December 09, 2004

奥が深いから終わらない

マリを動物病院へ連れて行かないと、と気は堰きながらも思いついたら書かないとすぐに忘れてしまう。

それにしても、歌会というのは、院生時代の研究会に相当するんだな・・と、うすらぼんやり考える。最初の頃は慣れないから、それこそ用語の定義から始まって、一斉に攻撃された記憶がある。そのうち何年も研究会に出席するうちに同じようなテーマのせいか、誰か何か言ってくれよ、みたいな雰囲気になってしまう。
これが、学内進学なら違うのよね。卒論の担当教官がそのまま指導教授になっていたりすると、遠慮があってあまり厳しい質問は飛んでこない。ところが、外様だと大変。
誰も何も言わないときには、義理で一番上?の先生が当たり障りのない質問をして終わる。でも、後になって考えると、厳しく質問された人ほど長くあの世界に埋没して行くようになるから不思議だ。単にやる気の問題なのかも。
まあ、どんなことでも長くやっていると、知識という点で専門性が出て来るから、逆に議論にはなりにくくなるのかもしれないし、それと新しいことに対する貪欲さがあって初めて進展がある世界だから、厳しさにつながるのかもしれないし、慣れると質問される内容も検討がつくためにあらかじめ準備しているから心構えが違うだけなのかもしれないし、単なる伝統や気質の問題に過ぎないのかも。

大体において、「短歌はセカンド・アートでいい」って言ったとたんに猛反撃をくらった。どうしても第二芸術論を連想するのが普通らしく、文字通りの「セカンド・アート」とはなかなか伝わらない。セカンド・アートとして楽しむ余裕かな・・・いわば、文化として普及された世界では、誰でも絵を描いたり、歌を詠んだり、専門性をもって生きていない人でもやり方くらいは知っている。
チャーチルが絵を描き出したきっかけも、最初は昔で言えば使用人というのかな・・・描きたいと言ったら、「先生、こうやって描くんですよ」と深い意味もなくささささ〜っと描き方を教えてくれたのがきっかけだったそう。それが画伯と呼ばれるまでになったのだから、チャーチルがすごいと言うべきか、最初にチャーチルに絵の描き方を教えた人のセンスがよかったのか、いずれにせよ誰でも描ける文化範囲の中から始まったわけで、そういう大衆層の中にいたほうが気楽という意味合いもある。
それと今さらわたしの世代の人間に、第二芸術論と言われて悔しくなったいにしえの人たちの心情なんて理解できるわけないではないか。もうわたしが生まれた頃には和歌は廃れてしまっていて、どこかマニアの世界のような気さえするわけで、それでいてちょっとやってみようかなと思いながら詠んでいるだけでも、季語などを入れて詠めばそれっぽい歌も詠める。
つまりは、詩は民族の歴史というか、古来のメンタリスティックな部分を詠むか、今まさに生きる時代の感性を詠むかだけの違い。そういうことに翻弄されながら詠んでいるわけでもなく、それでいて翻弄されてしまうのは発表という手続きと概念が存在しているからに過ぎない。

この前、石原裕次郎のドラマを観ていて、その中で石原慎太郎が大学のサークルか何かで小説を発表しているシーンがあった。かなりボロカス。それをそのまま賞と映画化へ結びつけてしまった慎太郎が強いのか、それともそういう世界なのかわたしにはよくわからない。
まあ、どんな世界でも議論が活発になるというか、批判があるほうがそれだけインパクトがあるということなのかもしれないし、今さらながら、どうしてそういうものが必要なのか、わたしにはわからない。ただ、それが励みになる人と励みにならない人がいる、ということくらいは理解できる。
自分の場合はどうなんだろう・・・精神的には鍛えられたかもしれない。それとうまく説明できないけど、自分と研究とを別の次元で考えられるようになった。こう、それに懸けていると、自分そのものを否定されたような悲観的な気分になってしまう。でも、慣れると、そういうことでいちいち悲観的に陥るほうがどうかしているとまで思ってしまう。つまりは、言われて悔しかったらそれ相応の勉強をしろということなのだろうか。厳しい・・
でも、そういう身を守るための知識と研究とが別だったように、歌も、知識と歌とは別のような気がする。知識で固めるより、データのほうが重要ということを叩き込まれたからかもしれない。結局、他人にどんなに批判されても、データだけは自分のものという・・・
その都度新しい研究が出てくればすぐにひっくり返ってしまうし、波があるのが当たり前。それに翻弄されるよりもデータを積む。実験するだけなら頭必要ないもんね。たぶん。

そういえば、題詠マラソンでも何やら広辞苑論争やってたな。造語のおもしろさのない世界なのかな。国語の先生をしているわけではないのだから、教養を財源にして歌を詠むより、気分で詠んでいるほうが気分がよい。
古来の和歌を伝えたいのか、国語の教科書に載りたいのか、それともそういう戦後の体質を保持したいのか、わたしにはそれすらもよくわからない。

いずれにせよ、下手な作歌は続く・・・たぶん。
2万首までは詠むって言ったら、タイム・トライアルみたいだからやめろとは言われたけど。自己ベストの向上となると、どこかオリンピックみたいで、ずっとやっているわけにはいかなくなるからかも。
知識を得て、気に入る歌が詠めるようになったらいきなりやめてしまうからかもしれない。でも、なかなかそういう具合にはいかないから続いているのかもしれないし、奥が深いから際限なく続いていくのかも。

一度詠み出したら、みょうにはまってしまう。

投稿者 Blue Wind : December 9, 2004 10:56 AM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?