November 06, 2009

多病多忙

忙しくて膀胱炎になる。

よく考えてみたら、診療時間中にトイレに行った記憶がない。しかもお昼休みもほとんどないし、毎日のように残業。休日も休日診療があり、現在、娘がインフルエンザ。体のほうが悲鳴をあげている。

先週は目が乾いてかゆいのでこすっていたら腫れてしまった。眼科へ行ったら散粒腫だという。オペになるかもしれないと言われたが、なんとか治まっている。

その間に叔母から電話があり、急性白血病であと3ヶ月の命だと医者から言われたらしい。治療をする気がないので、とりあえず輸血にだけ大学病院へ通っている。見舞いがてら台風の中、高速を飛ばす。電車のほうが速い気がしたが、疲れているし、インフルエンザに感染したくないので車にした。

もう6日だというのにレセプトも終わっていない。Yさんがお子さんと3人で発熱してしまったため、ただでさえ忙しいのになおさら忙しい上に病気。

元気は元気だけど、これだけ世の中に病が蔓延していると、さすがに疲れが消えない。

ワクチンにもうんざりだ。

今年は季節性インフルエンザのワクチン接種のために、10月1日に96人来た。ありえない。通年より1ヶ月早いスタート。しかも、先週からワクチンの入荷が極端に減り、大人の接種を断っている。接種を断った人から嫌がらせの電話。

新型インフルの予防接種なんてやめてほしい。

ただでさえ忙しいのに、電話の問い合わせだけでも同じことばかりで嫌になる。インフルエンザは蔓延しているし、ワクチンは足りないし、わがままな人たちも多いし、患者は多いし、近所の病院がパンク状態なので、しばらく休日診療をしてくれないかという要請があったけど、こちらはこちらで目いっぱいだし、職員の休みが無くなる。休憩時間も少ない、休みもない、となったら職員を失いそうだ。

今の時期が忙しいのは当たり前なんだけど、今年は豚インフルの影響で10月1日以来どつぼに忙しい。これがずっと続き、12月からまた新型インフルのワクチン接種が始まるとなると死んでしまいそうなので、会議には出席しているし、接種もすることになっているけれども、実際には年内はやりたくない。しかも副反応が多すぎる。アナフィラキシーが発生したら診療どころではなくなる。そのくせ問い合わせは多いし、こんなことならワクチンなんて輸入しなければよかったのに、とすら思う。今がピークなのに、どうするのだろうか。タイは感染者が多く、ひととおり感染が終わってしまい、流行自体は終息しているらしい。学校も閉鎖続きで、うちの娘は9月の末以来、一体いつ学校へ行っているのかわからない。

カルテ番号が10000番を超えた。

叔母の見舞いにも行けない・・・

(ダニエル 3. 33)

投稿者 Blue Wind : 10:51 PM | コメント (0) | トラックバック

August 27, 2009

飛び出し

今日はまだ興奮が収まらない。

危うく自転車に乗った子どもを轢きそうになった。

夏休み。

子どもが飛び出してくる。

自分でも咄嗟のことでよく覚えていない。気がつけばクラクションを鳴らしながらハンドルを切り急ブレーキを踏んでいた。ずっとその子どもたちのことを見ていたので、ぶつかりそうになった瞬間子どもと目が合った。あちらも驚いて自転車を停めていた。

本当に一瞬のことだ。反対車線を走っている車がゆっくり徐行しながら走ってくるので、わたしもゆっくり車を片側に戻しながら走り出す。

すぐそこが娘のデッサン教室だったので、そこに車を停め、娘を降ろして、あの子たちのところに戻ろうとしたら、元気よく二人でまた道の反対側を走り抜けて路地に曲がって行った。

実際にはぶつからなかったので娘はいつもの通りだし、駐車場で見ていたであろう人たちも自分たちの世界。わたしひとりが落ち着かない。

あの子たちのブレーキが少しでも遅れたり、わたしがハンドルを切らなかったら、接触していただろう。

夏休みの終わり・・・

わたしが交通事故に遭ったのも同じような感じ。完全なる自転車による飛び出し。

***

数日前にも近所の路上に老人が仰向けに倒れていた。

警官がいたので、交通事故だろうとは思ったが、車は離れたところに停められているだけで破損はない。おそらくは小さな交差点で歩行者を撥ねてしまったのだろう。

その前にはすべての交差点に警官が立っているので変だと思ったら、デパートの前の信号が両方とも赤で、警官が大通りに立ち、車を誘導していた。どうやら故障は1箇所だけだったみたいだが、大通りを何キロにも渡って警官がいたため何事かと思ってしまう。

それにしても事故が多い。車同士の接触事故くらいならすでに驚かなくなってしまった。近頃は歩行者や自転車の数が増え、昔より遥かに危ない。大通りを走る車も増えたし、路線バスの数も増えた。パトカーや救急車も、研究所や病院のミニバスもよく見かけるようになった。

それにしても、事故くらいでは驚かなくなっているところが怖い。

(ルカ 6. 27-36)

投稿者 Blue Wind : 03:13 AM | コメント (0) | トラックバック

August 19, 2009

破綻までの過ごし方

民主党のマニフェストを見て、何となく不安になる。末期のがん患者に対する麻薬みたいなもので、国がもうにっちもさっちもいかない状況にあることが薄々伝わってくる。

患者さんが、銀行金利が上がったり、インフレがきた場合、逆にこの国の経済が破綻してしまうと教えてくれた。理由は簡単で、国が財源として金融機関に国債を買わせているためで、インフレになれば金融資産自体が目減りし、しかも、もともとのその財源といえば、わたしたちが銀行や郵便局などに預けている預貯金。それを国が勝手に使い込んでいるようなもの。

景気をよくするなら、銀行金利を上げたらいい。そうすれば、高齢者の生活も楽になるかもしれない。でも、そんなことをしたら国は破綻する。しかも、世の中は裕福な人たちばかりではないため、福祉にはお金がかかる。結局、その財源のためには消費税を値上げするしかない。だけど、そんなことをすれば、生活費は値上がりするし、ますます高齢者はお金を使わなくなるだろう。(と、姑さんを見ていて思う。)

銀行は国債は買うが、相変わらず中小企業にはお金は貸さない。そうなると、何のために郵政を民営化したのかわからない。

というわけで、わたしは地方分権にはすこぶる賛成なのであるが、今月に入って、生活保護の人の医療券を送付してもらうために役所に3回も電話をしなければならない事態に遭遇し、市も相当台所事情が苦しいことが伝わってくる。それとも、生活保護を打ち切るための嫌がらせなのだろうか。

まあ、わたしが知っているだけでも家族6人で3年以上生活保護を受けている上に、就業可能な人たちが両親と長男と3人もいる。長男は高校生だからある程度は仕方がないにしても、役所にしてみれば誰も働かないというのが気に食わないのかもしれない。当人にしてみれば、仕事が無いと言う。

が、しかし、うちにはそんなことは関係ない。患者さんが生活保護者である場合、診療代は行政に請求することになっているのだから、そのためになんでわたしが役所とケンカしなければならにのかよくわからない。ホント、公費ってめんどっちー。

それでも地元のことなので、話し合いの余地があるだけマシかも。

****

いきなり思いついて、TSUTAYAの宅配レンタルを始めた。近所のレンタルショップにこのところ借りたいようなものが見つからなくなったということもある。それと車のオーディオがよくなったからかも。世の中、ひそかに豚インフルも流行しているし、こんなときには家で静かにしているほうがまとも。

でも、豚インフルの報道があると、たちまち患者さんの数が減る。おそらくは本当に感染の可能性が濃厚な人は病院の発熱外来へ行ってしまうからだろうし、それ以外の人たちの場合、下手に医者へ行って感染したら困るから来ない。

そういう傾向はうちだけなのかと思ったら、どこでもそうらしい。今は夏休みなので騒ぎにはなっていないが、近所の高校でも娘の学校でも集団感染が発生している。

夏季休業の前にうちでもインフル感染の患者の来院があった。幸い、職員、誰も感染しなかったが、昨日、問屋さんが来て、抗ウイルス薬の備蓄をするかどうか訊いてきた。たしかにシーズンが到来したら、感染は避けられない。ワクチンの話も今のところ不透明だし、一般には出回らないという話まである。しかも、今年は季節性のインフルのワクチンの製造量も少ないため、問屋も予約本数を訊いてこない。どうなるんだろう・・・

届いた宅配レンタルの封筒を見たら、ゆうメールだった。金融面では無意味な民営化かもしれないが、末端ではそのおかげで家にいながらにして恩恵を被っているのかも。

娘も予測に反して、大学も自宅から通いたいと言う。TXが開通したせいか、このところ下宿の学生がかなり減った。つくばからも都内までなら皆自宅から通学している。実際にはその頃にならないとわからないけど、親は助かるなぁ・・・

地方分権で、なるべく子どもは自宅から通える大学へ行き、買い物はネット、というのが理想かも。それなら何とか不景気を乗り切れそうな気がする。

(アモス 6. 8-14)

投稿者 Blue Wind : 12:41 PM | コメント (0) | トラックバック

August 18, 2009

花火大会

14日にツインリンクもてぎの花火大会に行った。

ツインリンクもてぎという名は、娘が学校の合宿か何かで行ったので知っていたけど、レース場とは知らなかった。本当に山の中で、ナビを見ながら一般道を走って行ったため、大した距離ではないのに、いくつもの山を越えていったような気がした。

花火大会は夜だというのに、地元の人たちはピクニックの支度をして早くから来ている。人が多くて座る場所もないので、レジャーシート持参の人たちが羨ましかった。浴衣姿の若者の姿が目立つ。レース場がなければ、縁日のような雰囲気で、どこかのお祭りのようだ。暑いので喉ばかり渇く。

それでも12000発の花火は素晴らしかった。暑い中をずっと待った甲斐がある。レース場なので周囲に何もないし、スタンドのライトも消し、暗闇の中、頭上に花火が上がる。ものすごい音。

途中で風向きが変わったので、いきなりスタンドが煙に包まれる。霧に包まれているようで、花火の量が半端でないため、数分間中断したほど。

最初、花火の燃えカスか演出かと思ったが、あれは本当に流れ星だったらしい。あんなにはっきりとした流れ星はめずらしい。そのほかにもパッと消えたが、流れ星が見えた。

待ち時間の暑さと長さと人の多さには辟易するし、園内の循環バスを1時間待ち、駐車場から車を出すまで1時間以上の渋滞があったとしても、誰も文句を言わず、のんびりしている。それくらい素晴らしい花火だった。

***

それにしても、わたしの車のナビはダメだ。とんでもないところに案内してくれる。普段はナビなんて必要ないし、今までは外出するときには父さんの車を使っていたため、自分の車で遠出するという意識はない。それでも、移動の手段が車に頼らざるを得ないため、ほとんどの家でセカンドカーを使っている。

今回、父さんが自分用の車をエコに惹かれてインサイトにしてしまったため、娘が後部座席に座ると狭いので文句を言う。短時間ならともかく、長時間乗るのはきついらしい。生活感のない車。でも、ナビは優等生。にもかかわらずわたし用の車は7人乗りのフリードなので、遠出するときにはこちらを使うことになる。

わたしは以前から今度買い換えるなら絶対にオーディオのよい車にしようと思っていたため、最初はナビにするつもりはなかったのだけど、たまたまキャンペーンをしていたため、それに乗っかってしまった。それでもスピーカーを増やしたので、音はかなりよい。

が、しかし、ナビ・・・・

試しに小町の里まで使ってみたら、大昔の街道を通らされ、すごく遠回りになった。今はあんな道を通らなくてもまっすぐ行けるのに、ナビにはない道だということを初めて知った。

ツインリンクもてぎへの道も、どうも事前にマピオンのドライブルートで確認した道がどうしても出てこない。どういうわけか遠回りされられる。帰りは腹が立ったので、最短距離を選んで帰ってきたら、おっそろしい山道を走ることになった。街灯もない。ひたすら真っ暗な道。ただし、信号もないし、対向車すらほとんどないため、真夜中の道は恐ろしく、ナビがなかったらとてもじゃないけど走る気にはなれない。もっとも真夜中にあんなところを走るような車は変かもしれないが・・・

筑波山を越えて、桜川市を抜ければ、栃木はすぐそこのはずなのに、桜川市は想像以上に広かった。

(マタイ 27. 24-26)


嫌なシーンを開く。
花火を観るために集まった群衆・・・

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August 04, 2009

ビール瓶ラムネ

絵も毎日描かないと下手になる、と娘が言う。そう言いながらも毎日描いているわけでもなく、一応、スケッチブックを持ってバリ島へ行ったらしいが、わたしは娘が描いている姿を見たことはない。

娘は、このところデッサンの夏期講習へ行っている。7時半に終わる予定だが、一人ひとり講評をするため、レッスンが終わるのは8時過ぎ。描いた絵は持ち帰りなので、わたしは車で娘が出てくるのを待ちながら、今日はどんな絵を描いたのか楽しみにしている。

気に入った絵が描けたときには、家に戻ってからもずっと笑いが止まらない顔をしている。自然と笑みがこぼれる。

が、しかし、「ビール瓶ラムネ」を描いたときには、ずっと泣きそうな顔をしている。「ビール瓶ラムネ」というのは、わたしのネーミングで、要するに失敗作なのだそう。やけに大きなラムネ瓶に見え、わたし的には、こういうラムネがあったら買いたいわ〜と思ってしまう。普通のラムネよりもずっと大きいラムネ。

微笑んでいる牛骨をみたときにも、何となくポエムな気分になった。無機質でおどろおどろしがちな素材だが、何となく微笑んでいるように見えて、「僕は微笑みを忘れない」と骨が語っているように見える。死んでも微笑んでいる牛の骨って、なんかポエムなのよね・・・

昨日はポリゴンで、今日はその石膏像。石膏像を描くのは初めてだと思うけど、かなり上手だった。静物画のほうが難しいのだろうか。

が、しかし、デッサン科に替わって以来、ずっと鉛筆デッサンばかり。

家では宿題をやるだけで勉強もしないし、デッサンも描かない。イラストやマンガの絵、ウェブで遊んでいたり、ゲームをしたり、テレビのバラエティを観ているだけ。

が、しかし、近頃あきらめている。美大のカタログを取り寄せて以来、わたしは何かを悟った。

日常生活を見渡せば、人間の作るもので誰かがデザインしていないものなどめったにない。飲んだら捨てる牛乳パックも鉛筆も電話もテレビもパソコンも誰かがデザインしている。街を歩けば、デパートのロゴも車も建物も道路標識も、元をただせば誰かがデザインしたもの。

そうやって考えたら、わたしには遊んでいるようにしか見えないことでも、それを生業として食べている人たちは多いわけで、ある意味、遊びは学業よりも大切かもしれないと考えることにした。それに、上手に描けた石膏デッサンよりも、「ビール瓶ラムネ」のほうがわたし的にはずっと面白いわけで、娘には申し訳ないが、世の中ってそういうものではないかと。

一生懸命にデッサンをやって必死に美大に合格して、あげく「ビール瓶ラムネのほうが面白いよ」と言われたら、急にヤル気をなくす人と、ノリノリでやっていく人と、その差は大きいと思う。

もっともわたしが何か言っても関係ないだろうが・・・

(ダニエル 2. 1-18)

投稿者 Blue Wind : 02:47 AM | コメント (0) | トラックバック

July 26, 2009

早起きイルカ

5年に一度くらいの割でバリ島へ行っているような気がする。今回はウブド経由でロビナへ行った。ウブドへ行くのは10年ぶりくらいだろうか。

最初にバリ島へ訪れたときのような幻想感はすでに無く、深夜だというのにひっきりなしにバイクが通り、バイクの騒音に伴奏されながらいつの間にかウブドに到着していた。以前は深夜の道をほとんどすれ違う車さえなく、真っ暗な世界を走っていた気がするが、道路が整備され、オレンジの灯りが続く。信号がないので、バイク天国だ。

ウブドでは日本語が通じる。逆に、日本人がインドネシア語を話していたり、日本人だと思ったら韓国語のガイドブックを持っていたり、白人がインドネシア語で話しかけてきたり、フランス人が英語を話したりしているので、外見だけで国籍を判断するのは難しい。

インドネシア人同士でも、同郷の者以外は互いに異邦人なのだろう。ロビナから空港へと送迎してくれた運転手は、地元では頼みもしないのにあちこちガイドをしてくれるが、空港に近づくに連れどうでもよくなってくる。

それでも、ジンバランのイカンパサール(ビーチレストラン)で偶然知り合いを見つけると、帰りにはその店の名刺をごそっとポケットに入れていた。わたしたちのコーヒーも、彼の友人のサービスなのだろうか。ちなみに本業は消防士で、週に3回くらいホテルで運転手のアルバイトをしているらしい。

ロビナビーチはもっとひなびた漁村を期待していたのだが、ビーチ沿いにホテルやレストランが並び、みやげ物屋や物売りたちが働いている。子どもが多くて、ちょっとでも座っていると次から次へとやって来る。手作りのアクセサリーを売っているので、買うなら皆から公平に1個ずつ買わなければならない。

わたしは山の上のホテルに宿泊していたので、ホテルのシャトルに乗らないとビーチには来られない。最初はものすごい勢いで押し売りしてくるので不愉快だったが、迎えの車が来るまでの退屈しのぎにはちょうどいいかも。Tシャツからアクセサリーから工芸品、フルーツ、ジュース、次から次へと集まってくる。

バリフリークとなると、百円ショップで小物を買って行って、クタの物売りを相手に遊んでいるらしいが、何となくその気持ちがわかった。あれだけ退屈していると、物々交換でもOKだろう。どこへ行っても同じようなものしか売っていないし、ちょっとめずらしいものを持って行ったらかなり喜ばれる。しつこく売りつけてくる割には話好きで、郷土愛が強く、特に家族の話が好きだ。

ロビナの海は日が昇る前が一番賑やかで、小さなジュクンと呼ばれる舟でイルカを追う。沖合いに何艘ものジュクンが浮かび、イルカが現れると一斉にそちらへ向かう。わたしはかなりラッキーで、イルカの群れがドルフィンジャンプをしながら次々と舟の横を泳いでいるのが見えた。最初は波と背びれの区別がつかないが、そのうちイルカがいる場所がわかるようになる。

ハイジャンプを期待したが、さすがにそれは無理だった。

日の出とともに彼等の姿は見えなくなる。夜明けとともにウォーミングアップのために姿を現すのだろうか。お天気が悪い日にはイルカは姿を現さないそう。晴れて朝日がくっきり見えるような日は、イルカも元気に泳ぎまわっている。

(ルカ 1. 78-80)

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July 16, 2009

「直線通り」にて

ずいぶん時代が変わったなと、大学の学校案内を眺めながら思う。今はインターネットでも申し込めるため、娘の代わりにわたしが勝手に取り寄せている。娘のためにというよりも、わたし自身の好奇心による。

試しにわたしの母校の学校案内も取り寄せた。わたしの時にはこんな立派な冊子はなかったと思いながら、ずいぶんカジュアルな雰囲気になった学生たちの写真を追いながら、世代交代を感じる。

わたしの学生の頃は、バブルの全盛期で、ブランド物で身を固めた学生が当たり前のような顔をして歩いていたものだが、今の学生はうちの娘が普段しているような格好で通学している。かく言うわたしもジーパンとユニクロで通勤しているし、自分のことは置いておいて、他人の姿を見ると、ずいぶん時代が変わったと思う、というのも身勝手な話なのかもしれない。

まあ、うちの娘だけがあんなんなのかと思っていたが、母校の学生の姿を見て、あんなんなのかというお嬢さんたちがたくさんいるので、ダンナと二人で、「ふつーだね」と妙に納得してしまった。何が普通かというと、うちの娘はふつーだ、という意味。中には総武線の運転手をしている卒業生がいて、ぶったまげてしまった。レアだから掲載されているのかもしれないが、それにしてもわたしの時代には考えられないことである。こういう時代に100%に近い就職率を誇っているのは相変わらずだが・・・

****

私立の美大は数が少ない。実際にはどこへ行こうかなどと迷うことは稀で、とりあえず、どこか受かったところへ行くしかないのかも。で、大学へ通いながら国立を受験する人たちも多い。仮面浪人と呼ばれているらしいが、実際、美大は浪人して入学する人たちも多いし、不景気だ就職難だと騒ぐわりには、気長に学生やっている子たちも多い。ファインへ進むと大学院へ行くほうが多いみたいだし、それから就職するのだろうか。

わたしが進学するわけではないので、娘にもっと勉強してもらいたいのは関の山なんだけど、娘の模試の結果を見るとがっかりしてしまう。ダンナに至っては、「こんなんじゃダメだ」と怒っている。それで、模試の全国の総合成績を調べてみると、上は偏差値94、下は30未満という具合に、自分達の頃にはありえなかったような数値が並んでいる。わたし的には、娘は医学部に行くわけではないんだから、娘にしては善戦しているのではないかと・・・ つまりは、まあふつーかな、という程度。喜べないし、叱れない、といったところか。

格差社会と言われる理由がわかる気がする。なんせ、偏差値100から25以下の時代。ほとんどが中間にいるとして、あまりにも格差がありすぎて逆に参考にならない。短大の合格圏内なんて、ほとんどが偏差値32以下。ありえない。試験をするほうが無意味だという気すらする。何のために入試をするのだろう・・・

ある美大のファインなどは学科試験がない。かと思えば、実技なしでセンター試験の結果だけで合否を判定していたり・・・

わたし的にはもっと勉強させたいんだけど、入学だけが目的だとすれば、学科の成績などはほとんど役に立ちそうにない。それでいて、私立の美大は学科の成績で合否が決まったりすると言われている。ありえない。どういう尺度で誰が語っているのか、昔の尺度しか知らないわたしとしては理解不可能。

****

それにしても、大変な時代になっちゃったな。自民党とか民主党という前に、力のある与党がなくなる可能性が高い。自民党が野党になり、権力がなくなると、どうなるのだろう。一応はマニフェストを確認しながら選挙へ行くようになるのだろうか。マニフェストと言っても、一番今気になっているのが、エコ減税。来年の3月までは続くだろうけど、民主党になったら廃止になりそう。その上、消費税まで上がったら、買い物をするなら選挙の前までに済ませるべきか。(せこい・・)

コロコロと政策が変わったら、それも迷惑な気がする。ますます誰に投票してよいのかわからない・・・

(使徒 9. 12-16)

投稿者 Blue Wind : 01:46 AM | コメント (0) | トラックバック

July 11, 2009

カード犯罪

昼間、家にいたらクレジット会社から電話。使用内容についての問い合わせだと言う。今年の2月に遡って、いちいち確認。

わたしの場合、場所によってカードを使い分けているので、比較的よく覚えているかもしれない。せこいから、ガソリンはガソリンスタンドのカード、ショッピングセンターでの買い物はそこのお店のカードという具合。

でも、今回、問い合わせのあったカードは、主に旅行用のカード。最後に使ったのはこの前の入院代。間違えて電気屋さんで使ったほかは、思い当たるものばかりだ。

外国からの請求はホテルの前払い金のみのはず。なのに、病院での支払いの後、聞いたこともない名前が続く。フランス語なのでなんと読んでよいのかわからないと係りの人にも言われ、スペインのサイトやフランスでのサイトでの買い物に使われているらしい。

---- 4日前にこのカードで買い物をしましたか?

