November 21, 2004

ゆりかごの月はゆらゆら動かぬも突然の雨雲はおとずれ

断絶を歌の書棚に眺めては老人と孫並んでおりぬ
半月のゆりかごのごと浮んでる雲は流るる白きカーテン
ゆりかごの月はゆらゆら動かぬも突然の雨雲はおとずれ
鑑賞を寂しく読みし歌集かな与謝野晶子の歌に添えられ
書棚から消え去りしかな鑑賞のつかない歌集返本となり
一つずつ書店をまわるこひつじかニコリのような聖書となりき
めずらしく連続ドラマ眺めては太陽族の爆発をみる
メダルにもコマーシャルにも慣れちゃったオリンピックのあった夏去り
うねりゆく大波のよう新世紀訪れたのは数年前か

ルカによる福音書 17. 20-37 神の国が来る

神の国かたちのように現れてかたちなきさま描いておりし
われわれは幻想なのか視知覚のまぼろしを想うたましいいづこ
最後には人間性だ夫は言いしモスクの中で人殺しあり
アユタヤの遺跡をながむテレビかな首無き仏並んでおりし
聖書すら破きかねない憎しみも破けないから救わるる人
善と悪いのちいのちと喚きたてこころなきこと最後の一歩
殺伐と世を想うとき善と悪いづこにもとむ鐘の鳴る音

二義性を鏡のように眺めてはこころなき人鏡に生きる

わざわいは無くならないよとひねもすはそういう星に生まれ消えゆく
裕次郎偶像のなか生き抜けば昭和も終わりスクリーン消え
感動は海のヨットかダム工事うつつの人ら退廃もとむ
真実はスクリーンの外きらきらと輝く海と広大なダム
描けずに終われば海は輝きぬ今を生きては明日もあるかと

ヨハネの黙示録 11. 1-14 二人の証人

海やダムなら描く必要はないのかもしれない。

真実はきらきらとした星のよう下手な写真に染みは写りぬ
情けないアシジの写真空の月泣いた泣いたよ黒に染みあり
音のない稲妻光るウンブリア広大な空言の葉にする
西に陽を東に月を眺めては広大な空昼と夜あり

少しもおおげさでもなく、過小表現に悩む。わたしの写真よりはましだろう。

狭い空見慣れた人に差し出せば写真の月は小さな星か
広い空月が巨大に見えるほどイタリアの月浮ぶ空かな
まあのぼれロッカ・マジョーレ柵のない校舎のうえも椅子のうえかな

エゼキエル書 47. 1-12 命の水

また同じページ。

足下に一つの石が転がればこの石にてか町は造られ
戦争を終わらせたのは足下の小さな石かアシジの奇跡
塀越しにアシジの空をながむれば高高とありカルチェリの庵
石積むも石を投げるも人心うつしてやまぬ空澄み渡る

原爆で戦争終えた敷島はそりゃないだろと空の月みる
音のない落雷の音眺めては音の違いに壮絶な秋
アメリカに戦争やめてと言ったって空しき音の鳴り響く空
騒音も掻き消すほどの雷鳴に怯えてみてもへそはまだあり
身をかがむ子らに伝わる戯言に生きる知恵もちかえすがえすも

憲法9条はへそか? 日米同盟がへそなのかも・・・ のっちでもいいや。

戦争を知らぬ世代に生まれては空に月あり夕陽は沈む
福音は何のためにぞあるものと自衛隊みて何となく知る

うわっうわっうわっ、あんなんだったらどーしよう。

のんびりとアシジの空をながめてる夕餉の時間音なく光る
雨のないアシジの夏はアウトドア屋根にビニール張られておりし
落雷にしづかに気づく人あらば皆で雨を驚き待ちぬ
音もない落雷ならばのんびりと歓談つづくレストランかな

世の終わり考えてみて戦争は老いた首相の象徴となる
落雷は怖いものかと音のない落雷を見るアシジの夏よ
茫洋にながむる光遠ければ美しさだに轟きにあり
音のない静けさはまた雨のないビニール張りの屋根の下かな
降る雨のくりかえす日はドラム音たまに聴こえるキッチンの裏

ローマの信徒への手紙 1. 8-15 ローマ訪問の願い

屋外ライト点滅させると、レストランと間違われるのよ、うち・・・

新年をシンガポールで迎えては熱帯の雨雪の日の薔薇
雨のない炎天の道歩いてはサンダルの夏台風の道
混在す世界の果てははろばろと違う景色を描いておりし
カイサリア地球も狭くなったかとアディエマス聴く海の歌声
クリスマス地から海から空からか聖なる夜の歌声響く
八重桜紅い木の葉を揺らしては春の息吹を身に静めおり
桜の木ライト巻かれてたたずめばクリスマスには光り輝き
聖夜には光りぞ満ちて力とは枯れた通り木吐く白い息

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

今年はどこもクリスマス・ムードが薄い気がする。気のせいかな。クリさんにボロカスに言われていた去年のクリスマスのほうがまだクリスマスっぽい。いやな年だな。

投稿者 Blue Wind : November 21, 2004 05:42 AM | トラックバック
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