May 28, 2009

悪いパターン

バルバロ聖書を読み終え、新共同訳聖書を最初から読み始めた。それと並行して、最近発刊されたキリスト教関係の本を数冊並行しながら読んでいる。

ホソピーが、わたしが洗礼を受けたのかどうか訊くので驚いた。あちらも、わたしがすでに受けたと答えたら驚いていた。たしかにあれにこれにと忙しい時期だったので、下馬評としては無理だろうと思われていたのだろうか。好奇心で、もみの木と比較しながら訊いてくるので困る・・・

---- 毎週日曜日には教会へ行ってるの?

---- なるべく行くようにしている・・・(汗

---- Mさんは、週に2回は行っているらしいよ。

---- 熱心なのよね・・・ わたしは戸別訪問もしないし、勧誘もしないし・・・それよりも自分の修養のほうでめいっぱい。

---- 生きるうえで、そういうのも大事だよね。

---- いや、死ぬうえでじゃない?

---- いや〜、長生きするよ。

---- いや〜、そーいえば、洗礼を受けるというのは死んだということらしいよ。で、新しい命を受けて・・・ 仏教で戒名を受けるとか出家するとか、というのに当たるのではない?

---- へー。

---- だから、わたしは一度死んだらしいよ。そうやって聖書に書いてあった。

---- ひとりで行ってるんでしょ?

---- そう。

---- ふーん・・・ 大事だよね、そういうことも。

その後、ホソピーが昔行っていたプロテスタント系の婦人の会の話が続く。彼女は信者ではないし、カトリックもプロテスタントも同じだと思っているので、わたしも深く考えない。神父さんが以前勉強会のときに、ここの教会は入り口に献金箱があってプロテスタントみたいだとぼやいていた献金箱に信徒会の会費などの納入袋を入れ、ほかの信徒さんに、「神父さんが年にまとめて納入すればいいとおっしゃってたんですが」と言ったら困ったような顔をしていたので、素直に信徒会の方針に従うことにした。

今読んでいる本の中に、「教会外のキリスト者」という言葉があって、礼拝には参加しない信者とか、所属教会を持たないキリスト者がさほどめずらしくないと書かれていた。全信者の中で、毎週日曜日に教会へ行っているのは15%という数値まであり、その原因を教会の分裂により教会が信者の信頼を失ったからだとも書かれていた。

そのほかにも、わたしみたいにずっと洗礼を受けないでいる人まで含めると、毎週欠かさず教会へ行っている人がいかに少数派かわかる。というか、教会の入り口に置いてあった月謝袋のようなものを考えると、気のせいかもしれないけど、数が少ない。ということは、外国人や学生も多いし、御ミサにだけ来ている信者さんも多いのかもしれない。

うちの患者さんの中にも何人か信者さんがいるのは知っているけど、外から来て、教会へは行っていないし、場所を教えてあげても行かないと言う。どうして行かないかは人それぞれなので、深く考えるのはやめた。

ホソピーが、「お葬式とかどうするの?」と訊く。わたしとしては、「わからない」としか答えられない。わからないし、知らない・・・ もみの木だと親の葬式にも出ないそうで、そうなると無宗教でやるしかないのだろうか。とは言うものの、お坊さん抜きのお葬式とか、牧師さん抜きの結婚式も近頃では多いというし、それでも何も困らないことをわたしは2度体験した。

もしかすると、洗礼を受けたら、わたしがどこか何か変わると思われていたのだろうか?

宣伝するとか?

・・・・・・それはないな。洗礼を受ける前から信者だと思われていたせいか、あるいは信者と間違えられることを苦痛としていた時期までも含めると、今さら何が変わるのかよくわからない。洗礼を受ける受けないは別として、わたしみたいなのは、いわゆる教会外のキリスト者というやつで、それが受洗して信徒会の会費を払うようになったからといって何が変わるのかよくわからない。それでもなるべく日曜日の御ミサには行くようにしている。

信徒会の会費を払うようになっても、日曜日の御ミサに行くようになっても、精神は自由だ。とりあえず、本の続きを読もう。

(マタイ 25. 41-43、 26. 31)

一番悪い信者のパターンかも・・・

回心どころか改悪化している可能性が・・・

何のために受洗したのかわからん。

投稿者 Blue Wind : May 28, 2009 03:07 AM | トラックバック
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