December 02, 2004

テンション過多になりそう

いろいろな意味で、秋篠宮さまの記者会見でのお言葉にはすべてがあるような気がしてしまっている。「公務は与えられたものであり、自分のやりたいこととは別。」公務でなくても、仕事というのはそういうものなのかもしれないし、本当はナマズの研究をしているほうが楽しいのかもしれないけど、皇族をしている以上公務は当たり前。人生はなかなか自分の思うようにはならないというのは当たり前なのかもしれない。
雅子さまの場合、比較する規模は違うかもしれないけど、結婚したらなかなか自分のやりたいことができない、仕事を続けられない、姑や嫁ぎ先の家族がいて外出も自由にできない、子どもに恵まれない、などなど同質の悩みは世の中には蔓延しているし、そういう自分の本音を出しにくいということも誰しも感じたりする出来事の一つだと思えば、あまりにもわかりやすくてため息一つ。

題詠マラソンの選歌をしながら、何度も繰り返される「自選」という言葉。まあ、中には荻原さんや五十嵐さんが主催しているからという理由で投歌する人もいるのかもしれないし、本当はその辺が大きいのかもしれないけど、いわば飛び込みで出場した人間にとってはそういうことすら遠い世界の出来事にすぎない。28000首。来年はもっと増えると予想している。となると、これだけの短歌を選歌するとなると一体誰が報酬なしに引き受けてくれるというのだろう。それでいて、出版しても赤字を出さないだけで精一杯となると、虚しさを感じる人がいたとしても不思議はない。
学術書なんて高い値段を出して買っても、この手のものは売りにくいと言われて、古本屋へ持って行っても一冊100円くらいに叩かれてしまう。まだマンガのほうがましな気がしてしまう。絵本や児童書はニーズがあるから、結構高値で売られている。
この前近所の本屋さんへ行ったら、古い歌集は返本されてしまったようだ。句集はまだあった。短歌は入門書や鑑賞付き、あるいは若い人たちが読むようなものに真っ二つに分離していた。それでもその手の類の本が置いてあるだけ、大きな書店なのだと思ったりもする。

何が言いたいのかというと、「公務と自分のやりたいこととは別」ということかも。わたしは本当の意味で和歌が好きだとは思っていない。でも、好きな人たちはマニアの世界だから、これに人生を捧げている人たちも存在している。だけど、そういう人たちだけで秀歌選を出そうということになれば、来年から参加者は減るだろう。そうするとキャッチフレーズである「初心者から上級者まで」ということは嘘になる。あくまでもイベントなのだから、これだけの歌が集まるわけであり、秀歌選を出したところで、マニアの世界にだけ流通して行くのではないだろうか。
なまじか和歌には縁がないから、「今、こんなことやって遊んでいるよ〜」みたいなノリで友達も興味を持ってくれたりする。そうすると、今までそういうものに興味がなかった人でも、「どれどれ・・」という具合にちょっとやってみようと思うらしい。そうやって広がるからまじめにやっている人たちに値打ちが出てくるのだろうし、購買層が広がる。「サラリーマン川柳」のヒットで、今度は歌人が川柳に挑戦というのではどこか本末転倒のような気がしてしまうけど、もしかすると世の中はそういうものなのかもしれない。
短歌が巷に広がると、カラオケ歌壇だと批判するような体質は改めたほうが歌壇のためだと思う。逆に、インターネットから結社へ行って、もっと厳しい世界を経験してほしいとか、いろいろな意見があるのかも、とちらっと思ったりもする。が、しかし・・・昨今、このように短歌を詠じているだけでも一種の社会貢献だとまで言われてしまう。

もっとまじめに考えると、うちに来たばかりの子犬のマリちゃんが病気になり、慌てて病院へ連れて行く。人間の赤ちゃんと変わらない。いきなり環境が激変したのが原因で、ストレス性の潰瘍が出来てしまったらしい。
娘も風邪で学校を休んでいる。母の容態もいつ変化するかわからない。マリちゃんが来たせいで、オトくんまでストレスがたまって、めずらしく朝も起きて来ない。
そうなると、主婦は忙しい。放っておくわけにはいかないではないか。(放って寝かせるのが一番なんだけどね・・)
大きく考えれば、キャリアとか自分のやりたいこととか、いろいろあったとしても、日常はこうやって雑事に追われて過ぎていく。仕事だったら、甘えていると言われるのだろう。が、しかし、そうやって秤にかけて考えたとしても、自分には短歌よりも家族のケアのほうが大事であり、自分の仕事でもある。家族や犬を犠牲にして自分のやりたいことをやるというのは人生における本末転倒である。
甘えているのではなく、これは長い長い自己格闘の上で成立した心構えである。一生懸命にやってきたことがある日突然ぽしゃってしまったり、直接被害というわけではないけど、間接被害という点でも結構人生の歯車が狂わされてしまった阪神の震災など、諦めるしかないような出来事に遭遇すれば誰でもそうなるような気がするけど、どうなんだろう。
そのように考えると、明日がどうなるのかわからないなら、歌でも詠み、家族と共に過ごす、という心境はごく普通のものであり、そういうことを理解してくれる友達に、愛を込めて、近況報告的に単行本などを贈ったりしても罰は当たらないと思う。

主催者の苦労かぁ・・・
売れて謝礼が出たら解決するのかな。そういう問題とも違うのかな。なんか、よくわからない世界。

投稿者 Blue Wind : December 2, 2004 01:43 AM | トラックバック
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