---- 4日前ですか? 使っていません。

---- 家族の方が使ったということはありませんか?

---- いいえ、いつもわたしが持ち歩いているので、それはないと思います。

---- どこかで支払おうとして使うのをやめたとか、荷物を置いたままにしておいたということはありませんか?

---- ないと思います。あるとすれば職場とか・・・ でも考えられないです。

少なくても、うちのスタッフがスペインやフランスで買い物をするはずがない。英語だって危ないくらいなのに、そんなサイトにアクセスしたって読めないだろう。ホソピーにいたっては、日本語でですらネットで買い物なんてしない。(できないのか・・・)

カード会社によると、3万円くらいずついろいろなところから請求があるらしい。まとまるとかなり高額で、おそらくはたまたまわたしが病院でカードを使ったので、海外からの請求と病院との請求が同時に発生するなんてことはありえないので、問い合わせの電話が掛かってきたのかも。

こういう不正使用に関しては、わたしが支払うことにはならないらしいが、それにしてもがっくり。

心当たりはない。あるとすれば、旅行の予約に使ったので、海外でカード情報が盗まれた可能性はある。日本だったら考えられないけど、バリ島だったら何でもありいのような・・・ それにいろいろな国で使われているため、一人の犯行ではないかもしれない。組織だったりしたら、プロの犯行なので、太刀打ちできない。カード会社からの明細を見て気がつく頃には犯人はどこかへ逃げているかもしれない。でも、4日前なら捕まるだろうか。

それにしても災難続き。大したことはないけれども、病気はするし、体調は悪いし、犯罪にも巻き込まれるし、近頃ろくなことがない。前庭神経炎の後遺症はすっかり影を潜め、普通の日常生活にはなったものの、仕事に復帰すると風邪ばかりひいて、体調が悪い。

こういうことって続くのよね・・・

がっくり。

(エレミヤ 15. 9)

投稿者 Blue Wind : 02:44 AM | コメント (0) | トラックバック

June 28, 2009

ノスタルジー

美容院へ行き、髪を黒く染めたら、マイケル・ジャクソンに似ているとダンナに言われた。娘にもダメだしされ、これから夏になるのに暗く染めてどうするんだと言われた。

わたし的には、茶色に退色した髪と伸びてきた地色の髪との境界線が病人臭いようでやけに気になり、いっそのこと髪を黒くして短く切ろうかと思っただけだ。が、しかし、加齢とともに、このところ毛先が軽くパーマをかけたみたいにくせが出てきたため、美容師に止められた。不思議なことに後ろの毛先だけがウェーブしている。放っておいても今風なので、もったいないか・・・ パーマと違って、天然なので切っても切ってもカールしてしまう。「短くしたほうが大変ですよ」と言われた。

うまく説明できないけど、マイケルが死んで、急に今の時代が嫌になってしまった。茶髪にもうんざりだし、やたらとカーリーなヘアスタイルにもうんざりだし、前髪も伸びてきたので、大昔、ワンレングスとかボブといった時代遅れなシロモノが、妙になつかしくなっただけなのかも。一種のノスタルジーだろうか・・・

昔のババアはもっと威厳があったような気がする。うちの母親は流行などおかまいなしに、いつもショートカットの同じヘアスタイルだった。化粧品も服もいつも似たようなものだった。香水もバッグもいつも同じようなもの。自分のスタイルや好みがはっきりしていて、自分にはこれしか似合わない、という信念があったような気がする。

わたし?

わたしは案外のらくらしていて、気分屋・・・ 毎年、趣味が変わる。美容師にボブにしてくださいと言っても、大変ですよと言われただけで、めんどーだからおまかせしてしまう。昔、ボブは一番楽なヘアスタイルと言われたものだが、若い人たちにとっては逆にややこしシロモノなのかも。髪型をやたらとこねくりまわす人に向いているらしい。

しかも気分屋で飽きっぽいから、すぐに飽きてしまう。それでいて飽きてもそのままだったりする。そのくせ流行なんてどうでもいい。それでいて流行に左右されやすい。

要するに、自分がぼーっとしているうちに、あまりにもくるくる世の中が変化していくので、ついていけない。バブルがはじけ、不景気になり、そのうち回復するだろうと思っているうちに今が大不況だと言われ、「あ、そう・・」という感じなのかも。

なんか、ついていけない。

(イザヤ 48. 14-15)

投稿者 Blue Wind : 03:30 AM | コメント (0) | トラックバック

June 19, 2009

検査

今日、検査をした。

片耳ずつ水を入れる。正常ならば水を入れた側に眩暈が生じる。わたしの場合は、右は正常だが、左が異常。つまり、耳の中に水を入れても眩暈が生じないというのは、神経が壊れているらしい。

というわけで、全然うれしくはなかったが、わたしの病気は前庭神経炎と確定。いわゆるストレスや自律神経系の眩暈と違い、風邪などのウイルスなどが原因ではないかと言われているが、あまりよくわかっていない病気らしい。

しかも、治らない。

その代わり、このふわふわとした状態に1〜2ヶ月すると慣れるらしく、日常生活には支障がなくなる。

何も触っていないと妙に不安定。ハンドルでも壁でも何かに触ると、急に落ち着く。手のひらで方向を感じ取っているかのよう。目は見えてはいるが、まるで暗闇の中のように手が頼り。

『パウロ』を読みながら、通常、右手と左手は別々の行動をとっていることを思い出す。わたしのように片側がやられると平衡感覚を失い、酷いと目も開けていられなくなる。

というわけで、右手と左手は別々に動き、ときに協調しあい、そして祈るときには合わせられる。

それにしても、しばらくは不自由な生活が続きそう。かなり回復したけど、それは治っているからではなく、単に新しい感覚に慣れていっているからにすぎない。

(マタイ 22. 34-40)

投稿者 Blue Wind : 01:14 AM | コメント (0) | トラックバック

June 18, 2009

自転車ごと

まっすぐに歩けないだけで、元気。

それでも平均台の上を歩いているような足取りから、坂道を登っているような感覚まで回復した。座っている分には何でもないので、やたらと読書をしている時間が延びている。視線がフラフラしている分、読むのが速くなったような気がする。

車を買った。

最初、プリウスにする予定だったが納車が車検に間に合わないのでインサイトにした。そして、その日、契約後、どしゃぶりだったので娘を迎えに図書館へ行った。探したけど、いない。仕方がないのでそのまま家に帰り、途中で雨の中、傘も差さずに自転車をこいでいる女の子がいて、若者は雨でも大丈夫なのかな、と話しながら家に戻る。

すると、しばらくして娘が帰ってきた。

絶句。あの雨の中を自転車に乗ってこいでいたのは、娘だった。

高校生になり、行動半径が広がり、自転車であちこち行ってしまう。男の子ならともかく、明るいうちに戻るようには言っているが、この前、学校から友達を乗せて帰ってきたら、彼女の親は毎日のように夜、学校へ彼女を迎えに行っているそう。図書館で9時まで勉強しているという。さすが・・・

娘の場合は、塾に行かせることにした。家では勉強する気にならないと言うので。甘いかな・・・ それでも苦手だった数学の成績が劇的に上がったので、こんなことならもっと早く行かせるべきだったかも。デッサンのほうも、学校行事とぶつかると2週間間が開いてしまうので、本当は週2回通わせたい。スケジュールがいっぱい。

夏休みの予定もめいっぱい。しかも、休み中は学校以外は送迎が必要。インサイトでは自転車は乗らない。

迷っていたら、駐車場で父さんの車がぶつけられた。買い換える予定だったのでどうでもいいと思ったが、相手の人が修理に保険を使うというので、うちの車の分も出るという。何となく運命だと思って、わたしもケイちゃんを諦めて、新しい車を買うことにした。自転車ごと乗るので、役に立つだろう。娘の夏休みに合わせたような納車の予定。

もったいないと思ってしばらくケイに乗ろうと思ったけど、この2年間は、あるいは3年間は娘にとっては大事。塾でも図書館でも自転車で行けるが、夜は危険だ。ただでさえ事故も多い。後悔してからでは遅い。雨が降ることもある。自転車ごと乗せられる車は必要。

この不景気な時代に、2台もまとめて買う人なんてめったにいない。でも、今なら減税もあるし、補助金も出るし、ダメ押しのように事故にまで遭い、背中を押されている。

***

今度は、『パウロ』を読み始めた。

なるべく教会へは行くようにしているが、こんな有様なので毎週は無理。結局、家で本を読んでいる。

が、しかし、教会がなかったら、わたしが信者になることもなかったわけで、さいたま教区では12万人のうち日本人は2万人しかいないとリーフに書いてあった。比率から言えば、つくばはまだ多いほうなのかも。

『パウロ』を読んでいると、教会によってぜんぜん雰囲気が違うことがわかる。今でもそうなんだろうか。英語ミサと日本語ミサでは何となく雰囲気が違うし、そういうものなのかもしれない。

イベントはまめにあるけど、こういう有様なので、気乗りしない。

わたしは教会で何を学んでいるのだろう?

(ネヘミヤ 5. 10-13)

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June 14, 2009

入院

水曜日に退院したものの、今度は酷い立ちくらみが始まった。

先週の日曜日、我慢できずに病院へ行った。土曜日の朝以来、ずっと眩暈が続き、いつまで経っても治らないどころか眩暈のために吐き気がして何も食べられない。仕方なくそのまま入院。火曜日頃には起きられるようになり、水曜日には退院してきた。

昨日、耳鼻科の外来を受診し、「眩暈は治まっているが、ずっと長い間眩暈が続いていたせいで、今度は体が平衡感覚を取り戻そうとしてしばらくはクラクラしますよ。」と医者に言われた。

脳の検査をして何でもないので、精神的なものかもしれないと言われたが、それにしては長すぎるので耳鼻科を受診したら、前庭神経炎ではないかと言われた。ウイルスが原因ではないかと言われているらしいが、はっきりしたことはわかっていない病気らしい。

ビーズアクセサリーを作り始めたのが原因だろうか・・・

わたし的にはそれくらいしか思いあたらなかった。目が弱くなっている。昔のように無理はきかないようだ。

それにしても、一度眩暈に順応してしまった脳が、今度は普通の平衡感覚を取り戻すまで、この不愉快な状態が続くと思ったら、なおさらクラクラする。来週、また検査のために耳鼻科を受診することになった。わたしは治れば何が原因だろうとかまわない。でも、病名がはっきりしたほうがすっきりはするかも。

なんせ、眩暈が続くと言ったら、みんなストレスが原因だと言う。でも、心あたりはないし・・・ あるとすれば仕事のことかもしれないが、はっきりしているのはストレス性の眩暈症にしては症状が長すぎるらしく、残るは神経の炎症くらいしか考えられない。

精神的なことがストレスなら何がストレスなのか原因がわかりそうなものだけど、なお悪いことに何が原因なのか自分ではわからない。耳鼻科の疾患でなかったら、今度は神経科だろうか。いずれにせよ、疲れているのは確かなのだろう。そのくせ、血圧まで正常になってしまい、はっきりしているのは度の強い眼鏡をかけてクラクラするときのような感覚が続いているにすぎないということ。こんなんで、来週から職場に復帰できるだろうか。

もしかすると、Mさんが辞めたことと関係があるのだろうか。心配は心配だよね・・・ ご主人が失業し、常勤で働ける職場を見つけたということで急に辞めたけど、派遣なのでまたすぐに失業してしまうかもしれない。それにしても、こんなことになるなら無理してでもあと1ヶ月いてもらったほうがよかっただろうか。

まあ、世の中は自分の都合どおりにはいかない。

黙って回復を待つしかないか・・・

受洗してからだな・・・何となく神経が休まらないのは。これは言葉にはならないほどの沈黙の圧力だ。

文字通り、平衡感覚を失っている。日常生活と信仰生活とのバランスが取れない。日常生活と信仰とが分離していれば、それは切り替えスイッチを押すようなもので互いに干渉しあうことはない。

そのうち自然とバランスが保てるようになるかもしれない。今は何かどこかがバランスを失い、そうやって抑えてきたものが、病気になって表出しているだけなのかも。原因不明の病気というのは厄介。来週、検査だけは受けよう。それでも原因がわからなければ、放っておくしかない。

でも、良性眩暈症の次に、前庭神経炎というのは多い病気らしい・・・

(ルカ 6. 6-11)

6月6〜11日  眩暈発症から退院までだ・・・ こういう符合って、ある。偶然の一致。

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May 28, 2009

悪いパターン

バルバロ聖書を読み終え、新共同訳聖書を最初から読み始めた。それと並行して、最近発刊されたキリスト教関係の本を数冊並行しながら読んでいる。

ホソピーが、わたしが洗礼を受けたのかどうか訊くので驚いた。あちらも、わたしがすでに受けたと答えたら驚いていた。たしかにあれにこれにと忙しい時期だったので、下馬評としては無理だろうと思われていたのだろうか。好奇心で、もみの木と比較しながら訊いてくるので困る・・・

---- 毎週日曜日には教会へ行ってるの?

---- なるべく行くようにしている・・・(汗

---- Mさんは、週に2回は行っているらしいよ。

---- 熱心なのよね・・・ わたしは戸別訪問もしないし、勧誘もしないし・・・それよりも自分の修養のほうでめいっぱい。

---- 生きるうえで、そういうのも大事だよね。

---- いや、死ぬうえでじゃない?

---- いや〜、長生きするよ。

---- いや〜、そーいえば、洗礼を受けるというのは死んだということらしいよ。で、新しい命を受けて・・・ 仏教で戒名を受けるとか出家するとか、というのに当たるのではない?

---- へー。

---- だから、わたしは一度死んだらしいよ。そうやって聖書に書いてあった。

---- ひとりで行ってるんでしょ?

---- そう。

---- ふーん・・・ 大事だよね、そういうことも。

その後、ホソピーが昔行っていたプロテスタント系の婦人の会の話が続く。彼女は信者ではないし、カトリックもプロテスタントも同じだと思っているので、わたしも深く考えない。神父さんが以前勉強会のときに、ここの教会は入り口に献金箱があってプロテスタントみたいだとぼやいていた献金箱に信徒会の会費などの納入袋を入れ、ほかの信徒さんに、「神父さんが年にまとめて納入すればいいとおっしゃってたんですが」と言ったら困ったような顔をしていたので、素直に信徒会の方針に従うことにした。

今読んでいる本の中に、「教会外のキリスト者」という言葉があって、礼拝には参加しない信者とか、所属教会を持たないキリスト者がさほどめずらしくないと書かれていた。全信者の中で、毎週日曜日に教会へ行っているのは15%という数値まであり、その原因を教会の分裂により教会が信者の信頼を失ったからだとも書かれていた。

そのほかにも、わたしみたいにずっと洗礼を受けないでいる人まで含めると、毎週欠かさず教会へ行っている人がいかに少数派かわかる。というか、教会の入り口に置いてあった月謝袋のようなものを考えると、気のせいかもしれないけど、数が少ない。ということは、外国人や学生も多いし、御ミサにだけ来ている信者さんも多いのかもしれない。

うちの患者さんの中にも何人か信者さんがいるのは知っているけど、外から来て、教会へは行っていないし、場所を教えてあげても行かないと言う。どうして行かないかは人それぞれなので、深く考えるのはやめた。

ホソピーが、「お葬式とかどうするの?」と訊く。わたしとしては、「わからない」としか答えられない。わからないし、知らない・・・ もみの木だと親の葬式にも出ないそうで、そうなると無宗教でやるしかないのだろうか。とは言うものの、お坊さん抜きのお葬式とか、牧師さん抜きの結婚式も近頃では多いというし、それでも何も困らないことをわたしは2度体験した。

もしかすると、洗礼を受けたら、わたしがどこか何か変わると思われていたのだろうか?

宣伝するとか?

・・・・・・それはないな。洗礼を受ける前から信者だと思われていたせいか、あるいは信者と間違えられることを苦痛としていた時期までも含めると、今さら何が変わるのかよくわからない。洗礼を受ける受けないは別として、わたしみたいなのは、いわゆる教会外のキリスト者というやつで、それが受洗して信徒会の会費を払うようになったからといって何が変わるのかよくわからない。それでもなるべく日曜日の御ミサには行くようにしている。

信徒会の会費を払うようになっても、日曜日の御ミサに行くようになっても、精神は自由だ。とりあえず、本の続きを読もう。

(マタイ 25. 41-43、 26. 31)

一番悪い信者のパターンかも・・・

回心どころか改悪化している可能性が・・・

何のために受洗したのかわからん。

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May 21, 2009

確信

やっとパウロの書簡。コリント1に入ったところだけど、ローマは難解だった。

理解しようとするから難しいわけで、理解しようとしなければ難しいことは何もない。ただ、ユダヤ教からの改宗者にとっては、今まで食べてはいけないとされていたものを食べたり、律法で禁止されていることをゆるされるとなると、かなり困惑があったことが心情的にわかるような気がする。

なんせ受洗したとなると、今までだったら気にならなかったことでも気になるようになるし、あれも罪、これも罪、という具合に最初の1ヶ月はぐったりするような気分だった。それに、アクティフといっても何をしてよいのかもわからないし、わからないままに聖書の続きを1人で読んでいるわけで、何をしてよいのかわからないからこそ、根気強く聖書を読んでいられるのかもしれないと、ここまできて思うようになった。

一つ拾ったのは、確信の持てないことは仮に善いことであっても罪であり、善い行いでも良心に従って確信を持ってやらなければ罪になるということ。逆に語れば、確信を持って善いと思えることなら罪にはならないと書いてあった。

ちょうどその辺を読んでいるとき、ダンナがまたウダウダうるさいので、その部分を読んでやった。

このところ新型インフルエンザのことでタミフルやリレンザが有効と盛んにニュースで言っているが、去年は副作用のことがあり、タミフルを投与しない医療機関が多かった。それにタミフル耐性があってタミフルが効かない人も多かったし、うちではあまりタミフルを処方しない。何故、処方しないかを患者さんに説明しなければならないが、医者が確信を持ってそうやって説明しているので、大抵の患者さんは納得していた。にもかかわらず、1年もすると去年のことはすっかり忘れ去られてしまうがごとく、今年は抗ウイルス薬を投与しているところが多い。

それとか、子どもの患者さんが来て、耳鼻科でステロイドを出されたがよくならず、某小児科に行ったら先生が驚いておくすり手帳にその薬を服用してはいけないと×を付けられ、ほかの出された薬を飲んだがよくならず、誰の言うことが正しいのかわからなくなりうちに来たそう。結論としては、耳鼻科の先生はステロイドはよく使うし、小児科の先生はステロイドは使わないし、どちらもそれぞれの先生が正しいと思う治療をしているだけ。

「困るんだよなー」とわたしに言われても困る。

パウロ曰く、というか、パウロ風に解釈すると、「それが正しいかどうかは別として、医者が確信を持って患者さんにとってよかれと思って診療したのなら少なくても罪にはならないんじゃないの?」と、「罪」という言葉を強調しながらわたしは答えた。それが正しいかどうかは別として・・・ いろんな医者がいろんなことを言うのはめずらしいことではないし・・・ それが正しいことだとしても医者が確信を持たずに診療にあたれば、患者さんは何となく不安になるだろうし、不信感を持つのではないかと。

