February 20, 2009

晩餐

主の晩餐。

御ミサは主の最後の晩餐に遡るらしい。

神父さんから、「ここに書いてある」と示されたのは最後の晩餐のところだった。その日にイエズスは弟子たちの足を洗い、ぶどう酒を飲み、そしてパンを裂いて与えた。

わたしが御ミサに参加したくないのは、パンをもらえないせいか?

そうかも・・・、とも言えるし、そうではないとも言える。だって、今までだって聖体拝領なしでも御ミサには出ていたし、そういうことを気にしたことはなかった。

神父さんが青年会のために作成した資料を渡された。御ミサについて書かれてある。立つところ、座るところ、ひざまずくところ。つくばの御ミサでひざまずいているのは、外国人の青年だけだった。賛美するところは立っているし、祈るところはひざまずいて祈る。そういうのは習慣なのだろうか。普通はごく自然にしているのに、つくばの教会では、司会者がいて、立ってください、とか座ってください、とかアナウンスが入る。なんか不自然。

で、聖体拝領のときには、もうすでにがやがやと帰る支度が始まる。「終わったー」という雰囲気が満ち溢れ、少なくてもお祈りしている人はいなかったように思う。

・・・・・・・・なんか、あたし何しに来たのかな?

と思ったとしても、それはわたしが悪いのだろうか?

和やかなんだけどね。何かどこかが違う。(ような気がするだけかな・・・)

そうだ・・・・・それで、土浦の教会へ行ったとき、なんとなく懐かしいような気がしたのかも。白人のおじいさんが一人でお祈りしていた。

教会って、やっぱ、お祈りするところなんじゃないの?

でも、他人が気になってお祈りできないというのは、シャイという次元を超えているような気もするのだけど、どうなんだろう。でも、そういう雰囲気なんだから仕方がない。そうやって感じるのはわたしだけではないと思うんだけど、どうなんだろう。

だいたい、教会って、静寂な水の中のようなもので、誰かいるな・・と思っても水の中で出遭ったみたいで、中ではおしゃべりすることもないし、ほかの人のお祈りの邪魔にならないように慎ましくしているほうが普通だ。でも、にぎやかなんだよね・・・あの教会は。別にそれがいやというわけではなく、ただ、何のために行かないといけないのかな・・・と思っただけ。それなら、知らない教会で言葉もわからないほうが癒される。

でも、その場にわたしもいたとしたら、わたしも同罪だ。

今日・・・ではなく、すでに昨日のことだけど、めずらしくあの大きな十字架のイエス様の前に座っていたら、一生懸命に何かを言おうとしているように思えたのだけど、こちらに向かって首を少し傾けながら・・・ でも、わたしも一生懸命に理解しようとするのだけれど、まるで言葉の通じない者同士の会話のように。

なんか、途中で、痛くないのかな・・ などと思ったりしたのだけど、ぜんぜん平気そうで、何か楽しそうに一生懸命に話そうとしていた、ような気がした。

最後の晩餐・・・

ぜんぜんイメージが違う。少し首を前に出しながら、まっすぐに話しかけてくるような・・・ そして、すごく雄弁。若くて一生懸命で、どこにでもいるような若者。

復活のときに、ずっとイエズスが一緒だったのに気がつかなかった、という話があった。わかるなぁ・・・ わたしもきっと気がつかなかったよ。たぶん。

(使徒 7. 50-56)

投稿者 Blue Wind : February 20, 2009 03:26 AM | トラックバック
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