November 20, 2004

小鳥の目線

娘の絵は、わたしが中学生の頃に初めてビートルズに出会った時のような快進撃である。小学校の校舎の屋上で、グラウンドを真下に眺めるような絵。小鳥の目線。
小学校の授業ではよくある光景だ。図画の時間に校内をスケッチする。ただそれだけのことなんだけど、自分の子どもの頃とはまさしく風が違う。好きなところを描いてもよいと言われれば、校舎や教室、グラウンドなど学校という世界は限られている。わたしなら屋上に座っていたとしても、そこから見えている風景を描いてしまいそうな気がする。せいぜい光や風や木立、建物などを描く。
娘の絵は自由奔放で、秩序がある。四方に木立があり、絵の中央に描かれたグラウンドを囲んでいる。その倒れこむような描き方に鳥の目線を感じる。そして、真上から眺めたようなグラウンドのライン。実際の航空写真ではあのような世界はありえない。
屋上に座って、黙々と小鳥のように飛びながらあちこちの風景をとらえていく。その高さたるや一体どれくらいになるのか、実は絵を見ただけでは想像がつかない。

このように褒めても、娘の反応は実にクールであり、もっと立体感をつけたらよかったとか、せっかく先生に屋上に入る許可をもらったのだから豪快に描かないととか、あっけらかんとしている。そこがわが子という気もするし、今の時代の子という気もするし、感性という点では、もはやわたしは娘にかなわない。
これは絵をみる視点においても如実に現れている気がする。今回イタリアへ連れて行ってみて、とにかく主要な美術館へは足を運んだと思う。二人並んで、すでに違うものをみている。あまりにもたくさんみたために、すでにミラノへ到着した時点では飽きてしまったのかと思ったら、違う。要するに娘のお気に入りの絵は、アンジェリコの「受胎告知」らしい。あの絵をみてしまったら、ほかの絵はどうでもよくなってしまったのだろう。なかなか手厳しい批評家である。
こころの中に素直に飛び込んできた絵。受胎告知をモチーフにした絵はたくさんほかにもあるけれども、完璧にあの一枚を指定している。名画はほかにもたくさんあるけれども、子どもは実に素直に何かをキャッチする。
こういう瞬間、実に老いぼれてしまった自分を感じる。
ひらめきを感じる、インスパイアされた中に素直に飛び込む。ちょっとやってみようという程度の気まぐれなら自分にもある。だけど、その世界に素直に飛び込めない自分を感じる。
素直に飛び込みたい世界がシュルレアリスムだったとしたら、これはすでに自分にとっては敵である。敵でありながらそこに吸引されてしまう自家撞着というものが自分の感性を支えているのではないかと思う。シュルレアリスムが破壊の感性だとすれば、自分にはせいぜいエッシャーの不思議絵の世界や空を眺めているくらいしかないではないか。人間の視知覚そのもののおもしろさ、シュールな感覚。レンズに映っているものをそのままみているわけではないわたしたち。
だから、飛べない。
そこをあっけらかんと昇華して、娘は軽がる飛んでしまう。小鳥のような娘の自由さが酷くうらやましい。そして、娘のこの素直な感性にわたしは救われる。ルネッサンスの奔放さの時代に、修道院で絵筆を握っていたアンジェリコ。明るくもあり自由でもあり、真摯であり純粋。なんか、うらやましい。

投稿者 Blue Wind : November 20, 2004 04:43 PM | トラックバック
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