どうしてそういう話を居間でしているかというと、娘が今試験中で、娘の学校は居間での勉強を推奨しているから。何もしないよりはまし、ということだろうか・・・ で、娘は化学の勉強をしているかたわらで邪魔しないようにわたしは聖書を読み(なかなか読み終わらないし・・・)、それを邪魔するかのように父さんがウダウダ話しかけてくる。

いいんだけどね・・・

ただ、信者になったからといって、急に善いことをしようとしても迷うだけ。特に近頃あれこれ迷うことが多いし・・・

日常生活に信仰を持ち込むというのは矛盾の宝庫だから仕方がない。でも、これからはそれが素晴らしいとか、確信を持って善いことだと思えること以外はやらないことにした。だって、仮に善い行いだと聖書に書いてあったとしても、確信をもってやらなければ罪になると書いてあったし、自分にとっても負担なだけだ。

迷って、罪を意識して、聖書を読む。逆に語れば、何も思わなければ読まないのかもしれないし、読んでも何も残らない。

一つ思ったのは、ユダヤ人って大変だな・・・ということ。律法どおりに生活するって、想像を絶するほど不便で大変。聖別されるって大変そう・・・ そこのところがわからないとパウロの書簡は単なる歴史の一部に過ぎなくなる。

聖書って読むたびに、まるで違うことを言っているような気がしてしまう。何冊も違う本を読んでいるような気分だろうか・・・

(マタイ 11. 17-18)

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May 18, 2009

God bless ・・・

ようやくステファノの殉教のところまで読み、雨の中教会へ。

雨だから空いているかな・・・と思っていたら、空いてはいたが駐車場は逆にびっしりだった。つまり、通常に駐車しているだけでは足りず、敷地内にびっしり。普通の感覚だったら停める場所もないとひるんでしまうところだが、一台でも入るのならば停めてしまう。入り口付近に停めた車が一台ずつ出るまで、先に停めた人たちの車は出せない。

自転車にチャレンジするべきだろうか・・・ その前に、自分用の自転車を買わねば。

***

オバマ演説集が流行っているというので、CDを聴いてみたけど、わたし的には、"Yes, we can."より、"・・・may God bless the United States of America."のほうが耳に残る。高らかに、"God bless Japan."と演説するような政治家がこの国に出てくるとは思えない、少なくても今のところ。いても右翼の餌食になるだけだろう。

旧約聖書からずっと読んできて、今はメシアの時代なんだと知る。悪魔の支配する時代は終わった・・・

今日、御ミサのとき、韓国人のシスターがいらしていて、妹さんが留学中なのでこちらに遊びに来たそう。ケニアの医療機関で8年もご奉仕している。家族に会うのも4年ぶり。ケニアはとても貧しい国で、という話をしていたけど、近頃そういう話を聞くと複雑な気分に陥る。日本は、今、病んでいるから・・・

特定健診の説明会に参加し、2004年をピークとして年々人口は減るが、65歳以上の人の占める割合が3割になり、循環器系の疾患が国の医療費を圧迫するのでそれを予防するために特定健診をする、と説明された。

が、しかし、わたしがそのグラフで見たのは、確かに65歳以上になると循環器の入院患者さんがぐわっと増えるが、それ以前に、もっと若い世代の精神科の入院費の占める割合が循環器と並んでめちゃくちゃ多く、そっちを何とかするべきだと思ったが、おそらくは循環器なら何とか予防できるが、精神科の予防となると具体的な良案もなく放置するしかないから、メタボ・・・なのかも、と思った。

目に見える形で、戦争とか飢餓とか、それを撲滅しようとするほうが、目に見えない病気と闘うよりわかりやすいと言ったら言いすぎだろうか。

モーゼの時代には空からマンナが降ってきて、イエズスの時代にはパンと魚があるあまるほど与えられた。命のパン、つまりみことば、のかたどりらしい。形のあるものから形のないものへ。

日本語ミサですら外国人のほうが多いかもしれない。

パラダイスめざして、・・・・・がんばろう。

(使徒 8. 32-33)

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May 11, 2009

満月とウェハース

ちょうど読書に夢中になっているときのように、聖書を読んでいる。ようやく新約へ入り、マタイを読み終わったあたりで娘を迎えに外へ出たら、綺麗な満月だった。

黄色い満月を眺めながらドライブをしていると、何となく月が御聖体に見えてくる。御ミサでいただく御聖体は、どうやっても味のないウェハース。物質はどうやっても物質にすぎず、いまだにわたしには聖体拝領の意味がわからない。月を見ながら、そんなことを考えていた。

イタリアで月の出を見て以来、わたしは月を見ると神さまを思い出す。飛行機で窓を開けたときに見えた大きな白い満月。普通は空の上にあるのに、すぐ窓の外に見えたのが不思議だった。同じ空に浮かぶ太陽と月。右手に日没、左手には夜の月。言葉のない会話。

他愛もないことだけれども、神秘、という言葉があるのなら、神秘的な想い、というのはそういうときに感じるのではないかと思う。よくわからないけれども、神さまがとても近くにいるような感覚。空の月を食べたとき、実際には何も食べていないのに、何かを食べたような気がした。ウェハースが喉を通る感覚を思い出す。

***

預言書の解説を丹念に読みながら、新約聖書へ入ると、終わりの日というのはかのエルサレムの滅亡の日のことだったのか、という疑問が湧いてくる。わたしはこれから来るのだとずっと思っていたので、あんなに恐ろしいことが実際に遭ったのかと思うと、御聖体を飲み込んだときのような複雑な気分に襲われる。過去と現在が重複しているような感覚。まさしくドライなウェハースを飲み込むような感覚。

イエズスはエルサレムを見て泣いていたというけれども、そのときを見ていたのだろうか。過去は沈み、聖ことばは残り、沈殿物をかきまわさないように静かに水をすくう?

わたしは深く考えるのはやめた。

実際のところ、律法でいけにえを捧げるように書かれてあったとしても、わたしには無理だ。仮にわたしが当時の人だったとして、ユダヤ教に改宗したとする、でも、無理なものは無理。ということは改宗はありえない。

敷地いっぱいに車を詰め込んで、日曜日の御ミサのときは大変だ。早く行けばほかの人が帰るまで車を出せないし、遅れれば停める場所もないかもしれない。それでもテレビで観た電車の光景よりもましかも。電車の中だけではなく、上にも脇にも人がいっぱい。落ちたらどうするのだろう。それともお祭りだから、そういうものなのか。どこの国の光景だろう。忘れた。

人が集うって疲れる。

***

聖書を読んでいるうちに、イエズスの厳しいことばが少しも厳しく感じられなくなってくるから不思議。弟子たちも、イエズスのことばを聞いて、奇跡を見て、・・・・・一番不思議だったのは、最後の晩餐で裏切ることを告げられながらまるで何事もなかったかのような晩餐。その空気が不思議だ。ユダでなくても誰かがやらなければならなかったのだとすると、一番の貧乏くじはユダだ。預言書というシナリオはとても漠然としていて、誰もが理解していなかった。ミッション。

ミッション。

・・・・・眠くなる前に、つづきを読もう。

(ヨハネ 20. 7-10)

投稿者 Blue Wind : 12:50 AM | コメント (0) | トラックバック

May 05, 2009

苛苛と混沌

なんかイヤなんだよね・・・ このところフツフツ腹の立つことばかりで。

一番うんざりしているのがやはりMさんのことで、今まで彼女が口にしてきた悪口が彼女の身に降りかかりつつあり、それとわたしとは何の関係もないと思うのだけど、どうも逆恨みされているようで気持ち悪い。

”貧しい人”の定義って何だろう?

一般論としては貧乏な人のことなんでしょうけど、本当に困っている人とそうでもない人がいて、よくわからない。

例えば、ワクチン1本のことでも不足していると文句言われてしまう。本当に困っている人というのは、もし髄膜炎になったら抗生剤も効かず死んでしまうかもしれないお子さんで、そちらを優先にして何が悪いのかわからない。でも、自分の子が心配な親は、怒る。「あなたのお子さんはもう大きいし、健康だし、順番を待っていても大丈夫ではないですか?」と言っても文句を言われる。理屈じゃないから仕方がない。

どうでもいいや・・・

文句言われるのも仕事のうちだ。

テレビのインタビューで、香港のホテルに缶詰にされている外国人が、「ロビーに2分座っていただけで隔離されている」と文句を言っていたけど、わたし的には運が悪かったとしか言えない。新型インフルエンザの恐怖は香港が一番よく知っているかもしれない。

そうやって考えると、腹が立っているのは本当はわたしではなく、他人であり、その怒りが向けられるから自分が怒っているような気がしているだけなのかも。あっちもこっちもアンラッキーな人たちがいて、文句ばかり。そういうのは神さまに文句を言ったらいいと思う。でも、神さまには感謝して、わたしには文句を言う、というのはどうなんだろう?

あほらしくて、やってらんない。

そーゆーことか。

あほらしくてやってらんない人たちに、カトリックがどうたらこうたら言われて、フツフツしているのかもしれない。

「あなたたちの神さまに言いなさいよ」と言いたいのだけど、同じ神さまなのか?

本当に?

一つ気がついたのは、やっぱり宗教が違うと、同じ神さまでも違う神さまのようで、わたし的にはこのところせっせと聖書を読んでいる。やっとエゼキエル。偶像崇拝とかエルサレムの滅亡とかメシアのこととか。

ネットでイスラエル旅行記を検索して読んでいるのだけど、ガリラヤ湖の魚はまずそうだし、遊覧船はアラブの曲ががんがんに流され、金色のドームや嘆きの壁やさまざまな教会が密集しているのを見ると、何となく今のわたしの混沌とした精神状態そのもののような気がしてくる。

苛苛する。

人それぞれなんでしょうけど、なんでガリラヤ湖でアラブ民謡ががんがんに流れているのかわからん。わたしはあの手のサウンドは好きなんだけど、どうも無神経な気がして苛苛してくる。

受洗の前まではまるで気にならなかったのに、近頃、苛苛する。逆に、宗教というのを醒めた目線で眺めるようになってしまった気がする。受洗の前に神父さんが、宗教というのは服を着替えるようなものだと言っていたのを思い出す。

台湾人の先生が日本国籍を取り、日本人になった。Mさんは盛んにフィリピン人のことをバカにするのだが、日本語も話せないようなあのご主人が日本人になることはないだろうと思う。でも、日本がアメリカの植民地になっていたら、日本人はアメリカ国籍になっていたのだろうか。

エゼキエルを読みながら、母国を失ったユダヤ人たちが再びイスラエルを建国し、そして今の状態。

今の状況ってどういうことなのかと、”沈黙する神”の意味が少し理解できる反面、どういうことなのかしらんと、再び考えるのであった。

(エレミヤ 1. 14-15)

投稿者 Blue Wind : 03:31 AM | コメント (0) | トラックバック

April 30, 2009

ありえない・・・

去年あたりからパンデミックがそろそろ出そうだという噂がもちきりで、看護師が防護用のマスクを頼んだら、すでに品切れ状態。普通の感染予防のためのマスクはたくさんあるが、わたしはまだ息が苦しくなるほどのマスクをしたことはない。

ちまたでは豚インフルエンザの話題がクローズアップされているが、それとは別にわたしの住んでいる地域ではまだインフルエンザが流行っている。ホソピーの息子さんのクラスでも10名くらいB型インフルエンザに罹っているし、このところ高熱の患者が多く、いまだに一日1人くらいはインフルエンザ。しかも、今日はA型が出た。

おかしい・・・

普通はこの時期にインフルエンザの患者がこんなにいることはない。普通はA型が流行り始め、次にB型。それが今期に限っては、最初からB型のインフルエンザが流行し、しかもタミフルが効かないという話も多かった。このため、例年の流行パターンとは違うために、そろそろパンデミックが出るのではないか、今年がそれにあたるのではないかという憶測は多く、ホソピーなどはマスク6箱を備蓄し、今度は米を備蓄して、すでにパンデミックに備えている。ワクチンも効かない、薬も効かない、となるとパンデミックに感染してしまったらなす術がない。ひたすらマスクとうがいと手洗いで感染を予防し、外へ出ないこと、しかないらしい。

わたしは、娘に、学校へ行くときにはマスクを着用するように言ったが、あっさり断られた。学校や職場や公共の乗り物は恐い。インフルエンザは症状が治まっても1週間は感染力があるため、元気になっても感染防止のために外出するべきではない。なのに、治ったと思って学校へ行かせているという話をよく聞く。ありえない・・・

ホソピーが怒っていたが、上のお子さんがインフルエンザに感染し、今日は妹がインフルエンザかも、と受付で堂々と話している母親がいて、ほかの患者さんがビビリまくり、すぐに奥の部屋に入ってもらった。ホソピーが怒っていたのは、月曜日にインフルエンザと診断されたお子さんを一緒に連れて来たことで、少なくても今週いっぱいは外出するべきではない。ウイルスをばら撒いているのと同じだから。にもかかわらず、父親が休みで遊びに出かけてしまったので、仕方なく一緒に連れて来たそう。ありえない・・・しかも、A型。

患者さんが、滝の上からみた中禅寺湖の写真をくれた。富弘美術館のことを教えてくれた人で、その話をしたら喜んで持ってきてくれた。最初、草木ダムかと思ったが、それよりも雄大。あのあたりがお気に入りなのだろうか。

その写真を見ているうちに、隔離されるならこんなところがいい、と思った。皆で写真を観ながら、「こういうところなら感染しないだろうね」と感慨にふける。わたし的には、隔離されるなら、という意味で言ったのだけど、深く考えるのはやめた。

***

わたしは、ひとりよがりだ。

聖体拝領のときに思った。

つまらないことなんだけど、わたしがグレーのベールを使っていたせいか、神父さんの顔が恐かった気がする。単に、代母がわたしの使っている白のベールを気に入っていたようなので取り寄せようと思ったら売り切れで、色違いのグレーと黒しかなかったため、それらを代母とわたしの分をまとめて購入。グレーと言っても刺繍柄は白で、透かしの部分が黒なだけだ。髪の毛の色と同化してしまえば白だと思ったのだが、グレーと言えばグレー。

つまりは、そういう気分だったから、それを使ったのかもしれないが、今は灰をかぶる時期ではない。

聖書はエレミヤに入った。

今の時代に、エレミヤがいたらなんと言うか?

やっぱ、悔い改めよ、かな・・・ でなければ、立ち戻れ、とか?

なんでそういうふうに思うのかはわからないけれども、突然やってきた世界規模の不況とインフルエンザを考えたら、昔のユダヤ人なら灰をかぶって断食するのかもしれない。わたし的には、気がついたら娘の塾が終わるまでの断食とか、呼び出されてお昼を食べ損なっての断食など、このところ偶発的断食には見舞われているが。(本当の断食でもないし、本当に灰を被っているわけではない・・・)

母親の幼児虐待のニュースは多いし、聖書の時代のありえないことがリアルで困る。

いつになったら新約聖書にたどりつくのだろう。聖書は分厚い。

(詩篇 147)

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April 27, 2009

ジェイラーズ

今日、御ミサに行ったら、この前のお婆さんが隣の椅子に座っていた。わたしはすぐに気がついたが、あちらはわたしのことは覚えていない様子。隣の席に座っているのがご家族かと思ったが、聖体拝領になると1人で順番かまわず列に並んでいたので、もしかすると信者さんなのかも。それとも何も気にしていないのかもしれないし、あの年頃になると世の中の秩序には無頓着なので、ある意味羨ましい。何となく姑さんを思い出す。

姑さんは今度は脳梗塞で入院している。連絡を受けたときは驚いたが、気がついたのが早かったので、ほとんど後遺症もないそう。神戸へ行くと義姉に伝えたら、病室から電話がかかってきて、事故に遭ったら大変だから(心配だから)来ないでほしいと言っている。ろれつが回らないはずが、いつもの調子で早口で一方的に話し続け、本当に脳梗塞なのか疑いたくなるが、今回はちゃんと診断がついているので本当なんだろうな。

退院後は介護マンションに引っ越す。念のため、今住んでいるところはしばらくそのままにして、90日間のクーリングオフが認められているので、様子をみると義姉が言っていた。自立型を申し込んだけど、場合によっては介護型への変更も可能なので、今の所よりはいいらしい。

ぐったり・・・・

「煉獄でいつまで待つやろな」と、まるで世間話をするようにこの前のお婆さんに言われて以来、わたしはすっかり凹んでいる。煉獄というのは今ではあまり言われなくなったらしいが、あの年頃の人たちにしてみたら、馴染み深い世界なのかも。つまり、天国と地獄の間。死んだら天国へ行くのではないかと思っていたのに、わたしは彼女によって煉獄が身近なものになってしまった。しかも、見える煉獄。

あっちもこっちも煉獄だらけだ。

地獄・・・・というほど悲惨な世界ではないが、病床で話し相手を得たとばかりに看護師をつかまえて、ひねもす話しまくっている姑の姿が目に浮かぶ。入院しているときが一番元気で、退院すると、また1人で死の恐怖に怯えて暮らさなければならない。

下の義姉は元気そうで、めずらしく早口で楽しそうに話している。退院したら、今度は上の義姉の家の近所に引っ越すので、今回のことで責任を果たしたとばかりに声が明るい。

***

午後、娘を連れて本屋へ行く。この前、アマゾンで受験関係の本やデッサンの本を注文し、その続きで、今度は参考書や参考になりそうな本を探しに出かけた。

小学校のときから、近頃では子どもに将来どんな職業に就きたいかを問う。中学校でもそうだったし、高校生になり、この前の二者面談でも先生に訊かれたそう。具体的に教師になりたいのなら、地方の国立大学へ行くべきだし、何のために美大へ行きたいのかを問われる。娘の場合は教師になりたいわけではないが、先生に訊かれると、そうやって答えることにしているらしい。

気持ち、わかる。

受験案内をペラペラめくりながら、進路を調べる。東京芸大は20%が就職し、ほとんどが進学等。筑芸は、半数が就職し、20%が進学。私大のほうが華やか、ではある。

今の娘のデッサンの先生は、東京芸大の院生らしい。彼に言わせると、就職はいくらでもあるのに、みんな絵ばかり描いているそう。なるほど。ちょっと見ただけでは、生徒なのか先生なのか区別がつきにくいクラスだが、昔は木曜日と土曜日だけだったのに、近頃では教室も増えて、毎日やっている、とねこ先生が言っていた。

わたし的には、”モモコ”が同じクラスなのが少し気になるが、モモコは絵は上手らしい。なのに毎年受からない。最初、彼を見たとき、彼が教師だったらほかのクラスに変えてもらおうと思って娘に尋ねたが、生徒だった。小柄な男性的な顔立ちに、毛先のカールした極端なロングヘアーを見たとき、昔のお笑いタレントに似ていたからわたしが勝手にそうやって呼んでいるだけだが、わたし的分類によると変人の類に入ってしまう。

世の中の分類は、学生、社会人、高齢者の3つしかないような気がする。そこから外れたら、どうやって分類すればよいのか迷う。

(ヘブライ 1. 5- 2. 18)

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April 22, 2009

仕事だから・・・

学会誌がない。気がつけば、全部捨てられている。

開業以来、ずっと置かれているため、先月あたり事務員が整理していたのは知っている。が、しかし、「先生、これ捨てていいですか?」と訊かれて、忙しいから、「いいよ」と答えていたら、最新号まで捨てられていた。ありえない・・・

---- だって、自分で捨てていいよ、って言ったんでしょ?

---- 忙しいから、事務に訊かれたら、面倒だからそうやって答えるんだよ。

(医者というのはそういうものだと言いたいらしい)

それってわたしの責任か?(そーかも・・・・)

---- だったら自分で事務に言えばいいじゃない。

---- 大学病院だったらいいんだよ、いくら捨てても。大学なら、わからなくても事務が全部読んで、いつ医者に言われても大丈夫なように覚えているから。「そういえば、胃潰瘍の特集があったけど、あれ何月号だったかな」と事務に訊けば、すぐにMR(製薬業者の営業)に言って持ってきてもらえるから。でも、うちじゃぜんぜんダメ。

捨てた人の顔を思い浮かべたが、何を訊いても無駄だろう。最新号まで捨ててしまうくらいだから。

---- じゃあ、とりあえず、捨てる時には表紙(目次)だけでもとっておいてもらう?

---- いや、自分で決めるから、全部とっておいて、捨ててもいいと言ったものだけ捨ててもらう。

当たり前だよね・・・いつからこんな常識的なやり取りをしなければならなくなったのだろう。自分で連絡帳に記入しているうちに、次第に恥ずかしくなってくる。「私物はロッカーへ入れてください」とか、「ワクチンは古いものから使用してください」とか、自分でもあまりにもくだらないことばかりなので嫌になってくる。これって書かれたほうも恥ずかしくはないのだろうか。

***

夕方、患者さんのお祖母さんから電話が掛かってくる。午前中受診したが、夕方熱発したので、何の薬を飲ませたらよいか、という問い合わせ。診察中だったので、事務が、「おりかえしこちらから連絡します」と答えている。及第。

その後、医師に伝える。・・・・・・・そこまでは何の問題もなかったが、突然、事務が電話をし始め、「熱さましの薬を飲ませて・・・」と言っている。

わたし、ひっくり返りましてね。患者さんが多くて医者も看護師も手一杯なら話もわかるが、患者さんは1人待っているだけだったし、看護師も1人は診察室の外でぼーっとしている。その状態なら医師から連絡するのが普通だろう。患者さんが何十人も待っていて、目いっぱいというのならわかるが、この時期、そういうことはない。

---- 事務がなんで連絡してるの?

