこころのよい人たちに囲まれて生きているために、どうもネットのほうが殺伐としているような気がしてしまう。家族や友人、親しい人たちとお付き合いしているほうが平和。ネットでもごく少数のお友達だけのほうが気楽だ。気の合う人とだけ付き合う。
って言うと、すごく怒る人たちもいる。わけわからん。仕事じゃないんだから、気の合わない人たちと付き合う必要ないでしょ?

が、しかし、わたしはエネルギーが余っているのかも。そうやって友達に言われた。あっさり家庭に入ってしまったから、らしい。森瑤子の気持ちわかるもの。芸大まで出て普通に結婚して子育てをして、それが30代の後半で突然爆発するように小説を書き始めた。絵では食べていけないからと30代で絵の具の果てまで燃やして捨てた人がいきなり50代で再び描き始め、毎日おっそろしいほど描いているらしい。いくらでも描けるという。そういう話にやたらと共鳴共感してしまうのである。
ちょっとやってみよーっかなーとネットを始めて、書き始めたら止まらない時期があった。そのエネルギーが自然に短歌に変換されただけなのかも。一度詠み始めたら、いくらでも歌が出て来る。上手とか下手とか言う前に、勝手に手が動く。

それにしてもいやらしい。なんであたしより年上の人が女子大生のサイトつくったりしてるんだ?そういうのを考えると、一緒にされたら困る。あっちはれんこんあらしでも、わたしは白石優子だ。悪魔って奴は・・・・・しつこい。消えてほしいね。

投稿者 Blue Wind : 08:28 AM | コメント (0) | トラックバック

悪意って広がるものだ、退廃は柿の実の生る季節にありき。

あれはいくらなんでもクリさんがかわいそうではないだろうか。クリさんのために、聖書をアップしようと思ったら、延々と邪魔をする人がいる。以前の時空は、さすがにそこまでこころのない人はいなかったです。

アングラ・・・・アングラ・・・・・アングラ。

いやしがほしいのはわたしだ。いやしを求めないでほしい。

退廃よ、平和を邪魔しあわただし渦の巻く海、紺碧の崖。
延々とあらし騒動巻き起こす悪魔のしっぽトカゲの小道
退廃よ、醜い心いやしなく広がりゆくは愛想笑いか。
れんこんの中身からっぽ正月はからしに浸しスーパーで売る

鬱蒼と心の闇の広がればさやさやとした雨は降るらむ
悪意って広がるものだ、退廃は柿の実の生る季節にありき。

マルコによる福音書 9. 38-41 逆らわない者は味方

祈りゆけ見知らぬ人らつなぎゆく沈黙のなか愛は生きゆく
信じよう、愛あらばこそ人の輪のつながりゆくは未来の光
みこころの静かに光る星めざし沈黙のなか愛は炎に

退廃よ、静かな闇に広がれば、光を求め祈り出づ夜。
祈りなど忘れて過ごすひねもすも悪魔来たりて光を求め

あんなにもアングラな人おりたれば教会の意味少し悟りぬ
外海は荒波なのか揺らるるは木の葉のような舟を想いき

愛求め疲れ果つるか旅人は砂漠の道をえんえん歩く

エレミヤ書 2. 33-37

結局、話しても無駄なんだよね・・・何でも不倫とか情事とか、そういう発想しかない。「女性の平和」の世界だからさ。「世界の平和」に文字を変えてくれないだろうか。
おじいさんでしょ? なんかね・・・・なんかなのよ。世代間ギャップなのかも。

幸せを拡大アップで描いても不幸の海の波にもまれし
罪あらばバーチャルという闇にあり一方通行語って虚し
楽園は箪笥のパジャマ弟の買い置きてゆく母の病室

殺伐と渇いてみればふつふつと悪意の燃ゆる憎しみの音
アングラにもの言うてみて虚しきを殺伐とした砂漠のありき
馬鹿馬鹿し妻の嫉妬にもの言うて反撃くらう夫のようだ
聖書すら破って捨てる憎しみは悲しみの声水底にあり

幸せは結婚講座出席し感激してる夫との出会いか
純朴は薔薇の木育つ前庭の沈みゆく陽を浴びる尾花に
みことばはしづしづとして伝わりし夕暮るる空訪れるかな

なんか、あたしって幸せなんだよね・・・

マルコによる福音書 1. 40-45 重い皮膚病を患っている人をいやす

神さまに愛されているのは、うちのダンナなのかも・・・
天国と地獄。

なんであんなに他人を不幸にしたがる人たちがいるんだろう。わけわからん。からしれんこんをなんとかせんと、終わらんね。あーやだやだ。

顔見るだけでうんざりする人っている。ネットは顔が見えないだけ幸せ。

またあいつからしれんこん現れてうんざりするかネットの闇よ
常識を顔に書いては嫌がらせ教師のような面構えかな
えこひいき暴力教師追い出そう日本の闇は教育にあり
愛のない仮面の下は傷だらけ嫌われてなお教壇に立つ
おにぎりの泣いた姿を思い出すちょっと憐れに教師のつらさ
おまえなどでーきれーだと顔に書きシカトしてみて授業を受ける

もろ顔に出るから、何人の教師を泣かせただろう・・・
単に嫌えばいい。簡単。

好きと嫌いは天国と地獄・・・
子どもは正直。

まったく陰で何してるかわからんぜよ、教師なんて。人間不信の根源が教育現場にあったりして・・・情けないね。裏と表の使い分け。住む世界が違う。

おまえなど屁理屈などと言われては悔し泣きして真直ぐに見つめ
青青と静かな怒り燃えたてば憤りさえ消え去り逝かん
怒りすら忘れるほどに怒れるは青青とした稲妻のよう
憐れみを天に求めて黙したる雷鳴の音胸に広がる
この世には神はいないと悲しめば悲しみさえも風に消え去り

こころが死んでいる人に何を言っても無駄。

エレミヤ書 3. 19-22

子どもと話しているほうが幸せ。

投稿者 Blue Wind : 05:07 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 34. 8-22 奴隷の解放

  ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。その契約は、ヘブライ人の男女の奴隷を自由の身として去らせ、また何人であれ同胞であるユダの人を奴隷とはしないことを定めたものである。この契約に加わった貴族と民は、それぞれ男女の奴隷を自由の身として去らせ、再び奴隷とはしないことという定めに従って去らせた。しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分とした。
  そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしは、奴隷の家エジプトの国からあなたたちの先祖を導き出した日に、彼らと契約を結んで命じた。だれでも、同胞であるヘブライ人が身を売って六年間、あなたのために働いたなら、七年目には自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない、と。ところが、お前たちの先祖はわたしに聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。しかし今日、お前たちは心を入れ替えて、わたしの正しいと思うことを行った。お前たちは皆、隣人に解放を宣言し、わたしの名で呼ばれる神殿において、わたしの前に契約を結んだ。ところがお前たちは、またもや、態度を変えてわたしの名を汚した。彼らの望みどおり自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分としている。
  それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。
  わたしの契約を破り、わたしの前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際して真っ二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。ユダとエルサレムの貴族、役人、祭司、および国の民のすべてが二つに切り裂いた子牛の間を通った。わたしは、彼らを敵の手に渡し、命を奪おうとする者の手に渡す。彼らの死体は、空の鳥と地の獣の餌食になる。ユダの王ゼデキヤと貴族たちを敵の手に、命を奪おうとする者の手に、すなわち一時撤退したバビロンの王の軍隊の手に渡す。わたしは命令を下す、と主は言われる。わたしは、彼らをこの都に呼び戻す。彼らはこの都を攻撃し、占領して火を放つであろう。わたしは、ユダの町々を、住む者のない廃墟とする。」

投稿者 Blue Wind : 01:52 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 13. 1-5 悔い改めなければ滅びる

  ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガラリヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

投稿者 Blue Wind : 01:36 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 45. 10

  「あなたたちは、正確な天秤、正確なエファ升、正確なバト升を用いなさい。」

投稿者 Blue Wind : 01:31 AM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 5. 9-13

  わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切付き合ってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」

投稿者 Blue Wind : 01:29 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

投稿者 Blue Wind : 01:23 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 83. 2-5

  神よ、沈黙しないでください。
  黙していないでください。
  静まっていないでください。
  御覧ください、敵が騒ぎ立っています。
  あなたを憎む者は頭を上げています。
  あなたの民に対して巧みな謀をめぐらし
  あなたの秘蔵の民に対して共謀しています。
  彼らは言います
  「あの民を国々の間から断とう。
  イスラエルの名が
      再び思い起こされることのないように」と。

投稿者 Blue Wind : 01:21 AM | コメント (0) | トラックバック

November 15, 2004

薔薇の花いつが季語かと悩んでは雪の中にも咲く花のあり

◇BBS詠
老いゆかば若き人らの離れゆき新しい風遠く眺めり
子の流行眺めてみれば異邦人画面を眺め太鼓叩けり
つぎつぎと古い歌など眺めては真似してみてもどこかゆがめり
薔薇の花いつが季語かと悩んでは雪の中にも咲く花のあり

もうそれは終わったことと眺めては老いあるところしづかにつづく
ひねもすは家族家族と追われては自分の時間細々とあり
友だちとのんびり遊ぶ独身をうらやましくも今が幸せ?

