May 21, 2009

確信

やっとパウロの書簡。コリント1に入ったところだけど、ローマは難解だった。

理解しようとするから難しいわけで、理解しようとしなければ難しいことは何もない。ただ、ユダヤ教からの改宗者にとっては、今まで食べてはいけないとされていたものを食べたり、律法で禁止されていることをゆるされるとなると、かなり困惑があったことが心情的にわかるような気がする。

なんせ受洗したとなると、今までだったら気にならなかったことでも気になるようになるし、あれも罪、これも罪、という具合に最初の1ヶ月はぐったりするような気分だった。それに、アクティフといっても何をしてよいのかもわからないし、わからないままに聖書の続きを1人で読んでいるわけで、何をしてよいのかわからないからこそ、根気強く聖書を読んでいられるのかもしれないと、ここまできて思うようになった。

一つ拾ったのは、確信の持てないことは仮に善いことであっても罪であり、善い行いでも良心に従って確信を持ってやらなければ罪になるということ。逆に語れば、確信を持って善いと思えることなら罪にはならないと書いてあった。

ちょうどその辺を読んでいるとき、ダンナがまたウダウダうるさいので、その部分を読んでやった。

このところ新型インフルエンザのことでタミフルやリレンザが有効と盛んにニュースで言っているが、去年は副作用のことがあり、タミフルを投与しない医療機関が多かった。それにタミフル耐性があってタミフルが効かない人も多かったし、うちではあまりタミフルを処方しない。何故、処方しないかを患者さんに説明しなければならないが、医者が確信を持ってそうやって説明しているので、大抵の患者さんは納得していた。にもかかわらず、1年もすると去年のことはすっかり忘れ去られてしまうがごとく、今年は抗ウイルス薬を投与しているところが多い。

それとか、子どもの患者さんが来て、耳鼻科でステロイドを出されたがよくならず、某小児科に行ったら先生が驚いておくすり手帳にその薬を服用してはいけないと×を付けられ、ほかの出された薬を飲んだがよくならず、誰の言うことが正しいのかわからなくなりうちに来たそう。結論としては、耳鼻科の先生はステロイドはよく使うし、小児科の先生はステロイドは使わないし、どちらもそれぞれの先生が正しいと思う治療をしているだけ。

「困るんだよなー」とわたしに言われても困る。

パウロ曰く、というか、パウロ風に解釈すると、「それが正しいかどうかは別として、医者が確信を持って患者さんにとってよかれと思って診療したのなら少なくても罪にはならないんじゃないの?」と、「罪」という言葉を強調しながらわたしは答えた。それが正しいかどうかは別として・・・ いろんな医者がいろんなことを言うのはめずらしいことではないし・・・ それが正しいことだとしても医者が確信を持たずに診療にあたれば、患者さんは何となく不安になるだろうし、不信感を持つのではないかと。

どうしてそういう話を居間でしているかというと、娘が今試験中で、娘の学校は居間での勉強を推奨しているから。何もしないよりはまし、ということだろうか・・・ で、娘は化学の勉強をしているかたわらで邪魔しないようにわたしは聖書を読み(なかなか読み終わらないし・・・)、それを邪魔するかのように父さんがウダウダ話しかけてくる。

いいんだけどね・・・

ただ、信者になったからといって、急に善いことをしようとしても迷うだけ。特に近頃あれこれ迷うことが多いし・・・

日常生活に信仰を持ち込むというのは矛盾の宝庫だから仕方がない。でも、これからはそれが素晴らしいとか、確信を持って善いことだと思えること以外はやらないことにした。だって、仮に善い行いだと聖書に書いてあったとしても、確信をもってやらなければ罪になると書いてあったし、自分にとっても負担なだけだ。

迷って、罪を意識して、聖書を読む。逆に語れば、何も思わなければ読まないのかもしれないし、読んでも何も残らない。

一つ思ったのは、ユダヤ人って大変だな・・・ということ。律法どおりに生活するって、想像を絶するほど不便で大変。聖別されるって大変そう・・・ そこのところがわからないとパウロの書簡は単なる歴史の一部に過ぎなくなる。

聖書って読むたびに、まるで違うことを言っているような気がしてしまう。何冊も違う本を読んでいるような気分だろうか・・・

(マタイ 11. 17-18)

投稿者 Blue Wind : May 21, 2009 03:08 AM | トラックバック
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