---- えっ、でも先生に聞きました。

---- そうじゃなくて、患者さんは医者と話がしたいのよ。医者が忙しい時には、看護師に替わって、看護師に容態の変化などを訊いてもらってください。事務は医者でも看護師でもないんだから。

すると、ホソピーが、

---- ちゃんと先生に訊いてたよ、事務さん。

---- そういう問題じゃないでしょ。単なる問い合わせの電話とか、診療以外のことだったら事務が対応してもいいけど、今回のケースは診察に相当する内容で、事務が応答するなんてありえないです。

その後、院長が電話をしたが、その後、「僕は午前中ちゃんと説明した」と言って怒っている。

そーいう問題じゃねーだろ。とりあえず、容態が変わったという訴えがあったら、ちゃんと対応するべき。

---- あの親、ちょっと変。午前中熱があるし、ゼロゼロしているから薬を出して、その時に説明したのに、そのまま保育園に行かせたと言っている。普通は休ませるだろう。

---- Sさんでしょ?(わたしはその時いなかったが)、Sさんのところはいつもお祖母ちゃんが連れて来ているけど。

---- えっ。お祖母さんなの? 母親だと思っていた。ちょっと年いってるな、とは思っていたけど。

---- お母さんは若いよ。お仕事しているから一度しか来たことはないけど・・・(わたしのいる時には)

どーなってるんだよーーーーー!!

たしかに、「事務は医者でも看護師でもないんだから」という表現はきついが、それって常識じゃないか?

ありえない・・・・

以前はそんなこともなかったのに、このところ患者さんがきつい。クレームもある。この数ヶ月の間に何が起こったのだろう?

仕事をさぼっていたわたしが悪いのだろうか。

Mさんに、

---- バプテスマ、受けたんですか?

と突然訊かれた。

今さら何を言っているのだろう。「もちろん」と答えると、「あんなに忙しかったのに?」と言われたが、要するに、勉強会へ行かなくてもいいのですか、とか、そういうことを知りたかっただけかも。おかげさまで、今のところ洗礼も受けたので、十分にお仕事している暇はあります。あなたたちに任せられない・・・

(ルカ 22. 1-6)

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April 20, 2009

つながり

生理的嫌悪感というのは、どうにもなりにくい感情の一つかも。

受付の引き出しの中の封筒を整理しているとき、髪の毛を結ぶゴムを見つけた。何となく気持ち悪かったので封筒をどかしたら赤い櫛が入っていた。

うわっ、なんだこれ、・・・・・・・・・・という感じで一瞬捨てようかと思ったが、持ち主が思い当たったので、ロッカーに入れるようにメモ書きを残し、櫛とゴムと飴袋を取り出して休憩室のほうに運んだ。洗面台や休憩室に置かれていたなら気にならなかったかもしれないが、よりによって机の中。忘れて行った電子手帳を見たときは、単なる忘れ物だと思っただけだが、よりによって衛生観念がなさすぎる。

休憩室の封筒などが入っている積み上げた箱の上に、青いトイレットペーパーが載っていた。いやな予感がしてトイレを見たら、白とピンクのロールが二つ並んで付いている。わりにお洒落なつくりのトイレなのでおかしくはないのだが、医療機関なので普通にしてほしい。しかも、この前、中国に駐在していた友達にピンクのトイレットペーパーは何を使って着色しているかわからないので使わないほうがよいと言われたばかり。古紙を漂白してなおかつ染色しているティッシュって何を使っているかわからないので、たしかにそうやって言われると薄気味悪い。

一応は日本製なので、人体に有害ということはないかもしれないが、一度気持ち悪いと思ったら我慢できない。

戸棚を整理していたら、在庫がたくさんあるにもかかわらず、新しいものが置いてあったり、A5の発注を間違えてB5にしてしまったらしく、使いもしないコピー用紙や余分なA4用紙が机の下に積まれていたり、一体誰の許可を得て事務員が勝手に発注しているのだろうか?

しかも、診療時間内にはシュレッダーは禁止と言っているにもかかわらず、いまだに続いているという。その手のクレームは最終的にわたしに回ってくる。

・・・・・・・こうやって書くとまるでわたしが神経質のように思われがちだが、わたしは逆に無頓着である。でも、期限切れのワクチンを発見したり、勝手な発注を発見したり、細かいようだが、そういう管理をきちんとできない人間に仕事を任せられない。

しかも、「まるで施しですね」だって。

施しだもの。そのどこが悪いのかわからん。文句があるならさっさと出て行ってほしい。だけど、夫婦して無職になったら気の毒だと思って我慢しているだけだ。

看護師からもクレームが出る。ボランティアやチャリティではないのだから、甘すぎる、という。看護師の領分にまで手を伸ばすため、かなり迷惑している様子。注意するのだけど、まるで直らない。

どうしよう・・・

仕方がないので、日曜日に出勤し、付箋にメモ書きして貼っておく。それくらいやらないとわからないのかも。そして、念のため自宅にストックしてあったトイレットペーパーを運び、入れ替えた。でも、ピンクや青をそのまま自宅へ持ち帰る気にはならない。そういうのを勝手に教会に持ち込んでもよいのだろうか。

あまりにもうしろめたいので、車の中に残したまま教会へ入る。

すると、以前2度ほど見かけたお婆さんが1人で座っていた。うちの姑さんのように、少し話すとそのまま止まらずに話し続ける。受洗を決めた夏の日もそうだった。

いい加減に夕方なので帰ろうと思ったのに、なかなか解放してくれない。話題を変えるために、指の絆創膏のことを訊いたら、実は教会のトイレに置いてあったキティのバンドエイドを3枚もらって使っているとのこと。先週の分を含めると、5枚も盗んでしまった、と言う。

あまりにも大げさだと思ったが、こちらも似たようなものなので可笑しくなり、わたしもわけがあって自分では使いたくないトイレットペーパーを持ってきているのだが、何となく気が引けて置けないと話した。そこで意気投合し、「お婆さんのバンドエイドの分、わたしのトイレットペーパーで一緒に返しに行ってくれますか?」と言ったら、ものすごく喜んで、わたしと一緒に障害者用の広いトイレに行ってくれた。

神さまは憐れみ深い。

このところ仕事のことで他人のあら捜しをしているのではないかと思うくらい、神経が逆撫でされることが多い。結局、御ミサもさぼり、うしろめたいので夕方教会へ行く。例のごとく、「わたしの罪をおゆるしください」だ。あのお婆さんはお婆さんで、たかだかバンドエイドのことで盗んだと言って、すごく気に病んでいる。しかも、自分は口うるさくて、ことばの罪が治らないので、弟の嫁からも嫌われている、とか、ずっと言っている。

心の中で、ゆるしの秘蹟でも受けたらいいのに、と思ったけど、そういえば彼女はよく、「わたしは信者じゃないけれど」と言っていたのを思い出した。なのに、ずっと教会には通っている。話していたら、どう考えても信者さんなんだけどね。

それでずっとああやって家族の迎えを待ちながら、1人で御聖堂でお祈りをしている。

一緒にトイレットペーパーを置きに行ったら、ものすごく明るい笑顔で笑うので驚いた。つまらないことなんだけど、その笑顔のおかげで、何となくわたしも救われた気がした。

神さまは憐れみ深い。

(ヨハネ 19. 31-42、 コリント一 15. 1-20)

死者が復活することと、今日の出来事にどういう関係があるのだろう・・・

今日はわからん。

やっぱり罪は贖われないとダメなのかも。こんなささいなことでも?

お婆さんの場合、リアルで・・・・ 死の床で、キティのバンドエイドの話をしても、誰もわからないだろう。なのに本人にとっては、ものすごく気になっていた。気持ち、わかる。

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April 16, 2009

21世紀っぽい

なんか、すごいことになっているな・・・

今日、1人で仕事をしていたら久しぶりにリクルートさんが挨拶に来た。担当が替わったらしい。

リクルートさんと話していると面白いんだよね。求人情報誌の出具合などによって、その土地の景気がわかる。今は不景気だから掲載は少ないかわりに、冊子はものすごく出ているそう。ちなみに北関東の求人倍率は0.59にまで落ち込み、ハローワークが対応しきれないで困っているというお話。それがどういう数字なのか、就活をしたことのないわたしにはピンと来ないが、1社あたりの求人数の割合、つまり、1社あたり0.59人しか募集がないという意味。

---- それってリストラしたい、という意味かな・・・

---- いや、募集しているところがほとんどない、というか・・・1社の応募に2人の割合だから、かなり厳しいです。求職者の半分は仕事がみつからないし、4月に入ってからはもっと厳しいみたいです。特に、北関東は工場が多いので、リストラや閉鎖もあって、12月くらいから失業者が増えて。

Mさんが、9月までは難しいと言っていた意味を知る。2月、3月は、ものすごく雇入時健診が多かったのに4月に入って以来、数が減っている。毎年そういう傾向はあるものの、今年は特に波がある。

医療機関にいるとわからない。看護師や介護師は常に不足しているところが多いし、いくらでも仕事はあるだろう。ところが事務職はどこも求人倍率が低く、仕事がないという。

それとは全然関係ないとは思うけど、教会の婦人部の仕事は高齢者が多い。高齢者といってもまだまだ元気だし、年寄りっぽくはない。わたしも手伝おうと思ったら代母に、「まだまだ高校生のお子さんがいたら忙しいでしょ。いいの、いいの」と言われた。たしかにあれだけ人数がいたら、後片付けでもすぐに終わってしまうだろう。みんな、ベテランだし・・・ ホソピーがうきうき仕事をしている意味がわかるね、やることがあるほうがいい、というのが口癖みたいになっているし・・・ 

まあ、たしかに家事やって(やってないか・・)、仕事やって(さぼっているし・・)、娘の送迎があって、日曜日は御ミサで、聖書の勉強会もそのうち新期で始まるみたいだし、全部まじめにやろうと思ったら時間がいくらあっても足りないかも。でも、ネットやっているヒマがあるくらいだから、今の時期はそんなには忙しくはない。

が、しかし・・・・ ぼーっとしていたら、姑さんから電話。引越しすると騒いでいるようだ。やることがないから、引越しして住所変更の手続きをして、といきなりまくしたてている。そんなことをしたら、また義姉たちが忙しくなるのがわかっているのに、わざとだろう。彼女は台風だ。

今の若い人たち、「青田刈り」という言葉を知っているだろうか。わたしの学生時代は、青田刈りが普通だった。

(詩篇 74. 21)

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April 13, 2009

おともだち〜

面白いんだよね・・・

復活祭のとき、一緒に受洗した学生さんの友人が来ていて、神父さんに質問していた。彼は柏のプロテスタント教会で洗礼を受けていて、洗礼を受けているので聖体拝領のときにパンを食べてもよいかどうか、について。

わたしは神父さまがどのようにお答えになるか興味シンシンで聞いていた。(こらっ)

必死でふきだしそうになるのを我慢しながら・・・ 誰もいなかったら、笑い転げていただろう。

今回、カトリックの洗礼を受けた学生さんも、彼のプロテスタントの友人も、とても純朴で、おそらくは同じ神さまを信じていて意気投合し、友人としてお祝いに式に出席してくれたのだろう。彼等にとって、カトリックもプロテスタントもキリスト教に違いはなく、おともだち〜〜、という感覚はすごくよくわかる。わたしもそういうノリで今日まで過ごしてきたので、勉強会でもカトリックとプロテスタントの違いはしばしトピックになった。

でもね、わたしのときにはそこのところをしつこくトピックにされたのだが、一緒に受洗した学生さんは何も知らない。

なんでだ?

代母はプロテスタントの学校を出ているので、たまに違いを口にする。聖書の勉強会でも、プロテスタントは新約聖書だけだったけど、カトリックは旧約からずっと読んでいくから面白い、とか。ほおお・・・ もしかするととても重要なことなのかもしれないけど、そういうことは彼等の友情にとってはあまり意味がない。

神父さんは流暢だがしどろもどろに、カトリックとプロテスタントの違いを並べていた。プロテスタントではカリスは使わないでしょう、とか、私たちはマリアさまを尊敬しているし、信仰しているわけではないけれども、尊敬しているし、とか、思いつくわかりやすい違いを並べている。(聖体拝領で、ウェハスをワインに浸して食べるのは徹夜祭だけになったのだろうか・・)

(*プロテスタント教会だったら、誰でもパンを食べていいの?)


それにしても、わたしの代母は偉大だ。わたしは代父のYさんは、てっきりつくば教会が出来たときからの信者さんだと思っていたが、実は受洗したのは5年前で、結婚してから40年かかっているという・・・ お子さんたちは受洗しているけど地元の教会には来ない。海外へ行くと教会へ行っているらしい。

わかるんだよね・・・ わたしは娘も受洗させたいのだけど、父さんがね。

わたしが受洗して帰ってきた夜、娘は困って、「私を巻き込まないで」と言って早々に自室に入ってしまったが、夜中に突然起きてきて、何もしていないのにiPodの音量が大きくなっていったので恐くなって降りてきた。あと2秒で2時になるというとき、鳩時計が鳴るのと同時に音が急に大きくなっていったらしい。

娘の心に何もなければ、そういうことは単にどこか故障したのかもしれない、とか、そういうことで終わってしまうのだろうけど、娘にとっては恐怖を覚えるくらい不思議な出来事だった。降りてきたとたん、「お母さん、今日は特別な夜なのかな」と言っている。

要するに、彼女はそういうことを考えていたのだろう。で、彼女が何かを考えたとたん、iPodがおかしくなった。

ほら、みい。

人生は、そういうささやかな偶然に左右されるのである。彼女は高校生になってしまったので、洗礼を受けるなら自分で勉強会へ行かなければならない。これから受験を控えてスケジュールもいっぱい。だからといって、神さまから離れて行こうとしても、たぶんあの子も呼び戻されるだろう。(*もしかして、プロテスタント教会だったら、すぐに受洗できるのだろうか・・・)


代母は、無理はいけない、と言う。だから、わたしにも、何もしなくても、家で聖書を読んでいるだけでもいいのよ、と言う。そういうことが大事。(かも)

やっと、イザヤ書。まだ、先は長い。

(エレミヤ 40. 1-6)

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April 12, 2009

ご復活おめでとうございます

今日はイースター。

洗礼を受けました。

神父さん、わたしの洗礼名を間違えました。でも、運命だと思って、そのままにしようと思っています。アナスタジアだけだったらよかったのかも。ほかの人たちの洗礼名はとてもシンプルだった。テオドリン・アナスタシアの予定が、アナスタジア・テオドリーヌになってしまった。深く考えるのはやめよう。先週の日曜日は娘の入学式があって行かなかったし、2日も旅行へ行って留守にしていたし、この時期の2週間はとても長かったのかも。

わたしの代母は明るい人で、偶然にも神戸の出身。ちょっと頼りない。二人でいると勝手に盛り上がってしまい、ふざけているわけではないのだけど、楽しいから仕方がない。洗礼を受けたのはわたしなのに、一緒にいると、なぜか代母がおめでとうと言われていた・・・(汗

御ミサもいつもと違って、日本語と英語と両方で行われ、若い人たちも多く、雰囲気が違う。過越の祭から始まって復活を祝う。クリスマスよりもこちらのほうが大事という意味が何となくわかった。

(詩篇 119. 129-136)

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April 10, 2009

騒音

久しぶりに教会へ行った。

何のために?

こころの平安を求めて。

夏に受洗することに決めて以来、わさわさわさわさいろんなことが起こる。もちろん因果関係はないと思うけど、看護師のOさんが急に病院に戻ることになって以来、職員のことでは落ち着くまでが大変だった。数も増えたし、増えた分だけ心労も募る。次から次へと・・・ 不景気だから仕方がないのかも。

娘が春休みになり、デッサンのほうの送迎、旅行、先週の日曜日に進級式(入学式)を迎え、何となくホッとする。幸い、仕事も軌道に乗って順調だし、娘も毎日楽しいみたいで、わたしも気が緩んだのだろうか。太った。なのに、皆から痩せたでしょと言われる。なんでだ? 顔だけ痩せたのかな・・・ わからん。

礼服の類がほとんど全滅。入学式は終わってしまったが、今後のことがあるので、久しぶりにデパートへ出かけた。すると、ありえないと思うのだけど、半額以下でセールをしているショップがほとんど。わたしがそちらから選んでいると、職員が涙ぐんでいるんだよね・・・ 暑いのにエアコンもなく、暖房が入っているわけでもない。普通はありえない。そこまで不景気なのだろうか。何となくもうしわけなくなり、スカーフだけは定価で買った。(どーでもいいか・・)


心の中では思うわけ・・・ 皆、大変そうなのに、こんな贅沢してもいいのかな、と。昔だったらまるで気にしたこともないのだが、このところFさんやMさんのことがあり、いささか良心の呵責が。それでいて、せっかくの入学式のシーズンなのに、あてが外れて、ショップはこの価格でも売れないのか、とばかりに店員が・・・

・・・・・・そういうことばかりで、疲れる。

この程度のことでバテていたら、とてもじゃないけど教会のアクティフなんて、わたしにはむりむり。

そこで、正直に神さまに相談しに行こうと思った。わたしには十字架なんて背負って歩けませんし、アクティフなんて本当はやりたくないんです、と。

教会へ行く途中で急にお腹が痛くなった。聖週間のせいか人も多く、少しお祈りしたら楽になったのでそのまま帰ろうと思ったけど、何となくすっきりしないので、誰もいなくなってからまた聖堂に入った。

が、しかし、誰もいないけど、平日のお昼のせいか、教会の床が揺れるほど隣の道路にひっきりなしに通る車やバイクの音がうるさい。あの教会で何かがうるさいと思ったのは初めてかも。四月はあわただしいのだろうか。

教会の中はとても静かなんだけど、騒音が激しい。それがずっと続いて落ち着かない。日常的今世紀的騒音の中で教会のランプは灯り、つまりは聖霊はそこに。なんかミスマッチだと思いながら、落ち着かない。

そこで、聖書を開いたら、ちょうどペトロが3度イエズスを知らないと言った箇所。今日は木曜日なので、ちょうど今夜がゲッセマネの夜なのだと思いながら、読んだ。

繰り返し読んでいるうちに、ふと我に返ると、車の音が聴こえた。

つまり、その箇所に惹かれて、ずっと読んでいる間、わたしは何も聴こえなかった。

カサブランカの香がするので、花を探したら、いつもは片隅にあるだけのマリア像が百合の花で飾られていた。

そのときに思ったわけ・・・ ペトロの裏切りもイエスさまはご存知だった。とすれば、わたしの泣き言も想定内のたわごとにすぎない、と。だとしたら、どうでもいいような気がしてきて、その後出勤する予定だったけど、家に帰ってきてしまった。

貧しい人は幸い。

でも、心の貧しい人、が幸い。

では、心の貧しい人とは?

日本語だと、心は豊かなほうがいい。なのに、心の貧しい人とは?

要するに、あれこれ欲張らない人のことを心が貧しい人と呼ぶらしい。仙人みたいな人のことでしょうか。それなら意味が通じる。神の国は仙人のものか?