介護する家族がいてもわたくしはのんびり遊ぶ時間のありし
子を連れてファミリーパックさあゆくぞ夏はバカンス冬はお仕事
年寄りに若い若いと言われても若くはないぞ子守に感ず
夏の海夏のプールと出かけては無慈悲な夏は疲れるばかり
ぐったりと自分の時間過ごす日はかんかん照りの太陽の下

投稿者 Blue Wind : 05:47 PM | コメント (0) | トラックバック

あらしあらし過ぎゆくあらしひねもすはまったりとした秋風の吹く

◇BBS詠
青春のサウンド流れCDをレンタルしてはまた戻しゆくなり
新たにぞ並んだCD買い足せばあまり聴かないここちするかな
なつかしいサウンド流れひねもすは鈴木重子か平井堅買う
この次はスタイル・カウンシル買おうかと思ってみても店にはあらず
カフェの音なじんだ声の流れゆきスコーンを食むささやかな店
親の世話子どもの世話と過ぎゆかば優雅なカフェは息抜き時間

てらてらとPCオンし眺めればまたやってるとほくそえむ吾
あらしあらし過ぎゆくあらしひねもすはまったりとした秋風の吹く
名物を眺めてみては同じ顔ならんでおりし知らぬ文字あり
あの人はこの人はなど気にしても名も忘れつつひねもすはゆく

栗あらし過ぎてしまえば木枯らしの吹く季節かな落ち葉舞うみち
つぎつぎと固有名詞のうつろえばつぎは誰かとのんびりながむ
くるくると入れ替わりては誰の番また逃げられて集めて散りぬ
ひまつぶしネットの闇をながむればこれも時世と歌に詠みたり

◇ご返歌
芝庭はドッグランかなオト走る縦横無尽疾風のごとく
テラスドア引っかき傷で曇りゆく爪を切られた気短な犬
木枯らしの吹くつくばねはあらくささえもしおれゆく原

自生するミニトマトにはおどろきぬ捨てた実の場所家陰にあり
旅行中とけてしまったメロンなど丸ごと捨てて蔓の伸びゆく
キャベツの葉赤くなりては食べ頃を過ぎてしまいし黄花を眺む

友だちと優雅にスコーン食べながら母の病室忘れて過ごす
ささやかな楽しみのあるひねもすはアートの時間いろどりの庭

投稿者 Blue Wind : 12:28 AM | コメント (0) | トラックバック

November 14, 2004

危ないよ落っこちないかと気にしては小鳥は軽く空飛びまわる

☆時空詠歌

詩編 83. 2-5
ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

みことばに小指一本引っ掛けて薄氷のうえそろそろ歩む
危ないよ落っこちないかと気にしては小鳥は軽く空飛びまわる
ジーザスの笑み見えたなら立ち止まりほっぷすてっぷじゃんぷするまま
ふうわりとみそらのうえに飛び込もう子どものように無邪気に笑い
楽園はふわふわとした雲のなかわたあめ探し雨は降るらむ

時空があるから、こういう歌詠めるのかも・・・悩む。
次から次・・・

コリントの信徒への手紙 一 5. 9-13

神の愛問われた春は過ぎ去りし夏のアシジは炎天の丘
暖かき秋の庭には薔薇の花次々と咲き枝を伸ばしぬ
あらしあらし敷島あらし通過するライトの映る舗道を走る
秋の空澄み渡りては輝けば雲間の月に虹のかかりぬ

滅ぼされ解散したよあっけらかん終わらないのは嫌がらせかな
滅ぼされ解散したよあっけらかん終わらないのはジーザスの愛
鬱々と言っても無駄とあきらめてアングラの壁光の頭上
鬱々とあらしやめてと書いてみてデモ行進の虚しさを知る
鬱々と反撃開始みことばをアップしてみて下手な歌詠む
聖書読むひねもすさえもバカにするこころなき人絶えることなく
旧約と新約聖書くりかえし昨日と明日の話し合いかな

六十年生きてきたのかあの人は敵滅ぼして敵と戦い
ほえほえとほえほえとして吠えまくる闇夜の月は地球を回る
のんびりとスタイル・カウンシル聴く夜は80年代さざめきの音

エゼキエル書 45. 10

正解を先に眺めて問題を解いているよな新約聖書
信じろと言われてみてもはてはてと悩んでみては吹く風の中
鳩の羽風に飛ばしてふうわりと戻ってくるを木陰にながむ
戦いの跡形もない城の中地震の足場組まれておりし
高速のぐったり落ちた埃みち走ってみては青青とした海
天井を眺めて光もとむればポルチウンクラ覚えておりし

ぷあっとねアシジの空は広かった。足場のみちは狭くつづきぬ。
煌々と電気ライトの蝋燭は金を入れろと置かれておりし
うんざりだ。アシジのみちはひねもすを炎天にして燃やしておりぬ。
憐れみのいづこにあるか城の中ルドビーさんは何をか言わん
光る丘サンダミアーノへ入りたれば見知らぬババアわれを見つめり
聖域は遺跡なのかとながむれば空はひろびろ月と夕陽と

早朝の大通りには役者立ちぼろぼろドール真似しておりし
コムネーの裏に座りて物乞いを真似しているか嘘つき役者
役者にぞコイン渡すかいやしなき通りゆく人いやしを求め
喧騒の夏のアシジに犬は寝るクルマも人も彼を避けゆき
石ころに一つの歴史求めては壁の向こうに低き山並み
失望と炎天の道歩みつつ落ち葉のような石畳みし

ルカによる福音書 13. 1-5 悔い改めなければ滅びる

悔い改めるってことがいまいちわからん。
いけにえのこひつじ、か。

火の中の神戸の街を眺めては何もできない虚しさを知る
天井の降ってきたよな大聖堂ながむる人ら何を思いし
ピンセット巨大なジグソーパズル解き欠片一つを組み合わせゆく
ぐらぐらと積まれた石の固まらぬカルチェリ庵の石ころを見る

十字架は足台なのか岩登り並んだ子らを撮るおやじかな
礼拝は何のためにぞあるものと明るい声とくそおやじゐる
わたくしは弱い人なのジャッポーネ鬱々として闇闇とする
明るくも虚しきアシジ歩むとき昼寝している犬は賢し
おらおらと入り口塞ぐ若坊主足を跨がぬ習慣なのよ
ロザリオを土産に買って悪いかと番号書いて掛け算記す
喧騒の広がりゆかばショップには怒鳴り声ほどよく響くかな
火照りゆく指先だけが知っている聖域キップ地から天へと

石ころよ積んでくれよと転がれば君一つだにいやしとなりぬ

エレミヤ書 34. 8-22 奴隷の解放

石ころ一つのほうがいやしがある、巨大な聖堂より・・・
アシジってそういうところ。

◇BBS詠
サングラスもどきを掛けて東陽に向かいて走る夫を見送りき
サングラス焼けかな肌のしみのあと指一本で隠してみては
朝の道西へ向かいし夫の黒いグラスもどきはいづこにか消え
軽やかにスタイル・カウンシル聴いて懐かしんでは夜は深まりし
ひねっても浮ばぬ歌も何気なくその一言で想い出過ぎり

投稿者 Blue Wind : 04:37 AM | コメント (0) | トラックバック

November 13, 2004

ホセア書 5. 18-19

  彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね
  恥知らずなふるまいに身をゆだねている。
  欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み
  彼らはいけにえのゆえに恥を受ける。

投稿者 Blue Wind : 11:45 PM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

投稿者 Blue Wind : 11:43 PM | コメント (0) | トラックバック

ダニエル書 3. 24-25

  間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。
  「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」
  彼らは答えた。
  「王様、そのとおりでございます。」
  王は言った。
  「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」

投稿者 Blue Wind : 11:34 PM | コメント (0) | トラックバック

歌くらい静かに詠めよお笑いのテレビの時間犬は欠伸す

◇時空詠歌
夕餉にぞ家族揃って鍋囲む何気なさには幸せの顔
高らかに笑い声する時間帯オクターブ伸びテレビみる吾子
モニターを眺め高らか笑い出す無邪気な声のなお朗らかに

団欒もまじめな顔で歌を詠む背に響きしはお笑いの声
微かにぞエンヤの声の聴こえれば犬の足音ペタペタ鳴りし
「お母さん」呼ばれてみればプロレスかバタ足虚しソファの上に

浮んだ、と思ったら詠まないと。
一人で夕飯食べる人がいるんだなーと思ったら、ついつい。

歌くらい静かに詠めよお笑いのテレビの時間犬は欠伸す
テレビ消し電気消さずにパタパタと階段のぼりドタドタ聞こえ
一息をPCオンし歌を詠むいい加減さにひねもすはゆく
やっとこさ静かになったと思ったらオトの鳴声連続テレビ
家事は夜今は夜かと夜更けには仕事の多き朝を待ちたり

いつのまにか、こういう劣悪?な環境でも歌を詠めるようになってしまった・・・

投稿者 Blue Wind : 09:18 PM | コメント (0) | トラックバック

風の中とけゆく羽を飛ばせども木陰の中にまた舞い戻る

アシジ、か。
娘を連れて美術館や教会を回ったり・・・祝福されて旅立つ。私のためというより、娘のために素晴らしいことだから。弟の嫁さんだけが、親が死にそうなのに、と言って怒っていた。今は、母を引き取ったので何も言えない。

娘は、鳩にパンをあげて喜んでいるだけのような旅だった。素直。

混迷の求める人ぞ十字架のイエス・キリストなぜか遠くに
闇の中照らす明かりは蝋燭の炎となりし暗き教会
死者の闇照らせば空は眩しくて青青き空宇宙へつづく
空の闇広がりゆけば月明かり眩しくぞ照る宇宙に浮び
地中よりいづる炎の消えゆかばポルチウンクラ地中の柱
地中より微かな明かり昇りゆけ空は瞬く朝な夕なと

バスは行く行きも帰りも同じ坂マクドナルドが標識となる
坂道の野原で降りる人影はいづこへ消えるバス停一つ
グレー猫狭き石段寝ておりし驚き惑い逃げ出してゆき
教会を猫に連れられ降りゆかば狭き石道ひっそりとあり
燃える陽を木陰に休む背中にはシガーボックス壁穴にある
鳩の羽拾い撒きたる石崖に風は舞い立ちふうわり戻る
風の中とけゆく羽を飛ばせども木陰の中にまた舞い戻る

ひりひりと焼けつく肌は木陰にて燃え尽きたかと鳩と戯れ
PAXと書かれた文字はカラフルに茶に緑にとネオンのように
蒼い屋根遠く眺めてたたずめば塀に座りし人らに紛れ
聖堂の白き天井眺めむれば惨劇一つここにもありき
空の星落ちてくるよな地響きはフランチェスコの見つむる壁に
笑みのない眼の光さえ冴え冴えと暗き御屋根の広がる下に
傷だらけアシジの町の裏通り重き扉の閉し並びたり
広き店飲み物だけが売られては誰も居ぬのにレジ待つ男

ダニエル書 3. 24-25

落書きはイタリア人の習慣と駅舎の絵文字車窓に眺む
坂道を延々とゆく途中にはガムの御籤の巻かれておりし
美しき空を詠めよと退廃はひねもすの文字うつつを眺む
儚くも苛立つ空の眩くも厳しき陽射し隠す雲なく
横切れば低きホームはすぐそこにあれども暗き階段下りる
遠回り好きなんだねとイタリアは客を乗せゆく細長き道
「日本語を話しているよ」と聞こえれば小さなおさげ前を歩きぬ

