December 07, 2004

フリー・ライフ

わたしは日本人なので、ランボーのようにアデンへ逃げる必要性もなければ、バタイユのようにマグダラのマリアの傍で眠る必要性もないことを神に感謝しなければならない。

宗教は嫌いだ。というより、宗教団体に帰属したり活動したりすることを嫌う。もともとが心理学の人間なので、心理学と哲学は相性が悪いし、自分はクリスチャンでもなければ仏教徒でもなく、ごく普通の日本人だと思っている。だから、戦争が起きれば、イスラム教とキリスト教を比較した本を読んだり、西行の和歌は素晴らしいなどと感動している。
大学がカトリックとか、大学院がプロテスタントといっても、大抵の学生も教師も信者ではない。学問は学問であり、それでいて宗教学が必修というところが多いような気がする。でも、さすがに院まで行ってしまうとまるで関係ない。

では、どうして聖書を読んでいるかといえば、これもまた一つの成り行きであり、こういう自分の不可解さを説明するには、シンクロニティとか、インスパイアとか、それこそ宗教という枠組みを越えた中の行動である。つまりは、神さまとだけお話すればよいのではないか・・という・・・
イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同じ神さまを信仰している。そういう中で長年の確執がある。だから戦争にもなるのだと思うし、そういう歴史に関係のない日本に生まれるとピンと来ないけど、それは一つ恵まれているとすら感じてしまう。
社会という枠組みや組織や人間という枠の中ではもはや信仰に自由など存在しないとすら思えてしまう、特に戦争などが発生すれば。
そういう中での逃げ場として、聖書があったり、空があったり、それこそ最後には天を仰ぐという感性は人間ならごく自然な出来事だと思う。アフガニスタンで天に祈りを捧げている女性の姿の写真を見たときには感動した。
自然の中で聖霊との対話。ユングのそういう発想も好きだし、それが東洋哲学からの影響と言われても、哲学かどうかは別として、自分の中にもそういう思想の流れがどうも根づいているような気さえする。

おそらくは和歌の歴史は古く、俳句は根底が禅だから、今でも季語を入れるというのはそういう四季折々の移ろいがとても日本人のメンタリスティックな部分に共鳴を引き起こすのだと思う。そういう民族の深層というか、共通無意識というか、詩は民族の歴史とまで語っている詩人がいるように、魂の根源まで行ってしまうと、結局はそういうことにたどり着くような気さえする。

詩や短歌は、自分にとっては解放区である。つまりは生きるに必要のない世界。ある意味、宗教や学問というのも理想はそうあってほしい。だけど、生活がどっぷりそれにはまるとそういうわけには行かなくなる。それこそ組織として宗教が存在すれば、政治から生活から人付き合いからあれにこれにと自由が制約される。社会とはそういうものだ。
フリーで生きていれば、少なくてもそういう制約はない。

これも成り行きだけど、聖書協会は気楽だと思った。カトリックとプロテスタントの共訳であり、中には匿名で献金している人もいるし、1万冊くらい世界中に聖書を頒布した中で、一人くらい救われたら献金するほうも救われる。この際の救われるというのは、深い意味はない。生きていきやすくなるということだろうか。

○○療法とか、いろんなセラピーが考案されるのを読むたびにかつて思ったのは、治れば何でもいいってことかも。もっとも自分は基礎系だったので実際にはあまり興味がなかったから無責任にそうやって思うのかもしれないけど。
いずれにせよ、その人が幸せならば、何でもありいのような気がする。結局、ライフ・スタイルや思想、その他諸々、あれにこれにと社会はややこしい。日本に生まれて日本社会に適応しつつ、その片隅で解放区を詩や歌に求めて歌を詠む。
そこまでおおげさなものでないにしろ、学問やアートは自分にとってはそういう世界なのかもしれない。一般社会というか、既成概念や常識で整列された社会の成員として生きる中での息抜きの場。

主婦の息抜き・・・

学生街の気楽さ。
サイエンス・シティ、か。
気まま。

投稿者 Blue Wind : December 7, 2004 06:38 AM | トラックバック
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