このところ、すごく勤労意欲はあった。少しでも働かないと・・・ というか、お金の苦労の話ばかりなので、誰もいない職場で事務仕事をしながら仕事の電話を受けたりすると、何となく自分が頑張っているような気がして・・・

でも、よくないね。

頑張るのはやめよう。車の騒音ばかり聴こえて、お祈りに集中できなくなる。

今日は、やけに月が美しかった。

(コリント一 5. 1-13)

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April 05, 2009

失業の話ばかり・・・

ハローワークは職を求める人たちでごったがえしていたらしい。

Mさんのご主人が突然職を失い、大変なことになっていると朝からダンナから連絡が入る。前日、午後から急用ができたということでMさんが休んだことは知っていたが、健診も済ませて書類も提出しているし、一体何が起こったのかと思ってしまう。

Mさんのご主人はフィリピン人で、公立小学校の英語の先生。学校へは会社から派遣されるが、身分的には契約社員になるのだろうか。契約切れによる突然の解雇。

Mさんの話によると、今の会社は外国人ばかりが登録されているため、社会保険がなく、1年以上継続して勤める場合にかぎり社保がつくという話なので、以前からそのことで会社と揉めていたらしい。会社としては、1人につけると、ほかの職員にもつけなければならなくなるため、それが原因で解雇になったのではないか。雇用保険にも加入していなかったというし、そうなると一日も早く職をみつけなければならない。幸い、いくつか面接が決まったので、Mさんが出勤してきたときには、かなり楽観的な状況だったが、それこそカナダか韓国へ移住しようとまで話していたそう。

最初、Mさんは、ご主人が外国人だからそういう不当な扱いを受けたのではないかと思い、ハローワークや労働基準局へ相談に行ったらしいが、法的には契約が切れていたため、特に違法性はないと説明されたらしい。要するに、今、日本には同じような立場の失業者がたくさんいて、ハローワーク自体も連日ごったがえしている。それで、結構、慰められたと話していた。

上野公園で炊き出しを待っている人たちも、結構、身奇麗で、いわゆる昔のホームレスとは雰囲気が違う。それこそ失業しているだけなのだろう。今は炊き出しマップまであり、一緒に予定表とカンパンやお菓子や替えの下着までおみやげにもらえるという話をしたら、Mさんは驚いていた。それだけ失業者がめずらしい存在ではなくなったのかもしれない。

というわけで、Mさんがご主人の仕事がみつかるまで、しばらくフルタイムで働きたいというので、しばしわたしはまた暇になる。でも、お子さんが公立の幼稚園に入園するので、ご主人の仕事がみつかったらどうなるのかと、ホソピーはそちらのほうを心配していた。

そうなんだよね・・・大抵の場合、不幸は長く続かない。

あっちもこっちも経営が悪化して、大学病院の給食センターの職員の健診でも『入札』が近いからといきなり入り、国公立ほど入札があるから、契約が更新されなければ皆して失業してしまう。ホソピーもYさんも、以前は大学病院に勤めていたことがあるが、戻る意志はないらしい。そんなにきついのだろうか。

でも、開院前にはまったく予想していなかったけど、こういう時代だから採用時の個人健診がやたらと増え、すでに病院では受けきれないためにどんどん仕事が回ってくる。そういう意味では、うちの職員、のんきだよね・・・

が、しかし、テポドンどころの騒ぎじゃないね。わたし個人としてはソマリア派遣には反対の署名をしてきたけど、テポドンの迎撃に関しては、うっとおしいからさっさと片付けてほしい。迎撃したら今度はノドンを落とす? 間違えて海に落として、魚がまた値上がりしたらどうするんだろう・・・(ちょっと違うか)

経済制裁に対するあてつけなのかもしれないけど、そんなものを造っている余裕があるなら、ほかにすることがあるのでは。日本だってあまりの不況に国立大学の数を減らして、どうも防衛大学校の数が増えているような気がするのだけど、気のせいだろうか。防衛大ならお給料を貰いながら学生できるし、娘の学校の場合、先生も推奨している。今回は政府も本気で迎撃するつもりみたいだし、今までの日本とはちょっと違う。

要するに、失業者の数があまりにも多くて、海上保安庁や自衛省に入職したい若者も増えているという。民間も公務員もリストラの話ばかりだし、大学の学費も高いし、わたしの学生時代とはまるで違う。

(列王記下 18. 14-16)

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April 02, 2009

富弘美術館

群馬県の富弘美術館 へ行って来た。患者さんが、以前、彼の詩を読んでいるうちに涙が出るほど感動したと言っていたので、機会があれば行ってみたいとずっと前から思っていた。

星野富弘さんは、中学校の先生をしていたが、体育の授業中に首の骨を折り、その後ずっと肢体不自由な生活を過ごしている。恐ろしいほど昔、テレビで口を使いながら絵を描く画家の番組を観たことがあり、最初、患者さんから聞いたときにはわからなかったけれども、美術館へ行き、その番組のことを何となく思い出した。

当時は、すごいなーと思うだけだった。手を使ったってあんなに上手には描けない。それで、わたしは左手で文字を書く練習をしてみたが、不器用な文字で、たまに退屈な授業の時間つぶしに役立つだけだった。

でも、昨日、美術館に足を運び、実際にその詩画の一つ一つを観ているうちに、彼は絵を描くことにより、神さまとお話しているのだと思った。寝たきりで動けない彼にとって、植物は与えられた場所で生きる友であり、花や草とお話しながら、お話したことを描いている。「感じたこと」ではない。お話しているのだ。

一巡してショップで葉書を見ていたら、女の子が、「お母さん、『ぺんぺん草』、、『ぺんぺん草』、あった。『ぶた』はどこ?」と大きな声で飛び込んで来た。そうだよね・・・わたしもそう思った。「『ぶた』はあっち」と教えてあげた。その日観た中で、一番印象に残っている作品を問われたら、わたしも『ぺんぺん草』と『ぶた』。子どもは素直で正直だ。

おみやげ用にカードを5枚買った。でも、『ぺんぺん草』は、いまだに選んでもらえない。6枚買って、最後に自分用にしたらよかったかな・・・ 次に行くときまでの宿題。

(ローマ 15. 7-13)

投稿者 Blue Wind : 11:21 PM | コメント (0) | トラックバック

April 01, 2009

読書の春

日曜日、教会で入信の秘蹟。その後、母の三回忌なので皆で墓参り。弟が気を使って、今回は墓参だけということになったみたい。それが本当に母のためになっているのかどうかはわからないけど・・・

月曜日で、娘のデッサンの春期講習が終了。残りの春休みで少し美術館を回る。今日は東京芸大へ行ってみたいというので、上野へ行ったが西洋美術館でルーブル展をやっており、隣の恐竜展とあわせると、誰かがディズニーランドみたいと言っていたが、想像以上に混雑していた。桜も咲き始めたので、そのせいもあるのだろうか。

ちょうど公園での炊き出しがあるみたいで、3列に座って食事を待っている人たちがいた。昔のホームレスの人たちとはずいぶん違う。こざっぱりとしていて、地下鉄の構内で寝ている人もいなかったし、公園のゴミ箱を漁っている人もいない。運動会のときの保護者の参加レースのような雰囲気できれいに並んで座っていた。

あまりにも人が多いので、ほかの施設を回るのは中止し、実際、芸大美術館は休館日だったし、そのまま根津にぬけて御茶ノ水へ出た。丸善やレモンへ立ち寄ったが、こんなに狭かったかと思うくらい狭く感じられた。参考書でも買おうと思って今度は三省堂へ行き、ランチを食べ、結局何も買わず水道橋から帰宅。つくばの無意味な広さに慣れているせいか、都内はやたらとすべてが狭く感じられた。

***




ナザレ派のイエス/前島 誠


この本は、地元の本屋さんでたまたま見つけて買った。面白かったので、すぐに読み終わった。が、しかし、読まなければよかった、という気がしなくもない。イエズスがユダヤ人としてどのような生活をしていたのか、とか、聖書のことばの生活臭とか、ユダヤ人としての生活習慣や民俗学的考察からイエズスや弟子のことばや行動を紐解いている。


わかりやすいけれども、人間的で、ドラマ的で、どろどろとしていて、ある意味、泥水でも飲まされたような気すらする。近頃では水道水ですらそのままでは飲めなくなったわたしとしては、2000年前の生活を理解しようとしても難しい。生きたイエズスを理解しようとして、2000年前の生活を現代でそのまま実行しようとしても現実味がない。

荒野で弟子達と食べものにも不自由しながら生活するイエズスの姿をホームレスに喩えているのだけど、今日上野公園で並んでいた人たちはあまりホームレス的ではなく、服装もきれいだし、10年前なら少しはイメージできたかもしれないが、あの人たちを初めてみた娘がこの本を読んだら、まったく違ったイメージを持つのかもしれないと思った。

つまり、観念がドラマに変化しただけで、実際のところなんとなくどうでもいいような・・・ イエズスのお誕生日が冬ではなく、ユダヤ暦での12月、つまり初秋くらいだったとしても、もともとが向こうの秋と日本の秋が同じではないため、わたしにはイメージできない。一つの家屋の中に人と家畜とが一緒に暮らしているとして、雑魚寝が普通の宿だったとして、つまり、馬小屋というイメージ自体が空想の産物だったとしても、それにどういう意味があるのかわたしにはわからない。磔刑で使われた十字架が実際にはローマ式のT字型だったとしても、最後の晩餐のスタイルが過越祭のスタイルで、隣がユダとヨハネだったとしても、少しイメージが違うというだけのことで、わたしにはどうでもよいことのような気がする。

ただ、こういうことがトリガーとなって、わたしはまたあれこれ読み始めた。バルバロ聖書は、まだシラの書だけど・・・(旧約聖書、長すぎ・・)

(ヨブ記 9. 14-24)

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March 25, 2009

春は忙しい

一日が終わるのが早い。

日曜日、入門式。

月曜日、朝から職場に呼び出され、午後は娘の入塾テスト。

火曜日、つまり今日からデッサンの春期講習開始。朝から娘を教室に送迎。そんなことをしているうちに、WBCでは日本が優勝。80歳のUさんが来て、喜びのあまり血圧が200まで上昇していたらしい・・・(しょうがないな・・)

すっかり、春。

***

入門式は、6名。韓国人のファミリーが3人、ベトナム人が1名、日本人がわたしを含めて2名。

わたしは代母の隣に座り、「呼ばれたから行きなさい」とか、「ここに」とか、彼女が本当にごく自然に母親のように語り、振舞うので、わたしはまるで子どものようだった。わたしの代父母を務めてくれるYさんの奥さんが急病のため、ピンチヒッターで頼んだのだけれども、初対面とは思えないほど親しみを感じた。そして、わたしはすっかり子どもに戻り、わたしたちが皆子どものように感じられた。皆が子ども。老若男女問わず、皆、神である父の子どもたち。

どうして、わたしたちの父、なのか・・・ わたしたちは、皆、子どもだった。

***

塾・・・

わたしは予備校に通わせようかと思ったのだけど、娘が小学校の頃にお世話になった塾に通いたいというので連れて行った。娘の中学時代は受験もなかったし、わたしも仕事が忙しかったので、そのまま放置したまま終わってしまった。要するに、学校が楽しければいいのではないかと。

が、しかし、Aさんに刺激されたこともあるかもしれないが、いささかわたしの周辺のお子さんたちが皆優秀なので、そろそろ娘のこともまじめに考えないと、という気分になる。それでも、小学校の頃とは違い、娘の成績は親が考えているほど悪くもなかった。少し勉強させたら、どうにかなるだろう。

が、しかし、相変わらず、本人は美大に進学するつもりらしい。この就職難に美大か・・・・?  (深く考えるのはやめよう。)

入信して、何が変わったかといえば、踏絵は踏めないだろう、ということかも。からだの復活とか、永遠のいのちとか、正直、わたしはあまり興味がなかったので、踏絵の絵というのはいわば偶像だし、そんなものを気にすることはないのではないかと思っていた。

でも、自分の信仰が試されているとしたらどうか?

そういうことを仕掛けていること自体は悪である。が、しかし、悪は悪として、そういうことはどうでもいい。わたしには関係ない。でも、問題は信仰である。永遠のいのちを信じるならば、というより、神さまが人間を生き返してくれるのなら、この世の死は無意味である。逆に、娘を助けようとして、娘に踏絵を踏ませることはもしかすると娘のためにはならないかもしれない?

常識で考えたら、わたしが踏まないのはわたしの勝手だが、わたしの信仰で娘が死んだらわたしは母としては最悪ではないだろうか? じゃあ、踏ませる? でも、その結果、娘が闇に葬られたらどうしよう・・・ 死んだ後に後悔するのではない?

この矛盾・・・

娘が一緒に受洗してくれないかな・・・と思ったけど、すでに高校生になるし、自分のことは自分で決めるだろう。

ただ、娘にも説明したけど、神さまの考える悪と、人間の考える悪とが必ずしも同じわけではないので、わたしが娘のためによかれと思ってしていることが、必ずしも素晴らしいかどうかわからない。

娘は子どもで、自分のやりたいことがあって、わたしは親だから娘の好きなことをやらせてあげたい。でも、姑さんには生産性のない考え方だと言われる。子どもの将来のことを考えたら、何か資格でも取るとか、職業を持つことを考えたほうがいいと言われる。世論だ。そうやって言われると、わたしは単に子どもを甘やかしているだけなんだろうか・・・・ そうかも。自信がない。

(歴代誌下 4. 19-22、 5. 1)

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March 21, 2009

遠い隣人

母のお墓参りに、幼馴染と一緒に出かけた。

去年からずっと言われていて、今日になり大雨。午後は晴れたけど・・・ 

いつもは車で行くが、今回は駅で待ち合わせをした。

実際に会うのも10年ぶりくらいで、わたしは覚えていない。母の手術が終わって、ICUにいるときに会ったと言われたが、あの時は動転していて、わたし自身の記憶が飛んでいる。その後、Aさんがたまたま母が転院した先の病院の近所に住んでいたため、ちょくちょく見舞いには来てくれていたらしいが、出くわしたことはなかった。

つくばにも毎月来ていたらしいけど、それはどちらかと言うと、彼女の親友が土浦にいて、交通の不便なつくばのことだから、その友達に送ってきてもらっていたのだろう。連絡をくれたら迎えに行くのに、迷惑をかけたくないから、とよく言われた。

そして今日も、「一度連れて行ってくれたら、後は大丈夫だから(自分たちで行くから)」と、以前から頼まれていたので一緒に出かけた。

考えてみたら不思議な話。でも、あの姉妹にとって、うちの母親は昔から親の次に大事な人で、自分の親のようなもの、親代わり。父親を幼くして亡くし、長男が父親代わりに兄弟の面倒をみていたが、その長男がある事件をきっかけにおかしくなり、わたしが彼女たちに出会った頃には、姉は結婚していたが、妹はまだ高校生、わたしと一つ違い、にもかかわらず居候で、学費にも困るような生活。お母さんもすでに年寄りで、息子の世話になっていたし・・・ 

Aさんは、週に1〜2日、わが家から通学していた。当時、家にはわたしと小学生の弟しかいなかったし、父も母も仕事で忙しく、わたしたちの食事も通いのお手伝いさんが用意してくれていた。Aさんが来ると、誰もいないので何か作ってくれる。チーズオムレツとか。わたしと一つしか違わないのにずっと年上のようだったし、それでいて友達のようでもあり、たまに家族のようだったが、やはり家族ではなかった、としか言えない。母が一人暮らしの独身だったらよかったのかもしれないが・・・ わが家に来て、逆に寂しい思いもしたのではないかと、思う。だから、今でも、弟やわたしにはすごく遠慮がちなところがある。

今日、駅の改札で待っていたとき、わたしには彼女がすぐわかったが、あちらはわたしになかなか気がつかなかった。あまりにも気がつかないので、人違いかと思ってしげしげ見ていたら、ようやく気がついた。ICHI先生の服でも着て、颯爽と待っていたらわかったのかもしれないが、ユニクロのジャケットとジーンズで、ぼーっとしていたらわからないのかも。今でも学生と間違われるし・・・ 

あちらはすっかり口やかましいPTAの母親という雰囲気で、もし間違えたら文句でも言われそうだと、声をかけるのも躊躇ったほど。実際、彼女たちの息子さんたちは皆優秀で、ちょっとわが家は恥ずかしいね・・・そういう意味では。いかに一人娘を甘やかしているか、何となく感じた。

でも、彼女たちを教育したのはわたしの母だし、彼女たちも今日あるのは母のおかげだとずっと言っている。わたしにとっては厄介な親だったが、ああやって苦労して育った彼女たちからすると、頼もしい人だったのかも。彼女たちにとっては、母の言うことはいつも正しくて、わたしにとっては、母の言うことはいつも押し付けがましかった。

でも、3人で姉妹のように昔話や近況に花を咲かせていると、懐かしさで涙ぐむ。母が亡くなる1日前に、彼女たちの問題の兄も亡くなり、わたしにしてみれば、彼が母を一緒に連れて行ってくれたのかもしれないと思った。それとも祖母がまとめて迎えに来てくれたのかもしれないし・・・ そうやって苦しい人生は終わった。

駅に戻ったとき、Kさんの息子さんの家が建築中ということで、今度は3人で反対側に歩き出した。偶然。嫁さんの実家の隣に建築している。わたしはその息子さんには一度も会ったことはないが、帰りにお舅さんに駅まで車に乗せてもらった。なんでわたしまで一緒にいるのか不思議だったが、わさわさわさわさ集団で。

昭和のひとときをすごした。

(ヨハネ 21. 15-19)

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March 20, 2009

最小必要限度

勉強会は、すでに教会の中を案内されただけ。今さらながらに小さな教会だし、質素。燭台もなければ、パイプオルガンもない。それでも告解室があるだけ大きなほうなのかも。マリアさまの像も小さく、隅のほうに置いてある。教えられなければ誰も教会だと気がつかないような普通の建物で、何も言われなければプロテスタント教会だと思ってしまいそうだ。

お葬式と結婚式が同じ衣装というのも初めて知った。それから、以前から気になっていた祭壇わきのロッカー。おそるおそる中を拝見すると、ロッカーの中にロッカーがあり、遺骨があった。お墓のない信者さんや、赤ちゃんの遺骨。小さい骨壷。オトと同じ色のカバー・・・・ あまりにも小さいので、動物のものですか?と尋ねてしまった。(ごめんなさい・・・)

ここの教会は小さいので、納骨のための別の部屋はない。

神父さんは、しきりに日本語で、「ここは、”わたしの教会”」を繰り返していたが、つまり、入信すると、あの教会が”わたしの教会”になる。正直、あまりうれしくなかった。築25年の木造建築の”新しい教会”。わたしが死ぬ頃には建替えでもしないかぎり、ボロボロになってそうだ。そうやってよく観ると、エアコンはカバーが外れかかっているし、電気屋さんでも一番安そうな天井吊りライトも汚れている。いつだか信者さんが、ここの教会はトイレだけは3つあって最新式だと言っていた。あーあ・・・

---- ここの教会は、イグナチオみたいに立派じゃないけど、必要なものは揃っている。

・・・・・・・顔に書いてあったのだろう。それとも、皆考えることは一緒か。床もビニールクロスだし・・・ 

笑うしかない。

---- 何かほかに質問、ありますかー?

訊きにくかったが、好奇心には勝てない。

---- 神父さんって、Beato から Santo になるんですか?

---- 今年は9人。ここの会からも今年一人。ダニエル神父。とても少ないです。僕も10月にはローマに行きます。

---- 聖人?

---- そう。とても少ないです。司祭でなくても、聖人になれる。マザーテレサの両親も列聖されるし、どーですか?

ひたすら笑うしかない。

---- それって、どうやって選ばれるんですか?

---- わからない。

---- じゃ、ある日突然、ローマからひらひらひら〜?

---- そう。

---- じゃ、ある日突然、パパさまから招待状? 

---- そう。

ひらひらひら〜っと手のひらで遊んでいたら、手の先にイエスさま。

---- じゃ、神父さんのところにも、ある日突然、バチカンから招待状が届くかもね。

ひらひらひら〜

---- じゃ、わたしは聖人の授業をこうやって脱走してたんだ。(真似をする) でも、聖人の話は退屈だよ?