混迷は濃厚な影真昼かな照りゆく陽射し狭き歩道か
一列に並んで歩く真昼道寄り添う壁は切れることなく
ウンブリア壁の向こうに広がるかランチタイムとピザの匂いと
撃ちつける陽射しまぶしきウンブリア夕闇を待つ午後8時なり

ひたすら暑いという記憶しかない。雨も霧もない。夏。
教会入ると、真っ暗闇。
買ったとたんにアイスが溶ける。冷蔵庫もエアコンもない部屋。
暑いピザ屋の店内。真夏のストーブみたい。しかも窓もない。

扇風機入り口置かれ熱風をくるくる回す窓のない店
融けだしたアイス受け取り財布からコインを探す制限時間
ぐったりと通りの椅子で待ちたれば忘れた頃にメニュー持ちて来
鉄道はたくさんあると言われてはタイムテーブルしばらく見つめ
茫洋とラテン時間のひねもすは鐘に始まり炎天の夏
飛ぶか、鳩、そりゃないだろとパン撒けばいづこともなく集まり来る

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

炎天下浦島の子ら敷島の嵐を知らず陽に撃たれきぬ
炎天下浦島の子は母の顔二倍膨るる姿を知らず
濃厚な陰道歩く思いする炎天の陽を避けて通れり
殺伐と思い寄するか高き天地には伏す人転がっており
天井の白き空洞ながむれば光と闇とおとづるるまま
薄氷の希望のみちをあゆみつつ炎天下とは、炎天下なり。
壁のみち落書きながめあゆみつつこころのペンで翻訳しせり
しあわせの落書きながめ落書きは罪なくもあり罪深くあり

ぐわっ、朝からカキコが入っている・・・

ホセア書 5. 18-19

純粋に詩歌の好きな人たちだけって言っとるだろうに・・・また恥かくかな。悩む。
はっきり言おう。鬱々するから・・・


◇ご返歌
雨の降るしづかな野には尾花咲くうなだれ待つか雲間の月を
ロンドンの夏を思うか今日の陽は寒々として芝生の香る
茫洋の月日はめぐる彼方より新たな日々の訪れるかな
明日こそは新たな夢の広がるか旧き友さえつぎつぎ変わる
春薫る風の匂いに運ばるる散りゆく花を秋にてぞ思う

雨上がり小鳥の声の囀ればあいも変わらず名も無き君か
朝も鳴き昼をむかえて小鳥鳴く秋の庭には餌もなかりき

投稿者 Blue Wind : 02:18 PM | コメント (0) | トラックバック

ホセア書 9. 7-9 預言者への憎しみ

  裁きの日が来た。
  決裁の日が来た。
  イスラエルよ、知れ。
  お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので
  預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。
  預言者はわが神と共にあるが
  エフライムは彼を待ち伏せて
  その行く道のどこにも鳥を取る者の罠を仕掛け
  その神の家を敵意で満たす。
  ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く
  主は彼らの不義に心を留め
  その罪を裁かれる。

投稿者 Blue Wind : 01:29 AM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 15. 12-34 死者の復活

  キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
  しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになったのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
  そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼などを受けるのですか。また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、
  「食べたり飲んだりしようではないか。
  どうせ明日は死ぬ身ではないか」
ということになります。思い違いをしてはいけない。
  「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」
のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

投稿者 Blue Wind : 01:25 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨブ記 24. 12

  町では、死にゆく人々が呻き
  刺し貫かれた人々があえいでいるが
  神はその惨状に心を留めてくださらない。

投稿者 Blue Wind : 01:09 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 6. 20-26 幸いと不幸

  さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
  「貧しい人々は、幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
  しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
  あなたがたはもう慰めを受けている。
  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である、
  あなたがたは悲しみに泣くようになる。
  すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

投稿者 Blue Wind : 01:07 AM | コメント (0) | トラックバック

November 12, 2004

低コスト

題詠マラソンの単行本化ということで、それが売れるかどうかで主催者側は頭を悩ましているかもしれない。自分的には売れないと思っている。消費者はシビア。
そこで、今年は参加者が3冊を買い上げるという形で赤字を抑えようという。個人負担が6000円程度なら、かなり良心的なイベントのような気がするけど、ウェブのことを考えると、読者がタダで読めるものに金を払うかどうか極めて懐疑的。
こういうとき、しみじみ子どもは強いと思ってしまう。幼稚園の学芸会がホールを借りて、しかも午前・午後の部入れ替え制にしなければならないほどの盛況ぶりを考えると、個人でチケットを売らなければならない世界はシビア。赤字を出さないということが自慢だと言っていた意味が何となくわかる。
初出しにこだわったり、著名な歌人にこだわったりする理由がここにあるのかも。つまりは、売れなければ赤字・・・
ごく普通に結社に会費を払ったり、こういう風にアンソロジーで出す分には個人負担は小さい。だから、趣味の世界として細々として続けていられる。ところが、いざ歌集を出版したりすると、まるで売れなかったら出せば出すほど生活を圧迫する。これではよほど余裕がある人でなければ続けるのは困難となる。
しかも、これだけたくさんの賞が大盤振る舞いされている裏側には、箔がつかないと宣伝価値もないのかもしれないとすら思ってしまう。スポンサーというわけではないけど、プロ野球みたいに赤字になってもよいという具合に選手を食べさせてくれるところがなければ続けられない。

正直、一冊二冊なら付き合いで買ってもどうということはないかもしれないけど、結社だ何だと付き合いを広げて、売買の関係性が成立することを考えると不毛だ。歌集を買ってくれるから友達とか?いやはや・・・
本末転倒。
生きるに必要のない世界だから、歌にいやしがある。ネットと同じかも。そういう意味で冷たいと言われるのなら、それも仕方がない。
それで、か。いきなり、歌集を出したら20冊買ってやると言われたと言ってやれと言われたのは・・・・そういう苦労をしたことがないからわからない。
オンデマンドで5万円くらいで出版し、10冊くらい知り合いに配っていたほうが合理的なような気が・・・
インターネット歌人のノウハウでも書いたほうが売れそうな気がするくらいだわ。

こーね・・・だから、ウェブで見ごたえのあるページをつくろうとしたり、アンソロジーだったり、やる側に意気込みがなければできないね。
イラスト一枚500円か・・・・シビア。
なんか、ようやく皆の言っていた理由が理解できるようになったあたし・・・
が、しかし、歌を詠んでいるだけなら金はかからんのよ。
世の中ってヤツは・・・

投稿者 Blue Wind : 11:30 AM | コメント (0) | トラックバック

November 11, 2004

囀りも朝の小言に聞こえたり静寂の中夜は明けてゆく

普通だったら、家庭がいやし。親元に帰ればほっとするのが普通。たしかにそういう一面はあったとしても、わたしの場合は、母の顔を見るともうダメ。たちまち反抗的になり、セロトニンが失われていく。人によってはそれが父親だったり母親だったり、継母だったり、腹違いの兄弟だったり、はたまた舅、姑だったり、いささかそういう違いはあるものの、他人のほうがまだましというケースはめずらしくない。夫婦だったら離婚すればいい。もともと他人だもの。が、しかし、肉親となるとそういうわけにもいかない。

恋愛は楽だ。親は入って来ない。ところが結婚すると、きちんと親がセットされてしまう。
姑さんが来ると、ダンナの鬱々が始まる。うちの親が来ると、わたしの鬱々が始まる。ある意味似た者同士だから一緒にいられるのかもしれない。
ダンナの姉は、一人は子ども無く夫婦で無人島へ行ってしまう。もう一人は近頃大きな犬を2匹飼い、行くと姑さんは部屋からも出られない。うちの弟は母親思いではあるが、それゆえに母とは犬猿の嫁。ああなると誰も近寄らない。それが彼にとっての平和なのかも。

皆、自分を救うだけで精一杯。

ルカによる福音書 6. 20-26 幸いと不幸

まあ、いいか・・・どこも家庭の中はハッピーだから。
愛に飢えているから、自分の世界を守るために必死。

マイホーム親から離れマイホーム苦労はしても独立を得る
ささやかに離れ小島を求めては大家族にて暮らす人ら見
一時期の震災離婚流行たる雲行き遥か今は新潟

スコールを走りぬければ天空は雲一つだに浮んでおらぬ
黒い波白い飛沫をなびかせてボートは走る一目散に
青い空透きとおる波もとむれば島をめざしてスピード・ボート
ビーチには焼けた人らの寝ておりし雨粒一つ知らないように

悲しみをとおりこしては病室は元気な人らの足音響く
寝ていても褥瘡だらけ動かねばなお苦しいと大きな機械
苦しみを知らぬ人らの明るさはカーテン越しの光のごとく
かごと渦沈みつつあれ終いには苛立ちながら電話で怒鳴る

退廃よ、カーテン越しに光る窓、空気のために開かれた窓
どうやって明るい気分で過ごせよか死のたちこめたぎこちない部屋
バタバタと元気な人の足音はうんうん唸る病人の前
死ぬのならひっそりとした窓の下生きているからリハビリ機械

退廃よ、生きて生きてとただ生きて苦しみだけがつきまとってる
畳まれたマットは誰を待っているゆきてかわるは寝ている人ら
慢性の寝たきり部屋におりたれば家族の顔を互いに知らず
急性期治る人らの寝ていれば見舞いの足の絶えることなく

もう何もしないでくれと言いたいが可愛い笑顔実習生かな
新しいリハビリ機械触りたるウキウキとした若き未来か
わが母をいけにえとしてさしだせば笑顔まぶしき働く人ら
未来とは彼らのためにあるものと明るくもあり失望もあり
断層はわれのことかと嘆きたる思いせし部屋立ち止まりたる

ヨブ記 24. 12

静かに死を待つという発想がないからね・・・若い人も老いた人も。何もしなければ明日の朝には死んでいる。だから、何もしないではいられない。なまじか自分の親だから、つまらないこと言えない。このジレンマ。
一生懸命やってくれているわけだ。礼は言えても文句は言えない。なんかじりじりしてしまう。胃ろうは大腸に負担をかけないから素晴らしいことだと説明されれば納得するしかない。リハビリも。生きているからやらねばならない。なんなんだ、このつらさ。自分の時は嫌だと思いながらも諦めている。ほんじゃ、親を番号で呼んでいるようなところに入れたいか?それもなぁ・・
死の臨床・・・・って意識もほとんどないのに。オンオフの世界。作業の邪魔っぽい。
世の中には抗生物質がないからというだけの理由で泣いている人たちもいるというのに・・・このいやしのなさ。神さまにお願いする前に、可愛い笑顔の実習生がやって来る。明るいよ。明るすぎてぎこちない部屋。

