November 09, 2004

「加藤先生」

サイバー上において、わたしはあまり固有名詞を使った書き方をしない。それは自分が書き手であると同時に読み手であるからでもあり、飛ばすほうならキャッチするほうでもあるからである。
久しぶりに検索などをし、偶然、加藤先生の古い日記の過去ログを発見する。この、「加藤先生」という書き方も、BBSに書いたら、固有名詞を書かれても知らないからやめてほしいと言われた。つまり、どこの「加藤先生」かわからないからであり、世の中にはおそろしいほどの「加藤先生」は存在しているのだろうし、歌人の加藤治郎さんと伝えても結局知らないからやめてほしいと言われた。
これってつらいけど、あまりにもよくある話なのでなおつらい。結局、主宰の名前ですら知らないのが世間なので、要するに歌人でなければ知らないのだそう、歌人の名前なんて。ついでに言えば、わたしも知らなかったし、今でも知らない名前のほうが多いのだと思う。
そこで驚いたのが、加藤先生のインターネットに対する期待感である。つまり、インターネットになら推定3万人の歌人がいるという幻想。もしかするといるのかもしれないけど、実際には匿名の世界なので、純粋にネットだけで歌人をしているという人は少ないかも。
どうして数字の大きさに期待が集まるのかというと、購買・購読層の確保という点の期待なのかもしれないとふと思う。同じように期待はずれに悩んでいるのが、村松恒平さんかもしれない。無料のメルマガなら、1万人とも2万人とも言われる読者が有料化したとたんに購読が止まってしまう。ウェブは基本が無償提供の世界だから、金を払ってまでという人たちは少ない。
だからこそ、詩のサイトですら著作権のことがあり、かなりのサイトが閉鎖してしまったような気がする。個々に対する圧力はなくても、サーバなどに対しての圧力があれば、それがどうしてもユーザに広がる。いきなりのサービス停止とかね・・・

歌壇の特殊性というか、結局、歌壇を支えているのが歌人であるという閉塞性を考えると、とてもじゃないけど一般の読者を獲得するのは極めて困難な気がしてしまう。空手とか、書道、華道などを考えると、それはそれでかまわないのかも。特定のファンがいて、趣味の世界。同じ趣味を持つ人たちが何となく集まる。その中のごく一部の人たちがいわば仕事として生きている気がする。
それとは別に、ネット。
これはサイトを管理しているだけでも何となく感じたりする。つまり、ネットに求めているのはチャット仲間だったり、見知らぬ者同士の気軽な交流だったり、その集会の手段として、何らかのコンテンツがあるとか、ないとか、コミュニケーションだけを求めている人たちも多い。ちらっと思ったのだけど、いわゆる歌壇や文壇などの濃厚な人間関係とはまったく異なる世界であり、つまりはこれを指してインターネットの儚さを批判しているのだ、と。
結社に入れば、そりゃオフ会ではなく、懇親会やら歌会やら、もともとがそういう世界なのだから、当然、深い人たちになれば、濃厚にそういうお付き合いの世界を掻い潜って行くわけであり、そこから仕事が派生したり、作歌活動が支えられたりするのだから、おそろかにはできない。
が、しかし・・・・・
が、しかし・・・なのである。
歌を詠うだけなら、そういうものに顔出しする必要性はない。
そういう濃厚さが好きな人たちもいれば苦手な人たちもいるだろうし、華美を求めて歌人をしている人たちも少なからず存在するのだろうし、自分的には今さらという気がしなくもない。
しかも、歌集を出版するために150万円は用意しろと言われたとか、オンデマンド出版なら55万円で出せるとか、凶暴な世界だと思った。よっぽど経済的に余裕があるか、出版物が売れる人でなければ結局ぽつりぽつり結社に投稿するくらいしか発表の場がないとこぼす人がいたとしても無理はない。庶民として考えれば、それなら自分のサイトに歌をアップして誰かに見に来てもらうとか、そちらのほうが救われるような気がしてしまう。
あのランボーですら、自分で出版しようとした詩は僅かしかない。
今さらながらになるほどなーと思った次第。
こりゃ相当大変・・・
が、しかし、ネットでやっていたらお金かからないもん。ゆるせ、かとー。(←呼び捨てにしたら叱られるよん・・・真似しないでね。)

投稿者 Blue Wind : November 9, 2004 10:16 PM | トラックバック
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