---- 聖人は故郷では敬われない。

---- 罪深きわたしをゆるしたまえ〜、っていつも祈ってるのよ。

---- それは、だいじょぶ。

---- ジョーク、ジョーク。ぜんぜん気にしてない。

とりあえず、入信式は1分か2分くらいで終わるらしいし、それならまとめて洗礼のときにしてくれたらいいのに、と思ったけど、のんびりやっていったらいいのかも。

そうだ、鐘もない・・・

(ルカ 6. 20-26)

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March 17, 2009

ちぐはぐな感じ

少しのんびりしたいと思って、御ミサはさぼり。

その代わり、バルバロ聖書はようやく格言の書までたどりついた。聖書全体の4分の3が旧約聖書なので、いつになったら読破できるのだろう・・・謎。

少しのんびりしたい、というより、少し自由になりたい、というほうが本音に近い。

御ミサの間、わたしはほとんど祈っている。しまいには歌うことすら苦痛になり、賛美歌もかったるい。本当は、行きたくないからかもしれない。でも、来週からは入信式が始まり、式次第のコピーを渡されたため、一応は目を通す。

御ミサの間中、わたしは黙祷をささげる人になる。

特に意味があるわけでもなく、わたしという人がごく自然に行う行動であり、その瞬間、億劫になりながらも皆と同じ行動をとろうとするのだが、それが酷く苦痛であり、苦痛を抱えながら御ミサに出席することがさらに苦痛となり、それならさぼったほうがまし・・・

受洗が早すぎたのだろうか。

父さんは受洗しないのだろうかと訊いたら、「まだ早い」と言われた。早い・・・というのは、おそらくは姑さんのことを気にしているからか、あるいは、何か決めるまでにずっとうだうだ考える人なので、ずっとうだうだ考えて、癌でも見つかったら、それがトリガーになるかもしれない。癌家系だし・・・

でもね、一人で教会へ行くって、さびしいよ。

が、しかし、とりあえず自分で決めたことだから仕方がない。わたしは一人暮らしの老婆のように、教会へ行き、ひねた根性でずっとお祈りをしている。

さびしいが、しかたがない。自分で決めたことだから。

まあ、その罪滅ぼしというか、たまには教会をさぼり、娘の塾の手配をしたり、準備をしたり、一日ぼーっとしているのも気分転換になる。お彼岸以降、ずっとスケジュールが入っている。娘が春休みになり、デッサンのほうも春期講習があり、勉強のほうも少しはがんばってもらわないと。姑さんに言わせると、それはあまり生産性のない考え方らしいけど、本人がやりたいのなら仕方がない。その後のことは親の責任ではない。おとなになれば、自分のことは自分で考えて決めるだろう。

もう、春・・・

(ローマ 1. 8-15)

この、ちぐはぐ感・・・

ずっとこれが続いている。

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March 13, 2009

まだまだ勉強

教会は疲れるなぁ・・・

疲れると思いながらも行っている。

どうして疲れるのかといえば、仕事よりもある意味しんどい。まあ、慣れるまでは仕方がないのかも。

それはある意味、とても単調であり、シンプルであり、複雑。人がいるようで人はいず、人がいないようで人がいる。神さまと人と自分との三角関係。ハイダーのバランス理論を思い出す。どこかに一つでも負の関係があれば、バランスを取ろうとしてもう一つ負の関係が成立しやすくなる。三角関係は難しい。

わざわざそういうところへ行く、というのも、考えてみたら変な話だ。神父さんがインドネシアで洗礼を受けたときは、100人くらい受洗者がいたので、予行練習が大変だったらしい。1週間後にクリスマスがあり、皆で盛り上がったとうれしそうにお話していた。

そういうの、いいよね・・・お祭りムード一色で。わたし、今日、式のときにはここに座って、ここに立って、と説明されたが、何の感慨もなく、枝の日曜日は娘の入学式と重なったので出席できないし、わたし的には、自分の洗礼よりも娘の成長のほうがうれしい。

神父さんの転勤先の山形の教会は、幼稚園だけではなく老健施設もあり、今度はギターを持って行けるとうれしそうに語っていらしたが・・・、そのとき、わたしが思ったのは、つくばの施設だとダメなのか?ということ。そこで、一緒に行って文句を言おうとかと思ったけど、神父さんは転勤だし、わたしの場合は信者だから文句を言う、ということではなく、おそらくは今自分が携わっている仕事の範疇で、それを考えていることに気がついた。ボランティアでも何でもなく、要はそれも仕事の一つだから。

そうなんだよね・・・いやいやながら働き始め、ささやかながらも医療関係の仕事に従事し、肩書きを持って行動している以上、それはボランティアではない。教会の仕事でもない。場合によってはわたしの場合、病院にカウンセラーとして就職すれば、それはそれでまたそれが仕事になっていくだけのことなのかも、ということも何となく理解できるようになってきた。要するに、採用されて働き出して、仕事を覚えていく・・・

前回、勉強会の途中で仕事の電話が入り、それ以来、まったく聖書を使わなくなった。アクティフのことも何も言われなくなった。

とりあえず、仕事が与えられている以上、やっぱり教会で何かを学んで、それを生活の中で実践していく。それが、わたしの場合、未熟なんだろうな。本当は、家で聖書を読んでいるほうが好きなのよね・・・ 教会へ行ったり、仕事をしたりするよりも。24時間お祈りしているほうが楽だ、という意味が何となくわかってきた。というわけで、受洗後も木曜日は聖書の勉強会が続く。人それぞれだから・・・深く考えるの、やめよう。

(エゼキエル 5. 7-10)

ああ、おそろしい世の中。

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March 09, 2009

雨の日

何なんだ・・・あのだるだるな雰囲気は。

退屈だから早く終わらないかな、という雰囲気が充満し、教会へ入ったらいきなり風邪の症状が押し寄せ、下を向いていられない。家へ帰ってきたら治った。途中で席を外そうと思ったけど、我慢しているうちに治まってきたので、そのまま終わるのを待っているような感じだった。わたしだけかな・・と思ったんだけど、隣のほうの席からいきなりあくびをこらえる声が聞こえてきたので、何となくそういう空気が充満していたのかも。気のせいかな。

退屈な授業とか、やたらと長いお経を聞いているときのような感じ。

学生時代だったら、忍者のように脱走するのだが、さすがにババアになるとそういう節操のないことはできない。

それとも花粉症の季節が始まったので、それにやられている人が多いのだろうか・・・

わたしも一度調べてもらおうかな。今までアレルギーなんてなかったんだけど。

それとも、日本語と英語で同じ話が繰り返されていたせいだろうか。

わたしは車が停められず、少し遅刻したから気がつかなかったけど、外国人が多かったのだろうか。車を停めたらまた遅れてくる車が数台あり、そのくせ今日は台数のわりには人が少なかった。新しい教会ができたので、大家族で来ていた人たちを近頃みかけなくなったし・・・

それとも、インドネシア人の神父さんの転勤が決まり、神父さんがチェンジするからだろうか。

わたしたちの受洗は、今月中はインドネシア人の神父さん、来月はアメリカ人の神父さんが担当するらしい。「わたしたちの」とは言っても、わたしはほかの人たちのことは知らないのだけれど・・・

何が言いたいのかというと、何となく暗いんだよね・・・教会の雰囲気が。

気のせいかな。

まあ、いいや。

わたしには関係ない・・・

(エレミヤ 34. 12-17)

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March 07, 2009

精神的貧困

この時期だけはダメだなぁ・・・

昨日、徹夜仕事を終わらせ、申告書を提出し、家に戻って来ていたら、Mさんから電話。電子カルテの調子が悪いというので、電話で話していたら呼び鈴が鳴った。ひとまず電話を切り、玄関に出たらエホバの人たち。犬が飛び出しそうになったのでお断りする。いつもだったら、リーフくらいは受け取るのだけど、今の時期はダメだ。

再びMさんと電話。Mさんに言ったら、「もっと話をきいてあげたらよかったのに」と言われた。

・・・・・・・が、しかし、そんな気分じゃない。それに、しつこかったし・・・・ まあ、いいや。

それに、エホバの人たち、御ミサしないみたいだし・・・ 年に1回、最後の晩餐を祝うだけらしい。それで、集会をやって何をしているのか訊いたら、皆でグループに分かれて聖書の勉強会。聖書の勉強会と御ミサとは違うだろうと思ったんだけど、毎週やらなくても最後の晩餐を祝えばいいらしい。

わたし的には、そういうことは仏教でも宗派が違えば違うのだし、土地の習慣だって違うし、どうでもいい。・・・・・・でも、エホバはそういうことが大切らしい。

---- マリアは?

---- マリアは尊敬していますけど、聖書には出てこないし・・・

---- あなたね、Mくん(息子さん)が殉教したことを考えてみて。

---- 気持ちはわかりますけど・・・

たぶん、その後に「神さまのほうが偉い」とかナントカ言いたかったのだろう。

そうじゃなくて、・・・・そうじゃなくて、・・・・・

そうなんだよね。

どうしてわたしがプロテスタントでなくて、エホバでなくて、カトリックなのか・・・

Mさんは、「私たちは」という表現をする。

わたしは、「わたしは」としか言わない。

わたしたちの罪は、マリアさまを通してしか、少なくても、わたしにはわからないから。

マリアさまが偉いとか尊敬している、というのではなく、「あなた、自分の息子が殉教したときのことを考えてみなさい」、ということ。

信仰とか、希望とか、愛、とか、信仰って何なのか、希望って何なのか、愛って何なのか、「あなた、自分の息子が十字架に掛けられたことを想像してみなさい」としか、語れない。

・・・・・・・・怒っているというわけではなく、要するに、自分を説明するのが酷く面倒なときってあるよね。

雨の中、ふたりでとぼとぼ歩きながら、

---- 聖書、持って帰ったの知ってる? バルバロ聖書の続きを読もうと思って。代わりに新約聖書を置いてきたんだけど。

---- ぜんぜん、知りませんでした。

---- いつも使っているやつは、ぜんぜん注釈のないタイプで・・・

---- 毎日読むんですか?

---- わたしは毎日読んでいますね・・・ 開くというか。

---- カトリックで、そんなに聖書を読んでいる人なんていませんよ。

---- そーなの?

---- はい。私は知りません。

11億人もいるから・・・

原理主義ってどういうことなのかよくわからないけど、神父さんや牧師さんがこうやって言ってるから、ということではなく皆で集まって聖書を読んでいるのかも。気持ちはわかるんだけど、わたし的には今の時期だけはダメ。

精神的貧困。どっぷり自分の世界に浸っている。

(イザヤ 52. 13-15)

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March 02, 2009

わたしのアクティフ

久しぶりに、CDを買う。レンタルショップに行ったけど、見当たらなかった。

20年ぶりくらいにアヴェマリアを歌い、歌詞を間違えて、今さら楽譜も残っていないので、ネットで検索しているうちに突き当たったCD。中にアヴェマリアが納まっているわけではない。でも、何となく今の気分にあっている気がして、アマゾンで探した。(こういうとき、ネットは便利だな〜としみじみ・・・)

好きなサウンドを聴きながら、ネットをしているという当たり前の生活が奪われ、わたしが家を留守にしている間に作歌用の聖書は犬たちにボロボロにされ、今使っているのは同じものの2冊目。注釈がないので、ある意味使いやすい。

注釈つきのお気に入りのバルバロ聖書はずっと職場におきっぱなし。一昨日持って帰ってきた。ひまなときに続きを読もうと思っていたけど、なかなかそういう時間がとれず、そのままにしてあった。詩篇で挫折してしまっていたので、続きを読もうかと。

****

勉強会のときも、御ミサに行くときも、携帯用に作歌用の聖書を持っていく。実際に使うわけではないが、何となく。

今日、式次第を取るのを忘れてしまっていたら、隣の席の人が入り口のところに全部置いてあるからと教えてくださったのだけど、考えてみたら、マイ聖書を持ち歩くのは変なのだろうか。わたし的には、何となく手になじんだもののほうが落ち着くのだけど。

神さまはお話してくださらないので、聖書を開くことは大切だ。

・・・・・・・そして、今も何となく聖書を開く。そして、それを記録しておくのだけれども、今日はそのまままためくりまた閉じてしまった。特に理由はない。いつのまにか、さっと読んで、さっと閉じてしまうことに慣れてしまったのだろうか。

****

読んでいる聖書が違う?

それが何の意味があるのか、わたしにはよくわからなかったし、今でもよくわからない。おそらくは訳そのものの違いより、注釈のほうが問題なのかもしれないし、ネットでカトリック用の聖書を検索しているうちに、リストマニアの推薦文を読んで、そういうところまで細かくチェックしている人がいることに驚く。

細かいことはどうでもいいような気がするし、それでいて、わたしは細かい。注釈などに細かいのではなく、日本語訳について細かい。微妙に意味とニュアンスが違う昔の祈りと今の祈り。英語は簡単だからと言われ、読んでみたらあまりにも簡単だった。だとしたら、わたしが子どもの頃に教えられたお祈りの文句って何だったのだろう?

毎回、聖マリアのお祈りをするのだけど、わたしはいまだに覚えていない。が、しかし、ラテン語ならほとんど覚えていることに気がついた。あれとこれが同じものだと初めて気がついた。

・・・・・その瞬間、いろいろなことが湧き出てきて、わたしは酷く疲れていることに気がついた。教会用に白ベールを買った。このところずっと使っている。洗礼を受けているとか、いないとか、もまるで気にならなくなった。受洗者と間違えられるので、列を変わるように求められても、わたしはとりあえず神父さんでないと祝福を受けられない、といちいち説明しなければならない。

何のために教会へ行くか?

白ベールが教えてくれた。御聖堂の中ではベールを被るけど、出ると取る。つまりは、教会はホーリーな場所だから・・・

つまりはそういうこと。(だと思う)

教会は、神聖な場所。

・・・・・・・・・わたしは急にそのことを思い出し、その瞬間、わたしの逡巡が何であったのかわかった。

・・・・・・違うんだよなぁ・・・・・・

何が違うのかと言えば、わたしにとっての最大のアクティフは何かのボランティアに参加したり、教会の仕事をしたりすることではなく、祈ること。

むしろ、日常にそういう時間が持てないからこそ、足を運ぶ。わたしには暗記するほど聖書を読む時間もなければ、24時間お祈りだけしているなんて不可能だ。やらなければならないことが多すぎる。

そこがホーリーな場所だからこそ、教会へ行く。

その瞬間、わたしはほかのことがどうでもよくなってしまった。

それが素晴らしいかどうか、わからないが・・・

(ローマ1. 8-15)

投稿者 Blue Wind : 03:36 AM | コメント (0) | トラックバック

February 26, 2009

「ほらほらほら」

灰の水曜日。

本当におでこに灰を塗られた。英語なんだけどね・・・英語でいっぱい説教をされて帰ってきました。ただし、半分くらいしか理解していないような気がする。いや、何言われているか何となくわかるから・・・

偽善。今風に言うと、キャンペーン?

でも、それが罪なら赦してほしいけど、わたしは自分が間違ったことをしたとは思っていない。日本の社会ってそういうものだから。口先だけではダメなんだよね・・・ もう、すぐ行動。父さんに内緒でしたから、Fが心配している。で、その話を父さんに言ったら、父さんはおじいさんのことを思い出してウルウルしていた。で、そのことをホソピーには伏せて相談したら、今日はホソピーが若い人たちを連れてランチに繰り出した。

そうやって、うちの人たち、つまりうちの職場の人たちは互いに助け合っている。それが当たり前のような気がするし、当たり前でない時代のような気もするし、わたしがしたことはカタルシスでもあり、ノスタルジーでもあり、旧きよき時代の人たちは、そうやって生きてきた。

でもね・・・ 日本はほかの貧しい国にお金は出すけど、人は出さない、とかね。偽善とか欺瞞とか言われて久しいが、日本的ノスタルジーから言えば、困っている人たちを助けるのは悪いことではないし、そこの国が今度は豊かになったら、またほかの国を助ける、という連鎖はごく自然な発想だ。

***

英語ミサ。

いつもの3分の1くらいの人たち。国籍人種もまちまちで、御ミサの雰囲気もまるで違う。ポップな感じ。

最初、わたしの隣には、日本人の老夫婦が座っていたのだが、灰を塗られてもどると、遅れてきたポップな黒人の母子たちがわたしの席に座っており、わたしはたぶん台湾人ではないかと思うけど中国人ファミリーの隣に移動。ちょうど献金のとき、そのファミリーのお父さんが千円札を放り込んでいたので、わたしは、「ほらほらほら」と思った。

いつだったか、日本人は献金で1万円札とか千円札を入れるけどそんな必要はないと、神父さんに言われたことがあり、そんなことわたしに言われてもわたしは小銭を用意して行くから・・・ 

だから、「ほらほらほら。」

つまり、「ほらほらほら。」

そうやって悪く言われているけれども、日本人は、「ほらほらほら。」

この国の人たちは、誰かがひとり善いことをすると、それに連なる。そういう国民性なのだから仕方がない。善いことをするのも恥ずかしいのだ。だから、ひとりではしない。

***

以前だったら、夕飯時や日曜日に一人で外出したりすると、何となく不機嫌だったんだけど、このところ妙に協力的で逆に気持ちが悪い。職場でもみんな協力的にで、なんなんだ、という感じ。以前だったら、職場に聖書をおいただけで、看護師に、「こういうのはここには合わない」とか、「この辺の人たちは宗教を嫌がるから、患者さんが来なくなる」とまで言われたのに・・・

アクティフ・・・か。

よう、わからん。

(ヘブライ 1. 5-7)

投稿者 Blue Wind : 12:39 AM | コメント (0) | トラックバック

February 23, 2009

罪滅ぼし・・

罪滅ぼし・・・

もちろん、わたしにはたくさん罪はありますが、そのたくさんの罪の中で何を悔いるべきか?

子どもの祈りの手引きの中には、友達とケンカしたとか、お父さんお母さんのお手伝いをしなかったとか、その他諸々よいこのお手本のような話が書かれている。

う〜ん、う〜ん、と悩んでいると、院生Fから電話。折り入って話したいことがある、という・・・ かなり動揺している様子で、3月いっぱいでバイトを辞めたいと言う。それは構わないというか、やっぱり学校のほうが大変なのかなと思ったら、今度は学費を払えないから休学して働いてまた院生を続けるつもりらしい。お母さんが借金まみれなのがわかって大変なことになっているそう。

****

今、母が倒れたときの直後のような動揺と衝撃があり、彼女になんと説明したらいいのかわからないままに銀行に行って来てしまった。「へそくり貸そうか?」と言った時、「ジム長、騙されますよ」と彼女は本気にしていなかったけど、わたしのほうが落ち着いていられない。

罪・・・・

母が倒れたとき、そのショックはなかったなぁ・・・ わたしとて神戸の震災やらおじいさんの死やらいろいろあって、娘はまだ小さいし、そのころは母のことどころではなかった。でも、父が亡くなった後、母がものすごく苦労して、精神的にも肉体的にも経済的にもボロボロ。もう少しわたしが早く気がついていたら、あそこまで悪化することはなかったかも。

母のこととオトくんのことは、悔やんでも悔やみきれないところが、今でもあるのだろう。日頃は忘れているけれども、何かのおりに思い出してしまう。・・・・・・それが、罪。

****

わたし、どうかしてるよなぁ・・・

Fは若いし、介護施設関係が専門だから、介護師の資格取って1年くらい休学して働くくらいどうということもない。冷静に考えればわたしが何かすることは何もないわけで、彼女にとっても迷惑だったかも。

「借金のあてはあるんですけど、お母さんみたいになりたくないから休学して働きます」だって。

あのなぁ・・・ あなたのお母さんはあなたたちのために借金してボロボロになったんじゃありませんか? それを一言で、「お母さんみたいになりたくないから」で終わらせるな!

・・・・・・・と思いつつ、同じだよね。結局、自分も若い頃は母みたいになりたくないとずっと思っていたし、形は違っても同じようなものかも。それが何年もすると、こうやってウツウツする原因になる。

でも、イイコなんだよね。何とか助けてあげたいと思ってしまう。そのうち何とかなるだろう。若いし・・・ がんばれ。

さて、ババアも働くか。

(ヨハネ 6. 22-59)


****

Fから電話。

みんな心配してくれて、無事に勤め先も決まり、何とかなりそうだから、と。よかった。自立支援センター・・・か。天職かも。がんばれ。

(ルカ 2. 14)

投稿者 Blue Wind : 05:32 PM | コメント (0) | トラックバック

February 22, 2009

結構ヤバイかも・・

真実の鏡・・・

あの酩酊姿を世に晒す前に、バチカンへ行って、あれをやっていた、と。日本の大臣が・・・ しかも、政府専用機で。

ありえない。ことが現実にある。

でも、そういう人が国政を担っていることがわかってよかったかも。未曾有の危機なのではない。単なる人災のような気もしてきた。どんどんどんどん次から次へと膿が出始めて、大規模な改革が必要なくらい、おかしな世の中になってきたのかもしれない。ひとりだけが、そう、というわけではなく、おそらくは大なり小なりみんな、そう。

イスラエルのスイスチーズ状態。自爆テロを防ぐためにスイスチーズの壁をつくって、そしたら今度は地下にトンネル。どんどんどんどんロケットを飛ばして、眠れぬ夜は続く。が、しかし、毎日毎日ロケットが飛んできていたら、「あれをどうにかしてください」と、わたしでも警察や役所に行ってしまうだろう。そして、軍が動く。

Fさんは、クリスマスの前に関西へ行くと言い残し、それきり一本の電話がかかってきて以来行方不明。せめてロッカーの鍵を返してほしいのだけど、携帯も通じないし、ありえない。3月までにはスリランカへ行くと言っていたけど、コロンボ空港の近くで空爆があり、今頃どうしているのかと、少し気になった。でも、Fさんのことはすでにみんな忘れてしまっているようで、あの剣幕はなんだったのだろうと不思議に思う。

あんなにたくさんのタミル人がパリで暮らしている?

1万人のデモ。そして、コロンボの空爆という名の自爆テロ。ああやって、世界中の人たちにメッセを飛ばしている。

日本なんてどこにあるの?とか、知らない、って言われていた頃が懐かしい。

(コリント二 10. 17-18)

(エゼキエル 14. 9-23)

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February 21, 2009

次々

近頃、わたしはどうでもよくなっている。

何がどうでもいいのかわからないけれども、マザーテレサの祈りは、日本への原爆投下は神さまがお決めになったこととしか思えない。だから、そういうおそろしいめにわたしたちを二度とあわせないでください、と。

でも、もしもそうやってあらゆることを受け止めてしまったら、世の中のあらゆることがどうでもいいような気になってしまう。

神父さんたちは、よくプロテスタントの教会を引き合いに出すけれども、そのたびにわたしはくま先生の顔が浮かび、あの敬虔なクリスチャンのどこがそんなにいけないのかわからないと思ってしまう。ただでさせこの狭い日本の、しかも少数派であるクリスチャンたちが、どうして分断されないといけないのかわからないし、わたし的にはなんとなくどうでもいいような気がすることがある。

でも、クリスマスの件では、クリスマスを祝わないMさんは、カトリックでも12月25日はイエスの誕生日ではないとわかっているのにお祝いしてる、と断言していた。が、しかし・・・ わたし的にはどうでもいいような気がしてしまう。安息日が土曜日だろうが日曜日だろうが、わたし的にはどうでもいい。というわけで、Mさんは4月10日はお休みで、その代わり11日には働いてくれるみたい。仕事的にはそのほうが都合がいい。

で、今度は受洗するのにいのちの保証人が要る。

つくば教会で?

わたしにはこころあたりがないので、これも神父さんがどなたかを紹介してくださるのだろう。誰でもいい、ということであれば、Tさんのことを思い浮かべたが、よく考えたら、彼女のところは熱心すぎてとうとう改宗してご主人が神父さんになってしまったことを不意に思い出した。くま先生はプロテスタントだし、そういうシステムだということを最初から知っていたら、わたしはくま先生に相談して、もしかするとプロテスタント教会で洗礼を受けたかもしれない。

義姉たちのところは、I君が結局カトリックの学校に就職が決まったにもかかわらず(いや、そのせいかもしれないが)、すっかり無宗教を決め込んでいるらしい。「洗礼受けててもご主人が仏教だから仏教でやった」とお葬式の話をしていた。

そうやってね・・・次から次へと。

いいんだわ。もう決めたことだし・・・

なるようになる、しかない。

(コリント二 11. 1-15)

サタンにそそのかされてるのかな。

まあ、いいや。

投稿者 Blue Wind : 01:53 AM | コメント (0) | トラックバック

February 20, 2009

晩餐

主の晩餐。

御ミサは主の最後の晩餐に遡るらしい。

神父さんから、「ここに書いてある」と示されたのは最後の晩餐のところだった。その日にイエズスは弟子たちの足を洗い、ぶどう酒を飲み、そしてパンを裂いて与えた。

わたしが御ミサに参加したくないのは、パンをもらえないせいか?