ぶらさがる管の数だけ数えても色を見ないと区別はつかぬ
ほいほいと次から次と新しい業くりかえし泣く暇はなし

国にお金が無くなったら、誰かわたしのために泣いてくれるだろうか・・・諦めよう。

断層の静かに眠る胸のうち眠れぬ夜は避ける病室
ひねもすは眩しき闇の披きてはパジャマのために通いゆくなり
ストレスで倒れたいのはわたしだと言いたいけれどタフに生まれし
神経の刃物のように包みゆく主治医の視線互いに逸らし
管の数箱の数など増えゆかば薬の袋また増えており
誰がために増えてゆくのか投薬の袋の数だけパジャマ買い足す
神戸では姑さんがおもしろく元気よさそに家事をしており

コリントの信徒への手紙 一 15. 12-34 死者の復活

だって、薬の数が増えているのに、何もしないって思われたら悔しい・・・

もうダメだ。ストレスで倒れそうだ。元気ですけど。
理屈でも理解しているし、一生懸命によくしてくださっているのもわかるし、これで不満を言われたほうは怒るような気がする。それがふつう。

やっぱ、まめに病室へ行ったり、物資を届けたりしていると、安心感があるのかも。目に見えるから。管も薬もリハビリも。

常識仮面。

ほとんど来ないって悪口言われて昼寝しているほうがまだ救われそう・・・
愛がないというのは憐れみもない。

蹲る貝殻のなか入りたいぱくぱく波を吐き出すあさり
海の泡飛沫の中に紛れ込み砂に潜りて波に消えゆけ
愛のない苦しみは生む愛せない苦しみの海飲んで吐き出せ

囀りも朝の小言に聞こえたり静寂の中夜は明けてゆく

鐘の音の朝が来たれば石の壁冷たくもあり小さな窓辺
旋回す鳩の消えゆく壁の穴雨降らぬ空照りつくす道
木陰にぞ涼しき夏のありにけり熱の病の大地つづきぬ
岩面の憐れみのなか照りかえす半の影踏み並んで歩く
雑踏も紛れゆく鐘聴こえれば誘われて犬店先に寝る
生温き噴水の水教会の水の色似て音なくもあり

朝。

ホセア書 9. 7-9 預言者への憎しみ


◇BBS詠
透かし雲ドラマティックに広がればいろどる秋は風に飛ばされ
スコールのまきちらす雲黒黒と島をのみこみ影のみぞある
透かし日のうつらうつらと茜雲昼の3時に君の面影

投稿者 Blue Wind : 02:51 PM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 10. 13-16 子供を祝福する

  イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

投稿者 Blue Wind : 12:45 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨブ記 26. 2-4

  あなた自身はどんな助けを力のない者に与え
  どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
  どんな忠告を知恵のない者に与え
  どんな策を多くの人に授けたというのか。
  誰の言葉を取り次いで語っているのか。
  誰の息吹があなたを通して吹いているのか。

投稿者 Blue Wind : 12:40 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 39. 17-21

  人の子よ、主なる神はこう言われる。あらゆる種類の猛禽と、あらゆる種類の野の獣に語りなさい。お前たちは集まれ。来て、わたしがお前たちのための屠ったわたしの犠牲に向かい周囲から集まれ。それはイスラエルの山々の上で大いなる犠牲である。お前たちはその肉を食らい、その血を飲め。勇士たちの肉を食らい、国の支配者たちの血を飲め。それは雄羊、小羊、雄山羊、雄牛であり、みなバジャンの肥えた動物たちである。お前たちは、わたしがお前たちのために屠った犠牲から、飽きるまで脂肪を食べ、酔うまで血を飲むがよい。お前たちはわたしの食卓で、馬や騎兵、勇士やすべての兵士たちの肉を飽きるまで食べる、と主なる神は言われる。わたしは国々の間にわが栄光を現し、国々はすべてわたしの行う裁きと、彼らの上に置くわたしの手を見る。

投稿者 Blue Wind : 12:37 AM | コメント (0) | トラックバック

November 10, 2004

白猫のオトを見下ろす姿には箱入り娘の高慢さあり

流行歌ながむるように歌を読むいくえいくえに流れゆく音
いやしから遠ざかりてはカタコトの英語のようなトランポリンか
バウンドの法則の中揺られてるこころの渦は熟練知らず

秋空は晴れてはいても午後の陽の落つるまぶしさ避けつ走りつ
屍をながむるような母の手にまだぬくもりのある不可思議さ
リハビリの機械は置かれ人は増え邪魔者となるわれという人
癌の時叔母に涙すわたくしは母の屍満月をみる
おびただし衣類の数を捨て去りし今はパジャマを買うて虚しき
母の世話よろこばれては虚しさの残る気がするうすき憐れみ
吸引の手袋箱を買い足せば他人任せと吾は母の子
わたくしの母は叔母かと何となくそういう気する迷子のこみち
まあちゃんのお母さんはちゃあちゃんと説得されて実感のなき
ぬくもりを叔母にもとめて手を引かれ歩いた道は今は幻
東京にわたしの家はあるのよと札幌の家逃げ出したくも
母の側二人並んで座るより独り歩いて海を越えたい
たんぽぽに願いをかけてむなしくも巨大な花輪いくつもつくり
母の側ひとりぼっちの苦しみは遠くの家族儚くも消え
幼き日孤独の陰は綿帽子母を母だと他人が語り

もうそれは過去のことだと人は言いわが胸のうち静止したまま
幼子の母をもとむるせつなさは母あらざりし母をもとめし
悲しさよいくえの罪を重ねるか波うちよする浜辺のように
退廃は水面に映る満月にぽっかり空いた暗き細波
過去はもう静止したまま戻らぬも刻々として時計は回る

幸せな家族の中で育ったと不可思議に思う家族写真か
バカヤロー叫びたいのはわたしだとこころのなかで義妹に語りき
義姉さんは娘なんだと言われても釈然とせぬ言い訳さがす
諦めて世にならいては親の世話理屈っぽくも割り切ってせし

なんか、ややこしいわたしというひと。

従妹らと姉妹のように暮らしては誰が母かと戸惑い忘れ
あの人が母親なんだと言われては貧乏くじを引き当てたよう
燦然と輝く母は他人かな悩みて育つ恨み言あり
セロトニン沸沸として泡となり母親だけがそこに寝ている
理屈ではあの人が母こころでは認めざりしとわがままの出づ
実の母継母なんだと言ってくれまだ救われる気がしておりし

親の世話が嫌なのではなく、母の側にいるのが嫌。

こんなとき手首を切ると言っていた友の言葉を思い出したり
赤い血に弱きわたしはまだましか理性の中で救われている
不幸にも慣れてしまえば虎の穴涼しい顔で浮遊を待ちつ
闇の中わたしのことを善人と言わないでくれセロトニン失せ

なんか、もううんざり。死にそうな退廃。

エゼキエル書 39. 17-21

腹の底では猛烈に拒絶反応が・・・
一番泣きたいのは母だろう・・・あの世で神さまに言ってくれ。
わたしは知らん。

それでもこれだけしているというのは、ほとんどナルシズムにも似ている。
ぼこぼこに蹴っ飛ばしたりしているほうがまだ素直な気がしてしまうくらいだ。
暴走族とかなぁ・・・・・なんかうらやましい。
冷蔵庫持って行った兄ちゃんたち、元気にしてるだろうか。
木更津に帰れば総長か・・・なんか笑ってしまう。あんなにおとなしいのに、世の中はわからん・・・
あなたたちがいるから、わたしはすくわれた。なんかへんだな。

がんがんに風切り走る轟音に爽快感の蹲る夜
卒団を済ませたからとハーレーの借金地獄迎えておりし
二十歳ではおじさんなんだと言い訳し働く顔に幼さのあり
クレーンなら金になるよと婿になり嫁は十代子どもは二人
がんがんに走りぬけたか十代をまぶしき二十歳成人となり

なんか、成長しとらんね、わたしは。

ヨブ記 26. 2-4

家を飛び出しても親の金。

ひねもすをつまらぬ歌を詠んでいるつまらぬわたし鬱々といる
颯爽と風切るように女神にもなれないからか平凡な主婦

もういいよなぁ・・・・・が、しかし、このまま死ぬのだろうか。
なんでもいいや・・・・どーでもいい。

ぼこぼこぼこ。老人虐待。ぼこぼこぼこ。げほげほげほ。
医療というのは虐待にも似てるね・・・あのようにまでなると。
脳を開けて、首に孔を開けて、胃に孔を開けて・・・・点滴して、注射の跡だらけ。年中、痰が絡んで吸引。首から鼻から。排泄も自力では無理。そのうち酸素マスク。
ヨブだらけの世の中になってしまった。
あんな状態なのに、リハビリ・・・行っても邪魔みたいだからすぐに戻る・・・
あれ、親だからまだしも、娘だったらかわいそうで見てられない。のに、あれが素晴らしいらしい。世の中どーなっているんだろう。
娘だったら点滴していてもかわいそうなのに、年寄りなんて風邪程度でも点滴してほしいと言う。ニーズが違うから仕方ないのかも。荷物運んでいるほうには大変ですねと言ってくれても、患者はあれが当たり前。

もう、年寄りが病気になってもかわいそうだとも思わなくなってしまった。赤ちゃんなら熱を出しても点滴してもかわいそうなのに。若い人が死んだらショックなのに、年寄りが死んでも当たり前。当たり前か・・・

失って悲しいいのちいくつある、の世界だな・・・

マルコによる福音書 10. 13-16 子供を祝福する

おちびやオトぴょんのほうが可愛いのだから仕方が無い。


◇時空詠歌
亡き妻の忘れ形見をそっと抱く夫の愛娘老いた白猫
きらきらと眩しいような秋の庭オトは吠えたり柵の内側
白猫のオトを見下ろす姿には箱入り娘の高慢さあり

投稿者 Blue Wind : 03:23 PM | コメント (0) | トラックバック

November 09, 2004

ルカによる福音書 17. 20-21

  ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

投稿者 Blue Wind : 11:44 PM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 22. 1-6 イエスを殺す計略

  さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群集のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

投稿者 Blue Wind : 11:42 PM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 30. 15-17

  なぜ傷口を見て叫ぶのか。
  お前の痛みはいやされない。
  お前の悪が甚だしく
  罪がおびただしいので
  わたしがお前にこうしたのだ。
  それゆえ、お前を食い尽くす者は
  皆、食い尽くされる。
  お前の敵は皆、捕囚となる。
  お前を略奪する者は、略奪され
  強奪する者は、皆、強奪される。
  さあ、わたしがお前の傷を治し
  打ち傷をいやそう、と主は言われる。
  人々はお前を、「追い出された者」と呼び
  「相手にされないシオン」と言っているが。

投稿者 Blue Wind : 11:36 PM | コメント (0) | トラックバック

「加藤先生」

サイバー上において、わたしはあまり固有名詞を使った書き方をしない。それは自分が書き手であると同時に読み手であるからでもあり、飛ばすほうならキャッチするほうでもあるからである。
久しぶりに検索などをし、偶然、加藤先生の古い日記の過去ログを発見する。この、「加藤先生」という書き方も、BBSに書いたら、固有名詞を書かれても知らないからやめてほしいと言われた。つまり、どこの「加藤先生」かわからないからであり、世の中にはおそろしいほどの「加藤先生」は存在しているのだろうし、歌人の加藤治郎さんと伝えても結局知らないからやめてほしいと言われた。
これってつらいけど、あまりにもよくある話なのでなおつらい。結局、主宰の名前ですら知らないのが世間なので、要するに歌人でなければ知らないのだそう、歌人の名前なんて。ついでに言えば、わたしも知らなかったし、今でも知らない名前のほうが多いのだと思う。
そこで驚いたのが、加藤先生のインターネットに対する期待感である。つまり、インターネットになら推定3万人の歌人がいるという幻想。もしかするといるのかもしれないけど、実際には匿名の世界なので、純粋にネットだけで歌人をしているという人は少ないかも。
どうして数字の大きさに期待が集まるのかというと、購買・購読層の確保という点の期待なのかもしれないとふと思う。同じように期待はずれに悩んでいるのが、村松恒平さんかもしれない。無料のメルマガなら、1万人とも2万人とも言われる読者が有料化したとたんに購読が止まってしまう。ウェブは基本が無償提供の世界だから、金を払ってまでという人たちは少ない。
だからこそ、詩のサイトですら著作権のことがあり、かなりのサイトが閉鎖してしまったような気がする。個々に対する圧力はなくても、サーバなどに対しての圧力があれば、それがどうしてもユーザに広がる。いきなりのサービス停止とかね・・・

歌壇の特殊性というか、結局、歌壇を支えているのが歌人であるという閉塞性を考えると、とてもじゃないけど一般の読者を獲得するのは極めて困難な気がしてしまう。空手とか、書道、華道などを考えると、それはそれでかまわないのかも。特定のファンがいて、趣味の世界。同じ趣味を持つ人たちが何となく集まる。その中のごく一部の人たちがいわば仕事として生きている気がする。
それとは別に、ネット。
これはサイトを管理しているだけでも何となく感じたりする。つまり、ネットに求めているのはチャット仲間だったり、見知らぬ者同士の気軽な交流だったり、その集会の手段として、何らかのコンテンツがあるとか、ないとか、コミュニケーションだけを求めている人たちも多い。ちらっと思ったのだけど、いわゆる歌壇や文壇などの濃厚な人間関係とはまったく異なる世界であり、つまりはこれを指してインターネットの儚さを批判しているのだ、と。
結社に入れば、そりゃオフ会ではなく、懇親会やら歌会やら、もともとがそういう世界なのだから、当然、深い人たちになれば、濃厚にそういうお付き合いの世界を掻い潜って行くわけであり、そこから仕事が派生したり、作歌活動が支えられたりするのだから、おそろかにはできない。
が、しかし・・・・・
が、しかし・・・なのである。
歌を詠うだけなら、そういうものに顔出しする必要性はない。
そういう濃厚さが好きな人たちもいれば苦手な人たちもいるだろうし、華美を求めて歌人をしている人たちも少なからず存在するのだろうし、自分的には今さらという気がしなくもない。
しかも、歌集を出版するために150万円は用意しろと言われたとか、オンデマンド出版なら55万円で出せるとか、凶暴な世界だと思った。よっぽど経済的に余裕があるか、出版物が売れる人でなければ結局ぽつりぽつり結社に投稿するくらいしか発表の場がないとこぼす人がいたとしても無理はない。庶民として考えれば、それなら自分のサイトに歌をアップして誰かに見に来てもらうとか、そちらのほうが救われるような気がしてしまう。
あのランボーですら、自分で出版しようとした詩は僅かしかない。
今さらながらになるほどなーと思った次第。
こりゃ相当大変・・・
が、しかし、ネットでやっていたらお金かからないもん。ゆるせ、かとー。(←呼び捨てにしたら叱られるよん・・・真似しないでね。)

投稿者 Blue Wind : 10:16 PM | コメント (0) | トラックバック

November 08, 2004

薬すら意味なくもある夏の日を知らぬ人らの秋の花園

屍になって生きよと神さまは寝たきりの母高熱与う
今はまだ抗生物質効いている母はまだまだ元気な証拠
薬すら意味なくもある夏の日を知らぬ人らの秋の花園
細々と衰えゆくは手足かな軽く動かし苦痛にゆがむ
オムツより先に無くなる吸引の手袋をみて容態を知る
まっすぐに上を向きたる屍の浮んで消えゆ母は横顔
こうやって上に向けよか悩んでるわたしは何を考える人
三色のパジャマを買って眺めては黄はババアだと考えている
おおげさな熱のしらせにおどろかぬわれは冷たき胎内にあり
弟にメールを書くか考えて慌てぬ秋は五年の月日
母の呼ぶ叔母の来たれば熱よりも時は近しと覚悟を決める
今はまだ大丈夫だと叔母ちゃまは一人つぶやき誰と話すか
弱まれば吾子に訊く吾変わりもの確信満ちた子にすくわるる
虫の音の誰に歌うかひねもすは透明な糸つながれており

エレミヤ書 30. 15-17

こんこんこん こころのドアをノックする憐れみ深き人らの季節
あなたにはあげる愛などありませぬ餓死寸前はあたくしのほう
嫌がらせ誹謗・中傷下駄の音もうこれ以上やめておくれよ
不幸なら夜空の果ての神さまに文句言ってよ星の数あり
不満なら一票持って投票に蹴飛ばしたとて足痛むだけ

なんか、もう、うんざりだよなぁ・・・
みんな死んじゃうから、あたしは今は叔母ちゃんにしがみついている。
そういう弱い人にいやしを求めないでほしい。

ルカによる福音書 22. 1-6 イエスを殺す計略

イエスが死んだ後のことを考えていたわけだ・・・ユダは。
アッシリアやエジプトに救いを求めた罪。
ある意味、普通の人なんだよね・・・すごくまともな人のような気がする。

自衛隊義務を果たすか同盟のかたき絆とユダの裏切り
サマーワのキャンプの様子メルマガは伝えていたが治安は悪化
じゃがいもを煮ながらイラクかんがえる夕餉の時間吾子を送りき
愛薄き時代の秋はよわき叔母夕餉の仕度生き甲斐と言う
リウマチで太き関節曲がらぬも包丁持つが握力の愛
すこしずつ支えられてはともしびの激は飛びゆくかすかな光

ルカによる福音書 17. 20-21

投稿者 Blue Wind : 06:10 PM | コメント (0) | トラックバック

ホセア書 8. 7-14

  彼らは風の中で蒔き
  嵐の中で刈り取る。
  芽が伸びても、穂が出ず
  麦粉を作ることができない。
  作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
  イスラエルは食い尽くされる。
  今や、彼らは諸国民の間にあって
      だれにも喜ばれない器のようだ。
 
  エフライムは独りいる野ろば。
  アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た。
  彼らは諸国に貢いでいる。
  今や、わたしは諸国を集める。
  諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって
  彼らはもだえ苦しむようになる。
 
  エフライムは罪を償う祭壇を増やした。
  しかし、それは罪を犯す祭壇となった。
  わたしは多くの戒めを書き与えた。
  しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。
  わたしへの贈り物としていけにえをささげるが
  その肉を食べるのは彼らだ。
  主は彼らを喜ばれない。
  今や、主は彼らの不義に心を留め
  その罪を裁かれる。
  彼らはエジプトに帰らねばならない。
  イスラエルはその造り主を忘れた。
  彼らは宮殿を建て連ねた。
  ユダも要塞の町を増し加えたが
  わたしはその町々に火を送り
  火は城郭を焼き尽くす。

投稿者 Blue Wind : 01:59 PM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 1. 4-9

  わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

投稿者 Blue Wind : 01:50 PM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 4. 1-5

  こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

投稿者 Blue Wind : 01:45 PM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 10. 19-20

ペトロがなおも幻について考え込んでいると、”霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」

投稿者 Blue Wind : 01:39 PM | コメント (0) | トラックバック

模様眺めの理由

近頃、** Blue Wind ** Tanka Blog のアクセス解析を眺めていると、古今和歌集のページからアクセスしてくれる人が多いことに気が付く。「古今和歌集 口語訳」で検索すると、いつの間にやらトップになっている。
このページは、ブログをつくる際にデザインを決定するために試しにつくってページ。せっかくつくったのにもったいないとばかりに、これだけちょこんとリンクしてある。
で、験をかつぐ意味もあってか、中途半端に訳してみたものが実はサイトの一番最初のブログ記事となっている。
こんなことなら、いっそのこと古今和歌集の独立ページをつくってしまうとか?
アクセス数を稼ぐつもりなら、それこそそういうメジャーなページをつくるべきなのかも。それはわかっているのだけれど、時間が足りない。(言い訳か?)それを考えると他人のつくったページをリンクするというのは実に簡単なのである。その代わり、消えるのも早い。

題詠マラソンで検索すると、何故かわたしのページが一枚出て来る。
「つくば 短歌」で検索したら、どういうわけか短歌履歴のほうが出て来る。こちらはまるで更新せずに放置サイトになっているため、どうしてこれが出て来るのか不思議。そこがインターネット・ミステリー。

