December 04, 2004

幸と不幸のバランス

母の病室を行き来しながら、目に見える苦労というのは他人に説明する必要がないだけ幸せという気がしてしまう。病院の売店で買って大きな紙オムツのパックを抱えて歩いていたり、洗濯物の入った大きな紙袋をぶら下げて歩いていると、何となく同情の視線を感じたりする。
世の中には不幸つながりというのもあって、慢性病床に移って以来ほかの患者さんの家族というものに出くわしたことがないという不可思議さに比べて、急性期の病床ではいつも付き添いの人や見舞いの人たちがいるために、話し相手には不自由しない。ぽつりぽつりいろいろな人たちと会話をするうちに、どうして病院の待合室が老人ばかりになってしまうのか、次第に理解できるようになる。
動物病院へ行っても、次から次へと犬や猫が入ってくる。怪我や病気、妊娠、予防接種、来院する理由はそれぞれに違うけど、30分くらい待たされている間、話し相手には不自由しない。特にマリちゃんはまだ赤ちゃんなので、なおさらなのかも。
若い頃、スキーで骨折して、治って街中を片足をおおげさに引き摺りながら歩いていたときには、病人くさい自分が酷くみじめに思えたこともある。まだ包帯などを巻いているほうが救われる。同情の視線というより、好奇心で眺められているような気がしたからかもしれない。通院しているだけならまだしも、皆が元気な中に理由もなくみじめな自分が存在しているような気がしてつらかった記憶がある。
人とのつながりということを考えるとき、何となくこの二つの異次元が浮んで消える。不幸なら不幸な人たちの輪があるし、幸せなら幸せな人たちの輪がある。不幸であるにもかかわらず幸せの輪の中へ行こうとするときほどつらいものはない。それでいて、幸せな人は不幸の輪には入りにくい。どこで幸と不幸をわけるのかわからない。だから、目に見える不幸というのはわかりやすい分、気楽かもしれない。
その逆もある。世の中には目に見える幸せというのも存在しているらしい。
というわけで、常にバランスが大切なような気がする。他人に見える形で、幸と不幸のバランスがあるというほうが当たり前のような気がする。

母の世話をしながら、娘にややこしいことを説明する必要性がないことがありがたい。一人娘だし、いつかは娘の世話にならなくてはならない日が来る。これは同居するとかしないとかそういうことではなく、誰でも年を取れば、いつかはわたしの母のように自分では何もできなくなる日が来る可能性が高い。つまりは、親はいつまでも元気でいるわけではない、それどころか逆に誰かの世話にならなければならない時が来る。親離れを促すわけではないけれども、そういう当たり前のことが当たり前なものとして育っていってくれるってありがたい。しっかりしろとか、親に甘えるなとか、そういうつまらない意味での躾をする必要性がない。逆にこちらも子どものほうがそのようにあらゆることを自然体で受け止めてくれると子どもにしがみつく必要性がない。
核家族は気楽だけど、親子だけでは補いきれないものがあるような気もする。

投稿者 Blue Wind : December 4, 2004 01:57 AM | トラックバック
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