そうかも・・・、とも言えるし、そうではないとも言える。だって、今までだって聖体拝領なしでも御ミサには出ていたし、そういうことを気にしたことはなかった。

神父さんが青年会のために作成した資料を渡された。御ミサについて書かれてある。立つところ、座るところ、ひざまずくところ。つくばの御ミサでひざまずいているのは、外国人の青年だけだった。賛美するところは立っているし、祈るところはひざまずいて祈る。そういうのは習慣なのだろうか。普通はごく自然にしているのに、つくばの教会では、司会者がいて、立ってください、とか座ってください、とかアナウンスが入る。なんか不自然。

で、聖体拝領のときには、もうすでにがやがやと帰る支度が始まる。「終わったー」という雰囲気が満ち溢れ、少なくてもお祈りしている人はいなかったように思う。

・・・・・・・・なんか、あたし何しに来たのかな?

と思ったとしても、それはわたしが悪いのだろうか?

和やかなんだけどね。何かどこかが違う。(ような気がするだけかな・・・)

そうだ・・・・・それで、土浦の教会へ行ったとき、なんとなく懐かしいような気がしたのかも。白人のおじいさんが一人でお祈りしていた。

教会って、やっぱ、お祈りするところなんじゃないの?

でも、他人が気になってお祈りできないというのは、シャイという次元を超えているような気もするのだけど、どうなんだろう。でも、そういう雰囲気なんだから仕方がない。そうやって感じるのはわたしだけではないと思うんだけど、どうなんだろう。

だいたい、教会って、静寂な水の中のようなもので、誰かいるな・・と思っても水の中で出遭ったみたいで、中ではおしゃべりすることもないし、ほかの人のお祈りの邪魔にならないように慎ましくしているほうが普通だ。でも、にぎやかなんだよね・・・あの教会は。別にそれがいやというわけではなく、ただ、何のために行かないといけないのかな・・・と思っただけ。それなら、知らない教会で言葉もわからないほうが癒される。

でも、その場にわたしもいたとしたら、わたしも同罪だ。

今日・・・ではなく、すでに昨日のことだけど、めずらしくあの大きな十字架のイエス様の前に座っていたら、一生懸命に何かを言おうとしているように思えたのだけど、こちらに向かって首を少し傾けながら・・・ でも、わたしも一生懸命に理解しようとするのだけれど、まるで言葉の通じない者同士の会話のように。

なんか、途中で、痛くないのかな・・ などと思ったりしたのだけど、ぜんぜん平気そうで、何か楽しそうに一生懸命に話そうとしていた、ような気がした。

最後の晩餐・・・

ぜんぜんイメージが違う。少し首を前に出しながら、まっすぐに話しかけてくるような・・・ そして、すごく雄弁。若くて一生懸命で、どこにでもいるような若者。

復活のときに、ずっとイエズスが一緒だったのに気がつかなかった、という話があった。わかるなぁ・・・ わたしもきっと気がつかなかったよ。たぶん。

(使徒 7. 50-56)

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February 17, 2009

ローカルは黒字

なんだ、あの国会は・・・・

もうヤル気がないのかも。

世界中に報道されたらしい中川さんの酩酊姿に、うちのダンナが、「酒でも飲まないとやってられないんだろう」と言って笑っていた。そりゃそうだよね・・・信じられないような支持率の内閣で、やることなすことすべて裏目に出る。国民感情としても、なんかもうどうでもいいような気もするし・・・

アメリカはもしかするとすごく強いリーダーシップで危機を乗り切ろうとはりきっているのかもしれないし、日本はこうなるとみんな国をあてにしない。問屋さんや製薬会社を見ていても、吸収合併に慣れているせいか、結構、みんな仲がよい。

外資系の製薬会社の研究所が閉鎖された。職員は大した数でもなさそうなので、それぞれライバル会社だったところに再雇用されている。なんか、お互い様というか、そういう空気らしい。ジェネリック薬品に替えられてしまうので、メーカーはどこもマイナス成長。問屋もメーカーが合併してしまうので、今までだったら扱っていない商品を扱うようになり、以前だったらメーカーごとに取引のある問屋が一手に引き受けていたのに、今はあっちもこっちも合併するからそういう区分もなくなってしまった。どこの問屋に頼んでも大丈夫というか・・・ そうなると、価格競争になり、うまくない。しかも、ジェネリック・・・ 

本当に、競争しているような場合じゃないよね。

開業したばかりの頃、普通は問屋を決めてまとめて値引きしてもらったりするのに、どうしてうちはそれをしないんだと言われた。看護師にまで、わたしは働いたことがないから、とか、商売を知らない、とか、あれこれ言われていたらしい。病院だと事務長の権限で、医者が置いてほしいと言っても取引がないと薬を入れてくれないという話を聞いたことがある。が、しかし、わたしにはそんな権限はないと思う。

まあ、それよりも八方美人方式というか・・・ 営業さんが浮かない顔をして、今月は売上が少なくて・・とぼやいていたらそっちから買うようにしたり、患者さんが少なくて・・とぼやいていたら、逆に今はどこもそうですよ、と励ましてもらったり、営業さんと仲良くなると、そのうちお子さん連れて予防接種に来てくれたり、健診で来てくれるようになったり、のほほんと。

そういうのが楽しい・・・

大阪府も黒字になったというし、つくば市も黒字だったそう。そうやってこじんまりと難局を乗り越えていくしかないのかも。

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February 16, 2009

すこぶる勘違い

あー、よかった。というか、ほっとした。

大阪からダンナが戻ってきて、「あの坊さん、13年前と少しも変わらんから驚いた」と言う。

ん? あの坊さん・・・

---- お寺、変わったんじゃなかったの?

---- いや、同じ。

狐につままれるってこういうことかしらん?

何がなんだかさっぱりわからないけど、姑さんは、お寺が違うから義姉から場所をきいて、と言っていたはず。で、そのあとすぐに義姉から電話があり、場所をメモしたら同じ坊さんのお寺だった?

要するに、またおばあちゃんが勝手に言っていただけで、実のところ義姉が手配したのだろう。わかるなぁ・・・ また姑さんが引っ越すと言っているけど、「絶対それはやめて」と下の義姉が阻止しているというし、なんとかなだめながらうまいことやっているのかも。でないと、ふりまわされて、大変なことになる。

どこまでが事実で、どこまでも単なる意思なのかあるいは妄想なのかボケなのか、姑さんと話していたらわけがわからなくなる。ちょっと話していたらまともなんだけど、それを真に受けると嘘。本人は嘘を言っているつもりはないから、すっかり騙されてしまう。

・・・・・・まあ、いいや。いつものことだ。

***

でも、なんとなく今回のことがあって気がついた。Mさんの言うことは案外正しい。仏教からの改宗だから、こまめに御ミサに行くというのが変に感じられるだけなのかも。自分自身は、仏教徒であるという自覚はないけど、育った家庭の中に神棚やお仏壇があり、母が毎日していたから、そういうのが当たり前というか。

神父さんが、毎朝出勤前に15分、毎日教会でお祈りして行く信者さんの話をしていたけど、もしかすると彼もそういう家庭に育ったのかもしれない。あるいは、あるおばあさんはポケットの中にいつもロザリオを入れて、いつもポケットの中に手を入れてロザリオの祈りをしているらしい。

なんか、わかるなぁ・・・ 長年培われた習慣は、そう簡単には消えない。お経を唱えるように、ロザリオの祈りを念じながらロザリオをくるくるまわしているのだろう。

テレビで隠れキリシタングッズを紹介していた。刀の柄の部分がクロスになっていたり、仏像の背に十字架が彫ってあったり、掛け軸の裏にマリア様の絵が飾ってあったり、忍者屋敷さながらにからくりがある。

写教聖書がものすごく売れているらしいので、わたしも買ってみようかな・・・そのうち。それとも、編むか・・・コツコツ。

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February 14, 2009

憂鬱の原因

午前中、免許証の講習会があり、高齢者の飛び出し事故のフィルムなどをたっぷり見せられ、そのせいがあったかどうか久しぶりに叔母のところに電話する。高齢者のことは高齢者に聞け、というか、やっぱ、ああいうものらしい。

まず、突然何かをしようと思ったら頭の中がそのことだけになり、車が来ているかもしれないということなど忘れてしまう。こっちへ曲がろうと思ったら、ほかのことはわからずにそうやって行ってしまう。ある意味、子どもの飛び出しより怖い・・・

うちの姑さんも、子どもに迷惑をかけたくないと思ったら、頭の中がそれだけになり、ある意味、ほかのことはわからなくなってしまう。叔母に言わせると、毎日、どうやったら子どもたちに迷惑をかけないように生きられるかとか、お葬式のこととか、そういうことばかり考えているらしい。

それが普通みたいだし、やったことを説明してもらおうとしても覚えていないだろうし・・・ 物忘れが激しい。それでいて、まるでそういう自覚症状がないので、いつも大騒ぎになる。それでも自分の身の回りのことや日常生活にはあまり不自由しているとは思えないので、つい大人だと勘違いしてしまうけど、ある意味、周囲のことがまるで目に入らないので、子どもより怖いところが多い。

昔だったら、いい加減高齢だからうちでひきとって面倒を看るほうが普通なのかもしれない。が、しかし、気丈な人だから、子ども等には絶対に迷惑はかけたくないとばかりにがんばっている。ありがたいと言えばありがたいけど、そのかわり、誰の言うこともきかない。そして、言うことがころころ変わる。

***

なんかよくわからない。

叔母に言わせると、うちの母親みたいに寝たきりになって子どもに迷惑をかけて、・・・という風にはなりたくない、というか、想像するだけで不安になってしまうらしい。

が、しかし、なんかよく覚えていないんだよね。どんなことでも生活になってしまえば、そういうのも単なる日常というか、母の場合、ずっと病院にいたし、自分が大変だったという記憶はない。姑さんがこちらで入院していたときは、途中で看護師が緊急入院して右往左往していたから大変と言えば大変だったけど、そういうのは母の入院と娘の受験と開院の準備が重なって大変だったかどうか、という意味合いのもので、大変と言われれば大変だし、生活だと思えば大して記憶に残るような大変さもないし、なんかどうでもいいような・・・

それでいて、迷惑をかけたくない、と思われてしまうのかも。

要するに、社会的弱者になるのがいやなだけなのだと思う。65歳になって年金がもらえるようになったとき、自分が高齢者と呼ばれる立場になったと実感して、すごくショックだったと叔母は言う。わたし的には、もらえるようになったんだから、わーい、わーいと喜んだらいいのに、と思う。わたしだったらうれしいけど。

で、子どもに迷惑をかけたくないから、動けるうちに準備をしておかないと不安になる。みんな、そうなってから考えたらいいじゃない、というのに、本人が気がすまないのだから仕方がない。タクシーに一緒に乗っても、ドアが閉まる前から運転手にお金を渡す。先に渡しておかないと不安になるらしい。別に家族が一緒なんだから姑さんが払うこともないのに、先に渡しておかないと不安でたまらない、となったらてこでも動かない。

でも、そういうのはうちの姑さんに限ったことでもなさそうなので、ある程度年をとったら仕方がないのかも。

***

だんだん夢も希望もなくなるよね・・・

やっと仕事も軌道に乗って、わたしも少し自分のことができるかなぁ・・と思って喜んでいたら、その影では姑さんがそうやって死ぬ準備をしている、と。

そういうのがぐったりする原因なんだけど、年寄りに何か言っても無駄だし、・・・自分もそのうちそうなるのかも、と思ったら、ますますぐったり。

(コリント6. 1-11)

投稿者 Blue Wind : 02:42 AM | コメント (0) | トラックバック

February 12, 2009

拡散

結局、反面教師というか、姑さんのおかげで、どうしてわたしが教会へ行ったり、行事に参加したりするのがかったるいのかなんとなくわかった。

おじいさんの13回忌、いきなりお寺が違う。息子に何も相談しないで檀家寺を替えてしまうところが姑さんらしくもあり、そういえば何か言っていたことがあるなぁ・・と、今頃になって少し思い当たる節が。ダンナの従兄が亡くなり、あの後くらいかな・・ 母親のほうが長生きをして、結局、身寄りがなくなる。そんなことなら自分のことは生きているうちにさっさとやったほうがいい、とばかりに、無縁さんを供養してくれるお寺の話をしていたような・・・

分骨して、お墓を整理して、仏壇は要らないからあんたのところで引き取ってくれないかと言ってきたことがある。あとは姑さんが亡くなったら、毎年1万円ずつ支払えば、坊さんが骨を預かって供養をしてくれるらしい。今は独身の人やお子さんのいない人たちが多いから、そういう寺が流行っているという話は聞いたことがある。でも、あそこまで信仰心がないと、逆にあっぱれというか、なんというか・・・

***

神父さんは、インドネシアのことを考えるから、よくわかってないと思う。インドネシアだったら、外見で宗教が判断できる。だから、その人たちの行いも外見で判断できる。宗教によって習慣も違うし・・・ そりゃ、バリ島でも行けば、歩くところお供えだらけだし、石像に花が飾ってあったり、ものすごくわかりやすい。

でも、日本人はわからない。ロザリオやクロスだってファッションでつけているだけの人も多いし、結婚式は教会で、お葬式はお寺で、とかね・・・ 少なくても外見だけで、その人の宗教なんてわからないことが多い。まあ、宗教がないと言ってしまえばそれまでなんだろうけど。

で、日曜日に教会に行っていれば、クリスチャンなんだ。

あ、そう。

それって、法事だから日頃集まらない人たちが集まる、というのと似たようなものなのかも。

なんか、そういうのがいやなんだよね・・・ 要するに、形だけ整ってればいい、というのが。

神父さんのたとえ話によると、御ミサに行くのは、車検とか保険のようなものらしい。ちゃんと走るかどうか安全点検とか、死後の保障とか?

そこまで言われたら、わたし的には、「それは違うよ」と言葉に出てしまう。

「神父さん、それは違うよ。神さまはそんなにケチくさくないと思う。御ミサにでないから、救ってやらないとか、そんなにケチくさいことは言わないと思うよ」と。

じゃあ、なんで御ミサに行くのか?

結局、なんとなく思い当たったのは、見知らぬ土地で御ミサに出て、言葉もわからないけれどもなんとなく信者の連帯感のようなものを感じたことがある。つくばの教会も外国人が多いし、おそらくはそういうことなのかもしれないと、なんとなく思った。でも、わたし的にはつくばの教会はローカルだから、なんとなく見たことのある人や知り合いに遭遇したりすることもあるし、ある意味、ローカルな組織だから、・・・・檀家寺や教会の幼稚園を連想してしまう。まあ、似たようなものなのかもしれないけど。

夏の日に、わたしに話しかけてきたおばあさんも御ミサには家族と来ていた。で、そのおばあさんがわたしに一生懸命に言うのは、自分は信者じゃないけど、教会ならいい人たちがいるかもしれないから来ている、と。わたしは心の中で、「そんなこともないよ」とつぶやいていたが、あえて否定する気もないので、ペットボトルのアイスコーヒーをがぶ飲みしているおばあさんの一方的なおしゃべりを聞いていた。

信者じゃないと言いながら、毎週来ているのだろうか・・・ 偉いなー、ばあさん。あーいう人こそ救われてほしいよね。

いや、あのばあさんは救われるなぁ・・・ だって、信者じゃないと言いながら、ずっと救いを求めて通っているわけだ。

もー、暑い中、ずっと病気のことやら身の上話から炎天下で聞かされて、なんだったのかな・・・と思うけど、正直なんだよね。何が正直なのかわからないけど、あのおばあさんは正直。信者じゃないし、信仰心もないけど、救いを求めている。。

きっと救われるよ・・・

(ヘブライ13. 6-19)

投稿者 Blue Wind : 04:22 PM | コメント (0) | トラックバック

February 09, 2009

法事の季節

法事の電話がどんどん掛かってくる。おじいさんの13回忌とか、母の3回忌とか・・・ ひいては幼馴染が母のお墓参りをしたいというので、命日には一緒に行くという約束を去年からしていたし・・・

娘の卒業試験もあるので、おじいさんの13回忌は父さんだけに行ってもらって、母の3回忌は神父さんに相談しないと・・・ 日曜日の御ミサには出なければならないし・・・ とりあえず、友達と約束した日はお彼岸なので、こちらのほうは大丈夫だろう。

でもね、あっさり語ると、法事というのは仏事だから、わたしには関係ないような・・・ それでいて、親の法要には出ないとまずいとか? 形だけでも出て、というのが礼儀なのだろうか。そういうことをまじめに考えると、ぐったりするよね。

(使徒7.42-50)

投稿者 Blue Wind : 11:53 PM | コメント (0) | トラックバック

February 06, 2009

ミーティング

皆でレセプトを整理しながら、なんで教会へ行くのか考える・・・(考えていたのはわたしだけかもしれないけど)

---- Mさんは毎週教会へ行ってるの?

---- 週2回くらい・・・

---- えっ・・・ 

そこでホソピーが、「どこでやってるの?」と横槍を入れるので、わたしが突然、「なんで教会へ行っているの?」という質問はとんちんかんなやりとりが続く。「母が信者だったので」とか、「車で」とか・・・Mさんが答える。

そうじゃなくて、何のために教会の御ミサに行かなければならないの?

という意味だったのだけど、「仏教からの改宗だからですよ・・・」という答え。つまりは、仏教徒はそういうことはしないから不思議な気がするだけ、ということが言いたかったのかも。

いや・・・そうではなくて・・・(とまた、一人で考えていたら)

---- へプライ○○に書いてありますよ。

---- ??? 

一瞬何のことかわからない単語が出てきたので、とりあえずヘブライ信徒への手紙のことか?と訊くとそうだと言う。かなり具体的に言うので、家に帰って調べてみたけど、わたしの聖書にはそんな話は載っていなかった。もしかすると、使っている聖書が違う??(まさかね・・・)

---- でも、イエズスは祈るときには人に見えないように祈りなさいって言ってるよ?

Mさんは、「祈るときは・・・」などとしばらく考えていたけど、結論は自分が行きたいから行く、ということらしい。

---- 神父さんはなんて言ってるんですか?

この質問には、わたしが考える。とりあえず、洗礼を受けるのならカトリックは勉強会に参加しなければならないし、御ミサにも行かなければならない。

御ミサに行くのがいやだというわけでもないけど、ただ、なんで行かなければならないのかなぁ・・と。Mさんの場合は、「1000人くらい集まるんですよ」と嬉しそうに言っているので、たくさん集まるのが本当に嬉しいみたいで羨ましい。でも・・・カトリックは世界で一番信者数が多いから・・としか言えない。

ホソピーが、どんな人が来ているの?とか、婦人の友の会に参加していたときに知り合った信者さんの話や、ついでに、なんでわたしが洗礼を受けるのかとか、受けたら何が変わるのか?などと訊いてくる。

---- 何も変わらないよ。わたし的には・・・ ただ、なんとなくさっぱりしたかったというか・・・

くねくね話は曲がりくねりながら、イエスを信じる人たちが集まるのは意義があるのではないか、ということで決着したら、ダラダラ患者さんが入ってきたので、その話題は打ち切り。

でも、ホソピーのくだした結論は、わたしはずっと一人であの大量の仕事をこなしてきたので疲れているから、仕事を少しずつ若い人たちに教えてしばらくやりたいことをやっていたほうがいい、らしい。あの常識人がそうやって言うのだから、しばしわたしは自分のことを堂々と?仕事をさぼってやっていいみたい。

投稿者 Blue Wind : 02:05 AM | コメント (0) | トラックバック

February 04, 2009

時間が足りない・・・

あれも終わってない、これも終わってない、とばかりにぼやいていると、ホソピー(看護師)が来て、「やることがあるほうがいいよ」とぼやく。

あまりにも実感がこもっているので、わたしはウォークマンの話に逃げた。子どもが大きくなり、鬱のお母さんを抱えていると、ひしひしそれが日常的本音なのだということがわかる。わたしとて、似たような立場だから・・・

が、しかし、わたしは忙しい。それに、ウォークマンに別の曲を入れたかったし、時間があればCDを借りてきて吟味?したい。まだまだやりたいことがたくさんある。ババアになって動けなくなってからのことを今から心配していたって意味ないじゃない?

まじめに働いていた頃には、わたしは”奥さん”と呼ばれていた。今はさぼってばかりいるせいか、”ジム長”と呼ばれている。メモにそうやって書いてあるから、そんな感じなんだろうな。”奥さん”と呼ばれていた頃には、ほとんどホソピーとはくちもきかなかった。(きいてもらえなかったのか?)

