わたしね、(って誰に言っているのかわからないけど・・)歌人になって一つ気が付いたのは、なんて世論は短歌に冷たいのだろうということ。とりあえず、「インターネットで歌を詠み始めて・・」というフレーズまでは温かい。ところが、「結社に入って・・」と続けると、とたんに冷たくなる。
まあ、自分の子ども時代から今までを振り返ると、短歌や和歌は学校の教科書で習うくらいで、後は年寄りが詠んでいるとか、そういうイメージしかない。実際に調べたら、ちょうどわたしが生まれたあたりから詩が隆盛を極め、短歌や俳句は急に廃れてしまった。
自分も子どもの頃から翻訳詩などを読まされて、というか、読んで育ったくちなので、ランボーや中原中也が好き。だから、好きな歌人を問われると困る。
近頃は諦めて、小野小町と答えることにしている。とりあえず、郷土(茨城)ゆかりの歌人ということなので、一番無難ということもある。ただし、いまだにどうして小野小町と新治が関係あるのかまでは知らん。
このような有様なので、短歌はアートであるとかないとか、詩であるとかないとか、そういう高尚な次元の前に、うちの姑さんあたりになると、PTAをしていた頃の鬱憤の続きに歌会や短歌・俳句というものが存在しているらしいことにも気づく。つまり、PTAの誰某さんが歌人をしていて、自分の親しい人たちを集めてその中でグループをつくって幅を利かせていた、というヤツ。何か言おうと思ったけど、言っても無駄だからやめた。
「神さまとだけお話しせよ」という意味はさほどおおげさなことではなく、救いというのがささやかな事象を指すように、小さなことなんだと思う。
元来、詩なんてものはそういうものであり、自然を詠ったり、愛を詠ったり、日常を詠ったり、ささやかな目線の中に詩はある。
「ネット短歌」についておしえてくださいというメールをキャッチし、これもなんと言うか、なんと答えてよいのかわからない。
大抵の場合、ネットは恋歌ばかりとか、枡野さんの信奉者が多いとか、カラオケ歌壇とか、そういう悪い意味で使われることが多い。誰がそんなこころないことを言っているのか、については置いておいて、メディアとしてのネットを考えると、すでに歌壇はインターネットを無視できないらしい。
そこで検索したところ、ネットは上級者と初級者が多く、上級者は初級者の指導に手が回らないというニュアンスのフレーズを発見。
正直、「はあ?」ということで、どうしてわたしが「はあ?」と思ったことについても、どうやって書いてよいのか悩む。わたしは正直、歌壇や結社というものをまるで理解していない。誰かがカルチャーセンターと一緒にするなと怒っていたけど、あっさり語れば、カルチャーセンターでなければ水泳教室みたいなものなのかも。
まあ、メダルを取った人がいて、コーチになる、といった具合だろうか・・・だから、コーチによって選手が伸びるとか伸びないとか、素養とか、努力とか。
こーさー、なんていうかさー、詩、なのか?
そうやって考えると、一人でひっそりと恋歌などを詠んでいる人たちのほうがよほどポエムな人たちのような気さえしてしまう。
集団的努力があって維持されているとすると、その言い訳としては古典芸能だからとか、日本の文化だからとか、いろいろな言い訳が存在するのかもしれない。廃れゆくものを保護しようと社会が努力するのは当たり前なのだろう。それでいて、努力すればするほど廃れていってしまうような虚しさがある。
人にこころが消えないかぎり、詩は消えない。
だから、本当は形はどうでもいいのかもしれない。短歌でも俳句でも自由詩でも。
一人では何もできないと言われることも多いけど、そうやって言われれば言われるほど、天邪鬼は一人の世界に埋没したくなる。かといって、自分が完全に一人ではないことは承知している。歌をサイトにアップすれば、誰かが勝手に見に来る。誰にも見られたくないのなら、ローカルに置いておけばよい。
つまりは、関係性なのだと思う。
仲間内だけとか、先生に送るというのとは違って、ウェブにはそういうしがらみは少ない。勝手に詠んで勝手に読む。それがひとりよがりと言われるのなら、世の中の出版物はほとんどひとりよがり。
結社では短歌が廃れてゆく中、かつてカルチャーセンターから結社へ行った人たちと同様にネット歌人を考えているらしい。ある意味そういうものなのかもしれないし、それでいて、わたしから見たら、どうしてあんな窮屈なところで歌を詠んでいるのか不思議になることもある。固定読者がいることが強みらしい。先生に勧められた参考書を買うように歌集を買う世界だから、なおさらなのかも。
それでね・・・サイトで書きたいことを書いていて、何か困ったかと言えば、何も困らない。すごく困ることになれば、主宰が出て来て治まるようになっているらしく、自分に関係のないところで何かが生じ、何かが終わっている。そうやって考えると、自分もまた歌人をしている以上、保護されているらしい。
つまりは、あらゆる芽を摘んではいけないような状況にあるのかも。
誰かが言っていた理由が何となくわかる。このようにひまつぶしのような形で歌を詠んでいても、それは一つの文化的貢献なのだそう。
歌人としてのパスポートの発行はあくまでも短歌にある。だから、特に帰属を強く求めなくても日本人に生まれたら日本人であるように国民が政府に保護されているのと同じ。体制を批判しようとどうしようと、パスポートは発行される。