March 02, 2009

わたしのアクティフ

久しぶりに、CDを買う。レンタルショップに行ったけど、見当たらなかった。

20年ぶりくらいにアヴェマリアを歌い、歌詞を間違えて、今さら楽譜も残っていないので、ネットで検索しているうちに突き当たったCD。中にアヴェマリアが納まっているわけではない。でも、何となく今の気分にあっている気がして、アマゾンで探した。(こういうとき、ネットは便利だな〜としみじみ・・・)

好きなサウンドを聴きながら、ネットをしているという当たり前の生活が奪われ、わたしが家を留守にしている間に作歌用の聖書は犬たちにボロボロにされ、今使っているのは同じものの2冊目。注釈がないので、ある意味使いやすい。

注釈つきのお気に入りのバルバロ聖書はずっと職場におきっぱなし。一昨日持って帰ってきた。ひまなときに続きを読もうと思っていたけど、なかなかそういう時間がとれず、そのままにしてあった。詩篇で挫折してしまっていたので、続きを読もうかと。

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勉強会のときも、御ミサに行くときも、携帯用に作歌用の聖書を持っていく。実際に使うわけではないが、何となく。

今日、式次第を取るのを忘れてしまっていたら、隣の席の人が入り口のところに全部置いてあるからと教えてくださったのだけど、考えてみたら、マイ聖書を持ち歩くのは変なのだろうか。わたし的には、何となく手になじんだもののほうが落ち着くのだけど。

神さまはお話してくださらないので、聖書を開くことは大切だ。

・・・・・・・そして、今も何となく聖書を開く。そして、それを記録しておくのだけれども、今日はそのまままためくりまた閉じてしまった。特に理由はない。いつのまにか、さっと読んで、さっと閉じてしまうことに慣れてしまったのだろうか。

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読んでいる聖書が違う?

それが何の意味があるのか、わたしにはよくわからなかったし、今でもよくわからない。おそらくは訳そのものの違いより、注釈のほうが問題なのかもしれないし、ネットでカトリック用の聖書を検索しているうちに、リストマニアの推薦文を読んで、そういうところまで細かくチェックしている人がいることに驚く。

細かいことはどうでもいいような気がするし、それでいて、わたしは細かい。注釈などに細かいのではなく、日本語訳について細かい。微妙に意味とニュアンスが違う昔の祈りと今の祈り。英語は簡単だからと言われ、読んでみたらあまりにも簡単だった。だとしたら、わたしが子どもの頃に教えられたお祈りの文句って何だったのだろう?

毎回、聖マリアのお祈りをするのだけど、わたしはいまだに覚えていない。が、しかし、ラテン語ならほとんど覚えていることに気がついた。あれとこれが同じものだと初めて気がついた。

・・・・・その瞬間、いろいろなことが湧き出てきて、わたしは酷く疲れていることに気がついた。教会用に白ベールを買った。このところずっと使っている。洗礼を受けているとか、いないとか、もまるで気にならなくなった。受洗者と間違えられるので、列を変わるように求められても、わたしはとりあえず神父さんでないと祝福を受けられない、といちいち説明しなければならない。

何のために教会へ行くか?

白ベールが教えてくれた。御聖堂の中ではベールを被るけど、出ると取る。つまりは、教会はホーリーな場所だから・・・

つまりはそういうこと。(だと思う)

教会は、神聖な場所。

・・・・・・・・・わたしは急にそのことを思い出し、その瞬間、わたしの逡巡が何であったのかわかった。

・・・・・・違うんだよなぁ・・・・・・

何が違うのかと言えば、わたしにとっての最大のアクティフは何かのボランティアに参加したり、教会の仕事をしたりすることではなく、祈ること。

むしろ、日常にそういう時間が持てないからこそ、足を運ぶ。わたしには暗記するほど聖書を読む時間もなければ、24時間お祈りだけしているなんて不可能だ。やらなければならないことが多すぎる。

そこがホーリーな場所だからこそ、教会へ行く。

その瞬間、わたしはほかのことがどうでもよくなってしまった。

それが素晴らしいかどうか、わからないが・・・

(ローマ1. 8-15)

投稿者 Blue Wind : March 2, 2009 03:36 AM | トラックバック
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