どうしていきなり古今和歌集のことを考えたのかというと、たしかにアクセス数のこともあるけど、題詠マラソンの感想会とか、いわゆる歌の鑑賞という意味で何となく古典を思い浮かべただけ。選者という言葉や、鑑賞、歌会、あれにこれにと今さらながらに短歌というのは和歌なんだなーという気がしたから。
和歌や古典といえば思い出すのは、遥か昔の受験勉強・・・悲しい。おそらくは大学受験が終わり、大学院受験で浪人し、前期課程が終わったと思ったら、またすぐに後期課程の受験があり、わたしの人生の大部分はこういうことに費やされていたのではないかと思ってしまう。(おおげさ・・)
わたしはもしかすると、短歌が嫌いなのではなく、そういう受験勉強などを思い浮かべてしまうから自分で勝手に嫌いだと思っているのかもしれない。好きな教科ならともかく、古典となるとそれこそ現役の頃もかなり手を抜いていた気がする。範囲が限られていたせいかもしれないけど、勉強したという記憶ももはや失せている。
無意識のうちに、どこか避けているような気がしてしまう。
いや、きっと避けているのだろう。

話を元に戻すと、どうして古今和歌集のページをつくるのをやめたのかについては、たしか著作権のことを考えるとややこしいという理由もあった気がする。古典だからとっくの昔に著作権自体は切れているんだけど、結局、それをどこかの本から転載したり、サイトで配っているファイルなどを使ったりするわけで、ウェブは無償配布の世界だから捜せばいくらでもあるんだろうけど、なんせ聖書にも著作権がある時代だから、それを考えると非常に面倒。聖書の時にも結局、献金という形で間接的に許可をもらったようなもらっていないような中途半端なところで落ち着いている。これが出版物に引用するとか、布教目的とか、あらかじめ明確な理由であれば規定があるのだろうけど、個人サイトでの写教聖書という形になると判断が極めて難しい。決して悪いことではないにもかかわらず、著作権のことがあるという・・・なんで聖書に著作権があるのか不思議な気がするけど、出版社というのは完全なボランティアではないからある意味仕方がない。で、著作権料の支払いというのもヘンなので、献金ということで落ち着いた。
古今和歌集ということになると、どうなるんだろう・・・悩む。
和歌のサイトで、たしかあるサイトが別のサイトをコピペして和歌の部分をアップしていたのかな・・・よく知らないけど、それが理由で大いに揉めているという記事を読んだことがある。百人一首のサイトかな・・・もはやそれすら覚えていないけど、歌自体は同じなのに、コピペというのが気に入らなかったのだろうか。平仮名とか漢字とか、アップしている人によって微妙に違いがあり、それがまったく同じだったという理由で、コピペがばれたらしい。
それくらいどうでもいいような気がするんだけど、世の中は非常に面倒なので、触らぬ神に祟りなし的にうちの古今和歌集のページの更新はそのままになっている。幸いにして、今のところクレームは発生していない。まあ、あれはあれで勝手にわたしがサイト用に原文に改行を入れているから、もしかするとあれはわたしに著作権があるのかもしれない。その程度の著作権であれば、どんどん使ってほしいくらいだ。

でね、選歌。
実は、わたしも以前は自分のサイトに友達の歌などをアップしていた。ところが、いろいろあってやめた。ヴァーチャルな関係性においては、誰の歌がサイトにアップしてあるとかないとか、それ自体が関係性のネタになってしまうためにややこしい。
題詠マラソンや、著作物、あるいは結社誌などから拾って感想を書いてもトラブルは発生しない。逆に推奨されているような気さえしてしまう。狭いグループの中でやっているのとはそこが違う。
インターネットなんてところは、BBSへの投稿ですら匿名のくせに一旦それが著作物に引用されたということになると、訴える人がいる。つまりは、勝手に引用・転載してはいけないのである。ただし、自分のサイトへの荒らしの記録などを保管する目的であればかまわないという判例もあるらしい。それくらいややこしい。
歌を感想などを目的に引用するのは、一般の著作権で考えても違法にはならない。が、しかし、選歌となるとどうなんだろう。これまでのサイバー上のトラブルを考えると、「えっ、そんなこと知らない人が勝手にやってもいいの?」なんて思っていたんだけど、これも推奨されている気がする。
とにかく常識が違う。悩む。

それより以前に、自分の歌のページをつくるべきだろうか・・・これもそのまま面倒だからやめている。あらゆることがややこしいために、落ち着くまでにはまだまだ時間が必要なのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : 01:09 AM | コメント (0) | トラックバック

November 06, 2004

とんかちで卵の殻を割るような神の憐れみひよこは孵る

◇時空詠歌
蝶の羽ひらひら二枚舞いたれば葉隠れのなか一枚になる
舞ふ蝶をながむるやうにきららかにひざしまぶしき静かな秋よ
蝶よ、蝶、まぼろしなのかいづこから訪れ去りしいづこの空へ

無為という月日のなかでこれほどに顔の見えない戦のつづく
妄想の極みつきたる運のつきいつまでつづく息ながき息
ひまつぶしネットの闇につきあえばあそびうたなど詠んでたのしむ
半月のほかり浮んだ夜空には明日みる夢のないうさぎおり
わが母もパジャマを着てかリハビリに曲がらぬ体いかにせんかと
特注の車椅子です母のため座ることって大変なのね
無為という不安に怯え生きるよりふたたび空をみあげる日まで

母のリハビリを始めてくださるそうです。体が硬直しているから、普通の車椅子では座れない。椅子が完成するまでしばし時間が。パジャマを着て車椅子・・・・夢のような話。

使徒言行録 10. 19-20

神の愛無為に流るる年月の後に知るらんわが生きる意味
何のため生きているかと思えどもこたえなき空うつろい変わる
あの空は日替わりメニュー明日には逢えない雲は幻なのか
あの空はいつもあるよな空だけど明日には明日の空が広がる
ひねもすはうつろいゆかば空の雲わたくしもまた浮んで消える

若者のイラクに消えたいのちにぞ刻まれる時深々とあり
わが母の無為に生きたるひねもすを淡々としてうたに詠えり
リハビリにビーズ・クッション買いゆかばイルカ売り切れはがゆくぞ思う

文字打つも難き年寄りくりかえす電子のいのち誰に与えり
”creator”憎しみ込めてキーを打つ文字の羅列に妄想地獄
誰のこと想いつのりし電子文字淡々として現れる文字
アバターの映る姿の不可思議さ一方通行戻りみちなく
アバターを描いて姿もとむれば戻りみちあれジーザスの愛
アバターを描いて姿もとむれば青青とした贈り物あり
あのパワー電子文字に託すなら神を愛するリアリストかな

コリントの信徒への手紙 一 4. 1-5

なんか、こう、あの壮絶さがあったから、わたしは幸せなのかも。単なるアバターに対してのあの執着、怨念、憎しみ、呪い・・・嫉妬。本物なんだよね・・・対象以外の精神ってやつは。「仮想敵国」とはよく言ったものだと思う。アメリカが憎いから自衛隊が憎い。自衛隊が憎いから何の関係もない人をあっさり殺す。わけわからん。
その逆も真なのかも・・・

あの人もこの人もみなイエスさまと言い切っているマザー・テレサか
アバターを星に見たててながむれば青い空には白い月かな
窓の外雲に浮んだお月さま真横に眺め飛行機は飛ぶ
あれも愛これも愛だと喜んで空から届く青い地球儀
ほっかりと地より湧きいづ平和には無という世界誘うような
輝きの似合う丘にはオリーブの木陰に沈む一休みかな
きらきらと光る丘には大きな手広げて彼は愛という風
きらきらと光る丘には一瞬のまぼろしのごと愛の春雷
光にぞ打たれて彼は大いなる光瞬く雷光のよう
春雷ぞ打たれて光溢るるはみちみちてゆくこころとそらと
大いなるタイムカプセルながむれば幻の夢わが眼にうつる
幻と言うなら言うてかまわない一瞬の夢知識の邪魔す

コリントの信徒への手紙 一 1. 4-9

知識の見せた幻なのかも・・・否定するなという。

神さまとお話をするひねもすは無為かまぼろしわれにも知れず
ヘンな奴自嘲気味につぶやけば上には上がいることを知る
天空のタイムカプセル受け取れば巨大な空はいつぞ現る
つもりゆく言の葉の海潜りたる区切りをいつと語れぬ水面
あきめくらキャンバスの色みまごうかちしきの絵の具つかえというか

たしかに立体感に欠けるかも・・・かんがえよう。ちかごろ勉強嫌いだから・・・なまけてるね。

ホセア書 8. 7-14

とんかちで卵の殻を割るような神の憐れみひよこは孵る

投稿者 Blue Wind : 04:10 AM | コメント (0) | トラックバック

ホセア書 5. 1-7 イスラエルに対する審判

  聞け、祭司たちよ。
  心して聞け、イスラエルの家よ。
  耳を傾けよ、王の家よ。
  お前たちに裁きが下る。
  お前たちはミツバで罠となり
  タボルの山で仕掛けられた網となり
  シッテムでは深く掘った穴となった。
  わたしはお前たちを皆、懲らしめる。
  わたしはエフライムを知り尽くしている。
  イスラエルがわたしから隠れることはできない。
  まことに、エフライムは淫行にふけり
  イスラエルは身を汚している。
  彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。
  淫行の霊が彼らの中にあり
  主を知りえないからだ。
  イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。
  イスラエルとエフライムは
  不義によってつまずき
  ユダも共につまずく。
  彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが
  見いだすことはできない。
  主は彼らを離れ去られた。
  彼らは主を裏切り
  異国人の子らを産んだ。
  それゆえ、新月の祭りが
      彼らをも、その所有をも食い尽くす。

投稿者 Blue Wind : 12:25 AM | コメント (0) | トラックバック

イザヤ書 34. 8-15

  まことに、主は報復の日を定められる
  シオンにかかわる争いを正すための年を。
  エドムの涸れ谷は変わってピッチとなり
  その土は硫黄となる。
  その土地はピッチとなって燃え上がる。
  夜も昼も消えることなく
  とこしえに、煙を立ち昇らせ
  代々にわたって廃墟となり
  永遠にそこを通る人はない。
  ふくろうと山あらしがその土地を奪い
  みみずくと烏がそこに住む。
  主はその上に混乱を測り縄として張り
  空虚を錘として下げられる。
  その土地の貴族たちには
  もはや、王国と名付くべきものはなく
  高官たちもすべて無に帰する。
  その城郭は茨が覆い
  その砦にはいらくさとあざみが生え
  山犬が住み
  駝鳥の宿るところとなる。

