December 29, 2004

歌人のフェロモン

アメブロに逃げ出して以来、近頃、作歌をさぼっている。というか、これでも実は多いくらいなのかもしれない。次第に外から冷静に歌人の習性というものを観察できるようになった。

あっさり語れば、彼らは短歌が好きなのである。

当たり前のことなんだろうけど、好きになり方が違う。普通の好きではなく、マニアックな愛し方にも似ている。だから、このように短歌のブログのくせに駄文ばかり書いていて作歌量が減ったとしても、「短歌」というカテゴリーがあれば眺めないではいられない。それが歌人・・・

それで、好きな人になればなるほど、短歌の世界に没頭する。どうしてかといえば、歌人だから・・・

わたしには歌人という意識がなかったのである。それは言い訳ではなく、もともと短歌や和歌が好きではなかったから、どうして歌人がそんなに和歌に執着するのか、が理解できない。
でも、それは実は和歌そのものへの執着ではなく、いわば一つの自己表現手段だからこそ他人の歌も気になるのであり、選歌にもこだわる。


こーねー、これだけランダムに気楽に詠ってくると、そりゃいろいろな歌が雑じります。いくら短歌のことを知らないわたしでも、これは選歌されやすい、これは捨てられやすいということくらいの区別はつくようになってくる。

逆に考えると、わたしのどういう歌を選歌するかによって、その人の好みや人生観が見えてくることがある。


わたしは、歌人としては自由奔放だ。
その結果として、「形よりも心だ」と言われる。
あのー・・・・
それってつまり、わたしの歌は短歌ではないとおっしゃりたいのでしょうか?もう何を言われても、まったく気にならなくなってしまった。

言の葉を並べて短歌と言っている中でも、** Blue Wind ** の歌は好きだ、という表現を初めて読んだ。そこまでになると、褒められているんだかけなされているんだかわからない。

言葉の羅列の美しさという点において、形にこだわる人は多いと思う。でも、歌の好きな人たちにすれば、わたしがしらいしでもしろねこでもりんでもRindoでも、** Blue Wind ** でも、単なるテキストでもかまわないらしい。


この前、ちょろっとネットで検索して、馬場あき子さんの短歌を読んだ。

正直、素晴らしいと思った。雑誌などに掲載されている短歌よりも、歌集の歌のほうが素晴らしいと思った。いや、歌集が素晴らしいと思ったのではないだろう・・・だって歌集を読んだわけではない。
おそらくは、お弟子さんなんだと思う。歌集の中からピックアップして、並べている。おそらくは有名な短歌ばかりなんでしょうけど、わたしにはどれも新鮮だった。

そのサイトの中で、「馬場あき子の歌は食わず嫌いな人が多いけど」というフレーズを発見。

そうやって言われてみると、そうかもしれない。いや、そうではなく、わたしには高尚すぎるのだと思う。でも、その高尚さが美しさでもあり、深々とした和歌の世界を伝えている。

再びそのサイトの中で、「『サラダ記念日』は好きではなかったけど、馬場先生が褒めていたので読んでみた」というフレーズを発見。

本音だな・・・つまりは、歌人としての立場で考えればよくわかる。馬場あき子の短歌が好きな人は馬場あき子の短歌を詠んでみたいのである。馬場さんの短歌と俵さんの短歌では、一般論としてはまったくスタイルが違う。ところが、馬場さんは俵さんの短歌が好きだという・・・


誰が為に鐘が鳴る、ではないけれども、要するに姿形には現れない歌人の魂という鐘を聴く人がいるというだけのことであり、嗅覚や本能のように、秀歌には歌人を惹きつけるフェロモンがある。

そういうフェロモンを嗅ぎ取る程度には、わたしも歌人になったのだと思った。いや、歌人になったのではなく、短歌が好きになってきたのかもしれない。いや・・・そうではない。

神父さんの言葉の中に、「こころの静かな人にしか神さまは見えない」というフレーズがある。

おそらくは和歌も一緒なのだと思う。こころが静かにならないと歌のよさが見えてこない。

読者を信じろ、という内容の短歌の記事を読んだことがある。その時にはよく意味がわからなかったけれども、今ならその意味が少し理解できるようになった。

投稿者 Blue Wind : December 29, 2004 12:42 PM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?