February 12, 2009

拡散

結局、反面教師というか、姑さんのおかげで、どうしてわたしが教会へ行ったり、行事に参加したりするのがかったるいのかなんとなくわかった。

おじいさんの13回忌、いきなりお寺が違う。息子に何も相談しないで檀家寺を替えてしまうところが姑さんらしくもあり、そういえば何か言っていたことがあるなぁ・・と、今頃になって少し思い当たる節が。ダンナの従兄が亡くなり、あの後くらいかな・・ 母親のほうが長生きをして、結局、身寄りがなくなる。そんなことなら自分のことは生きているうちにさっさとやったほうがいい、とばかりに、無縁さんを供養してくれるお寺の話をしていたような・・・

分骨して、お墓を整理して、仏壇は要らないからあんたのところで引き取ってくれないかと言ってきたことがある。あとは姑さんが亡くなったら、毎年1万円ずつ支払えば、坊さんが骨を預かって供養をしてくれるらしい。今は独身の人やお子さんのいない人たちが多いから、そういう寺が流行っているという話は聞いたことがある。でも、あそこまで信仰心がないと、逆にあっぱれというか、なんというか・・・

***

神父さんは、インドネシアのことを考えるから、よくわかってないと思う。インドネシアだったら、外見で宗教が判断できる。だから、その人たちの行いも外見で判断できる。宗教によって習慣も違うし・・・ そりゃ、バリ島でも行けば、歩くところお供えだらけだし、石像に花が飾ってあったり、ものすごくわかりやすい。

でも、日本人はわからない。ロザリオやクロスだってファッションでつけているだけの人も多いし、結婚式は教会で、お葬式はお寺で、とかね・・・ 少なくても外見だけで、その人の宗教なんてわからないことが多い。まあ、宗教がないと言ってしまえばそれまでなんだろうけど。

で、日曜日に教会に行っていれば、クリスチャンなんだ。

あ、そう。

それって、法事だから日頃集まらない人たちが集まる、というのと似たようなものなのかも。

なんか、そういうのがいやなんだよね・・・ 要するに、形だけ整ってればいい、というのが。

神父さんのたとえ話によると、御ミサに行くのは、車検とか保険のようなものらしい。ちゃんと走るかどうか安全点検とか、死後の保障とか?

そこまで言われたら、わたし的には、「それは違うよ」と言葉に出てしまう。

「神父さん、それは違うよ。神さまはそんなにケチくさくないと思う。御ミサにでないから、救ってやらないとか、そんなにケチくさいことは言わないと思うよ」と。

じゃあ、なんで御ミサに行くのか?

結局、なんとなく思い当たったのは、見知らぬ土地で御ミサに出て、言葉もわからないけれどもなんとなく信者の連帯感のようなものを感じたことがある。つくばの教会も外国人が多いし、おそらくはそういうことなのかもしれないと、なんとなく思った。でも、わたし的にはつくばの教会はローカルだから、なんとなく見たことのある人や知り合いに遭遇したりすることもあるし、ある意味、ローカルな組織だから、・・・・檀家寺や教会の幼稚園を連想してしまう。まあ、似たようなものなのかもしれないけど。

夏の日に、わたしに話しかけてきたおばあさんも御ミサには家族と来ていた。で、そのおばあさんがわたしに一生懸命に言うのは、自分は信者じゃないけど、教会ならいい人たちがいるかもしれないから来ている、と。わたしは心の中で、「そんなこともないよ」とつぶやいていたが、あえて否定する気もないので、ペットボトルのアイスコーヒーをがぶ飲みしているおばあさんの一方的なおしゃべりを聞いていた。

信者じゃないと言いながら、毎週来ているのだろうか・・・ 偉いなー、ばあさん。あーいう人こそ救われてほしいよね。

いや、あのばあさんは救われるなぁ・・・ だって、信者じゃないと言いながら、ずっと救いを求めて通っているわけだ。

もー、暑い中、ずっと病気のことやら身の上話から炎天下で聞かされて、なんだったのかな・・・と思うけど、正直なんだよね。何が正直なのかわからないけど、あのおばあさんは正直。信者じゃないし、信仰心もないけど、救いを求めている。。

きっと救われるよ・・・

(ヘブライ13. 6-19)

投稿者 Blue Wind : February 12, 2009 04:22 PM | トラックバック
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