  荒野の獣はジャッカルに出会い
  山羊の魔神はその友を呼び
  夜の魔女は、そこに休息を求め
  休む所を見つける。
  ふくろうは、そこに巣を作って卵を産み
  卵をかえして、雛を翼の陰に集める。
  そこに鳶も、雌も雄も共に集まる。

投稿者 Blue Wind : 12:18 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 20. 18-26

  わたしは、荒れ野で彼らの子供たちに語った。『お前たちの祖父の掟に従って歩んではならない。彼らの裁きを守ってはならない。また、彼らの偶像で自らを汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である。お前たちは、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを守り行い、わたしの安息日を聖別して、わたしとお前たちとの間のしるしとし、わたしがお前たちの神、主であることを知れ』と。しかし、子供たちもわたしに背き、人がそれを行えば生きることができるわたしの掟に歩まず、わたしの裁きを守り行わず、わたしの安息日を汚した。それゆえ、わたしは荒れ野で彼らの上に憤りを注ぎ、怒りを浴びせる、と言った。しかし、わたしは手を引き戻し、わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の間に散らし、諸国に追いやると告げた。なぜなら、彼らがわたしの裁きを行わず、わたしの掟を退け、わたしの安息日を汚し、彼らの父祖の偶像に目をひかれていたからである。わたしもまた、良くない掟と、それによって生きることができない裁きを彼らに与えた。また、彼らが初子をすべてささげたとき、わたしは彼らの献げ物によって彼らを汚した。それは、わたしが彼らを荒廃させ、わたしが主であることを知らせるためであった。

投稿者 Blue Wind : 12:10 AM | コメント (0) | トラックバック

November 04, 2004

歌人としてのパスポート

わたしね、(って誰に言っているのかわからないけど・・)歌人になって一つ気が付いたのは、なんて世論は短歌に冷たいのだろうということ。とりあえず、「インターネットで歌を詠み始めて・・」というフレーズまでは温かい。ところが、「結社に入って・・」と続けると、とたんに冷たくなる。
まあ、自分の子ども時代から今までを振り返ると、短歌や和歌は学校の教科書で習うくらいで、後は年寄りが詠んでいるとか、そういうイメージしかない。実際に調べたら、ちょうどわたしが生まれたあたりから詩が隆盛を極め、短歌や俳句は急に廃れてしまった。
自分も子どもの頃から翻訳詩などを読まされて、というか、読んで育ったくちなので、ランボーや中原中也が好き。だから、好きな歌人を問われると困る。
近頃は諦めて、小野小町と答えることにしている。とりあえず、郷土(茨城)ゆかりの歌人ということなので、一番無難ということもある。ただし、いまだにどうして小野小町と新治が関係あるのかまでは知らん。
このような有様なので、短歌はアートであるとかないとか、詩であるとかないとか、そういう高尚な次元の前に、うちの姑さんあたりになると、PTAをしていた頃の鬱憤の続きに歌会や短歌・俳句というものが存在しているらしいことにも気づく。つまり、PTAの誰某さんが歌人をしていて、自分の親しい人たちを集めてその中でグループをつくって幅を利かせていた、というヤツ。何か言おうと思ったけど、言っても無駄だからやめた。

「神さまとだけお話しせよ」という意味はさほどおおげさなことではなく、救いというのがささやかな事象を指すように、小さなことなんだと思う。
元来、詩なんてものはそういうものであり、自然を詠ったり、愛を詠ったり、日常を詠ったり、ささやかな目線の中に詩はある。

「ネット短歌」についておしえてくださいというメールをキャッチし、これもなんと言うか、なんと答えてよいのかわからない。
大抵の場合、ネットは恋歌ばかりとか、枡野さんの信奉者が多いとか、カラオケ歌壇とか、そういう悪い意味で使われることが多い。誰がそんなこころないことを言っているのか、については置いておいて、メディアとしてのネットを考えると、すでに歌壇はインターネットを無視できないらしい。
そこで検索したところ、ネットは上級者と初級者が多く、上級者は初級者の指導に手が回らないというニュアンスのフレーズを発見。
正直、「はあ?」ということで、どうしてわたしが「はあ?」と思ったことについても、どうやって書いてよいのか悩む。わたしは正直、歌壇や結社というものをまるで理解していない。誰かがカルチャーセンターと一緒にするなと怒っていたけど、あっさり語れば、カルチャーセンターでなければ水泳教室みたいなものなのかも。
まあ、メダルを取った人がいて、コーチになる、といった具合だろうか・・・だから、コーチによって選手が伸びるとか伸びないとか、素養とか、努力とか。

こーさー、なんていうかさー、詩、なのか?
そうやって考えると、一人でひっそりと恋歌などを詠んでいる人たちのほうがよほどポエムな人たちのような気さえしてしまう。

集団的努力があって維持されているとすると、その言い訳としては古典芸能だからとか、日本の文化だからとか、いろいろな言い訳が存在するのかもしれない。廃れゆくものを保護しようと社会が努力するのは当たり前なのだろう。それでいて、努力すればするほど廃れていってしまうような虚しさがある。

人にこころが消えないかぎり、詩は消えない。
だから、本当は形はどうでもいいのかもしれない。短歌でも俳句でも自由詩でも。

一人では何もできないと言われることも多いけど、そうやって言われれば言われるほど、天邪鬼は一人の世界に埋没したくなる。かといって、自分が完全に一人ではないことは承知している。歌をサイトにアップすれば、誰かが勝手に見に来る。誰にも見られたくないのなら、ローカルに置いておけばよい。
つまりは、関係性なのだと思う。
仲間内だけとか、先生に送るというのとは違って、ウェブにはそういうしがらみは少ない。勝手に詠んで勝手に読む。それがひとりよがりと言われるのなら、世の中の出版物はほとんどひとりよがり。
結社では短歌が廃れてゆく中、かつてカルチャーセンターから結社へ行った人たちと同様にネット歌人を考えているらしい。ある意味そういうものなのかもしれないし、それでいて、わたしから見たら、どうしてあんな窮屈なところで歌を詠んでいるのか不思議になることもある。固定読者がいることが強みらしい。先生に勧められた参考書を買うように歌集を買う世界だから、なおさらなのかも。

それでね・・・サイトで書きたいことを書いていて、何か困ったかと言えば、何も困らない。すごく困ることになれば、主宰が出て来て治まるようになっているらしく、自分に関係のないところで何かが生じ、何かが終わっている。そうやって考えると、自分もまた歌人をしている以上、保護されているらしい。
つまりは、あらゆる芽を摘んではいけないような状況にあるのかも。
誰かが言っていた理由が何となくわかる。このようにひまつぶしのような形で歌を詠んでいても、それは一つの文化的貢献なのだそう。
歌人としてのパスポートの発行はあくまでも短歌にある。だから、特に帰属を強く求めなくても日本人に生まれたら日本人であるように国民が政府に保護されているのと同じ。体制を批判しようとどうしようと、パスポートは発行される。

投稿者 Blue Wind : 04:27 PM | コメント (0) | トラックバック

被災地の米倉まもる連携はあらし吹き去る田畑に浮び

張り紙の裏返りたる募金箱口塞がれて隠れておりし
中越の地震の倉を襲いたる盗人ありき被災の跡地
くるま中動けずにして死に至るずっしりとした心労の水
混濁の疲れた渦の巻きたれば神戸の義母はテレビ観ており
激流をながむるような敷島は蓄えられて米はまだあり
混濁をながむるような激戦区大統領選映る敷島
家族して外貨レートをながめてるシンガポールを思う秋の日

なんか、疲れる。どっちかにしてほしい。

エゼキエル書 20. 18-26

被災地の米倉まもる連携はあらし吹き去る田畑に浮び
台風に打ちつけられた水害は忘れ去られし地震の陰に
ふつふつと静かな不満みえざりし今年の夏の置き土産かな
イラクには流れないからジェンキンス今がチャンスと恩赦を待ちつ
しあわせを願ってみてもふつふつと不満の種は蒔かれてゆかむ
ボクサーを夢見て彼はイラクへと最期の夢を悪夢にたくす

イザヤ書 34. 8-15

明日のない希望の森は魔の森と闇につつまれゆっくり生きる

赤と青海のない赤ブッシュへと傾きゆくを保守と呼ぶのか
青ケリー海岸線は危険地帯テロを恐れて青青とする
赤ブッシュ内陸をゆく大陸は空も領地と爆弾は外
戦争もテレビ放映されているドキュメンタリー地球の裏か

張り紙を元に戻して音を聴くコインの響き鈴の音のよう
ささやかなジュークボックス流れれば混みあう店をあしばやに去る
善と悪ささやかにして喧嘩するスーパーに箱ひっそりとあり

ホセア書 5. 1-7 イスラエルに対する審判

権力を揺るがすように一票を競り合うごとくコインは積まれ
選挙戦ベトナム・イラク変わらぬも明日の朝までちいさな維新

投稿者 Blue Wind : 04:14 AM | コメント (0) | トラックバック

コリントの信徒への手紙 一 16. 1-4 エルサレム教会の信徒のための募金

  聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。

投稿者 Blue Wind : 12:29 AM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 4. 13-14

  見よ、それは雲のように攻め上る。
  その戦車はつむじ風のよう
      その馬は鷲よりも速い。
  ああ、災いだ。我々は荒らし尽くされる。
  エルサレムよ
  あなたの心の悪を洗い去って救われよ。
  いつまで、あなたはその胸に
  よこしまな思いを宿しているのか。

投稿者 Blue Wind : 12:24 AM | コメント (0) | トラックバック

ローマの信徒への手紙 1. 16-17 福音の力

  わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

投稿者 Blue Wind : 12:21 AM | コメント (0) | トラックバック

マラキ書 3. 24 (旧約聖書さいごのページ)

  彼は父の心を子に
  子の心を父に向けさせる。
  わたしが来て、破滅をもって
  この地を撃つことがないように。

投稿者 Blue Wind : 12:11 AM | コメント (0) | トラックバック

November 03, 2004

みこころに小指一本引っ掛けて雲見あげれば問う風のあり

何が不満かわからない病が始まってしまった。

すやすやと子どものように眠りつく母の顔みし吾子と並んで
知らぬ間に洗濯物の仕舞われた箪笥の中を驚きまどふ
PCの蓋を開けたり殺伐と冷えゆく思いぼんやりと出づ
わたくしは幸せなんだと思いいづネットの闇に鬱々となる
水底のさびしきおもいわきたればビル・エヴァンスも冴え冴えひびく
うたことば眺めてすごすゆううつにつぎつぎと咲く薔薇の花みし