でも、圧倒的に今のほうが忙しい気がする。夏休みの話をしたら、7月に休みにするなんてありえないと言われて、わたしだけ休暇をとることにした。事務の忙しい時期と看護師の忙しい時期は必ずしも一致しない。

でも、おもしろいんだろうな・・・あちらは公務員の奥さんだし、家にいてもすぐにやることがなくなる。ほかに何か趣味でもないかと思うんだけど、せいぜいPTAの仕事をするくらいで、あまりにも暇だから仕事をしたくなる。あまりにも常識的な人で真面目で、わたし的にはいつもホソピーの言うことは正しいと感じる。だから安心していられるというか・・・ 世の中そういう人がいないと困る。

息子さんがサッカーばかりしているとこぼしていたが、最近は何も言わなくなった。研究所も独立行政法人になり、かなり厳しい状況。公務員が必ずしも安定した生活とは限らない。そういうのをみているせいか、近頃は親のことを批判するようになってきているらしい。(でも、それはホソピーが悪いわけじゃないと思うんだけど)

不真面目なわたしは、仕事をさぼって受洗のための勉強会へ行く。ネットをやってパズルをやって短歌をやって夏休みにはどこかへ行ってしまう。でも、やることはやっているし、対応は早い。・・・・・・・・・で、うちの娘は真面目なんだよねぇ・・・・ しみじみ、どうしてわたしみたいな親からうちの娘みたいのが生まれるのか不思議らしい。

ちゃんと子育てしているもん・・・・(たぶん)

要するに、わたしはやりたいことがありすぎるの。

投稿者 Blue Wind : 02:12 AM | コメント (0) | トラックバック

February 03, 2009

楽観

娘は学校から帰ってくると、寝るまでずっと友達同士でスカイプをしている。娘がiPodを買ったのに触発されて、わたしもウォークマンを買った。夕食後、CDから好きな曲を入れようと思っても、ずっと娘にパソコンを占領されていて使えない。

まあ、寝静まってから遊べるのだからいいか・・・と思っても、もしかしてあたしは忙しい?

深く考えるのはやめた。

それにしても、お昼に急に呼び出されて、出勤した。当然、ウォークマンを聴きながら運転。(違法・・?)

ラジオとは違って、ランダムに聴いていると、あっという間に目的地に到着してしまう。信号を待ちながら、この曲は気分でないと、カチャカチャいじるのだけど、シートベルトが邪魔をする。なんか、イライラするなぁ・・・

しかも、カフェミュージックが多いせいか、これから出勤するというのにどうもテンポが合わない。もっとアップテンポじゃないと気分がへこむ。

***

日曜日、御ミサに出かけた。娘を誘ってみたが、友達と図書館に行く約束をしているから行けないと断られた。

日曜日の教会は、想像していたより混んでいて、家族連れも多かったけど、案外、一人で来ている人たちも多かった。でも、ほとんどがどこかでみたような顔だから、いつも似たようなメンバーが集まっているのかもしれない。アクティブに活動している人たちは2割くらいだと、いつだか神父さんがおっしゃっていたので、学校の活動に協力的な人もいれば苦手な人もいる、という感じに近いのかも。

でも、何のために御ミサに参加しなければならないのだろう?

一応、信者の義務と言われたので、受洗までは行かなければならないのかも。どうしても参加しなければならないのは、4回みたいだけど。でも、それしか行かない、というのではいかにも、という感じなので、できるだけ参加したほうがいいのかも。

自分のためか?

あっさり言うけど、自分のためなら家で寝ていたほうがましだ。

それなら何かボランティアをしたいとか?

ボランティアなら別に教会に行かなくても、どこでも募集している。信者にならないとダメという話は聞いたことがない。福祉でも、いのちの電話でも、やりたいという人はいくらでもいそうな気がする。

聖書にも書いてあるじゃない?

お祈りするなら誰もみていないところで、善いことをするなら誰にもわからないように、と。

あー、また屁理屈が始まった。

別に、教会や御ミサがいやだというわけではないし、行かなければならないとなればおそらくは行くだろう。でも、教会という意味では、この前、同窓会に行った時のほうがよっぽど教会だったような気がする。自然とそういう空気が流れるところがすごいのかもしれないけど・・・

(ガラテヤ、1、1-5)

投稿者 Blue Wind : 02:09 AM | コメント (0) | トラックバック

January 31, 2009

雨が・・・

気のせいかもしれないけど、近頃わたしは元気がない。

雨が降っているだけで外出が憂鬱になる。

でも、そういうときに限って外出しなければならない用事がたまっている。

気分転換に夏の旅行の計画をたてる。

・・・・・・これがまた憂鬱の種になる。

ベトナム・・・

行ってはみたいと思っているが、これがなかなかの犯罪多発地域。大抵はお金がらみの犯罪。

どこへ行ってもそういう話はあるけど、あれではうっかりタクシーにも乗れないし、ホテルや旅行社まで信用できないし、いつも気を張っていなければならないような話ばかり。

まあ、そんなことを言っていたら何もできないし、どこへも行けない。

***

勉強会は、久しぶりに聖書の話。

種のたとえの話。

----この話を最初に読んだのはいつですか?

----???(考えても思い出せない)

----思い出せない? 何年前とか?

----ぜんぜん思い出せません・・・

おそらくは小学校の頃なのかもしれないけど、まるで記憶にない。

そうやって考えると不思議なことを思い出した。ポプラ並木の奥の空き地。小学校1年の頃。途中で学校が変わったので、はっきりそうやって言える。

学校の通学路にポプラ並木があり、その奥が広い空き地で、学校の帰り道、不意にそこに入ってみた。

しばらく背の高い雑草をかきわけながら進んだが、途中で誰かの影を見たような気がして、怖くなって戻ってきた。その影というのは、本当に人だったのかもしれないし、なんとなくシスターのような気がした。近くまで行って確かめたわけではない。

でも・・・・・そんな人がいるわけがない。(たぶん)

でも・・・・自分が親になってみると、子どもがそんな空き地に一人で入って行くなんてとんでもない、と思う。でも、学校帰りにどこかの空き地で遊んでいたり、違う道を行ってみたり、それはわくわくするような冒険だった。

でも、そういう記憶が残っていること自体、よく考えてみれば不思議だ。

家の近くに修道院があったわけでもないし、親がクリスチャンだったわけでもないし、そういう心象が残っていること自体が不思議だということに今気がついてしまった。

それと同時に、いつ聖書を読んだのかなんて、まるで記憶にない。

やっぱり小学校のときかなぁ・・・でも、文字が小さくて挫折した記憶のほうが鮮明。

子どもの頃の記憶なんて曖昧。

そうやっていつ種がまかれたかの記憶もないままに、何年も何十年も経ってから芽が出ることもある?

・・・・・・・そうかもしれない。

もしかすると、何年も何十年もこうやって鬱々しながら、考えてきただけなのかもしれないし、大学よりも長く通っていた大学院はプロテスタントだった。その話をしたことがなかったので、怪訝な顔をされたが、特に宗教を考えて大学や院を選んだわけではない。わたしにしてみれば、どうでもいいようなことだ。

もしかすると知らないうちにプロテスタントの影響を受けているのかもしれないけれど、少なくてもそのときに感じるのは、わたしはあまりにも聖書を読んでいないなぁ・・ということで、カトリックとプロテスタントとどこがどう違うと説明されてもそれは理屈ではなく、わたしの中には匂いとして違うとしか言えない。

神父さんの話によると、テオドリンは古い聖人だから、渡された出版物には載っていなかったし、アナスタシアもweaversの聖人というだけで、新しい聖人カレンダーには載っていなかった。神父さんの話によると、テオドリンは古くは賛美歌を整えた人だったし、アナスタシアはおそらくは大アナスタシアのことだと教えられた。

わたしの場合、考えて決めるのではなく、いつもてきとーに直感だけで決めてしまう。

でも、それでいいと思う。言葉で説明するのは難しい。

神父さんは、スキーにチャレンジしているらしい。理屈でわかってもなかなかうまく滑れない。

ということを説明するためにチャレンジしているのかもしれない。

でも・・・・・スキーといえば、わたしは大学時代、それが原因で怪我をしてまるまる春休みを棒に振ってしまったことがあり、それ以来、やらないことにしている。

これじゃ、話にならんよなぁ・・・

なんか、また考えているみたいだったけど、わたしにスキーのたとえ話をしても、そうなんだから仕方がない。

それより、編物は頭の中ではまるで違うことを考えていても、勝手に手が動いて、ぼーっとしていてもうだうだしていても勝手に編みあがる。しかもたまに間違えたりすると、ぱあ〜っとほどいてまたやり直し。これだって親がしていたわけではないし、気がついたら自然と覚えていた。娘に教えようとしてもうまく教えられない。

頭の中ではまるで違うことを考えている。つまり、いまだに「祈りの友」はろくすぽ読んでいないし、御ミサにも行かないし、洗礼を受けていないから、自分のことは信者ではないと思っている。全然行動が伴わない。

が、しかし、わたしは信者なのだそう・・・

どういうふうなら信者なのか、わたしにはよくわからないけど。

まあ、いいや。

なんか、あれこれ考えると元気がなくなりそうだ。

仕事がたまりすぎている。

いやな季節。

投稿者 Blue Wind : 03:59 AM | コメント (0) | トラックバック

January 25, 2009

洗礼名を考える

洗礼名、か。

自分で考えなければならないところがみそで、2つの名前で迷っている。

テオドリンか、アナスタシアか。

わたしのお誕生日だと、ペトラ・・・・(一瞬、笑いが止まらなくなってしまった)。

だいたい、友人の洗礼名は、マリア・○○○、という具合で、マリア・ソフィアが2人いたような気がする。そのうち一人はすでに天に帰ってしまった。それと、エリザベト。

日本だと、アグネスやセシリアが人気らしい。あとは、マルタとかモニカとかテレサとか・・・

あまりよくない?名前だったら、最初にマリア・ヨハンナ・○○○とか?

日本だと、マグダレナと付ける人はいないと神父さんが言っていた。

でも、マグダレナといえば、マグダレナ・ソフィア・バラでしょう・・・最初に教えられるのは。

聖人カレンダーの名前を順番に読まれてもよくわからないよね・・・

神父さんが次々言う・・・

ぼーっと、わたしはりんさんだからりんの付く名前はないかと考えていたら、「テオドリン」と聴こえたので、それだ!と思った。なんでテオドラが嫌で、テオドリンならよいのか説明するのは困難だったので、考えていたとおりを説明した。それよりもテオドリンが女性の名前かどうかすらわたしにはわからない。

でも、そのときに、カトリンと言われたら、それだ!と思ったのかもしれないし、案外、いい加減。

わたしのお誕生日に近いのは、フランチェスカとか、アナスタシアとか。

・・・・・洗礼名を考える前に、自分の日頃の行いを反省しろ、ってなものじゃないか?

***

まあ、それはおいておいて、12月の聖人カレンダーを眺めていたら、盲人の守護聖人ならルーシーとか、編物や織物の守護聖人がアナスタシアと書いてあった。実際、眼病があるからルーシーにしようかと思ったし、検索していたら、カリブのセントルシア島にテオドリンという地名があり、それも悪くないとは思ったけど、行ったこともないし・・・

アナスタシアは、weaverの守護と書いてあったので、わたしは最初何のことかわからなかったので、娘の辞書を借りて調べた。

すると、織物や編物をする人のことらしい。

なんか、懐かしい。

昔、御聖堂に座って、よく編物をしていたのを不意に思い出した。モームの「人間の絆」や、おまけでもらったレールジュタンの白い鳩のついたミニボトルの香水や、その他諸々当時の思い出がよみがえる。

全然意味を持たなかった当時の記憶が、アナスタシア、で一つに結ばれる。

「人間の絆」はすでに内容は忘れてしまったけど、主人公がたしか「人生とはペルシャ絨毯のようなもの」と言ったセリフだけが好きだった。(実際に言ったかどうかは覚えていないけど)

l'air du tempsを和訳するのは難しい。 the air of time とか?

でも、空気の中に時間があるみたいで、好きな言葉だった。

・・・・・・こうやって考えると、わたしの守護聖人はアナスタシア、ではないか?

(今までにはない発想で考えると)

***

それって、神父さんが一番最初に言った名前じゃない?

あー、近頃、鈍い。

テオドリン・アナスタシア、とか?

最初に、アナスタシアだったら、迷わないでそれにするとか?

(マタイ 10、1−4)

シモンだけが、ペトロなのか。

だったら、テオドリン・ペトラとか?

・・・・・・それだけはかんべんしてほしいけど。

マグダレナ・ソフィア・バラは、マグダレナ・ソフィア・バラだし、ユダという名前もたくさんいるし、マリアという名前もたくさん登場する。

(箴言、29、4)

考えるほどに、崩れていきそう・・・

じゃあ、テオドリン?(まったく変わり者だよね・・・)

(ルカ、1、67−80)

幸先よさそう。堅信まで、これでいこうか・・・

という気になる。

テオドリン・アナスタシアは?

(コリント 1、3−7)

苦難と感謝。

過去を引き摺ってるな・・・

アナスタシアだけではダメなんだろうか。

(マルコ 6、1−6)

故郷では受け入れられない。

つまり、過去へは戻れない。

(サムエル 18,1)

守護がありますように。アーメン。

投稿者 Blue Wind : 04:29 AM | コメント (0) | トラックバック

January 19, 2009

普通の時代

それにしても、バチでもあたったかな・・・

ケイが鳥の糞だらけ。しかも、いつもと違う鳥。色が違う。

この手の感覚は、おそらくは20年くらい前に感じた感覚と似ている気がする。箱根から東京に戻る電車の中で、知らない人の手が頭に当たった。謝るわけでもなく、もしかするとわざとかもしれないと思ったけど、まあ、いいや・・・というか、言われなき鬱憤の時代だったから、そういう人もいるのだと思った。ちょうどバブル景気の時代で、バブルに乗れないと、それこそ一生働いても家も買えない、という時代だった。

それが終わって、不景気になり、物価が下がって、案外生活しやすいような気がしたが、ぼーっとしているうちに銀行の支店がどんどんなくなり、今でもつくば市には都市銀行の支店はないような気がする。もしかするとあるのかもしれないけど、なくても困らない。

それにしてもアメリカはお祭りみたい。ブッシュが最悪だったので、逆にオバマに対する期待がものすごい。なんかコメンテーターもぼーっとしながら羨ましそうに眺めているだけだったが、わたしも同じ気持ちだった。日本も早く総選挙をしてほしいと思うけど、実は政権交代してもそれほどには期待していないような気もするし、それでいて、政府と世論がしらけるほど違う世相もめずらしいのではないかというくらい、しらけムードが漂っている。

地方ボケか?

院生Fとテレビを観ながら話していたとき、学生の内定率が85%と報道していた。テレビでは大変なことになったというニュアンスだったけど、Fに言わせると、「85%は就職できるんですよね」とかなり明るかった。まあ、彼女の場合は教師になりたいからと内定を蹴って大学院へ進学したくちだし、どこでも勤め先はあるだろう。

とすると、残りの15%はどうなるのか?

進学したり、アルバイトしたり、いろいろ・・・・?

どうでもいいや。就職したとしても、入ってから工場閉鎖の話やリストラの話は続くし、それこそ倒産とか?

エンドレス。

***

普通だよね・・・

わたし的には、今のほうが普通のような気がする。将来のことを心配したり、企業だって倒産することはあるし、病気になったり、事故に遭ったり、いろいろあるほうが普通。

なんか、ヘン。

何が変なんだろう?

投稿者 Blue Wind : 03:13 AM | コメント (0) | トラックバック

January 18, 2009

怠惰だー!

仕事を始めて唯一よかったと思うことは、近頃どこに行っても気軽にお話できるようになったことかも。別にわたしが人見知りをするとか引っ込み思案だとかいう意味ではなく、相手が気楽に声をかけてくれるようになったというか・・・

このところずっと裏方の仕事をしているので、たまに姿をみせると、「もう辞めたのかと思っていました」などと会う人ごとに言われる。案外、あたしって人気があるんだ・・・などと悦に浸りながら、店番は若い人のほうがよいのではないかと、近頃さぼり気味。

久しぶりに娘を絵画教室に送って暇つぶしにカフェに行ったら、マスターと話が弾んで、なぜかレンジローバーに乗せてもらった。たまたまマスターがCGを観ながらレクサスに四駆の問い合わせの電話をかけている隣の席に座ったからでもあるが、あれくらいカーマニアだと、車の話なら1日中でも退屈しないに違いない。

わたしも楽しかったし・・・

このところ不景気の話ばかりで、何年も前から車を買い替えようとは思っているうちに、とうとうケイちゃんも10年目になってしまったわたしとしては、気に入った車があればすぐにも買うつもり。が、しかし、実際にはなかなか気に入った車に出会えない。どうせ買っても1年くらいで飽きるかな・・・と思うし・・・

今の60代はめちゃくちゃ元気。隣の師長も可愛いニット帽をかぶって通勤しているし、マスターもますますパワーアップ。あの世代がドロップアウトしたら、この国は終わりだと、近頃まじめに考えるようになった。

***

娘と一緒にクリスマス・ミサに行って以来、勉強会はお休みか短いかのどちらかになった。たぶん、日曜日の御ミサにまじめに出席していれば、去年のクリスマスに受洗していたのかも、と思うのだけど、あまりにも忙しかったので日曜日はダウンしていた。

先週の勉強会では、洗礼を受けたら、日曜日は御ミサに行って、それ以外の日にも御ミサに行って、四旬節には断食して・・・という具合に説明を受けた。

が、しかし、ミサに行かないってどうよ?

---- でも、わたし、信者でないですから・・・(汗

---- 信者だよ

えっ・・・

信者だよね・・・

まあ、たしかに。

でも、洗礼受けてないし・・・

深く考えるのやめよう。

こらっ、正直に言え。

わかってるんだよね・・・

洗礼受けるでしょ?

そしたら、今度はご奉仕活動があって、清掃当番、御ミサの手伝い、いのちの電話、マリア会、その他諸々やろうと思ったらいくらでも仕事があるし、行きたくなくても教会へ行かねばならない、という感覚はおそらくは学生時代の名残かも。

---- 一度、Fさんと一緒にお話して・・・

Fさんって誰だろ?

おそらくは熱心な信者さんのことだと思う。

わかってるんだよね・・・

エホバのMさんにまでバカにされたし・・・

---- わたし、年に2回くらいしか、御ミサに行かないし・・・

---- えっ、年に2回しか行かないんですか?

---- だって、信者じゃないし・・・ でも、信者だって神父さんに説教されるのよ。

---- 説教されるんですか〜?

---- 受洗までに4回行かなければならないし、母の3回忌はあるし、娘の卒業式と入学式があるし、確定申告はあるし、大丈夫かな?

---- 次にしたらどうですか?

---- 次だとまたクリスマスになるし・・・

あーでもない、こーでもない、と、受洗の話をなんでエホバのMさんにしているのか不思議な気がしたけど、エホバはクリスマスもイースターもないので、大会のときに洗礼を受けるらしい。最初、クリスマスを逃したら次はクリスマスと言ったら、そんなに少ないんですか?とMさんも驚いていたけど、エホバも結局年3回くらいだから、似たようなものではないか。

でも、偉いよね・・・家事に育児に仕事までやって、エホバでも「外人担当」という係をやって、薄給からフィリピンに仕送りして、コツコツJALカードのマイレージを貯めて・・・

いますけどね、そういうお友達・・・カトリックの信者さん。

でも、あたしは怠惰な人だし・・・

---- そういう生活ができたらいいですね。

と、神父さんに答えるのが精一杯だった。

アーメン。

投稿者 Blue Wind : 03:30 AM | コメント (0) | トラックバック

January 04, 2009

お正月のスーパー

明日から仕事が始まるし、あまりおめでたい気分でもなく、しかもいつもの年と違って、今年はスーパーが賑やか。

新聞の記事か何かに、アメ横が忙しい年は不景気だと書いてあった。最初はその意味がわからなかったけれども、要するにお正月を自宅で過ごす人たちが多いから、年末の買出しに出かける人たちで賑わうのだろう。

例年、クリスマスを過ぎると、何となく閑散としてしまうのに、今年は人が多い気がする。スーパーが無休で営業しているため、お正月でも普通に買い物に行ってしまう。

レジに並んでいたら、ご主人がフェンディのお財布を出し、奥さんが子どもを抱っこしながら、「有料なの?」と文句を言っているカップルがいた。つくば市では9月からレジ袋が有料化され、エコバッグを持参していない場合、袋を買わなければならない。今頃何を言っているのかと思ったのだけど、隣のレジに並んでいた年配のご婦人が、「袋あるわよ」と叫んでいたので、帰省客なのだと気付いた。しかも、レジ越しに「お財布貸して」と大声。

あのフェンディのお財布は、お母さんのものだったのか・・・

何だかなぁ・・・

子どもを抱いた奥さんは不機嫌に立ったままだし、隣のレジでは母親が別々に買い物。でも、子ども夫婦の分まで親の財布から・・・息子が出す。

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それよりも今年はお正月でもお仕事なんだなぁ・・・と、文句も言わずに働いている見慣れたスタッフがやけに新鮮に映った。

わたしも若かったら、お正月に働いて、代休でグアムでも行きたいよね・・・

さて、気分転換しないと。

投稿者 Blue Wind : 05:13 PM | コメント (0) | トラックバック

迎春

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

今春で娘も高校生になります。

投稿者 Blue Wind : 03:56 PM | コメント (0) | トラックバック