この時期だけはダメだなぁ・・・
昨日、徹夜仕事を終わらせ、申告書を提出し、家に戻って来ていたら、Mさんから電話。電子カルテの調子が悪いというので、電話で話していたら呼び鈴が鳴った。ひとまず電話を切り、玄関に出たらエホバの人たち。犬が飛び出しそうになったのでお断りする。いつもだったら、リーフくらいは受け取るのだけど、今の時期はダメだ。
再びMさんと電話。Mさんに言ったら、「もっと話をきいてあげたらよかったのに」と言われた。
・・・・・・・が、しかし、そんな気分じゃない。それに、しつこかったし・・・・ まあ、いいや。
それに、エホバの人たち、御ミサしないみたいだし・・・ 年に1回、最後の晩餐を祝うだけらしい。それで、集会をやって何をしているのか訊いたら、皆でグループに分かれて聖書の勉強会。聖書の勉強会と御ミサとは違うだろうと思ったんだけど、毎週やらなくても最後の晩餐を祝えばいいらしい。
わたし的には、そういうことは仏教でも宗派が違えば違うのだし、土地の習慣だって違うし、どうでもいい。・・・・・・でも、エホバはそういうことが大切らしい。
---- マリアは?
---- マリアは尊敬していますけど、聖書には出てこないし・・・
---- あなたね、Mくん(息子さん)が殉教したことを考えてみて。
---- 気持ちはわかりますけど・・・
たぶん、その後に「神さまのほうが偉い」とかナントカ言いたかったのだろう。
そうじゃなくて、・・・・そうじゃなくて、・・・・・
そうなんだよね。
どうしてわたしがプロテスタントでなくて、エホバでなくて、カトリックなのか・・・
Mさんは、「私たちは」という表現をする。
わたしは、「わたしは」としか言わない。
わたしたちの罪は、マリアさまを通してしか、少なくても、わたしにはわからないから。
マリアさまが偉いとか尊敬している、というのではなく、「あなた、自分の息子が殉教したときのことを考えてみなさい」、ということ。
信仰とか、希望とか、愛、とか、信仰って何なのか、希望って何なのか、愛って何なのか、「あなた、自分の息子が十字架に掛けられたことを想像してみなさい」としか、語れない。
・・・・・・・・怒っているというわけではなく、要するに、自分を説明するのが酷く面倒なときってあるよね。
雨の中、ふたりでとぼとぼ歩きながら、
---- 聖書、持って帰ったの知ってる? バルバロ聖書の続きを読もうと思って。代わりに新約聖書を置いてきたんだけど。
---- ぜんぜん、知りませんでした。
---- いつも使っているやつは、ぜんぜん注釈のないタイプで・・・
---- 毎日読むんですか?
---- わたしは毎日読んでいますね・・・ 開くというか。
---- カトリックで、そんなに聖書を読んでいる人なんていませんよ。
---- そーなの?
---- はい。私は知りません。
11億人もいるから・・・
原理主義ってどういうことなのかよくわからないけど、神父さんや牧師さんがこうやって言ってるから、ということではなく皆で集まって聖書を読んでいるのかも。気持ちはわかるんだけど、わたし的には今の時期だけはダメ。
精神的貧困。どっぷり自分の世界に浸っている。
(イザヤ 52. 13-15)
投稿者 Blue Wind : March 7, 2009 02:23 AM | トラックバック