迎合のゆくすえ遥かひねもすはうたかたの夢古今に飛びし

拍子抜け母引き取りしこと姑に告ぐは明るき声の響きぬ

マラキ書 3. 24 (旧約聖書さいごのページ)

人言に戸惑いゆかば薔薇の花秋風をうけ凍れる日まで
強風に不幸の海の波音は激しくもなり荒れ狂う空
これという怒れることのない日々は理解むなしき人らを忘れ
幸せの土台の上に立ちたればタカピーという言葉が似合う
あれこれと不幸の種を蒔かれては鬱蒼とした木立のごとく
ジーザスに小指一本引っ掛けて気まぐれな空見あげれば晴れ
マラキ書の最後のページ開きては破滅の園を行ったり来たり

これからが大変なんだと中越は揺れとどまれば雪の季節に
深き雪しづしづとして降り積もる静かな夜は退避をもとむ
美しき雪の降る夜はしづしづと春を迎える戦いの日々
わざわいは傷跡のこし忘らるる思い捨て去り降り積もる雪
わざわいの季節の中はそうぞうし工事現場の埃渦巻き
十年と五年の月日数えれば子どものような母の寝顔か
ひねもすは無為に流れて刻みゆく時計の針は同じ方向

ローマの信徒への手紙 1. 16-17 福音の力

みこころに小指一本引っ掛けて雲見あげれば問う風のあり
ささやかに芝生の匂い運びたる風薫る日はいつもの景色
壁ありき巨大の空に浮びたる迷い雲さえ小鳥の羽音
昼と夜同じ時間に隔ててるシュールな壁は色もなかりし
信号機狭き空さえ点滅を知らせるようなビル間の雲よ

並木道森になっては大変とおおげさなほど高く刈られり
竜のひげ並木の下に伸びゆけど幹はひょろりと枝もなかりし
台風で木が倒れても知らねえと言わんばかりに看板のあり
つくばねの並木のみちもさむぞらに凍えたような串焼きの葉か
走るみちものたりなくも信号はつぎつぎとすぎ落ち葉も浴びぬ

ふふみたる文字を追うより風を追う目線は遠く神に出会いし

エレミヤ書 4. 13-14

『エルサレムよ
あなたの心の悪を洗い去って救われよ。』

救い、の意味がわかった。
ちょっとしたことに救われる、けど、どうして救われたと思うのか自分ではうまく説明できない。
母の寝顔とか姑さんの明るい声とか、竜のひげが伸び放題なのにひょろりと枝を切られた木とか。なんとなくつまらないことに救われるから、よくわからないのかも。

なんか、こう、つまらないようなことなのよね・・・救いとは。なんておおげさな響き。

オトぴょんのうるうる眼とか。単に眠いだけなんだろうけど、救われてしまう。

はらわたが煮えくりかえっているようなときでも、ひょいと救われる。ひょいひょいひょい、ひょいひょいひょい・・・どちらかといえば、ぶったり蹴ったり叩いたり殴ったり皿投げたいくちなのに、ひょいひょいと自分だけ救われてしまう。なんであの人いつまでも怒ってるんだろう、と言われたほうは救われないのかも。

ひょいひょいひょい。
かんがえよう。

コリントの信徒への手紙 一 16. 1-4 エルサレム教会の信徒のための募金

世の中、今、募金箱だらけ。

雪の日の凍える前に青白き雪愛でたくば鬱箱に入れ

投稿者 Blue Wind : 04:28 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨブ記 30. 9-19

  ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種
  嘲りの言葉を浴びる身になってしまった。
  彼らはわたしを忌み嫌って近寄らず
  平気で顔に唾を吐きかけてくる。
  彼らは手綱を振り切り、わたしを辱め
  くつわを捨てて勝手にふるまう。
  彼らは生意気にもわたしの右に立ち
  わたしを追い出し、災いの道を行かせ
  逃げ道を断ち、滅びに追いやろうとする。
  それを止めてくれる者はない。
  襲って来て甚だしく打ち破り
  押し寄せて来て廃墟にする。
  死の破滅がわたしを襲い
  わたしの力は風に吹きさらわれ
  わたしの救いは雲のように消え去った。
  もはや、わたしは息も絶えんばかり
  苦しみの日々がわたしを捕らえた。
  夜、わたしの骨は刺すように痛み
  わたしをさいなむ病は休むことがない。
  病は肌着のようにまつわりつき
  その激しさにわたしの皮膚は
      見る影もなく変わった。
  わたしは泥の中に投げ込まれ
  塵芥に等しくなってしまった。

投稿者 Blue Wind : 12:29 AM | コメント (0) | トラックバック

ヨハネによる福音書 19. 1-16

  そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼の何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
  ピラトはこの言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
  ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ、殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこでピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

投稿者 Blue Wind : 12:19 AM | コメント (0) | トラックバック

コヘレトの言葉 8. 9-10

  わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ。
  だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。

投稿者 Blue Wind : 12:07 AM | コメント (0) | トラックバック

November 01, 2004

ラーメン屋

いまだにど〜っしてもできないことの一つに、ラーメン屋に一人で入るということがある。喫茶店やレストランなら一人でも平気。だけど、ラーメン屋だけはどうしても一人では入れない。
逆に、一人でどこへ行ってきたのかなーと思うと、うちのダンナの場合、大抵はラーメン屋かペット・ショップ。にんにくの匂いをさせていたり、オトくんの餌や名札を買ってきたり。歯医者や床屋などをのぞくと、大抵はそんな感じ。
そこのラーメンが美味しいとなると、クルマを飛ばして食べに行く。一人で行きたいから行くのではなく、ラーメンが好きだから行く。休みの日には娘を連れて行く。
家の近所にも学生街だから、ラーメン屋は多い。ラーメンならそこにもあるだろうと思うんだけど、不意に「その味」が恋しくなるらしい。今日はどこそこ、前はどこそこという具合に日替わり。私も一度は付き合いで連れて行かれる。
だけど、めったにないね・・・2回行きたいと思う店は。
大体が、私は食べるのが遅い。うちのダンナは速い。そうすると、ラーメン屋さんというのは下手をするとカウンターしかないとか、並んでいる人たちが多いとか、気になって仕方がない。隣が食べ終わっていると、なおさら・・・そうなると何となく堰かされているようで食べたような気がしない。
果たして、そういう場所に一人で行きたくなるだろうか?
たまにはお気に入りの店というのもあるけど、やはり一人では入れない。一人なら大抵はカウンターに座るのだろうけど、これがまた空しい。かといって、椅子席に一人で座るのも気が引ける。勇気を出して店の前まで行き、入り口からカウンターに座った人たちの後姿を眺めると、それだけで足がすくんでしまう。空いている時間や空いている店なら違うのかもしれないけど、それでも何となく気になる。
大体、ラーメン好きって何を考えているのかわからない。大抵は、黙ってカウンターに座り、注文し、黙々とパチンコ台に向かうように食べる。しかも、クルマで1時間もかけてそこへ行く。戻ってくると、うんちくが始まる。麺の太さ、だし、濃さ、その他諸々。そこのラーメン屋ならあたしの好みだと言ってダンナに連れて行かれて、美味しかったためしがない。逆に、これはこってりしすぎていて好き嫌いがあるなどと語っているようなところのほうが好きだったりする。そうなると、私でも美味しいと思うくらいだから、そこの店は私は一人では入れない店の一つになってしまう。この矛盾。

やっぱ、一人なら優雅にカフェか?
か、ファミレス・・・
か、家・・

投稿者 Blue Wind : 10:32 PM | コメント (0) | トラックバック

あらくさの季節も終わる冬のみちしらかしの枝さむざむとする

燃えたちてテロ撲滅と言われては怒りの炎揺すられる風
くすぶりて中越地震おさまればきつい冬さえ今はまだ秋
イラクへと旅立つ勇気あるのならボクサーというジャングル・ジムか
中越はレスキュー活動伝えるがイラクは遠くブラック・ボックス

鬱蒼と曇りゆく日はジャズ借りに有効期限切れたカードで
また一年延長しては通いゆくCDショップは模様替えされ
明るい黄少し暗い黄オレンジの合間の色は熟れすぎみかん

ロケット弾なのかもしれぬ武装車は積み荷を運びいづこへ向かう
闇夜にぞ映る夢想は武装車の続々とゆく中央アジア

アイス・チャイ思い出しては飲んでみるミントの味のミルクティーかな
シナモンをたっぷり入れて冬を待つ夏はまだかと気の早い秋
あらくさの季節も終わる冬のみちしらかしの枝さむざむとする

フロリダは今も明日も夏なのと大統領選お祭りのよう
ボランティア国境越えてやってくるパキスタンから新潟までと
義援金インタビュー聴くハングル語映し出される敷島の山

曇り空遊ぶ雲さえなかりしは覆われた空雨降るばかり

コヘレトの言葉 8. 9-10

人間が人間を支配しているから、戦争になる、のか。わかりやすい。

支配者の手を逃れてはイラクへと旅立ちゆかばテロリストあり
自由などどこにもないと憂鬱は哀悼のそら腹の底煮ゆ
体制の批判するよに嫌がらせ鳴り響いてる腹立ちまぎれ
あんたなど反吐が出るほど嫌いなの大文字にして顔に書きゆけ
文字にして叫んでみてもものがなし言の葉のないサウンドを聴く

いにしえに旅立ちゆかば言の葉はひっそりとして聖書にありき

ヨハネによる福音書 19. 1-16

お〜い、ジーザスかついでまた戦争やってるぞ〜♪

くりかえしくりかえしつつ懲りもせずあきらめないでいくさはつづく
復興の支援するのに街中を歩けないほど欺瞞はつづく
自衛隊イラクは捨てろ苛立ちのつのる日々にも石油の値上げ
諦めよう。お茶でも飲んでひねもすを気分転換雨の降る庭

ヨブ記 30. 9-19

なんか、これからが大変なんだろうな・・・

イスラム教は平和な宗教だって一生懸命にPRしてる。あっちもこっちもみなおなじ。

投稿者 Blue Wind : 12:04 PM | コメント (0) | トラックバック